梵鐘を割り箸でたたくな! 丸太でたたけ!
今年(08年)、独立後4冊めの著作に挑戦しています。
「職・仕事・働くこととは何か?」をさまざまな角度から照射していきますが、
その中で、ひとつの寓話を創作し、中心に据える予定です。
きょうはその創作寓話を、先立って紹介したいと思います。
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むかし、あるお寺の和尚さんが、2人の童子を呼び、こう言いました。
「本堂の裏に蔵があるじゃろ。
実はあの蔵の中に、大事な宝物が代々保管されておる。
その宝物が何か、ひとりずつ、蔵に入ってみてくるがいい。
しかし蔵には窓もなく、昼間でも中は真っ暗じゃぞ、気をつけてな」。
まず1人めに、青の童子が蔵に入っていきました。
蔵の中は、和尚さんの言ったとおり、真っ暗で何もみえません。
しかし、目の前に“何か”があることは気配でわかります。
具体的に何であるかは見当がつきません。
そのとき、童子の足裏に、枝の端くれほどの木片が触れたので、
青の童子はそれを拾い上げ、
目の前の“何か”をたたいてみました。
カラン、カラン・・・ カラン、カラン・・・
青の童子は蔵の中から出てきて本堂に戻り、こう告げます。
「なんだ和尚さん、あれは“鍋”か“やかん”ではないですか」―――――
* * * * * *
次に、赤の童子が蔵の中に入っていきました。
そのとき、赤の童子も真っ暗闇の中、足裏で触れた木片を拾い上げ、
目の前に感じる“何か”をたたいてみました。
カラン、カラン・・・ カラン、カラン・・・
赤の童子はさらに、しゃがみこんで足元のまわりを手で探ってみました。
クモの巣やら、ほこりやらをかぶりながら
頭をどこかにぶつけながら、はいつくばって手を伸ばしていくと、
今度は重い丸太のようなものが手に触れました。
その丸太を持ち上げ、
童子は目の前の“何か”を力いっぱいたたいてみました。
ゴォーーーーン。
赤の童子は本堂に戻り、和尚さんにこう言います。
「あんな立派な“梵鐘”の音は聞いたことがありません」―――――と。
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私がこの寓話で言う「梵鐘」は、
「職・仕事・働くこと」の隠喩(メタファー)です。
働くことは、ほんとうに奥深い人間の営みです。
私たちは、職・仕事を通して、無限大に成長が可能ですし、
職・仕事から、無尽蔵に喜びや感動を引き出すことができます。
私は、「働く心持ちを再考築」するための研修を
そこかしこの企業・団体でやっていますが、
受講者(社員・職員)の中には、
「働くって、所詮こんなもんさ」とか、
「うちの会社の今の仕事って、やっぱ限界あるよね」とか、
そんなような割り切り、しらけ、あきらめの境地の人たちが必ず何割かいます。
もちろん、その境地に至った背景は人それぞれにあるでしょう。
安易・怠惰で開き直っている場合もあれば、
苦渋の体験・出来事を経て、そう閉じこもってしまう場合もあるでしょう。
しかし、いずれにせよ、「働くって、所詮こんなもんさ」という人は、
お寺の鐘を割り箸でたたいている人です。
チン、チーン、カラン、カラン、くらいにしか鳴りません。
しかし、働くことは、本来、すごく大きくて立派な梵鐘です。
ただ、その立派な形状は、あらかじめ目にははっきり見えません。
こちらが丸太で、どーんと叩けば、
ゴォーンと響くものです。
そして、その奥深いゴォーンという音は、
打った本人のみならず、村じゅうに響いて、
人びとに時を知らせ、他者の益となります。
鍋・やかんが、せいぜい、自分が食べるためだけの益しか
果たさないことを考えると、対照的です。
さて、あなたは、「働く」という宝物に対して、
割り箸でたたきますか?
丸太でたたきますか? ―――――