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2011年8月

2011年8月30日 (火)

「諦める」とは「明らめる」こと

Kiyoharu gm 
清春芸術村(山梨県北杜市長坂町)のアトリエ「ラ・リューシュ」

Ryu cmt 


梅原龍三郎(1888-1986年)は戦前・戦後の日本を代表する洋画家である。
冒頭の言葉は、
梅原と親交の深かった画商・吉井長三氏の半自伝『銀座画廊物語』の中で紹介されている。
梅原の最晩年のエピソードを吉井氏はこう書いている―――

ある日、(梅原)先生のお宅にうかがうと、
「今朝起きたらバラがあんまり綺麗だったから、10号のキャンバスに描いてみた」
と仰り、書生の高久さんに、「吉井君にその絵を見せてあげてくれ」と言われた。
高久さんが怪訝な顔をして、
「どこにあるんですか。今朝そんな絵をお描きになりましたか」と言うと、
「いや、描いた。そこに伏せてあるからね、それを見せてあげなさい」
と念を押される。しかし、絵はどこにもなかった。

この話を数日後、私は小林秀雄先生にした。

「梅原先生も最近錯覚するようになりましてね、
描いてないものを描いたと言っておられるんですよ」と言うと、
「それは君、錯覚じゃないよ。それは空で描いているんだよ。
そういうことを勘違いしてはいかん」と小林先生は言われた。
「これは素晴らしい話だよ。言葉が絵なんだから」

最晩年には、高久さんがキャンバスや絵の具を用意しても、

梅原先生は絵筆をとろうとしなくなった。そして、こう仰った。
「美しいものが実によく見えるようになったから、もう絵は描かなくていいんだ」


「もう絵は描かなくていいんだ」―――私はこの末尾の一行を読んだ刹那、
椅子から立ち上がり、唸り声を上げてしまった。
繰り返し読むほどに、梅原の一言はなんとも重く、広く、味わい深い。

表現する営みがすなわち生きる営みである芸術家にとって、
表現をやめるなどということは、ふつう考えられない。
私のような半端なもの書きであっても、死ぬ間際まで何かを書き続けたい、
思考と技術を向上させたい、形にしたものを人に触れさせたいと熱望するものだ。
モネは、ほとんど視力を失っても睡蓮を描き続けようとしたし、
マティスは、筆が持てなくなると、今度はハサミを持って切り絵で表現しようとした。
ベートーベンは聴力が不自由になっても、耳をピアノの板に押しつけながら第九を遺した。
ピーター・ドラッカーにしても、最晩年に記者から
「これまでの最高の自著は何か」と訊かれ、「次に書く本だよ」と答えたという。

風貌や画風から見てとれるとおり、豪放磊落な生命が横溢するあの日本洋画壇の巨人が、
そうやすやすと「もう描かなくていい」とは口にするはずがない。
それだけにこの一言を発した心境を想像することは実に面白い。

───私は、梅原龍三郎がついに「諦(あきら)め」の境地に達したのだと解する。

ちなみにここで、「諦める」という言葉について道草をしておきたい。
「諦める」とは「明らめる・明らかにする」が原義である。
すべてのことが明らかになるということで、「諦」は「真理・悟り」を意味する。
現代の口語で「諦める」は、中途半端に断念・中断するという意味で使われるが、
本来はそんななよなよした言葉ではない。

古典文学研究者である中西進氏の著書『ひらがなでよめばわかる日本語』に
「あきらめる」に触れた箇所があるので、それを抜き出してみる。───

  ものごとの状態を明らかにするよう、十分に努力をし、もうこれ以上はできないというところでやめる。それが「あきらめる」なのですね。「諦」という漢字をあててしまったことで、本来の意味がわかりにくくなっていますが、「あきらめる」には本来、今日使われているような、「もうしようがないや」とものごとを投げ出すような、ネガティブなイメージはありませんでした。
  おもしろいことに、英語の「ギブ・アップ(give up)」も同じです。「ギブ」を「アップ」する。あることを成し遂げるため八方手を尽くし、「ギブ」していく。そして、もうこれ以上「ギブ」できないところまできて、「アップ」する。そういうふうに考えれば、ただ「降参する」のではなく、「十分」という意味が生きてくるでしょう。
  日本語の「あきらめる」も、英語の「ギブ・アップ」も、今日使われているようなネガティブなことばではなく、もっとポジティブな意味をもっているのです。単に努力の放棄ではない。努力に努力を重ねた結果、もう十分であるという結論に達した。それが「ギブ・アップ」であり、「あきらめる」ことであると、私たちは考えないといけないのです。

……そうした「諦める」の本義を確認したところで、改めて、
梅原は最晩年、とうとう「諦め」の境地に達したのだと私は思う。

おそらく梅原は、本当は死ぬ間際まで筆をとって描きたかったに違いない。
しかし、いつごろからか、眼や手や身体が思うとおりにならなくなった。
そんな無様な状態を、そして間近に来る死を受け入れるには相当の憂悶と抵抗があったはずだ。
しかし、その大きな受容と入れ違いに
頭がかつてないほど冴えわたるようになってきたのではないか。
そして彼の言葉どおり、
「美しいものが実によく見える」ようになった。

画家にしても何にしても、作家というものは、
作品という外形物をこしらえて初めて、自分の見たもの、創造したかったものを確認する。
だが、梅原にあっては、いよいよ、作品をこしらえずとも、
(小林秀雄の表現を借りれば“空で描いて”)ものが見えるようになった。
作品の最終形まで頭の中で手触りできるようになった。
だから、もう筆で描くことに執着することもない、あきらめよう、となったのだろう。
この状態こそまさに「明らかなる」境地であり、「諦め」の境地だ。

梅原はなんと幸福な人間だろう。
生きている間に芸術家として高い評価を受け、作品は多くの人に愛された。
98星霜を生きて、ついに「諦める」ことができた。
燃え尽きて灰になるのでもなく、
余生の日々を無為に存(ながら)えるのでもなく、
この世に悔いを残すでもなく、
この世の欲に執着するでもなく、
じゅうぶんに描ききり、じゅうぶんに感じきった生涯。
生き方も、逝き方もかくありたいと思えるひとつのモデルである。

2011年8月21日 (日)

「知っている」が学ぶ心を妨げる

Nyudokumo 


企業で研修を行うと、

たいてい主催の人事部(人材育成担当)は受講者(社員)に事後アンケートを取ります。
そのアンケート結果は、研修プログラムの開発者であり講師である私にとっては、
いわば成績表のようなもので、高い評価であれば励みにし、
意見やクレーム・批評のようなものがあれば改善要求書ととらえて参考にします。
いずれも見るのは楽しみです。

しかし、そんな中で、残念な感想というのがあります。
それは例えば───

「わかりきった内容のことが多かった」
「どこかで聞いたような話だった」
「1日拘束されてやるほどの情報量がなかった」
「理論的に目新しいものではない」
「実際の業務には使えない」 ……といった類のものです。

もちろん私も、このような声が出ないように一生懸命プログラム改良をして
努力を重ねるわけですが、このような類の感想はどうしても出てしまうのです。
その理由は「知識が学ぶ心を妨げている」からです。
きょうはそのことについて書いていきましょう。

私が行う『プロフェッショナルシップ(一個のプロであるための基盤意識醸成)研修』は
仕事やキャリア形成に関わるマインド・観を涵養する内容ですので、
いわゆる知識習得・実務スキル習得ではありません。
マインド・観といった基盤意識をつくるために
働く上での原理原則の観念をさまざまに肚に植え付けていただくこと、
そして大いに思索・内省の脳を動かしていただくことが内容です。

私は「観念が仕事をつくり、観念が人をつくる」と確信しています。
さらには、観念は価値を生み出す基となるものであり、
観念は人を結びつけるものであるとも確信しています。
例えば私が紹介する観念は───

「心が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる」。 (星稜高校野球部・山下智茂監督の指導書き)

あるいは、
「悲観は感情に属し、楽観は意志に属する」。 (アラン:仏哲学者)

または、
「チャンスは心構えをした者に微笑む」。 (パスツール:科学者)


これらわずか一文に表された観念を肚に落としてもらうために、

ワークをやり、ゲームをやり、ディスカッションをやり、
1日とか2日とかの研修プログラムをこしらえます。

原理原則を含んだ観念というのは、古典的な言い回しです。
当然それらは一読して当たり前の内容であり、
新規性のある情報や理論は含んでおらず、地味で説教じみたものです。

そんなとき、
「心が変われば運命が変わる? まぁ、教訓としてはそうだよね」、
「ああ、その言葉、聞いたことある、知ってる。(で、それが何?)」、
「チャンスは努力しないと来ないってことでしょ。はいはい、わかってます。
(で、明日から使えそうな具体的ハウツーは何か教えてくれるの?)」
……受講者の中で「知識狩り」「ハウツー情報狩り」の人の感想はこうなりがちです。

知識を狩るにしても、ハウツー情報を狩るにしても、
それはひとつの好奇心の表れでもありますから、
まったく悪いというつもりはありません。
しかし、自分の外側にある新奇のものばかりの収集・消費に忙しく、
自分が既に持っている内側のものの耕作・醸成を放置していることが
私は残念だと言いたいのです。

私たちはあまりに知識所有教育を受け、情報優位社会に生きているので、
「ああ、それなら知ってるよ」と思ったとたん、
それ以降の「考えること」をしなくなります。
そして、もっと知らない知識・もっと目新しい情報を欲しがるのです。

ここで、小林秀雄を引用しましょう。
下の箇所は小林が小中学生に語った『美を求める心』に出てきます。


「言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。(中略)言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は、皆そういう風に花を見ているのです」。


小林は、言葉が美を見る心を奪ってしまうと言います。

それと同じように、私は、知識が学ぶ心を奪ってしまうと思います。
つまり、「ああ、アランのその言葉なら知ってるよ。『幸福論』に出てくるやつでしょ」と、
自分がそれを知識としてすでに持っていると認識するや、
その人はもうその言葉に興味をなくします。
その言葉の深い含蓄を掘り起こし、自分の生きる観念の一部にしようという心を閉じるのです。

知識狩りに忙しい人は、新奇のものを知ることに興奮を得ていて、
ほんとうの学び方を学ばない。
ハウツー情報狩りに忙しい人は、要領よく事を処理することに功利心が満たされ、
物事とのほんとうの向き合い方を学ばない。

しかし、人生とはよくできているもので、
こうした情報狩りに忙しい人も、ハウツー情報に忙しい人も、
いつかのタイミングで古典的な言葉に目を向けるときが必ず来ます。
誰しも、悩みや惑い、苦しみに陥るときがあるからです。
人は何か深みに落ちたときに、
断片の知識や要領のいい即効ワザだけでは自分を立て直せないと自覚します。
そんなとき、自分に力を与えてくれるのが古典的な言葉です。
その言葉を身で読んで、強い観念に変えて、その人は苦境から脱しようとします。

そういうことがあるから、
私は古典的な言葉を通して、大事な観念を研修で発し続けます。
いまはピンとこないかもしれないけれど、
その人の耳に触れさせておくということが決定的に大事です。

自分の外側には、無限の知識空間があり、そこを狩猟して回るのは興奮です。
他方、自分の内側には、無限の観念空間があり、そこを耕作することは快濶です。
狩猟の興奮を与えるコンテンツ・サービスは世の中に溢れていますが、
耕作することの快濶さを与えるものは圧倒的に少ない。
私はその圧倒的に少ないほうに自分の仕事の場を置きました。

お客様に買っていただくことが難しい商売ですが、
私自身にとっては、その仕事こそが自らの観念空間を耕作することでもあり、
そこから無上の快濶さを得ることができるので、今後も喜んで続けようと思っています。

〈追記〉
3・11以降の日本がどうなるかを考えるとき、
日本人がこの耕作にどれだけの振り返りをみせるかはひとつの重要なポイントになると感じます。
人を強くするのは多量の知識ではなく、健やかな観念です。
興奮は一時的な刺激反応ですが、快濶は持続的な意志活動です。
日本人の1人1人が、「知ること」を超えて、「掘り起こすこと」に喜びを見出していくなら、
日本はひとつ強くなれると思います。

 



 

2011年8月 7日 (日)

節電の夏~夜星を見上げながら思い返したい名言

 *これは前記事「十分暗くなれば人は星をみる」を別の記事として書いたものです。

Tg sunset 

 全国的に節電の夏。夜の繁華街のネオンや帰宅途中にあるコンビニの店内照明がいくらか控えめとなり、ふと気づくと、月明かりが自分の歩く影を地面に落としている。「月がこんなに明るいなんて」とはどれくらいぶりに思ったことだろう。
 この広大な宇宙は、あるちっぽけな惑星の局所で起こった振動のことなど何も気にかける様子もなく、その運動をただただ続けるのみである。一方、そのちっぽけな惑星の表面に這いつくばう人間は、そうした自然・宇宙が見せる姿や営みに法則を見出し、意味を与えながら強く生きてきた。今年の夏は、夜空の星々を見上げながら何か思索をしてみるのにちょうどよい機会ではないだろうか。星は人びとに多くのインスピレーションを与えてきた。きょうは「星」が出てくる名言をいくつか紹介しよう。

  「十分暗くなれば、人は星をみる」。
  “When it is dark enough, men see the stars.”  
  ───Ralph Waldo Emerson

 この言葉はサラリーマン時代から何となく書き留めていたのだが、リスクを負わず安定した会社員生活をやっているときにはあまりぴんとこなかった。そして独立して8年間が経ち、折々にこの言葉の奥深さが感じられるようになった。
 大企業のご威光と資金力のもと、白昼の明るさの中で豪勢に仕事をやっていたのとは一転、独立すると辺りはすーっと暗く恐ろしく静かになる。大企業の名刺でつながっていた人たちは音沙汰がなくなり、不安定やら、不透明やら、不遇やら、不発やら、不調やら、不信やら、不得やら、不具やら、が身の周りを覆い、独り丸裸で野宿をするような環境になる。まずは衣服になるものを探さなきゃ、火を起こさなきゃ、食うものを手当てしなきゃ、雨風をしのぐ小屋をつくらなきゃ、と日々の仕事に没頭する。そんなときに空を見上げると星がぽつりぽつり薄く輝いているのが見える。
 個人として独立して何の信用も実績もない状態になるとかえって本当の友人、本当の協力者、本当の共感者が見えてくる。暗いなかでこそ、人はものがよく見えるし、よく見ようとする。そして見えてきたものの美しさやありがたさがよくわかる。私の場合、独立したことで周辺が十分に暗くなり、ほんとうによかったと思っている。サラリーマンを続けていたら、それなりに苦労をし、多少の星を見たかもしれないが、おそらく今ほどの星々は見ていなかっただろう。

 さて、2つめの言葉───

  「目を星に向け、足を地につけよ」。
  “Keep your eyes on the stars, and your feet on the ground. ”
  ───Theodore Roosevelt

 目を星に向けながら、大地をたくましく走る。残念ながら、そうした健やかな姿で日々の仕事に向かっている人は、昨今ではむしろ少数派になってしまったのかもしれない。私が平成ニッポンのホワイトカラーでイメージするのは、みんなが横並びでエアロバイク(フィットネスクラブに置いてある自転車漕ぎマシン)に乗り、正面のメーターに目を固定させ、組織から与えられた目標回転数を維持するためにせっせと漕ぐ姿、とか、「何かいいもの落ちていないかなー」などと猫背で地面を見ながら歩いている姿である。
 私が企業の研修現場でよく耳にするのは「社内にあんなふうになりたいという魅力的な上司・経営者が見当たらない」という声だ。おそらく星を見て大地をたくましく駆けている大人の姿、つまりロールモデルが多くの組織で不足しているのだろう。しかし、若い人たちも、そうそう年上世代のせいにもしてはいられない。その下から育ってくる子供世代もまた年上世代を観察しているのだ。
 日本が、世代ごとに「安定志向」という名の精神的縮小回路に入り込まないために何ができるか、何が必要か―――それは世代に関わらず、1人1人の人間が、空を見上げ、雄大な空間に自分の星を見つけようとすることだ。そしてリスクを恐れず、保身の枠から一歩足を外へ出していくことだ。そしてそれが世の中的に「カッコイイ生き方」のイメージになっていくことだ。
 上のルーズベルト大統領の言葉の類似形で「しばしばつまずいたり転んだりするのは、星を追いながら走っているから」というのもある。つまずいたり、転んだりするのは決してカッコ悪い姿ではない。カッコ悪いのは、星も追わず転ぶことも怖がっている姿だ。かのピーター・ドラッカーも「間違いをしたことのない者は凡庸である」と言う(『現代の経営〈上〉』)。凡庸と言われようが、カッコ悪いと思われようが、「小ぢんまりと安定していたほうが人生得だ」という利己・功利主義が大多数になったとき、この国の趨勢は決定的になる。

 そして3つめの言葉―――

  「星をつかもうと手を伸ばしてもなかなかつかめないかもしれない。
  だが、星をつかもうとして泥をつかまされることはないだろう」。
  “When you reach for the stars, you may not quite get one,
  but you won't come up with handful of mud either. ”
  ───Leo Burnett

 星は遠い彼方で輝いている。容易につかめない距離にあるからこそ、人は星を夢や志に見立てる。確かに一生かかっても星はつかめないかもしれない。しかし、星を追い続ける人は、星ではないにせよ、同じようにきれいに輝く何か(宝石か、ガラス細工か、蛍か)を手にするだろう。仮にそうしたものを手にできなかったとしても、結果的に「星と共に人生があった」というかけがえのない報酬を得る。星をつかもうとする行為のなかに、すでに“ごほうび”は仕組まれているのだ。

 

 

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