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2008年6月10日 (火)

「プロフェッショナルシップ」という人財育成の観点

◆「キャリアデザイン」が矮小化していないか
私は、いわゆる“キャリア教育”を研修化することを生業としています。
しかし、キャリアは、人の働き方・働き様・働き観に関することであり、
それを“教育する”という言葉が醸すニュアンスは、どうも気持ちが悪い。
だから、その言葉の使用はなるべく避けるようにしています。

で、通じのいい言葉に「キャリアデザイン」というのがあります。
組織・人事の世界で、
「当社はキャリアデザイン研修をやっています」といえば話が早い。
しかし、私はこれも極力避けています。
なぜか?―――――

それは、「キャリアデザイン」という概念・言葉が、最近、
矮小化の方向に引きずられているのを感じるからです。

「キャリアデザイン」が語られはじめた当初、
その言葉は、全人的かつ統合的に、職業人の営為を考察し、
そのよりよきマネジメントを方法論に落とし込もうとする
それなりの膨らみと新しい光を帯びたものでした。

ですが、そもそも「デザイン」という言葉自体が
かなりのレベル幅で意味が拡散したのと同様、
キャリアデザインもそうなることを宿命的づけられたように思えます。

◆「働くとは何か?」の核心に迫っていかない「キャリアデザイン研修」
人事の育成担当者の方々との会話で
キャリアデザインのことが話題に上がると、
「ああ、キャリアデザインですねー、ええ、大事でしょうけどねー・・・」
直接的な言葉にはしませんが、彼らの内に
遠まわしにネガティブな思いを含んだ反応を私はしっかり感じ取っています。

このような反応が起こっている背景には、
安易に設計されたキャリアデザイン研修の増加があります。

 ・学術的なキャリア理論の紹介(紹介に留まる)
 ・自己分析(何らかの自己診断テスト・強みと弱みの棚卸し等)
 ・計画表づくり

これら3点セットで1日研修。

これらの研修要素が悪いとは言いません。
(私も要素としては取り入れています)
確かにこれでキャリアデザインの何たるかは、“ある程度”理解させることができるかもしれません。

しかし、
いくら学術的なキャリア理論を紹介しても、
いくら精巧な診断ツールで自己分析させても、
いくら自分の強み・弱みをSWOT表に記入させてみても、
いくら丁寧に5年後、10年後のキャリアプランを立てさせてみても、

「よりよく働くとは何か?」「たくましくキャリアをつくっていくとは何か?」
の核心部分にはいっこうに迫っていかない。

おそらく、この核心部分に迫っていかないモヤモヤ感が、一種の不満感となり、
先の人財育成担当者たちの声になっているのではないでしょうか。
「キャリアデザイン研修」なるものは、いま、
お手軽な「キャリア教養講座」へと拡散してしまっているように私には見えます。

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◆「つくりにいくキャリア」と「できてしまうキャリア」
「5年後のあなたはどうなっていたいですか?」、
「5年後のキャリア目標とその実行プランを立ててみましょう」―――――
キャリア研修でよく行なわれるこの手の質問やワークは、有意義ではあるが、
使い方によってはまったく意味のないものになる。

確かにキャリア形成は、計画を立て、そのとおりに進めていくのが大事である
という面があります。
しかし、キャリア形成は、人生という旅の一部であり、
旅には不測の出来事や想定外の道にはずれることが往々にして起こるように
そう易々と計画し得る営みではない。
計画し得ないからこそ、人生は奥深いし、面白い。
人生から、偶発による“ゆらぎ”の作用をなくしたら、
それは初速度と打ち出し角度の数値さえ与えれば、計算によって着地点が決まる
物理運動になり落ちてしまう。

私は、キャリアづくりはJAZZ音楽に似ていると思っています。
JAZZ演奏は、即興性を基とするがゆえに、
一瞬先の空白の未来に向かって、一音一音、
演奏者が全身全霊を込めて仕掛ける、その連続により曲が成立します。
JAZZの名演奏というのは、
その日の演奏メンバーの調子と聴衆のノリが見事に反応し合った場合に、
“結果的”に生じます。
JAZZにおいては楽譜どおりに演奏しても何も面白くないのです。

個々のキャリア形成も同じです。
そこには、「意図的につくりにいくキャリア」と
「結果的にできてしまうキャリア」
の両方の面があります。

もちろん子供の頃に「宇宙飛行士になりたい」とか「医者になりたい」とか、
具体的に夢や目標を立てて、着実にその進路上で駒を進めていく人たちはいます。
しかし、同時に、
「当初Aの山を目指していたが、登っているうちにBの山になっていた。
Bの山もまんざらではないよ。
でも、もしかしたらこの先、また別の山が見えてくるかもしれない」
という人もいます。むしろ、こちらのほうが世の中では多数でしょう。

例えば私自身のキャリアも、後者の典型例です。
私は、大学卒業後、「新しいモノを創造して世の中に提案したい」という想いから、
メーカーに就職をし、商品開発・マーケティングの分野でキャリアをつくっていきました。

しかし、20代後半から
働く想いが「価値のある情報を創造し世の中に届けたい」という方向に変わり、
結果、出版社に転職をし、
そこからジャーナリズム分野でのキャリアをスタートさせます。

そして、30代半ばからは、さらに想いが
「人の向上意欲を支援する情報・サービスを創造したい」という方向性に変化し、
人財教育の分野にキャリアチェンジを図りました。

私はいま、とても満足のいくキャリアを進行中ですが、
現在、自分が教育分野で仕事をするなんぞは、決して予想できなかったことです。
20代や30代前半のころ、
いくら自己分析をして、キャリアのプランシートを書かされたとしても、
教育の「きょ」の字も出るはずがない。

私のいまあるキャリアは、意図的につくりにいったものではなく、
むしろ、結果的にこうなってしまったものだからです。

だから、いま、キャリアデザイン研修なるものでやられている
自己分析やキャリアプランシート作成が、
分析のための分析ワーク、
プランのためのプランワークであるならば、それは意味がないと思うのです。

◆キャリア形成は「計画のあるなし」ではなく、「想いのあるなし」が要
私は研修で、「キャリアはある意味、行き当たりばったりでいい」と言っています。
それくらいオープンマインドでいたほうが、キャリアはどんどん開くからです。
想像のつく範囲で、こぢんまりと計画を立てて、
それで安心安住することは、結局、
自分の可能性を狭めることにつながりかねません。

「想定の範囲内に収まっている自分の未来」など何が面白いか、です。
(ポジティブな意味で)
「5年後の自分はどうなっているのか予想がつかないのが楽しみ」
というくらいの人生のほうが健全であるとも思います。

しかし、このことは、無防備に漫然と運任せにキャリアを過ごしてよい
と言っているのではありません。
力強いキャリア形成には、決定的に「目的」が必要です。
しかし、いきなり目的を明確に得ることのできる人はそう多くありません。
ですから、まずは「想い」を持つことからはじめればよいのです。

「想い」とは、“方向性と像”です。
当初は漠然とでも構わないので、自分が進みたい方向性を持つ。
その方向性でいろいろと行動で仕掛けると、だんだんその先の像(目標イメージ)が
見えてくる。そして、その見えてきた像は、方向性を修正し、強化する。
すると、像がまた、より鮮明になってくる。
そして、そのうちに、自分の中でそれを目指す意味も伴ってくる。

「目的」=「方向性×像」+「意味」

という分解式を私は使っていますが、
これらの要素は、互いに連鎖しながら、あいまいから明確化の流れをつくっていく。
この式の中で、最初の重要な一歩は、方向性=「想いを持つこと」です。

評論家の小林秀雄は『文科の学生諸君へ』の中でこう述べています。
 「人間は自己を視る事から決して始めやしない。
 自己を空想する処から始めるものだ」
と。

キャリアをたくましく拓くためには、
小林の言うように、「己を空想(妄想でもいい)すること」です。
その空想が、現実の自分をいかようにでも引っ張り上げてくれるからです。

また、その空想を実現化しようとするとき、自分の中で、
過去に培った知識・技能を新しい角度で再構築しようとし、
不足している知識・技能をどんどん吸収していこうとする意欲が湧き起こる。
この未知の世界へ開いていく能動的なダイナミズムこそ
キャリア形成の核心部分のひとつです。

こうした部分を欠いたまま、
自己分析やプランシートの作成それ自体を目的化して作業させる、
そんなキャリアデザイン研修が増えている点を、私は指摘したいのです。

・自分の「想い」はどこにあるか
・「想い」を描くにはどうすればよいか
・「想い」を体現するとはどういうことか
・「想い」を仕事に変えている人は周囲にいるか
・個人の「想い」と、組織の「想い」をどう重ねることができるか・・・等々、
こうした「想い」に関することを研修プログラム化することは、非常に難しい作業ですが、
ここを正面から照射しないものは、やはり不充足プログラムだと思います。

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◆プロとしての働く基盤意識「プロフェッショナルシップ」
ヤンキースの松井秀喜選手の母校である星陵高校野球部の部室には
次のような指導書きが貼ってあると聞きました。
 「心が変われば行動が変わる。行動が変われば、習慣が変わる。
 習慣が変われば、人格が変わる。人格が変われば運命が変わる」。

これはまさに、一般のビジネスパーソンにもそのまま当てはまることです。

冒頭、私は、キャリアは人の働き方・働き様・働き観に関することだと書きました。
そして、キャリアは「想い」を持った後の奮闘の結果、
何かしらできてしまうものでもあると書きました。
ですから、つまるところ、キャリア教育とは、
日々の働くことに向き合う「意識づくり」の啓育である――――
それが、私の今の認識です。

私は、プロフェッショナルとしての働く基盤意識を「プロフェッショナルシップ」と
名づけています。

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このプロフェッショナルシップ(Ⅱ)は、
各自の専門性能力(Ⅰ)がうまく発揮されるベースとなるもので、
具体的には、プロとして働く基礎力、態度、習慣、マインド、価値観が含まれます。
また、Ⅰ・Ⅱによって成された行動や仕事実績、あるいは習慣といったものが、
中長期に蓄積することにより、キャリアが形成(Ⅲ)されます。

先の星陵高校の指導にあった「心を変える」とか「習慣を変える」の
“心・習慣”の部分を、すなわち私は“プロフェッショナルシップ”と考えます。
キャリア教育を施すにしても、各種の専門技能訓練を行なうにしても、
この基盤意識の醸成をないがしろにしては、その効果が限定されるでしょう。
また、効果が歪むことすら起こりえます。

キャリアデザイン研修なるものの矮小化問題は、
キャリア形成の部分だけを切り出して、基盤意識の部分に手を入れることなく、
技巧的に取り装った研修メニューのみが施されることに原因があります。
(これは技能訓練にも同様の問題があります)
(だから、技能でっかち、知識でっかちの人間ができあがる)

私は、キャリア教育はそれのみを切り出すのではなく、
プロフェッショナルシップという基盤意識を醸成するプログラムの一部として
それを扱うことが最も自然であり、いきいきとした効果が出ると考えています。

プロフェッショナルシップという概念の具体的な内容を
私は下図のように考えています。

06-006b 

・自立性/自律性/自導性とは何か
・指導性/協働性と/育成性とは何か
・変革性/創造性/賢慮性とは何か

こうしたことを腹で理解して、原理原則イメージとして意識の基盤に置くこと、
その文脈の中で、キャリア形成をとらえる――――
私の展開しようとするキャリア教育の考えはそういうものです。

いずれにしても、ビジネス社会が複雑化するにつれ、
働く人びとの漂流観、喪失感、不安感、倦怠感は増し、
同時に、不正や不祥事などモラルハザードの問題も増しています。
働き方・働き様・働き観にまつわることが混迷している状況下、
「働くこと」の教育は、もっともっと切磋琢磨されたサービスが多角度で立ち上がり
世の中に提案されることを当事者として願っています。

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