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2009年7月

2009年7月25日 (土)

楽観主義は身を救う

「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」
   

                                              ―――仏哲学者・アラン


私は主に企業に勤めるビジネスパーソンたちと日頃、仕事で接しています。
彼らの多くが「仕事がツライ」と口にします。
この「ツライ」には、千差万別あります。
能力のキャパと仕事の要求がミスマッチでツライ場合もあれば、
嫌で嫌でしょうがない仕事を任されてツライという場合もある。
仕事に何らかの面白みを感じていてツライと思いながらも頑張れる場合もあれば、
まったくの怠け根性でただツライツライと愚痴っている場合もあります。

また、私は直接の接点はありませんが、
世の中には不幸にしてフリーター人生を余儀なくされ、
日々、本当にツライ3K仕事をして糧をつないでいる人もいるでしょう。

私はこの「仕事のツライ」に対して個人ができうる最大の処方箋は
楽観主義を持つことだと思っています。

(もちろん、企業や社会が制度面で解決しようとする努力は複合的に必要です)

つまらない、
生きるためにしょうがない、
どうせ俺の人生はこんなもの、
所詮、会社や世の中はそんなもの、
といった悲観主義を分母にしたツライは、早晩自分の心身を痛めていくのが確実です。

一方、
そこに何か面白みを見つけてみよう、
働くことでいろんなことが勉強できる、
この方向で頑張れば何かが見えてくるはず、
この仕事には意味を感じているから、
など楽観主義を分母にしたツライは、自分を成長回路に乗せてくれます。

ちなみに私がここで言う楽観主義とは、
状況を気楽に構えながらも「最終的にはこうするぞ」という意志を含んだ姿勢のことです。
ですから楽天主義とは異なります。
楽天主義とは、意志のない気楽さです。根拠のない安逸と言ってもいいかもしれません。
(別名:能天気)

いずれにせよ、
悲観主義をベースにするか、楽観主義をベースにするかで
仕事のツライは、天地雲泥の差が出ます。
(5年後、10年後、20年後の差は決定的です!)

だから、私は楽観主義を声高に勧めたいのです。

では、楽観主義と悲観主義の分岐点はどこにあるか―――
それは冒頭のアランの言葉にもあるとおり、
目の前の状況を
意志的にとらえるか、それとも、感情で流されるか、
にあります。

自分に言い訳をつくって、他に責任を転嫁して、感情に流されるのは簡単なことです。
しかし、そこをあえて、未来的な意志の下に
状況をポジティブに建設的に解釈しなおしていく。そして行動していく。
この微妙な心持ちの差が、一刻一刻、一日一日、一年一年と積み重なって
結果的に悲喜こもごもの人生模様になるんだと私は思います。

* * * * *

ものごとを楽観的に構えるとは、いろいろな方法や思考法があるでしょう。
私は次のように
仕事というものに対して意識を拡げてみてはどうかと言っています。

○例えば、仕事は「ゲーム」だと考えてみる。
ゲームはある種の勝負事ですが、遊び心をもって楽しんでやるものです。
現在、仕事上で目の前に抱えるトラブルや困難は、
ゲームを面白くするためにゲームメーカーが仕組んだ障害物だととらえてみる。

テレビゲームを1面1面クリアしていくように、
1つ1つの問題を解決して、「よーし、次の面はどんな面だ」と待ち受けることができれば、
仕事のストレスは軽減され、質さえ変わる。

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○また、仕事は「絶好の学び機会」だと解釈してみる。
仕事はさまざまに私たちに“解”を出せと求めてきます。
しかし、解がすんなり出せる公式はありません。
だからこそ、無上の学習機会なのです。学習は成長でもある。

しかも、給料をもらいながら、こうした学習と成長ができるのです。
有り難い話ではないですか。

○さらに、仕事は「趣味・アート」だととらえてみる。
今は一個人の趣味活動やスタイルが消費者の心をつかまえて、
そのままビジネスになりうる時代です。

自分の興味・テイスト・スタイル・凝った技能を仕事に付加してみる。
好奇心をエネルギーに変えて、
「こんなこと考えてみました」とか「こんなふうにつくってみました」と、
自分表現のアウトプットを上司や組織に提案してみる。
思わぬところから、「お、それいいね」と反応が起こり、
一気に仕事が面白くなるかもしれない。

「趣味ゴコロ? 自分のスタイルを付加する? そんな努力したって所詮ムダ」
とシラけて何もしない状態こそ、悲観主義者です。
楽観主義者は、そこでこそ行動を起こす人なのです。
確かにそんなヘタなことをしてみても、容易に周囲が称賛してくれるわけでもないでしょう。
しかし、誰か一人でも反応してくれれば、そこから何かが開けることは十分にあることなのです。
人生の転機とは実際そのような些細な一点から生じるものです。

* * * * *

下の図は、私たち一人一人が常に傾斜に立っていることを示したものです。
(ベルグソンの箴言を図化したものでここでも紹介しています)

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この世の中は、残念ながらと言いましょうか、思慮深きと言いましょうか、
私たちに下向きの(精神的)引力を四六時中はたらかせています。
言いかえれば、
私たちは気を緩めれば、いつでも下に転がるような摂理の中に身を置いているのです。

この傾斜という負荷に対し、抵抗をやめることは基本的にラクです。
しかし、そのラクの先に楽園はありません。
逆に、私たちは「仕事」という傾斜を上っていく努力をする限り、
何らかの成長や喜びを得ることができます。
(しかし、その努力の先に楽園が必ず待っているわけでもありません。
これがこの世のトリッキーなところです。
しかし、その傾斜を上ろうとする過程こそが幸福であると私は思っています)


仕事という傾斜に対し抵抗をやめれば、
そこには「労役」という別の世界が待ち受けています。
この世界に入り込んでしまうと、ほんとうにツライです。
ネガティブ回路が増幅して脱出も難しくなります。

昨今、社会問題として大きく取り上げられるワーキングプアの問題などは、
この労役の回路から抜け出せない人びとの問題でもあります。
(これは個々人の意識・努力の要因だけでなく、社会制度の要因も考えねばなりません)

その仕事を労役にしないために、
そして現状の仕事をよりよい仕事にするために、
私たちは力強い意志的な楽観主義というものを持ちたい。

もちろんそれだけで、難しく入り組んだ個々の仕事問題が解決できるわけではないが、
楽観的意志を持つことが全ての始まりとなる。
労役への引力に身を任せるな、抵抗せよ、と言いたいのです。

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2009年7月17日 (金)

価値創造回路の広がりと深み

前回の記事では、
仕事とはインプット→スループット→アウトプットのプロセスで
価値を創造していく行為だと言いました。
そして自分が持つもろもろの能力や意志は
その価値を創造する回路みたいなものだとも言いました。

きょうはその回路をさらに詳しくみていきます。

◆「みて」→「かんがえて」→「かく」の流れ
まず、価値創造回路を上から平面的にみたのが下図です。

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自分の中の回路は、おおむね3つの部屋に分かれて広がっていると私はみます。
(といっても実際はこういう間仕切りはなく能力として渾然一体としています)

さて、上流では主に、これから仕事を成そうとするモノやコトの情報や状況を
自分の回路に取り込むための能力が使われます。

例えば、私たちが何かモノを加工する場合、まず、原材料になる素材を入手します。
そして、その素材の状態を「みたり」、「ふれたり」して、
どういう加工方法、工程がいいかの判断材料にします。
また、お客さんがどういうモノに仕上げてほしいかの要望を「きき」ます。

一方、自分が何か知的業務で情報を加工する場合には、
やはり素材となる基情報を「よんだり」「きいたり」して、
どういう情報にまとめていくかの材料にします。

このように、仕事という価値創造は、まず、認知や摂取、受信からスタートします。

次に、その自分が取り込んだものを「わかったり」、「かんがえたり」、
そして「きめたり」、「おぼえたり」するという中流過程があります。
わかりやすくいえば、理解や編集、決定、記憶のステップです。

そして、下流過程として、「かく」「いう」「だす」「つくる」などの、
製作、表現、発信があります。
ここで自分の回路から出されたものが、
アウトプットとして他人の目に触れる形になります。

なお、ここで上流、中流、下流といっていますが、
回路の中でさまざまな能力がはたらく流れは、上流から下流への単調な一方通行ではなく、複雑に行ったり来たりするのが常です。

◆「見る」と「観る」の深さの違い
以上が、自分の中の価値創造回路を上から平面的にみたものです。
では次に、この回路を斜めから眺め、立体的にとらえていきましょう。

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この図のエッセンスは、
私たちの「みる」や「かんがえる」といった行為には深さがあるということです。

例えば、私たちが何かを「みる」場合、
単純に目に映る対象を「見る」こともあるし、
その目に映る対象の奥に、何かの原理や原則を「観る」こともあります。

例えば、普通人はリンゴが木から落ちるのを「見る」だけですが、
ニュートンはそこに万有引力を「観た」わけです。


同じように、単に情報を耳に入れるだけなら「知る」ですが、
それをみずからの経験や他者からの助言などと照らし合わせ高度な情報に精錬させれば、
それは「識る」「智る」になります。
情報はその接し方によって、データにも知識にも知恵・叡智にも変容します。

また、「かんがえる」にも深さがあります。
物事の表層をなぞるだけの「考える」もあれば、
その奥底の本質まで「なぜだ?なぜだ?」と探りを入れて洞察する「考える」もあります。

「つくる」も深みにさまざまあるものの代表格です。
安易に他を真似て「作る」レベルもあれば、
これまでにない独自の発想で「創る」レベルもあります。

また、職人の世界では、ものを加工する場合、
実に多くの技を状況に応じて使い分けします。

例えば、腕の立つ金属加工の職人たちの間では、鉄を「けずる」場合、
「削(けず)る」、「挽(ひ)く」、「切(き)る」、「剥(へず)る」、
「刳(く)る」、「刮(きさ)ぐ」、「揉(も)む」、「抉(えぐ)る」、
「浚(さら)う」、「舐(な)める」、「毟(むし)る」、「盗(ぬす)む」など、さまざまあります。


一般素人であれば、一緒くたで削ることしかできないことも、
職人は一段深いレベルで多種多様な能力を発揮し、「けずり分ける」のです。

◆「知る-わかる-できる-教える」のレベル差
さらには、上流・中流・下流といった部屋の壁をまたいだレベル差も考えられるでしょう。
「知る」→「わかる」→「できる」→「教える」がそのひとつです。

例えば、陶芸について何らかの能力があるといった場合、
焼きものの製法や歴史を「知る」というレベルが第1、
第2レベルは、なぜその製法がよいのかという化学的、実践的な裏づけまで「わかる」というものです。
そして、第3として、実際、自分でロクロを回して、窯で焼くことが「できる」レベルとなり、
第4に、それらすべてを他人に「教える」ことができるとなります。

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◆自分の回路を広げるために
私たちは優れた仕事をしようと思えば、
自分の価値創造回路をふくらみをもったものにしなくてはなりません。

この回路は、これまでみてきたように平面的な広がりと立体的な深みを持っています。
ある仕事を成すために、能力を多種多様に組み合わせよう、
足りない能力があれば習得して自分に増やそうというのは、
回路の平面的な面積を広げようとする努力です。

また、能力を深い次元ではたらかせてみたいというのは、
回路に立体的な深みを出そうという努力です。

こうした、広がりへの張力、深みへの引力を自分に与えてくれる源泉は何でしょうか?

それこそが、働きがいであり、夢や志です。
人はその仕事の中に、充分な意味や意義、
無償でも楽しみたいとする興味・関心、使命感にも似た目的意識があれば、
自発的努力を惜しみません。

そのとき、誰に言われることもなく、自然と「見る」から「観る」へ、
「知ろうとする」から「識ろうとする」へ、
「ぼーっと聞く」から「研ぎ澄まして聴く」へ、
「文句の出ない程度に作る」から「他人があっと驚くほどのものを創り出す」へと
自分の中の価値創造回路を「縦・横・深」に膨らませることができるのです。

「好きこそものの上手なれ」とはまさにこのことを言い表したものでしょう。

私はこうも言えると思っています。
―――山(夢/志)高ければ裾野広し。山高ければ谷深し。

*詳細の議論は、拙著『“働く”をじっくりみつめなおすための18講義』で。

2009年7月10日 (金)

仕事とは 価値創造:その3種類

◆価値の創造としての仕事
前記事では、仕事を平面的な広がりの中でとらえてみましたが、
きょうは仕事を動的な変化でとらえます。

仕事とは、どのような行為をいうのでしょうか。それを示したのが下の図です。
3

仕事とは要するに、自分が取りかかろうとするコトやモノに対し、
当初の状態(Before)から、その後の状態(After)で、
いかに変換をし、価値を創造するかです。

その価値の創造には、図に示した通り3つのパターンがあります。つまり、

〈1〉 A→A+ (=その価値を増やす)
〈2〉 A→B  (=別のものにつくり変える)
〈3〉 0→1  (=新しく何かを生み出す)


厳密にはどんな仕事もこれら三つの混合ですが、仕事によってその割合が異なります。
例えば、営業の仕事というのは、主に売上げを増大させることですから〈1〉型です。
また、業務改善プロジェクトは〈2〉型の仕事です。
研究開発の仕事はもちろん〈3〉型となります。

また、働く個人によっても、〈1〉を強みとする人や、〈2〉が得意な人、
〈3〉がからっきしダメな人、といったような差が出ます。

◆自分の中の価値創造回路:能力と意志
私たちは、価値創造という仕事を、どのように成しているのでしょうか。
それを簡単にしたのがこの図です。
Photo

仕事は広い意味での生産活動あるいは情報処理活動といえます。
生産にしても情報処理にしても、まず原料やデータを仕事の行為者である自分に
インプット(Input)することが必要です。

私たちは、インプットのための基本動作として、みる、しる、きく、よむ、ことをします。

そして、次に私たちは、それをわかったり、かんがえたり、きめたりする。
コンピュータ技術の世界では、この段階をスループット(Throughput)という言葉を使います。

こうして自分の考えがまとまると、最後にアウトプット(Output)のための動作に入る。
かく、いう、つくる、だす、などです。

このように、私たちは、何か仕事を行なう場合には、
自分の持っている能力や意志をさまざまに駆使して、
インプット→スループット→アウトプットのプロセスで価値を創造していく。
このとき、自分の能力や意志は、いわば価値創造のための回路としてはたらいているわけです。

次回で詳しく述べますが、自分の持っているこの回路のよしあしが、
自分の仕事のレベルを決定づける
ことになります。
すなわち、この回路の中にどれだけ質のよい多様な能力が詰まっているか
(例えば、「みる」にしても、「見る・視る・観る」と能力の広がり・深さが異なるものがある)、
そしてどれだけ強い意志(これは回路を動かすバッテリーとなる)で活発に動いているか、です。

◆感謝の念に表れるよい仕事の思想
仕事について、もうひとつ触れておきましょう。
それは、仕事の“思想”です。

西岡常一さんは1300年ぶりといわれる法隆寺の昭和の大修理を取り仕切った
知る人ぞ知る宮大工の棟梁です。彼の言葉を紹介します。

「五重塔の軒を見られたらわかりますけど、
きちんと天に向かって一直線になっていますのや。
千三百年たってもその姿に乱れがないんです。
おんぼろになって建っているというんやないんですからな。

しかもこれらの千年を過ぎた木がまだ生きているんです。
塔の瓦をはずして下の土を除きますと、
しだいに屋根の反りが戻ってきますし、
鉋をかければ今でも品のいい檜の香りがしますのや。これが檜の命の長さです。

こうした木ですから、この寿命をまっとうするだけ生かすのが大工の役目ですわ。
千年の木やったら、少なくとも千年生きるようにせな、木に申し訳がたちませんわ。

・・・生きてきただけの耐用年数に木を生かして使うというのは、
自然に対する人間の当然の義務でっせ」。


                                                          ―――(『木のいのち木のこころ 天』より)


仕事という活動の入口と出口には、インプットとアウトプットがある。
ものづくりの場合であれば、必ず、入り口には原材料となるモノがくる。
そして、その原材料が植物や動物など生きものの場合、その命をもらわなければならない。
古い言葉でいえば「殺生」です。

そのときに、アウトプットとして生み出すモノはどういうものでなくてはならないか、
そこにある種の痛みや祈り、感謝の念を抱いて仕事に取り組む人の姿を
西岡さんを通して感じることができます。

「よい仕事」とは、物事をうまくつくる、早くつくる、効率的につくることではない。
それは「長けた仕事」というべきものです。
「よい仕事」とは、「よい思想」に根づいている仕事のことです。
思想というと何か堅苦しいことのように聞こえるかもしれませんが、
要は、真摯でまっとうな倫理観、道徳観、ヒューマニズムをベースにすることで、
それがもう充分な思想となる。

毎日の自分の仕事のインプットは、決して自分独りで得られるものではなく、
他からのいろいろな生命、秩序、努力によって供給されている。

であるならば、自分の仕事のアウトプットも、他への恩返しの気持ちで、
価値を増加させた形で生み出し、送り出してやらねばならない。

自分のアウトプットが、今度は他の仕事(=価値創造活動)のためのインプットとなり、
世の中全体(宇宙・自然界全体といってもいい)で「環」になっているからです。

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*詳細の議論は、拙著『“働く”をじっくりみつめなおすための18講義』で。

2009年7月 7日 (火)

その仕事は作業ですか?稼業ですか?使命ですか?

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「この伝票処理の仕事を明日までに片付けておいてほしい」
「営業という仕事の難しさはここにある」
「課長の仕事はストレスがたまって大変だ」
「彼が生涯にわたって成し遂げた仕事の数々は人びとの心を打つ」
「そんな仕事は、プロの仕事とはいえないよ」
「あの仕事ができるのは、日本に10人といないだろう」――――。

私たちは、このように日ごろ職場で「仕事」という言葉をよく使う。
働くことの根幹をなすのは、この仕事という基本単位だからでしょう。

仕事は短期・単発的にやるものから、長期・生涯をかけてやるものまで幅広い。
また、自分が受け持つ大小さまざまの仕事に対し、動機の持ち具合も異なるものです。
やらされ感があって、いたしかたなくやる仕事もあれば、
自分の内面から情熱が湧き上がって自発的に行なう仕事もある。

そうした要素を考えて、仕事の面積的な広がりを示したものが下図です。
Photo

明日までにやっておいてくれと言われた伝票処理の単発的な仕事は、
言ってみれば「業務」であり、業務の中でも「作業」と呼んでいいものです。
たいていの場合、伝票処理の作業には高い動機はないので、
図の中では左下に置かれることになる。

また、一般的に中長期にわたってやり続け、
生計を立てるためから可能性や夢を実現するためまでの幅広い目的を持つ仕事を「職業」と呼ぶ。

営業の仕事とか、広告制作の仕事、課長の仕事といった場合の仕事は、
職業をより具体的に特定するもので、「職種」「職務」「職位」です。

「生業・稼業」「商売」は、その仕事に愛着や哀愁を漂わせた表現で、
どちらかというと生活のためにという色合いが濃いものです。

さらに仕事の中でも、内面から湧き上がる情熱と中長期の努力によってなされるものは、
「夢/志」「ライフワーク」「使命」あるいは「道」と呼ばれるものでしょう。

そして、その仕事の結果、かたちづくられてくるものを「作品」とか「功績」という。
「彼の偉大な仕事に感銘を受けた」という場合がそれです。

私がよく引用する『3人のレンガ積み』の話をここでも紹介しましょう。

中世ヨーロッパの町。とある建設現場に働く3人の男がいた。
そこを通りかかったある人が彼らに、「何をしているのか」と尋ねた。
すると、1番めの男は「レンガを積んでいる」と言った。
次に、2番めの男は「カネを稼いているのさ」と答えた。
最後、3番めの男が答えて言うに、「町の大聖堂をつくっているんだ!」と。


1番めの男は、永遠に仕事を「作業」として単調に繰り返す生き方です。
2番めの男は、仕事を「稼業」としてとらえる。
彼の頭の中にあるのは常に「もっと割りのいい仕事はないか」でしょう。
そして3番めの男は、仕事を「使命」として感じてやっている。
彼の働く意識は大聖堂建設のため、町のためという大目的に向いていて、
おそらく、そのときたまたまレンガ積みという仕事に就いていただけなのかもしれません。
彼は、その後どんな仕事に就いたとしても、
それが自分の思う大目的の下の仕事であれば、それを楽しむことのできる人間です。

私たちは、初対面の人間に出会ったとき「どんなお仕事をされているのですか?」
よく質問します。
この質問は、その人物を知るためには、とてもよいきっかけを与えてくれる。

なぜなら、仕事は多くの場合、
①自分の能力
②自分の興味・関心
③自分の信ずる価値

を表明・表現する活動だからです。


月々日々、何十年とやっていく仕事を、単なる繰り返しの「作業」ととらえる人は、
おそらく自分自身の能力、興味・関心、価値をさげすんでいる人です。
また、仕事を生活維持のためだけの「稼業」ととらえる人も、
自分の可能性に対して怠慢な人です。

仕事を、希望や夢、志、ラフワーク、道といったものにつなげている人は、幸せな人です。
そうすることによってのみ、自分の能力は大きく開き、
興味・関心は無尽蔵に湧き出し、
自分の発した価値と共鳴してくれる人びとと出会えるからです。

*詳細の議論は、拙著『“働く”をじっくりみつめなおすための18講義』で。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

The21 7月10日発売のビジネス雑誌
『THE21』2009年8月号(PHP研究所)の
特集〈第2部〉:
「達人が指南するスピード・コミュニケーション術」で出ています。

2009年7月 1日 (水)

「独立したいのですが」という相談に対し


仕事柄、脱サラ・独立を相談されることがたびたびあります。
しかし、たいていの場合は、さほど本気モードでなかったり、
(私も独立後6年が経ったので)参考に話を聞きたいというレベルが多いものです。

ですが、中には、真剣な人もいます。
そういう場合に、私が贈っている言葉がこれ。

プラハの詩人、リルケ(1875-1926)の『若き詩人への手紙』から:

「自らの内へおはいりなさい。
あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。
それがあなたの心の最も深い所に根を張っているかどうかをしらべてごらんなさい。

もしあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、
自分自身に告白して下さい。

・・・(中略)もしこの答えが肯定的であるならば、
もしあなたが力強い単純な一語、「私は書かなければならぬ」をもって、
あの真剣な問いに答えることができるならば、
そのときはあなたの生涯をこの必然に従って打ち立てて下さい」。


---(新潮文庫版『若き詩人への手紙』高安国世訳)


この引用箇所は、
ある青年が、自分も詩人になり、生計を立てていきたいのだが、
その素質がありますかと、リルケのもとに作品を送ってきて相談するくだりです。

リルケは、あなたは自分の詩がいいか私や他にたずねようとする。
そして雑誌の編集部にも作品を送る。そして、送り返され自信をぐらつかせる。
しかし、そんなことはやめなさい。
あなたの目は外に向いている。目を向けるべきは自分の内なのだ。
―――こう、リルケは前置きをし、上の言葉に続けていきます。


Sizukuha_3
梅雨真っ只中
うっとうしいジメジメ天気も“慈雨”と思えばまたよし


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