「ものをつくる/選ぶ」はその人自身の表れである
長野県・松本市中町にて(1)
作り手は「売れ線に置きにいく」ものづくり。
買い手は「売れてるみたいだから」のもの選び。
この2つの車輪を付けた荷車は
商品を山積みにして陳腐という坂を下っていく。
少し前、自宅オフィスの電話機を買い換えようと家電店に行ったのだが、
どうもピンとくるものがなくて選べない。
どのメーカーも主張のないデザインで似たり寄ったり。
機能はテンコ盛りだが、商品全体として、何か作り手の志が伝わってこないのだ。
厳しい見方をすれば、
組織の中で働くサラリーマン技術者、マーケター、デザイナーたちが、
無難に売るため、上に通すための社内の合意形成をしているうちに
角が取れ、骨は抜け、平均値の姿になってしまったというか。
(私もかつてメーカーで商品開発をやっていたのでそれがよく推察できる)
結局、購買意欲がげんなりとしぼんでしまい、買い換えをやめた。
同じ日、目覚まし時計も買い換えをしたかったので、
次に時計売り場に行ったが、案の定、
店頭には溢れんばかりの品数が展示してあるものの、状況は電話機よりひどかった。
いったいぜんたい、作り手や売り手は
この程度の完成度をよしとして売っているのだろうか?
プロとしての心意気や気概をそこに込めようとしているのだろうか?
逆に見えてくるのは「こんな程度でいいだろう」という緩慢で粗雑な姿勢だ。
(私はそうした製品をあまり家に持ち込まない。その精神が伝染しそうだから)
「しょせん低単価の海外生産品なんだからそんなもの」と
それらを無視することもできるのだが、じゃあ、少し単価が上の日本製品はというと、
五十歩百歩の違いしかないので困ったものだ。
それでも、こういったレベルでそこそこ売れているようだから、
実際のところは、消費者のセンスが実に甘く見られているということだろう。
長野県・松本市中町にて(2)
書店に行くと、人気の書き手が書いた本が何種類も平積みになっている。
(私も本を書くのでやっかみで言っているのではないけれど)
いったんヒットを出した書き手には、
その後、出版社が一気に押し寄せにわかに同じような内容でいろいろと書かせる。
出版社の目利き機能、新しいタレント発掘機能はどこへいったのだろう?
こんな書き手選びで編集者ができるなら、誰でもできる。
で、本を買う側も「売れてるみたいだからいい本なんだろう」ということで、買う。
すると、「売れるから売れる」というベストセラーサイクルができあがる。
地方出張に出かけたり、地方をドライブ旅行すると、
どこもかしこも同じナショナルチェーン店が並んでいることに気づく。
衣料品店も、雑貨店も、外食店も、百貨店の地下の惣菜・菓子売り場も、
東京で見るロゴの看板ばかりが目につき、街の風景はさながらリトル・トウキョーだ。
日本の地方都市には、もはや個性がなくなっている。
(大阪や名古屋ですらも)
……日本のものづくり力(ここでは、モノ・サービス・情報コンテンツなど
すべての商財づくりを含んでいる)が弱まっていると言われて久しいが、
それは、海外へ生産拠点が移っているからとか、モノ余りになっているからとか、
そういう現象面ばかりの理由で片付けていては、
日本のものづくり力の本当の回復はない。
長野県・松本市中町にて(3)
「珈琲まるも」の店内は民藝の家具でしつらえられています。訪れる価値アリです。
フランスのリオンはなぜ「食の都」と言われるのか?
―――それは味にうるさい客がたくさんいるからだ。
1人1人の大人の舌を持った顧客が、料理人を育て、店を育てる。
そして1人1人の職人も顧客と戦うように、自分の信ずる味をぶつけてくる。
リオンに限らずフランスの各地を旅行して回ると分かることは、
個店が独自で強いことだ(イタリアも同様)。だから地方の店、町は面白い。
安さと引き換えに合理化と平準化を押し付けてくるナショナルチェーンに
抗(あらが)うたくましき作り手と買い手がいまだ健在なのだ。
米国がなぜ「グーグル」や「i-phone」などオリジナリティーの強いものが創造でき、
またノーベル賞受賞者を数多く輩出できるのか? それは、
「何か面白いことをやっているやつ」をちゃんと評価する文化があるからだ。
米国人は、独自の面白いアイデアを出した者を、それが年下であろうが、
何の職業をやっていようが、どこの国籍だろうが、「面白そうじゃないか」と言って、
ピックアップする。そうして価値あるものになりそうならどんどん支援する。
米国の個人主義は“利己的に閉じている”という誤解があるが、
実際は“利己的に開いている”個人主義だ。
アイデアやスピリットを持って努力している個人を、他の個人は放っておかない。
だから個人レベルであちこちからとんでもない発想が起こり、形になる。
そして「俺たちが欲しかったものはこれだ! どうだい、君たちも欲しいだろ?」
というような力強い商品が世の中にどんどん出てくる。
もちろん大衆レベルでみれば、フランスにもアメリカにも、
ものづくりやもの選びに主張のない人たちもたくさんいる。
しかし、個人が抜きん出たり、はみ出したりすることを阻む圧力はないし、
むしろそれを評価し、押し上げてやろうとする精神の習慣がある。
日本はその逆で、個人が枠から出ることを押さえ込むし、
枠の中に収まっていることで安穏とするという精神の習慣がある。
日本がものづくり力を回復させていくためには、つまるところ、
この精神の習慣を新しく強いものに変えていくことが必要だ。
(民族性や文化といったものは、精神の習慣を源とする)
長野県・松本市中町にて(4) 中町通りにあるカレー店「デリー」
創造を喜ぶこと、創造を面白がること。
人と違っていることが、個性であり、その人の持つ貴い価値であること。
周りの考えをつねに気にしてキョロキョロするのはカッコ悪いこと。
自分自身の基準で「私はこれがいい!」と言えること。
安住ゾーンから一歩外へ出る勇気を持つこと。
「誰が言ったか」ではなく、「何が語られたか」に注視できること。
そしてそれが価値あるものであれば、誰が言ったかに関係なく敬意を払えること。
長いものに巻かれない個人の独歩精神。
志のない粗雑な仕事を毛嫌いすること。
安いだけの粗雑なものに囲まれると自分が粗雑になることを恐れること。
……そうした精神の習慣をつくりなおしていく(もちろんよい習慣は受け継いでいく)
ところから、ものの作り手として1人1人の仕事が変わり、
ものの選び手として1人1人の購買が変わり、
日本のモノやサービス、情報コンテンツ、そして街の風景が変わっていく。
長野県・松本市中町にて(5)
◇ ◇ ◇ ◇
〈信州の松本・小布施を訪ねて〉
松本市の中町通りそして小布施町には、
町として「自分たちはこれでいくんだ」という健気な意志が感じられます。
中町通りは、単に土蔵造りの歴史的町並みであるというだけではなく、
そこに「民藝」の軸を通しています。
小布施は、高井鴻山や葛飾北斎を歴史文化的な観光資源として最大限活かしながら、
同時に栗菓子で知名度を全国に知らしめています。
(栗菓子は岐阜県の中津川がもっとも有名ですが)
特に小布施は、地元企業「小布施堂・桝一市村酒造場」の頑張りが大きい。
この企業については面白い情報がたくさんありますので、ウェブサイトをのぞいてみてください。
小布施にて(1) 栗菓子の「小布施堂」
同社が20年前から提唱しているのが「産地から王国へ」という運動だそうです。
「一次産品の生産者はその量を目指すのではなく、地元の消費者と手を携えて多様性を追求し、
加工品の質にもこだわり、最終的にはその産物により豊かな生活文化を築いてゆこうというものです」
(同社ウェブサイトより)
小布施にて(2) 「桝一市村酒造場」
小布施にて(3) 栗の小径