電子書籍元年に思う ~技術の進化が「おおきな作品」を生み出すか
『Kindle』『iPad』の発売によってにわかに話題沸騰の電子出版市場、
確かにそこで論議されるデバイス(端末機器)がどうこう、
ビジネスモデルの構築と市場の覇権争いがどうこう、という問題は興味深い。
私もMBAの学生時代であれば、
この手の話にどっぷり浸かって、おおいに論議したことだろう。
しかし今の私は、出版文化がどうなっていくのか(どうしていくのか)、
人びとのライフスタイルや思考方法がどう変わっていくのか、
どんな作品表現が生まれてくるのか(生み出せるのか)、により興味がある。
佐々木さんはこの本で、
文化論の観点からも(音楽の電子配信サービスと比較して)多くを述べている。
特に、電子書籍は「アンビエント化」する、
電子書籍は「多対多」のマッチングになる、
電子書籍はコンテンツではなくコンテキストとして買われる、
など、こうした点をうまい材料を盛り込みながら展開していた。
本書の詳しいレビューは
各所のウェブサイトにアップされている他の方々のものに任せるとして、
以降は私が包括的に思ったことを簡単に書きたい。
* * *
18世紀の産業革命以降、技術は幾何級数的に発展を続けている。
それに合わせメディアの進化、人間の表現方法の進化もすさまじい。
しかし、技術の発展は
果たして「おおきな作品」を生み出すことに役立っているのか?―――
(この「おおきな作品」とは、表現の深み・高みが並みはずれていて、
後の世まで受け継がれる不朽のものを言う)
つまり、21世紀の私たちは、レオナルド・ダ・ビンチよりも
はるかに質のよい画材を、はるかに多く手にでき、
はるかに簡単に他の作品を画集やらウェブやらでみることができ、
はるかに快適な(空調のきいた)作業空間で絵を描くことができる。
しかし、だからといって、ダ・ビンチ以上の絵を描けるのだろうか。
これは音楽とて同じことだ。
今日の私たちは、
モーツァルトやベートーベン以上の音楽をつくりだすことができるのだろうか。
アートにしても、音楽にしても、
映画にしても、小説にしても、
超大作級のものがなかなか出なくなったと言われる。
「作品が小粒化している」というのはよく聞かれるフレーズだ。
私たちは技術の発展とは逆に、
「おおきな作品」からどんどん遠ざかっているように思える。
―――それはなぜだろう?
* * *
私が音楽を聴くことに一番夢中になったのは中学・高校のころだ。
我が故郷(三重県)の田舎の高校でもビートルズは人気だった。
1970年代半ば、音楽レコード(LP盤)は高価だった。
しかも消耗品であるレコード針はもっと単価がかさんだ。
貧乏な我が家では、LP盤を何か1枚買ってほしいと親に言い出しづらかった。
すでに解散していたビートルズは20数枚アルバムを出していたが、
私が買ってもらえるのはようやく1枚だけだった。
子供心に本当に悩んだ―――「どれを手にすべきか」。
いまのように自由に視聴ができるわけでなし、
もちろんレンタルサービスがあるわけでもなく、
LPアルバムを買うということは当時リスクのある買い物だった。
(シングル曲だけがよくて、アルバムとしては凡作なものがいつの時代にもたくさんある)
当時、深夜のラジオ番組で毎週土曜の午前1時にビートルズの曲を5曲ずつ、
タイトルのABC順にかけていく番組があった。
(ビートルズの公式録音曲は全部で280曲ほどあると言われている)
私はこの番組をカセットテープに録音して、1曲1曲リスト化していった。
(寝過して録音できなかった週などは落ち込んだものだ)
なにせ、いまのようにウェブで検索をかければ
ビートルズの全曲のリストがコピー&ペーストで手に入る時代ではないのだ。
そうやってビートルズの曲をいろいろと聴き、手と耳で憶えていった。
おかげで英語は一番好きな科目になった。
また、友達同士でレコードの貸し借りもやった。
A君は「THE BEATLES 1962-1966(通称「レッド・アルバム」)」を持っとるんやて、
B君は「WITH THE BEATLES」を買うたらしいで、
C君は「SGT. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND」聴かせたる言うとった……
友達から借りられるものはそれで聴けばいい、
そして半年をかけて熟考して買ってもらった1枚が―――「ABBEY ROAD」。
「レコードが擦り減るまで聴く」という表現があるが、
本当に「ABBEY ROAD」は、レコード溝がダメになるまで聴いた1枚だ。
多感なころだったから1曲1曲を繰り返し聴くたびに
いろいろな発見や感動がいくらでも湧いてきた。
ジャケットの写真を眺めるたびにどんな想像もできた。
いまから思えばちゃちなレコードプレーヤーだったが、
(一応、2つのスピーカーが付いてステレオだった)
そこから響き出す音楽は、姉と一緒の四畳半の勉強部屋を満たし、
私の表皮の細胞を一つももれなくぴーんとそばだたせた。
(たぶん、あれを詩心というのだろう)
モノがない、情報がない―――だからといって、
人間の想像性/創造性は妨げられない。
むしろモノが少ないほど、情報が少ないほど、
想像性/創造性が増し、深まることはじゅうぶんに起こりうる。
今日、私たちはデジタルデータのダウンロードで、いとも簡単に多種多様な音楽を聴ける。
しかも高音質の音で、ポケットに持ち歩ける時代だ。
また、1曲ごとの購入ではなく、定額を払えば、
何でも聴きたい放題になるというサービス形態も検討中であると聞いた。
もはや、音楽は聴き尽くせないほど手の中に溢れている。
そして、間近に、書籍もそうなる。
しかし、そうなったときに、
私のあの「ABBEY ROAD」を手にしたときの喜びを再び得ることができるだろうか?
「ABBEY ROAD」を毎夜繰り返し聴いたときの
果てしない空想の旅を続けることができるだろうか?
「豊かさは節度の中にだけある」 ―――とは、ゲーテの言葉である。
また、小林秀雄はこう言っている―――
「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、
無常という事がわかっていない。
常なるものを見失ったからである」。
(『無常という事』より)
* * *
私はビンボーな社会がいいというつもりはない。
生涯のうちにもっと音楽や芸術に接したいし、もっと本を読みたい。
そして、直接自分で世界に「セルフ・パブリッシング」したいとも思う。
(電子書籍の時代には、すべての個人が出版社や取次・書店などの力を借りずに出版でき、
全世界に著作を売り出せる。これがセルフ・パブリッシング)
また、これまで出版社に発掘されなかった才能が芽を吹いて
新しい書き手が新しい表現で私たちを楽しませてくれることをおおいに期待している。
(だがそれと同時に、創造意志のこもった作品とはほど遠い、
垂れ流し的なコンテンツがネット上に溢れだすことも受容しなければならない)
技術の発展は、
すべての人間に表現の手段や表現の発表機会、
表現を売ること、表現を批評し分かち合うことを解放するが、
そこから「おおきな作品」が生まれ出るかどうかはわからない。
「おおきな作品」とは、とどのつまり、
「おおきな創造者・おおきな人間」が生み出すものである。
この世の中が「おおきな創造者・おおきな人間」をつくる土壌でないかぎり、
「おおきな作品」は生み出されない。
私たちは多くのモノ、多くの手段、多くの知識、多くの寿命を手にできる世の中を
つくってきたが、その代償として、
おおきな創造者、おおきな人間、おおきな作品から遠ざかる結果を招いている。
それはたぶん、科学知識の獲得や人間をラクにさせる技術が
人間から霊感やら宗教心、哲学心を奪うからだろう。
もちろん、ここで言う霊感、宗教心、哲学心というのは、
オカルト的な感応や特定の宗派のドグマに支配される心を指していない。
また難解な哲学書とにらめっこすることでもない。
自然の摂理とつながりを感じようとする、
生きることの根源を探ろうとする、
そういう「おおいなる希求心」「おおいなるセンス・オブ・ワンダー」のことだ。
再び、ゲーテの言葉―――
「人間は、宗教的である間だけ、文学と芸術において生産的である」。
彫刻家ロダンの言葉―――
「若し宗教が存在していなかったら、私は其を作り出す必要があったでしょう。
真の藝術家は、要するに、人間の中の一番宗教的な人間です」。
(高村光太郎著『ロダンの言葉』より)
もうひとつ、柳宗悦の言葉―――
「実用的な品物に美しさが見られるのは、
背後にかかる法則が働いているためであります。
これを他力の美しさと呼んでもよいでありましょう。
他力というのは人間を超えた力を指すのであります。
自然だとか伝統だとか理法だとか呼ぶものは、
凡(すべ)てかかる大きな他力であります。
かかることへの従順さこそは、かえって美を生む大きな原因となるのであります。
なぜなら他力に任せきる時、新たな自由の中に入るからであります。
これに反し人間の自由を言い張る時、
多くの場合新たな不自由を嘗(な)めるでありましょう。
自力に立つ美術品で本当によい作品が少ないのはこの理由によるためであります」。
(『手仕事の日本』より)
* * *
技術文明を享受しながら、なおかつ、宗教的な心・哲学の心を失わず
おおきな作品を生み出す豊穣な社会を築くことができるのか―――
これは21世紀の私たちに課されたそれこそ「おおきなチャレンジ」だ。
最近、「世界文学全集」を編集した作家の池澤夏樹さんは、
いま書かれている小説の中で、将来古典的な名作になるだろうものがあるとすれば、
ポストコロニアリズム(例えばアフリカや中南米の国々に起こる植民地支配以降の主義)か、
フェミニズムから生まれるのではないかという指摘をされていた。
面白い指摘だと思う。確かにこの2つを考えたとき、
その内から噴き出す無垢なマグマと、技術の恩恵とが掛け合わされば、
「おおきな何か」が誰かの手によって表現される可能性はじゅうぶんにある。
ともかくも電子書籍は元年を迎えた。
間もなくアップル社は日本での『iPad』発売を開始するし、
アマゾン社も『Kindle』の日本語版セルフパブリッシングツールを早晩準備するにちがいない。
私たちは情報量が爆発するなかで、いまや
ほぼ無尽蔵に情報・表現を摂取でき、
ほぼ無尽蔵に情報・表現を放つ(垂れ流す)ことができる。
技術革新は人間にいろいろなものを解放してくれるが、
それによって、逆説的に、人間は創造性を去勢されることも起こりうる。
技術が「おおきな作品」を生む真に有益な手段となるためには、
結局のところ、私たち1人1人が、
いかに宗教的な心・哲学の心を呼び覚ますか―――にかかっている。
確かにそこで論議されるデバイス(端末機器)がどうこう、
ビジネスモデルの構築と市場の覇権争いがどうこう、という問題は興味深い。
私もMBAの学生時代であれば、
この手の話にどっぷり浸かって、おおいに論議したことだろう。
しかし今の私は、出版文化がどうなっていくのか(どうしていくのか)、
人びとのライフスタイルや思考方法がどう変わっていくのか、
どんな作品表現が生まれてくるのか(生み出せるのか)、により興味がある。
佐々木さんはこの本で、
文化論の観点からも(音楽の電子配信サービスと比較して)多くを述べている。
特に、電子書籍は「アンビエント化」する、
電子書籍は「多対多」のマッチングになる、
電子書籍はコンテンツではなくコンテキストとして買われる、
など、こうした点をうまい材料を盛り込みながら展開していた。
本書の詳しいレビューは
各所のウェブサイトにアップされている他の方々のものに任せるとして、
以降は私が包括的に思ったことを簡単に書きたい。
* * *
18世紀の産業革命以降、技術は幾何級数的に発展を続けている。
それに合わせメディアの進化、人間の表現方法の進化もすさまじい。
しかし、技術の発展は
果たして「おおきな作品」を生み出すことに役立っているのか?―――
(この「おおきな作品」とは、表現の深み・高みが並みはずれていて、
後の世まで受け継がれる不朽のものを言う)
つまり、21世紀の私たちは、レオナルド・ダ・ビンチよりも
はるかに質のよい画材を、はるかに多く手にでき、
はるかに簡単に他の作品を画集やらウェブやらでみることができ、
はるかに快適な(空調のきいた)作業空間で絵を描くことができる。
しかし、だからといって、ダ・ビンチ以上の絵を描けるのだろうか。
これは音楽とて同じことだ。
今日の私たちは、
モーツァルトやベートーベン以上の音楽をつくりだすことができるのだろうか。
アートにしても、音楽にしても、
映画にしても、小説にしても、
超大作級のものがなかなか出なくなったと言われる。
「作品が小粒化している」というのはよく聞かれるフレーズだ。
私たちは技術の発展とは逆に、
「おおきな作品」からどんどん遠ざかっているように思える。
―――それはなぜだろう?
* * *
私が音楽を聴くことに一番夢中になったのは中学・高校のころだ。
我が故郷(三重県)の田舎の高校でもビートルズは人気だった。
1970年代半ば、音楽レコード(LP盤)は高価だった。
しかも消耗品であるレコード針はもっと単価がかさんだ。
貧乏な我が家では、LP盤を何か1枚買ってほしいと親に言い出しづらかった。
すでに解散していたビートルズは20数枚アルバムを出していたが、
私が買ってもらえるのはようやく1枚だけだった。
子供心に本当に悩んだ―――「どれを手にすべきか」。
いまのように自由に視聴ができるわけでなし、
もちろんレンタルサービスがあるわけでもなく、
LPアルバムを買うということは当時リスクのある買い物だった。
(シングル曲だけがよくて、アルバムとしては凡作なものがいつの時代にもたくさんある)
当時、深夜のラジオ番組で毎週土曜の午前1時にビートルズの曲を5曲ずつ、
タイトルのABC順にかけていく番組があった。
(ビートルズの公式録音曲は全部で280曲ほどあると言われている)
私はこの番組をカセットテープに録音して、1曲1曲リスト化していった。
(寝過して録音できなかった週などは落ち込んだものだ)
なにせ、いまのようにウェブで検索をかければ
ビートルズの全曲のリストがコピー&ペーストで手に入る時代ではないのだ。
そうやってビートルズの曲をいろいろと聴き、手と耳で憶えていった。
おかげで英語は一番好きな科目になった。
また、友達同士でレコードの貸し借りもやった。
A君は「THE BEATLES 1962-1966(通称「レッド・アルバム」)」を持っとるんやて、
B君は「WITH THE BEATLES」を買うたらしいで、
C君は「SGT. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND」聴かせたる言うとった……
友達から借りられるものはそれで聴けばいい、
そして半年をかけて熟考して買ってもらった1枚が―――「ABBEY ROAD」。
「レコードが擦り減るまで聴く」という表現があるが、
本当に「ABBEY ROAD」は、レコード溝がダメになるまで聴いた1枚だ。
多感なころだったから1曲1曲を繰り返し聴くたびに
いろいろな発見や感動がいくらでも湧いてきた。
ジャケットの写真を眺めるたびにどんな想像もできた。
いまから思えばちゃちなレコードプレーヤーだったが、
(一応、2つのスピーカーが付いてステレオだった)
そこから響き出す音楽は、姉と一緒の四畳半の勉強部屋を満たし、
私の表皮の細胞を一つももれなくぴーんとそばだたせた。
(たぶん、あれを詩心というのだろう)
モノがない、情報がない―――だからといって、
人間の想像性/創造性は妨げられない。
むしろモノが少ないほど、情報が少ないほど、
想像性/創造性が増し、深まることはじゅうぶんに起こりうる。
今日、私たちはデジタルデータのダウンロードで、いとも簡単に多種多様な音楽を聴ける。
しかも高音質の音で、ポケットに持ち歩ける時代だ。
また、1曲ごとの購入ではなく、定額を払えば、
何でも聴きたい放題になるというサービス形態も検討中であると聞いた。
もはや、音楽は聴き尽くせないほど手の中に溢れている。
そして、間近に、書籍もそうなる。
しかし、そうなったときに、
私のあの「ABBEY ROAD」を手にしたときの喜びを再び得ることができるだろうか?
「ABBEY ROAD」を毎夜繰り返し聴いたときの
果てしない空想の旅を続けることができるだろうか?
「豊かさは節度の中にだけある」 ―――とは、ゲーテの言葉である。
また、小林秀雄はこう言っている―――
「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、
無常という事がわかっていない。
常なるものを見失ったからである」。
(『無常という事』より)
* * *
私はビンボーな社会がいいというつもりはない。
生涯のうちにもっと音楽や芸術に接したいし、もっと本を読みたい。
そして、直接自分で世界に「セルフ・パブリッシング」したいとも思う。
(電子書籍の時代には、すべての個人が出版社や取次・書店などの力を借りずに出版でき、
全世界に著作を売り出せる。これがセルフ・パブリッシング)
また、これまで出版社に発掘されなかった才能が芽を吹いて
新しい書き手が新しい表現で私たちを楽しませてくれることをおおいに期待している。
(だがそれと同時に、創造意志のこもった作品とはほど遠い、
垂れ流し的なコンテンツがネット上に溢れだすことも受容しなければならない)
技術の発展は、
すべての人間に表現の手段や表現の発表機会、
表現を売ること、表現を批評し分かち合うことを解放するが、
そこから「おおきな作品」が生まれ出るかどうかはわからない。
「おおきな作品」とは、とどのつまり、
「おおきな創造者・おおきな人間」が生み出すものである。
この世の中が「おおきな創造者・おおきな人間」をつくる土壌でないかぎり、
「おおきな作品」は生み出されない。
私たちは多くのモノ、多くの手段、多くの知識、多くの寿命を手にできる世の中を
つくってきたが、その代償として、
おおきな創造者、おおきな人間、おおきな作品から遠ざかる結果を招いている。
それはたぶん、科学知識の獲得や人間をラクにさせる技術が
人間から霊感やら宗教心、哲学心を奪うからだろう。
もちろん、ここで言う霊感、宗教心、哲学心というのは、
オカルト的な感応や特定の宗派のドグマに支配される心を指していない。
また難解な哲学書とにらめっこすることでもない。
自然の摂理とつながりを感じようとする、
生きることの根源を探ろうとする、
そういう「おおいなる希求心」「おおいなるセンス・オブ・ワンダー」のことだ。
再び、ゲーテの言葉―――
「人間は、宗教的である間だけ、文学と芸術において生産的である」。
彫刻家ロダンの言葉―――
「若し宗教が存在していなかったら、私は其を作り出す必要があったでしょう。
真の藝術家は、要するに、人間の中の一番宗教的な人間です」。
(高村光太郎著『ロダンの言葉』より)
もうひとつ、柳宗悦の言葉―――
「実用的な品物に美しさが見られるのは、
背後にかかる法則が働いているためであります。
これを他力の美しさと呼んでもよいでありましょう。
他力というのは人間を超えた力を指すのであります。
自然だとか伝統だとか理法だとか呼ぶものは、
凡(すべ)てかかる大きな他力であります。
かかることへの従順さこそは、かえって美を生む大きな原因となるのであります。
なぜなら他力に任せきる時、新たな自由の中に入るからであります。
これに反し人間の自由を言い張る時、
多くの場合新たな不自由を嘗(な)めるでありましょう。
自力に立つ美術品で本当によい作品が少ないのはこの理由によるためであります」。
(『手仕事の日本』より)
* * *
技術文明を享受しながら、なおかつ、宗教的な心・哲学の心を失わず
おおきな作品を生み出す豊穣な社会を築くことができるのか―――
これは21世紀の私たちに課されたそれこそ「おおきなチャレンジ」だ。
最近、「世界文学全集」を編集した作家の池澤夏樹さんは、
いま書かれている小説の中で、将来古典的な名作になるだろうものがあるとすれば、
ポストコロニアリズム(例えばアフリカや中南米の国々に起こる植民地支配以降の主義)か、
フェミニズムから生まれるのではないかという指摘をされていた。
面白い指摘だと思う。確かにこの2つを考えたとき、
その内から噴き出す無垢なマグマと、技術の恩恵とが掛け合わされば、
「おおきな何か」が誰かの手によって表現される可能性はじゅうぶんにある。
ともかくも電子書籍は元年を迎えた。
間もなくアップル社は日本での『iPad』発売を開始するし、
アマゾン社も『Kindle』の日本語版セルフパブリッシングツールを早晩準備するにちがいない。
私たちは情報量が爆発するなかで、いまや
ほぼ無尽蔵に情報・表現を摂取でき、
ほぼ無尽蔵に情報・表現を放つ(垂れ流す)ことができる。
技術革新は人間にいろいろなものを解放してくれるが、
それによって、逆説的に、人間は創造性を去勢されることも起こりうる。
技術が「おおきな作品」を生む真に有益な手段となるためには、
結局のところ、私たち1人1人が、
いかに宗教的な心・哲学の心を呼び覚ますか―――にかかっている。