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2008年4月19日 (土)

「成功」と「幸福」は別ものである <下>


◆成功は消費される 

成功と幸福は別ものであることについて、3回に分けて書いてきました。


前々回・前回と、「成功」を何かネガティブなものとして

扱ったような感じですが、そうではありません。

働く上で、成功することは当然、目指すべきことです。

最初から失敗でよいなどということでは、何事も成し遂げられません。


しかし、成功は取り扱いにおいて、注意が必要ということです。


1つには、成功は他者との比較相対、

あるいは点数による勝ち負けで決まることが多く、

自分の持つ個性本来の評価の結果ではないこと。

したがって成功は、多分に俗的な手垢の付きやすいものになります。


もう1つには、

1回きりの成功の上にあぐらをかいていると、

次の大きな失敗を呼び込むことがおおいにあること。


ヒルティが『幸福論』に記す下のことは、頭に焼き付けておくべき至言です。


・「人間は成功によって“誘惑”される。

  称賛は内部に潜む傲慢を引き出し、富は我欲を増大させる。

  成功は人間の悪い面を誘い出し、不成功は良い性質を育てる」。

・「絶えず成功するというのは臆病者にとってのみ必要である」。

さらに1つには、成功は一過性のものであり、消費されること

成功は歓喜・高揚感・熱狂を呼びますが、

それは揮発性のもので長続きしない。

幸福が与えてくれる持続的な快活さとは対照的です。


イギリスの作家スウィフトが、

「歓喜は無常にして短く、快活は定着して恒久なり」と言ったのは、

まさにこのことです。



◆成功や失敗は糟粕のごときものである

結局、成功を自分の中でどうとらえればいいのか――――

私は、渋沢栄一の次の言葉が心にピシッときます。


「成功や失敗のごときは、

ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである。

 
現代の人の多くは、ただ成功とか失敗とかいうことのみを眼中に置いて、

それよりもモット大切な天地間の道理をみていない、

かれらは実質を生命とすることができないで、

糟粕に等しい金銭財宝を主としているのである、

人はただ人たるの務を完(まっと)うすることを心掛け、

自己の責務を果たし行いて、

もって安んずることに心掛けねばならぬ」。


        ―――――『論語と算盤』より



渋沢栄一は、江戸・明治・大正・昭和を生きた

“日本資本主義の父”と呼ばれる大実業家です。

第一国立銀行はじめ、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、

秩父セメント、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、

サッポロビールなど、渋沢が関わった企業設立は枚挙に暇がありません。


実業以外にも、一橋大学や東京経済大学の設立に加わったり、

東京慈恵会や日本赤十字社などの創設を行なったりと、

その活躍の幅は非常に広い。


彼のそうした仕事の数々からすれば、

「渋沢財閥」を形成するには充分な金儲けができたにもかかわらず、

渋沢はそうしたものにはいっこうに関心がなく、

亡くなるまで、財産めいたものは残さなかったといいます。


だからこそ、上の言葉は、説得力をもってズシンと腹に響いてきます。



◆気がつけば「幸福である」という状態

さて、3回にわたって、

幸せのキャリアとは?仕事の幸福とは何だろう?と考えてきました。


結局、それは渋沢の言う“丹精”込めて励みたいと思える仕事

(=夢や志、大いなる目的)をみずからつくりだすこと

そして、その仕事を理想形に近づけていく絶え間ない過程に身を置くこと

にほかならないと思います。


もしそうした仕事、および過程に没頭し、自分を発揮することができれば、

もうそれこそが幸福であり、一番の報酬なわけです。


成功や失敗というものは、その過程における結果現象であり、通過点に過ぎない。

成功や失敗には、獲得物や損失物を伴うが、

そんなものは、真の仕事の幸福の前では副次的なものに思えてくるでしょう。


幸福は、それ自体を追ってつかめるものではない。

自分が献身できる、自分に意味ある何かを、自分でこしらえて、

そこに没頭する。

・・・そしてある時点で、振り返ってみて、

「あぁ、自分は幸せだったんだな」と気づく――――

それが、幸福の実体に近いものなのでなかろうか、

そう私は考えています。




*なお、こうした論議は

弊著『“働く”をじっくりみつめなおすための18講義』で詳しく行なっています。

そちらも是非ご覧ください。

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