« 2010年11月 | メイン | 2011年1月 »

2010年12月

2010年12月 3日 (金)

闇を知った者は光に祈りを捧げる


Kblumi02 

12月2日、『神戸ルミナリエ』が今年も始まった。
折しも私は兵庫県に出張中で、その初日の点灯に出くわすことになった。

神戸ルミナリエは、
1995年、阪神・淡路大震災犠牲者の鎮魂の意を込めるとともに、
都市の復興・再生への夢と希望を託す祭典として始まった。
その後、市民からの寄付金によって継続開催されているという。
神戸ルミナリエは、商業イベントというより、祈りのイベントなのだ。

その晩、テレビのニュースでは、来場したご婦人が
「あのとき神戸じゅうがまっくらになったでしょ、
このような明かりを見るとすばらしいと思いますね」と、
そんなようなことを言われていた。

このご婦人と私は、この晩、同じイルミネーションを見たわけだが、
両者の見たものはまったく違ったものだったろう。
私はたまたま観光気分で見ただけだが、ご婦人は祈りのなかで見たのだ。

Kblumi01 

* * * * *

ちなみに、こうしたとき、私はいつも思う―――
私のように「わぁ~、きれい」と能天気に見て無垢に喜ぶのと、
ご婦人のように、苦しい体験があるがゆえに、より多くより深くが見えてしまうのと、
果たしてどちらが幸福なのか? ―――ということを。

「そりゃ、多くを経験して多くを感じ取れるほうが幸せに決まってる」

―――たいていの人はそう答えるだろう。そう考えることは簡単だ。

しかし、実際は、人は苦労を避けたいものだし、
自分が苦境に陥っていれば、
苦労なしの人間が能天気に屈託なく笑っているのをうらやましがったりもする。
しなくていい苦労であればそれなしに素直に幸福になりたい、
他人に薄っぺらと言われてもいいから自分なりの幸福感に浸かっていたい、
それが人間の本音ではないか。
それにこの世のすべての不幸を経験してからでないと
真の幸福は味わえないのであれば、
いったいぜんたい、どこまでの苦労を背負えばいいというのか……。
また、あまりに重い苦しみを経験してしまうと、
今度は幸福を感受する能力が失われてしまうという危険性も出てくる。


……いずれにせよ、幸福は、歓喜の上積みによっても得られるし、

自身のもぐり込み(=苦労を経験すること)によっても得られる、
と、まぁ、そんないろいろなことを再度考えさせられた神戸の一夜だった。


*関連記事:
小哲夜話~“low aimer”の満足か“high aimer”の不満足か


 

 

過去の記事を一覧する

Related Site

Link