留め書き〈009〉 ~「失敗」について
「失敗」というのは、実は一時の仮の姿にすぎない。
それはあたかも、“蛹(さなぎ)”のようなもので、
やがて「成功」という蝶に完全変態するかどうか、その手前の状態をいう。
「失敗」の定義を変えよ。
失敗とは「一時的後退」である。
失敗とは「後の成功者に与えられる試験」である。
失敗とは「成功するに値する者を判別する“ふるい”」である。
失敗とは「成就の栄光を手にするための前払い金」である。
失敗とは「飛ぶ前の屈みこみ」である。
「失敗」には2種類ある。
「いまだ不確定の失敗」と「確定された失敗」と。
失敗に対し抵抗を続けるかぎり、その失敗は不確定だ。
抵抗をやめたとたん、その失敗は確定する。
「失敗」に関する箴言は多々あるが、
それらをどれだけ深く読めるかは、
自身がどれだけ深い失敗からリベンジしたかによる。
* * * * *
私が「失敗」という言葉を聞くたびに思い出すのが、
以前勤めていたベネッセコーポレーション、福武總一郎会長の次の口グセである。
「私には“失敗”という概念がない。なぜなら成功するまでやるから」---。
当時は私も生意気盛りの30代。
大企業ばかりを転職で渡って、さしたる失敗経験・リベンジ経験もないままだったので
(いくつも修羅場をくぐったさと思っていたのは実は小さな自分だった)
この言葉をついぞ深く味わうことができずじまいでいた。
ところが、独立して7年経ち、ようやく沁み入ってくるようになった。
(箴言というのは往々にしてこういうものだ。
箴言的なものは普遍的なことを言っているので、誰しも「そんなの当たり前」と思う。
しかし、箴言を受けて問題なのは、
アタマの理解ではなく、どれだけ身で読めるか、心で読めるかという沁み入りの強さなのだ)
もちろんすべてのことは成功させるつもりでやっているのだが、
ものごとはそう簡単に都合のいいように転がらない。
しかし、失敗という洗礼を浴び、
そこからのし上がっていく強さを身につけることで、
実はそのプロセスにおいてすでに勝ちを得ている。
負けに屈しないというのもひとつの勝利の姿なのだ。
より多くのことを
より深く気づくためには
簡単に成功してしまわないほうがいい。
でないと、安ピカになってしまう。
ラクな「勝ち」は、ときに次に大きな「負け」を呼びこんでしまう。
辛い「負け」は、次の輝かしい「勝ち」への燃焼油になる。
結局のところ、失敗も成功も外界の現象にすぎない。
それは天気が雨になり、晴れになることと同じだ。
大事なことは、
「想い」を抱きながら、一歩ずつ、一つずつ、行動を重ねていくこと。
勝っておごらず、負けてくさらず。
結果は天命だが、
最終的にはやはり結果も手に入れる---そうありたい。そうしてみせる。
希望と気概できょうも一歩前へ。