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2009年6月 1日 (月)

『暴走する資本主義』:一個一個のビジネス人に問う本質論

Scaptlsm きょうは前回のエントリーで紹介した
ロバート・B・ライシュ著『暴走する資本主義』
<原題:“Supercapitalism”>
(雨宮寛・今井章子訳、東洋経済新報社)
の詳しい感想を書きます。

* * * * *

本題に入る前に、先日テレビのニュースで取り上げられていた事故について触れたい。
それは、兵庫県明石市で2001年7月に起きた「明石花火大会歩道橋事故」です。
市民花火大会に集まった見物客がJR朝霧駅南側の歩道橋で異常な混雑となり、
「群衆雪崩」が発生。11人が死亡、247人が負傷した事故です。

遺族は、その警備・安全体制に問題があったとして
管轄の明石警察署元副署長らを訴え続けているのですが、
10日ほど前、
「業務上過失致死傷容疑で書類送検され、
3回にわたり不起訴になった当時の明石署副署長(62)の処分を不服として、
遺族側は、神戸検察審査会に3回目の審査を申し立てた」
とのニュースが流れた。

私は、この事故については、遺族の方々の心が収まる形で終結し、
今後同じような事故を他でも起こさないことを願うばかりです。

さて私には、この事故と、きょう紹介する『暴走する資本主義』とが
ある部分、重なって見えます。
以降、本題に沿って、明石事故を分解してみたい。

明石事故において、着目する点は3つあります。

1点目に、安全面での警備体制・規制がなされていなかったこと。
例年、人がごった返し、かねてから安全面での問題が指摘されていたにもかかわらず、
混雑を規制する計画も、当日の警察官出動もなかったという。

2点目に、被害者は主に過度の圧迫による死傷です。
歩道橋に溢れた人びとの一人一人は、もちろん事故を起こす意図などない。
ましてや誰かを圧死させようなどという殺意があるわけでない。
第一、一人の人間は他人を圧死させるような強い力を持ち合わせていない。
しかし物理的には、歩道橋にいた一人一人の自己防衛の行動が重なり合わさって、
ある箇所に力として集中し、たまたまそこにいた個人が圧迫被害を受けた。
(特に子どもや女性など力の上での弱者が被害者になりやすいという)

3点目に、したがって、当時、あの歩道橋にいた一人一人が
知らず知らずのうちに(物理的な意味での)事故の加担者となり、
かつ、誰もが、被害者になりえた状況にあった。


* * * * *

さて、そんなことを頭に置きながら、
ロバート・B・ライシュ著『暴走する資本主義』の内容に移ります。

「1970年代以降、資本主義が暴走を始めたのはなぜか?」
―――著者はこの問いを置くことからスタートしています。
この問いは、読み進めていくと解るのですが、表面的な問いではありません。
現象の本質、そして人間の根本を見つめようとする問いです。

そして、その答えが解き明かされていきます。
著者は、資本主義を暴走させたのは、
根本的な意味で、強欲な企業・経営者、あるいは
巨額の資金を運用する数々のファンドやマネーディーラーたちではないと言います。


それは、「消費者」「投資家」として力を持った一般の私たち一人一人なのだ―――
これが著者の主張する重要な観点です。

つまり、一人一人の力は小さいかもしれないが、
「もっと安いものを!」「もっとリターンの高い投資を!」という欲望が束となって
巨大な力を生み、資本主義を歪な形に走らせるプレッシャーをかけている。

例えば、ウォルマートは今日、米国で最大規模の収益を上げ、最多の従業員を雇用し、
日々、何千万人という消費者を招き寄せる圧倒的に強い小売企業となった。
そしてここ数十年間、目覚ましい勢いで株価を押し上げ、株主に報いてきてもいる。

それを可能にしているのは、
ウォルマートのサプライヤーに対する過酷で非情な交渉力です。
ウォルマートは「1セントでも安く買いたい」という個々の消費者の購買意思を集結させ、
あたかもその消費者団体の代表として仕入れ先と値引きの交渉を行う。

ウォルマートが収益を上げるためにやっている過酷なことは、外側だけに限らない。
内側に対してもギリギリまで削りに削る。
詳細の数値は本書に出ているので省きますが、ウォルマートの従業員・パートタイマーの
労働待遇(給料や福利厚生、年金保障、健康保険手当など)は厳しい。

しかしだからといって、ウォルマートのCEOは、
非情だとか残酷だとかのレッテルを張られる筋合いのものではない。
彼は、ビジネスという競争ゲームのルールに従って、
最大限の成果(収益獲得)を出そうと本人の能力を発揮し努力している
に過ぎないのです。


仮に、サプライヤーや従業員に温情をかけてウォルマートの値引き率が鈍ってしまえば、
1セントでも安く買い回る消費者は、そそくさと他のチェーン店に移ってしまうでしょう。
そして、収益が悪化傾向をみせるやいなや、株価が下がり始め、
少なからずの投資家たちがワンクリックで株を売り払う流れが強まる。
そして、株の下落は加速する。
四半期ごとの成績を厳しく問われるCEOは、交代を迫られるはめになる。

そうした背後でプレッシャーをかける投資家とは誰なのでしょう?
直接的にはもちろん、その株を保有する株主です。
そして間接的には、年金ファンドや保険商品、投資信託商品を通じて、
薄く広く「あなた」自身も、そこに関わる当事者の一人である可能性が高いのです。

私たち一人一人には、多面性があります。
「消費者」であり、(広い意味での)「投資家」でもある。
そしてまた同時に、「労働者」であり、「市民」でもある。

70年代以降、「消費者としての私」、「投資家としての私」は、飛躍的にその立場が強まった。
より有利な(=得をする)選択肢を求めて、動ける方法が格段に多くなったのです。

しかし、その「消費者」「投資家」としての利得欲望が増せば増すほど、
「労働者」「市民」としての私たち一人一人は、逆に富を享受できない方向へと
押しやられていく皮肉な現象を起こしているのが昨今の状況です。


そうした資本主義の歪みを矯正するのが、民主主義・政治の役割なのですが、
もはや暴走する資本主義にのみ込まれてしまって機能しなくなっている。

著者は、ワシントン(=米国の政治)が、いまや
企業という利益団体から雇われるやり手のロビイストたちで動かされている現状を
具体的に書き連ねています。
公益や社会の真に重要な問題を訴える市民団体や非営利組織などは、
団結力や資金力に乏しいので、
その訴えがワシントン上層部に届く前に雲散霧消していく場合がほとんどだと言及しています。

「消費者」や「投資家」としての私たちは、
ネットショッピングやネットの株取引、ネットの検索などを利用して、
ワンクリックで自分の意思を即座に完結させることができる手段を持った。
そして、それらはグローバルにつながり統合されることで、巨大なパワーとなる。

その一方で、「労働者」「市民」としての私たちは、
意思を世の中に伝える手段はきわめて限られており、脆弱なままです。
一労働者・一市民として、
「このままじゃいけないので反対しよう」「何か役立つことをしたい」と思ったところで、
それを実行し、ましてや同じ考えの人びとを束ねて大きな運動にするには
気の遠くなるような努力と時間が必要になります。

ライシュ氏は、序章でこう書いています。

私たちは、“消費者”や“投資家”だけでいられるのではない。
日々の生活の糧を得るために汗する“労働者”でもあり、そして、
よりよき社会を作っていく責務を担う“市民”でもある。
現在進行している超資本主義では、
市民や労働者がないがしろにされ、民主主義が機能しなくなっていることが問題である。

私たちは、この超資本主義のもたらす社会的な負の面を克服し、
民主主義をより強いものにしていかなくてはならない。
個別の企業をやり玉に上げるような運動で満足するのではなく、
現在の資本主義のルールそのものを変えていく必要がある。

そして“消費者としての私たち”、“投資家としての私たち”の利益が減ずることになろうとも、
それを決断していかねばならない。
その方法でしか、真の一歩を踏み出すことはできない」。


著者は、序章でこうした結論を述べた後、
残りの300ページ超にわたり事実を一つ一つ積み上げながら、
資本主義が暴走を始める根本のメカニズムを書き解いていきます。

もちろん、その列挙する事実が偏向的だとか、決め付けだとかの声は出てくるでしょうが、
力強い主張の本というのは、一本の背骨の入った図太い解釈から成り立つものです。

文章や解釈というのはいやおうなしにその人の人格やら思考の性質を顕してしまうもので、
ここにはロバート・ライシュという人物の高いレベルの良識さ・明晰さと、
そしてこのことを社会に問わずにはいられないという使命にも似た強い意志を感じることができます。

実際のところ、ライシュ氏は、ハーバード大学の教授であり、
クリントン政権下では労働長官を務めた人物です。さらには、
ウォールストリートジャーナル誌で「最も影響力のある経営思想家20人」の1人に選ばれるほどですから、
よい本を著して、こういった論点を世に問うというのは、
当たり前といえば、当たり前なのですが、
日本において、こうした立場にある人が、どれだけ同じように賢者の論議を押し出しているのか
と考えてみると、非常に残念に思います。

いずれにしても、本書は、ビジネスに関わるすべての人に課したい良書です。
そして、これは米国だけの問題ではなく、
日本を含め、経済体制を問わず全世界の国々が共有すべき問題を扱っています。

私は個人的に、今回の金融危機による世界同時不況が、
あいまいなまま、あいまいな感じで景気持ち直しにつながらないでほしいと感じています。
このまま中途半端に進んでいけば、早晩、歪んだ形の資本主義は、
もっと大きなダメージを世界規模でもたらすと危惧するからです。

私たちが全世界的に持続可能な社会をつくるために、
国の境界を越えて経済体制や仕組みづくりを変えていく、
そして、自ら所属する組織の在り方を変えていくのは当然ですが、
その根本は、やはり一個一個の人間が、どう変わっていくかということに行き着きます。

百年単位の時間軸の視座に立てば、
個々の人間の叡智、勇気、行動が問われる大事なタイミングなのだと思います。

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