なめてかかって真剣にやる 〈補足〉
「跳ぶことはリスクである。跳ばないことはもっとリスクである」。
さて、あなたはどちらのリスクを選びますか?
―――と前記事でかっこよく書いて終えた。
しかし、こういうことは文字づらでは理解できても、なかなか実践ができない。
やはり(私も含め)、人は人生の多くの局面で跳ぶことを避けたがる……なぜだろう。
それはこういうことがあるからではないか、ということで内容を補足したのが下図である。
私たちは、
危険を顧みず、勇敢に壁を越えていった人びとが、
結局、坂の途中で力尽き、想いを果たせなかった姿をよく目にする。
崖の底にあるのは、そんな「勇者たちの墓場」だ。
その一方、私たちは次のこともよく目にする。つまり、
現状に満足し、未知に挑戦しない人たちが、生涯そこそこ幸せに暮らしてゆく姿だ。
壁越えを逃避する人たちが、
必ず皆、ゆでガエルの沼で後悔の人生を送るかといえば、そうでもなさそうである。
「安逸の坂」の途中には「ラッキー洞窟」があって、そこで暮らせることも現実にはある。
例えば、会社組織の中でもそうだろう。
正義感や使命感が強くて組織の変革に動く人が、
結局、失敗し責任を取らされ、組織を去るケースはどこにでも転がっている。
逆に、保身に走り利己的に動く社員や役員が、
結局、好都合な居場所を確保してしまい、長く残り続ける……。
怠け者・臆病者が得をすることもあるし、
努め者・勇敢者が必ずしも得をせず、損をすることが起こりえる―――
人間社会や人生はそういう理不尽さを孕むところが奥深い点でもあるのだが、
問題は、結局、私たち一人一人が、みずからの行動の決断基準をどこに置くかだ。
「損か/得か」に置くのか、
「美しいか/美しくないか」に置くのか。
私はもちろん、壁を越えていく生き方が「美しい」と思うので、
常にそうしていこうと思っている。
「美しいか/美しくないか」―――それが決断の最上位にあるものだ。
その上で、最終的に、その方向が「得だったね」と思えるようにもがくだけである。
最初に「損か/得か」の判断があったなら、
いまも居心地のよかった大企業サラリーマン生活を続けていたはずである。
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