風を待つのではなく、木を植えよう
「希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。
それは地上の道のようなものでもある。
もともと地上には道はない。
歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」。
―――魯迅 『阿Q正伝』
この言葉は、魯迅が生きた近代中国の状況を下地にすると、しんしんと響いてくる。
20世紀初頭の中国といえば、
国は体を成さないほど混乱し漂流し、容易に列強の支配を許す。
人民の多くは粗野で教育がなされておらず、生きながらえるだけの日々を過ごす。
そんな中で、魯迅は「希望」を立てようとしたのだ。
(こうした希望は、ガンジー、キング、マンデラに通じる)
いまの平成ニッポンは確かに物質的には恵まれているものの、
漂流感がある、希望から遠いといった意味では、決してよい状態にあるとはいえない。
社会全体に広がりをみせる功利主義や拝金主義、冷笑主義に三無主義、
さらには、うつ病や自殺の増加、格差の拡大、生きる力の脆弱化……
私たちはいま、特段希望を持たずとも、ギスギス、ギリギリとなら生きていける
不思議な時代に生きている。
しかし、私はやはり希望を持ちたい。希望を持って健やかに生きたい。
そして希望をつくりだす仕事がやれれば本望だとも思う。
さて、希望という名の道をつくるために、私は2つの方法を思い浮かべる。
ひとつは、
「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」。
―――高村光太郎 『道程』
のとおり、勇者が一人先頭を切って道を切り拓いていくこと。
人びとは安心してその後を歩いていけるだろう。
そして希望の道はつくられる。
もうひとつは、
『桃李言わざれども下自ずから蹊を成す』
(とうり いわざれども した おのずから けいをなす)
―――中国の諺
のとおり、芳(かぐわ)しい桃や李の木を植えること。
そうすれば人びとはその木の下に自然と寄っていくだろう。
そしてそこに道ができあがる。
私は個人で独立して8年めを迎える。
最初3、4年のころまでは、 “風を待っていた”。
「自分に風が吹け、風が吹け。そして自分を舞い上げてくれ」―――
とそんな姿勢だったように思う。
……しかし、
商売の年を重ね、人間としての歳を重ねるうちに、きちんと大人になったようで、
いまでは、 “木を植えよう” という心持ちになった。
いつしか風が気にならなくなった。
木とは、もちろん、「働くとは何か?」という大きな問いに光と力を与える
ほんとうによい教育プログラムのこと。
そして自分が死んでも生き続けるようなプログラム。
そのプログラムが桃李のごとく人を寄せて、その下に筋のようなものが見えはじめる
―――そんな景色を天国から眺めるのは、さぞ気持ちのいいことだろう。