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2011年2月

2011年2月25日 (金)

なめてかかって真剣にやる 〈補足〉



「跳ぶことはリスクである。跳ばないことはもっとリスクである」。

さて、あなたはどちらのリスクを選びますか?
―――と前記事でかっこよく書いて終えた。

しかし、こういうことは文字づらでは理解できても、なかなか実践ができない。
やはり(私も含め)、人は人生の多くの局面で跳ぶことを避けたがる……なぜだろう。
それはこういうことがあるからではないか、ということで内容を補足したのが下図である。



Jump it 05 


私たちは、
危険を顧みず、勇敢に壁を越えていった人びとが、
結局、坂の途中で力尽き、想いを果たせなかった姿をよく目にする。
崖の底にあるのは、そんな「勇者たちの墓場」だ。

その一方、私たちは次のこともよく目にする。つまり、
現状に満足し、未知に挑戦しない人たちが、生涯そこそこ幸せに暮らしてゆく姿だ。
壁越えを逃避する人たちが、
必ず皆、ゆでガエルの沼で後悔の人生を送るかといえば、そうでもなさそうである。
「安逸の坂」の途中には「ラッキー洞窟」があって、そこで暮らせることも現実にはある。

例えば、会社組織の中でもそうだろう。
正義感や使命感が強くて組織の変革に動く人が、
結局、失敗し責任を取らされ、組織を去るケースはどこにでも転がっている。
逆に、保身に走り利己的に動く社員や役員が、
結局、好都合な居場所を確保してしまい、長く残り続ける……。

怠け者・臆病者が得をすることもあるし、
努め者・勇敢者が必ずしも得をせず、損をすることが起こりえる―――
人間社会や人生はそういう理不尽さを孕むところが奥深い点でもあるのだが、
問題は、結局、私たち一人一人が、みずからの行動の決断基準をどこに置くかだ。
「損か/得か」に置くのか、
「美しいか/美しくないか」に置くのか。

私はもちろん、壁を越えていく生き方が「美しい」と思うので、
常にそうしていこうと思っている。
「美しいか/美しくないか」―――それが決断の最上位にあるものだ。
その上で、最終的に、その方向が「得だったね」と思えるようにもがくだけである。
最初に「損か/得か」の判断があったなら、
いまも居心地のよかった大企業サラリーマン生活を続けていたはずである。



* 「なめてかかって真剣にやる」(本編)に戻る →



 

 

2011年2月23日 (水)

なめてかかって真剣にやる


ずいぶん前のことになるが、米メジャーリーグ野球の松坂大輔選手が

「なめてかかって真剣にやる」といった内容のことをコメントしていたと記憶する。
「なめてかかる」とだけ言ってしまうと、何を高慢な、となってしまいそうだが、
その後の「真剣にやる」というところが松坂選手らしくて利いている。

「なめてかかる」というのは決して悪くない。
いやむしろ、それくらいのメンタリティーがなければ大きなことには挑戦できない。
きょうはそんな壁を飛び越えよという話である。

* * * * *

私たちの眼前には、つねに無限大の可能性の世界が広がっている。
しかし、その世界は壁に覆われていて、どれくらい広いのかよく見えない。
壁の向こうは未知であり、そこを越えて行くには勇気が要り、危険が伴う。
一方、壁のこちら側は、自分が住んでいる世界で、
勝手がじゅうぶんに分かっており、平穏である。
無茶をしなければ、安心感をもって暮らし続けられるだろうと思える。
そんなことを表したのが図1である。

Jump it 01 


「既知の平穏世界」と「未知の挑戦世界」の間には壁がある。

これは挑戦を阻む壁である。分かりやすく言えば、
「~だからできない」「~のために難しい」「~なのでやめておこう」といった壁だ。
壁は2つの構造になっていて、目に見える壁と目に見えない壁とに分けられる。

目に見える壁は、能力の壁、財力の壁、環境の壁などである。
目に見えない壁は、不安の壁、臆病の壁、怠惰の壁などをいう。
前者は物理的な壁、後者は精神的な壁と考えていいだろう。

何かに挑戦しようとしたとき、
能力のレベルが足りていない、資金がない、地方に住んでいる、などといった
物理的な理由でできない状況はしばしば起こる。
しかし、歴史上の偉人をはじめ、身の回りの大成した人の生き方を見ればわかるとおり、
彼らのほとんどはそうした物理的困難が最終的な障害物にはなっていない。
事を成すにあたって、越えるべきもっとも高い壁は、
実はみずからが自分の内につくってしまう精神的な壁なのだ。

私たちは誰しも、もっと何か可能性を開きたい、開かねばとは常々思っている。
しかし、壁の前に来て、壁を見上げ、躊躇し、“壁前逃亡”してしまうことが多い。
そんなとき、有効な手立てのひとつは、
「こんなことたいしたことないさ」と自己暗示にかけることだ。
やろうとする挑戦に対し、「なめてかかる」ことで精神的な壁はぐんと下がる。

どんな挑戦も、最初、ゼロをイチにするところの勇気と行動が必要である。
そのイチにする壁越えのひと跳びが、「なめてかかる」心持ちで実現するのなら、
その「なめかかり」は、実は歓迎すべき高慢さなのだ。


で、本当の勝負はそこから始まる。
図2に示したとおり、飛び越えた壁の後ろは上り坂になっている(たぶん悪路、道なき道)。

Jump it 02 


この坂で、「なめてかかった」天狗鼻はへし折られる。
たぶん松坂選手も、自分の小生意気だった考え方を改めているに違いない。
怪我やスランプを経験して、相当に試されているはずだ。
だがその分、彼は真剣さに磨かれたいい顔つきになった。
その坂では、いろいろと真剣にもがかねば転げ落ちてしまう。
その坂はリスク(危険)に満ちているが、それは負うに値するリスクだ。

挑戦の坂を見事上りきると、「成長」という名の見晴らしのいい高台に出る。
高台からは、最初に見た壁が、今となっては小さく見降ろすことができるだろう。
このように壁の向こうの未知の世界は、危険も伴うが、それ以上にチャンスがある。


では、次に、壁のこちら側も詳しくみてみよう(図3)。
ここは既知の世界であり、確かに平穏や安心がある。

Jump it 03 


しかし、その環境に浸って、変化を避け、挑戦を怠けているとどうなるか……。
壁のこちら側の世界は実はゆるい下り坂になっていて、
本人はあまり気づかないだろうが、ずるずると下に落ちていく。
そしてその落ちていく先には「保身の沼」、別名「ゆでガエルの沼」がある。

ゆでガエルの教訓とは次のようなものだ―――
生きたカエルを熱湯の入った器に入れると、
当然、カエルはびっくりして器から飛び出てくる。
ところが今度は、最初から器に水とカエルを一緒に入れておき、
その器をゆっくりゆっくり底から熱していく。
……すると不思議なことに、カエルは器から出ることなく、
やがてお湯と一緒にゆだって死んでしまう。
この話は、人は急激な変化に対しては、びっくりして何か反応しようとするが、
長い時間をかけてゆっくりやってくる変化に対しては鈍感になり、
やがてその変化の中で押し流され、埋没していくという教訓である。

壁を越えずにこちら側に安穏と住み続けることにもリスクがある。
このリスクは、壁の向こう側のリスクとはまったく異なるものである。
いつの間にか忍び寄ってくるリスクであり、
気がつくと(たいてい30代後半から40代)、ゆでガエルの沼にとっぷり浸かっている。
そこから抜け出ようと手足をもがいても、思うように力が入らず、気力が上がらず、
結局、沼地でだましだまし人生を送ることになる。
安逸に流れる“精神の習慣”は、中高年になってくると、
もはや治し難い性分になってしまうことを肝に銘じなくてはならない。

さて、私たちはもちろんそうした沼で大切なキャリア・人生を送りたくはない。
だからこそ、常に未知の挑戦世界へと目をやり、
大小の壁を越えていくことを習慣化する必要がある。
しかし誰しも、松坂選手のように「なめてかかれる」ほど自信や度胸があるわけではない。

───ではどうすればいいか。
その一番の答えは、坂の上に太陽を昇らせることだ。 「坂の上の太陽」とは、
大いなる目的、夢、志といった自分が献身できる“意味・大義”である。
この太陽の光が強ければ強いほど、高ければ高いほど、目の前に現れる壁は低く見える。
と同時に、太陽は未知の世界で遭遇する数々の難所も明るく照らしてくれるだろう。


Jump it 04 


最後に、フランスの哲学者アラン『幸福論』(白井健三郎訳、集英社文庫)から
いくつか言葉を拾ってみる―――

・「人間は、意欲し創造することによってのみ幸福である」。

・「予見できない新しい材料にもとづいて、すみやかに或る行動を描き、
そしてただちにそれを実行すること、それは人生を申し分なく満たすことである」。

・「ほんとうの計画は仕事の上にしか成長しない。
ミケランジェロは、すべての人物を頭のなかにいだいてから、描きはじめたのだなどと、
わたしは夢にも考えない。(中略)ただもっぱらかれは描きはじめたのだ。
すると、人物の姿が浮かんできたのである」。

・「はっきり目ざめた思考は、すでにそれ自体が心を落ち着かせるものである。
(中略)わたしたちはなにもしないでいると、たちまち、ひとりでに不幸をつくることになる」。

―――跳ぶことはリスクである。跳ばないことはもっとリスクである。
さて、あなたはどちらのリスクを選びますか?




* →「なめてかかって真剣にやる」〈補足編〉に続く

 

 

 

2011年2月16日 (水)

植物が経る「春化」というプロセス


Huyukodachi 


東京では毎冬1回はドカ雪が来るものだが、それが一昨日来た。

今年大雪に見舞われている北国のかたがたには申し訳なくも、
東京では景色が一変するので、特に子どもたちなどは喜ぶ。
昔はイヌも喜び回っていたけれど(歌にもそう唄われた)、
最近は部屋飼いが多くなったせいか、
寒がってテンションの上がらないイヌもいるらしい。

朝の散歩に出かけると、近くの雑木林は白化粧をしてひっそりとしている。
葉っぱをすべて落とした裸の木々は、凍える中でも凛と立っている。
やせていて寒さに弱く子どものころからよく風邪をひいた私は、
いつも冬の木立を見ると
「木は動くこともできず、服を着ることもできず、かわいそうになぁ」と思った。

しかし高校のとき、
百科事典か何かを見ていたら「春化」(しゅんか)という単語にでくわした。
春化とは、温帯に生息する植物の多くが、冬の一定期間、
低温にさらされることで花芽形成が誘導される、その過程を言うらしい。
桜もその春化が必要な樹木で、
冬のこの厳しい寒さを経ないことには、春にあの花を咲かせないのだ。

「寒さも桜には意味のある試練なのだなぁ」と
高校生ながらに人生訓じみたものを引き出した私は、
仲の良いクラスメイトたちにそのことを感動ぎみに話したのだが、
「話が固いよー」といって一笑されてしまったことを思い出す。
そのとき一笑した彼らも、もうベテランサラリーマンで、立派な父親たちになった。
彼らは、春化の話をいま聞くとどう感じるだろうか……。


……そういえば、
演歌の沁みてきさ加減も、どことなく春化の話と通底しているなと思いつつ。


 

2011年2月14日 (月)

類推できる人はよく学べる人

 
Tanigawass 


◆1冊の本の「再読・再々読」は栄養吸収がよい
2月はプロ野球の世界ではキャンプシーズン。
選手は身体をいろいろいじめて鍛えたり、基本の動作を改めて念入りに練習します。
私も毎年2月は春キャンプという位置づけで、仕事の基本である読書を集中的にやります。
ここでいう読書とは、情報収集のための“軽い”読書ではありません。
プロ野球選手が身体をいじめるのと同様、
私もアタマをいじめて鍛えるために、分野違いの、内容の詰まった本を読みます。
図書館に行って、哲学書や詩集、学術書、芸術書、歴史書、絵本などを借りてきます。
中には途中でやめてしまう本もありますが、
読んでいくうちに付箋のチェックが何十箇所にもなり、結局買ってしまう本も多く出ます。
(やはり自費購入して、がんがん線を引いた本のほうが身に入ります)

もちろん読書は、新しく開拓する読書ばかりではありません。
実際のところ、最も自分の身になるのは、再読、再々読する本です。

再び紙面を開く本は、
たいていの内容が頭に入っていますから、
先に何が書いてあるんだろうという“せかされ感”が起こらず、
ゆったりとした気持ちで文字を追えます。
以前読んだ時に引いたマーカーのところを中心に読んでいき、
「なぜこのとき自分はここをマークしたんだろう」といったようなことを思い返しながら
内容を反芻します。
その反芻で染みてくることこそが自分にとって大事な内容になります。

たいていの場合、以前読んだ時より、どの箇所も読みやすくなっています。
それはそれだけ自分が成長したということの証でもあります。
そして今度は、その読み返す箇所に新しい意味を付加する余裕も出てきます。

◆『谷川俊太郎 詩選集』を再読する
例えば、
私はきょう本棚から『谷川俊太郎 詩選集1~3』(集英社文庫:3巻)を取り出して、
2年ぶりに再読しました。
私はそこで再読する詩に新しい解釈を与えてみたり、
自分の仕事に引き当てて考えてみたりすることで、
いろいろな知恵やエネルギーを湧かせることができます。


  ◇いちばのうた (部分の抜粋)

  うるんならいちえんでもたかくうる
  かうんならいちえんでもやすくかう
  けちでずるくてぬけめがなくて
  じぶんでじぶんにあきれてる
  だけどじぶんがいちばんだいじ
  よくばりよくぼけがりがりもうじゃ
  たにんをふんづけつきとばし
  いちばはきょうもひとのうず

……谷川さんの目はたぶん市場の高いところにあって、
下々(しもじも)の人間の売り買いを神の目で眺めているような気がします。
ビジネス社会の現場にいると、
しゃかりきになって、ギスギス、キリキリと戦わねばならない。
しかし、そんなときにも、この詩のように、どこか高台に上がって
人間のやっていることは“可笑しい”ものだと達観できる心持ちになれればと思います。


  ◇大人の時間

  子供は一週間たてば
  一週間分利口になる
  子供は一週間のうちに
  新しいことばを五十おぼえる
  子供は一週間で
  自分を変えることができる
  大人は一週間たっても
  もとのまま
  大人は一週間のあいだ
  同じ週刊誌をひっくり返し
  大人は一週間かかって
  子供を叱ることができるだけ

……これも再読してどきっとしました。
相変わらず自分は1週間という時間単位をぞんざいに使っていないか、と。
1週間という時間単位はこわいものです。
私たちは1日1日を忙しく過ごしています。
ダイヤリーも時間刻みでスケジュールが埋まっています。
電車が5分遅れただけでもイライラします。
しかし、1週間という単位で、いったい自分は何が変わったのでしょう……?


  ◇六十二のソネット (41より部分を抜粋)

  陽は絶えず豪華に捨てている

  夜になっても私達は拾うのに忙しい
  人はすべていやしい生まれなので
  樹のように豊かに休むことがない

……「拾うだけに忙しい」人生は避けたいと思う。
「太陽のように豪華に捨てる」ことを仕事でしたいと思う。
豪華に捨てるとは、give & takeなどというケチくさいことではなくて、
give & give、give & forgotということでしょう。
大いに与えて、そして、悠然と休む。
それが苦もなくできる状態になったとき、自分は今よりずっと違った仕事景色を見ているでしょう。


  ◇夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった (7より部分を抜粋)

  真相はつまりその中間
  言いかえれば普通なんだがそれが曲者(くせもの)さ
  普通ってのは真綿みたいな絶望の大量と
  鉛みたいな希望の微量とが釣合ってる状態で

……「フツウに妥協したくない!」と見得を切って、
普通のサラリーマン生活から独立してはみたものの、
才覚は普通より多少上くらいに過ぎなかったことを悟り、稼業への苦労は絶えない。
しかし、鉛の希望が黄金の希望に変わったことは確かです。
(埋蔵場所がいまだはっきり探せていませんが)
「フツウの生活がよかった」と思い返るのは、現状に負けている証拠。
フツウに埋没しないために、もっともがこうと決意を新たに。


  ◇質問集続 (部分の抜粋)

  金管楽器群の和声に支えられた一本のフルートの旋律、その音はどこから来るのですか、笛の内部の空気から、奏者の肺と口腔から、すでに死んだ作曲者の魂から、それともそれらすべてを遠く距(へだた)ったどこかから?

……これはとても含意に富んだ詩です。
この詩にぴんと響いた人は、“大いなる何か”と感応して仕事をした経験のある人でしょう。
ほんとうに深い仕事をしたとき、
人はよく「何かが降りてきた」とか「何か大きな力に動かされた」と口にします。
物理的には、道具によって、自分の身体・技術によってそれがなされるわけですが、
ほんとうのところは“大いなる何か”と自分との協働なのです。
仕事をするうえで、道具は大事です、身体・技術も大事です。
しかしその次元から突き抜けて“大いなる何か”とつながれるかどうか、
ここは実に重大な一点です。


  ◇夢の中の設計図 (部分の抜粋)

  祈りもなく
  何を夢見ることができよう
  どんなに固い
  石の道も
  私たちの夢の迷路から
  生まれるのだ
  どんなに高い
  尖塔も
  私たちの夢の闇に
  試されるのだ

……私たちは、日常、ありとあらゆる工業製品や建造物に囲まれています。
例えば、コップや鉛筆、パソコン、自転車、家屋、ビル、道路、看板など。
これらはもれなく、誰かが製造の意図を持ち、誰かが形や寸法・デザインを起こし、
誰かがつくったものです。
そして、これらのものは明らかに出来不出来の差が生じます。
陳腐な椅子と、いつまでも使い続けたい椅子。
せわしなく変わってきた貧相な街並みと、
時の風雪にも耐えてきた味わい深い街並み。
この差はどこから生じるのでしょうか?
コストでしょうか、作り手の技術でしょうか。
―――私はそれこそが、祈りであり、夢であると思うのです。

世の中に次々と出回ってくるものの多くは、
あまりに機械的に、功利的に、短縮期間でつくられてくるために、
そして何よりカイシャインたちによる“流し仕事”の気持ちでつくられてくるために、
祈りをくぐらせていない製品、
夢の迷路のふるいにかかっていない事業、
夢の闇の試練を経ていない建造物ばかりになる。
だから、陳腐で貧相で、次々と消えてゆく。
サラリーマンであれ、私のような自営業であれ、
一人でも多くのものの作り手が、
せめて自分の仕事は、自分の祈りや夢の“ろ過”を経て、世に送り出してやる!
ということになれば、世の中のものはガラっと変わってくるに違いない。


  ◇メランコリーの川下り (部分を抜粋)

  子等(こら)の合唱の声は日なたの匂いがして
  あっという間に空気に溶けてしまう

  残っているのは旋律ではない

  ……なまあたたかい息だ
  おとなたちの目の前に浮かび上がる
  決して触れることの出来ない感情のホログラム……

……私が事業として売っているのは企業研修で、例えば、1日間研修を終えたときに、
受講者の前で締めの一礼をして、一応拍手をいただいて退場するわけですが、
そのときに、上のような「手に触れることのできないホログラム」的な何かを残すこと
ができているのだろうか―――この詩の一節を読んでふと考えました。

ビジネスパーソンへの研修プログラム(セミナーや講演含む)という商品は、もちろん
仕事に関する知識や技能、考え方、在り方を学習体験に変換して売っているわけですが、
終了直後の受講者に対し、それ以上の何かを差し上げられているのかが、
私にとって一番気になるところです。
私の研修サービスは、
キャリア教育やプロフェッショナルとしての基盤意識醸成に的を絞っていて、
かっこよく言えば「明日からの働くことに対し、“光と力”を与えたい」という想いで
プログラム開発をしています。
研修を終えておじぎをしたときに、
受講者一人一人の内側に光が見えてきたか、力が湧いてきたか、
もし、そうであるなら、それこそが教育者冥利に尽きる喜びです。

私たちはそれぞれに売っているものがあります。
トマトを売っている、カメラを売っている、クルマを売っている、
建物を売っている、生命保険を売っている、料理を売っている。
それら商品を通して売っているのは、必ずしも便益や機能だけではないはずです。
その商品・サービスを送り届けたときに、
「手に触れることのできないホログラム」的な何かがお客様の内に立ち上がること
―――それがひとつのプロフェッショナルの仕事だと思います。


* * * * *

◆学ぶ力のひとつは類推力
さて、このように1冊の本を再読すると、改めてさまざまな気づきが起こります。
再読は心に余裕があるので、こうした気づきが起こりやすいのです。
そして何より大事なことは、
分野違いの本でも、自分のいまの仕事に当てはめるとどうなるか、
いまの自分に状況に引き戻すとどうなるかという「類推」をすることです。
類推(アナロジー)とは、
「似たところをもととして他の事も同じだろうと考えること」(広辞苑)です。

この類推が豊かな人は、世の中のさまざまなことから多くを学び取ることができます。
逆に言えば、学び力の強い人は類推力が強いのです。
隣の一を観察して、自分の十に応用展開してしまうことができるわけです。

いたずらに手を広げて多読するばかりが学びではありません。
いまそこの本棚にある一度読んだ本を手に取って再読する。
そして類推を利かせる。
「再読×類推」―――これをこの2月、知的基礎トレーニングとしてやってみてはどうでしょうか。

 


 

2011年2月 5日 (土)

留め書き〈019〉~美はそれを見つめる瞳の中にある


Huyukodachi 


 Tome019 
 
“Beauty is in the eye of the beholder.”とは、英語にある表現だが、
一般的には「美は見る者の目に宿る」と訳されているらしい。
私は「美はそれを見つめる瞳の中にある」としたほうが好きだ。

春に爛漫と咲く桜は美しい。
白銀の冠を戴き雄大にそびえる富士の山は美しい。
これらは万人にわかりやすい美だ。

それと同じように、近所の雑木林を歩いて見上げる冬の木々の
魔女の手の甲に走る血管のような枝々も私は美しいと思う。
そして、地面に落ち、もはや脱色しカラカラに朽ちた葉っぱも美しいと思う。

美は、“属性”(事物が有する性質)ではない。
美は、他がそれを美しいと感受してはじめて美になるのだ。

ゴッホの絵は美しいだろうか?
……彼の生前は美しくなかったが、死後、美しくなった。

美は、受け取る側の感度・咀嚼力・創造力に任されている。
とすると、「美の生涯享受量」 (LGPB;Lifetime Gross Perception of Beauty)というのは、
個人個人で天地ほどの差が出てくるだろう。

私が興味を覚えるのは、
同時代の個人を比べて誰がLGPBが多いか少ないかということではない。
小林秀雄が、
「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。
常なるものを見失ったからである」と言ったように、
現代人のLGPBは、はたして過去の人びとに比べてどうなのかという点だ。

21世紀に生きる私たちは、科学技術の発達によって、
うんと絵を見、うんと音を聞き、うんと移動して旅をし、うんと豊かにものを食している。
しかしそれでもなお、私が異国のリゾートホテルで見る月は、
鎌倉時代の女房がふと庭木越しに拝んだ月ほどに味わい深いものだろうか。
ひょっとすると日本人のLGPB曲線は、ある時代をピークとして
現在では逓減カーブを描いているのではないかとすら思える。

美を感受し、咀嚼し、創造する瞳が弱ってくることは、美をつくる側をも弱める。
音楽にせよ、絵画、映画、小説にせよ、現在では大作が生まれず、
作品が小粒になったとそこかしこで言われる。
それは、つくり手が小粒になったというより前に、受け手が小粒になったからなのだろう。
いつの時代も「偉大な聴衆が、偉大な音楽家を育てる」のだ。
優れた芸術家を殺すことは訳のないことである。
───みんなが鈍感になりさえすればよいのだから。

私たちは瞳を磨かねばならない。
そのために必要なことは、もっと大きなもの、もっと高いものを求めることだ。
そして深くに心をもぐらせることだ。
表層の刺激ばかりに反応する生活は、瞳を疲れさせるだけになる。
瞳を閉じてこそ、美はすっとにじんで立ち現れてくる。



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