« 2011年8月 | メイン | 2011年10月 »

2011年9月

2011年9月15日 (木)

観念が人をつくる

Rf fall 01 



先日、本ブログで書いた「残念な感想~“知っている”が学ぶ心を妨げる」

yahooジャパンのニュースサイトにも掲載され、大きな反響をいただきました。

その中で私は、「観念が仕事をつくり、観念が人をつくる」 と書きましたが、

そこのところをもう少し詳しくきかせてほしいとの声がありましたので、
きょうはそれについて書きます。

* * * * *

さて最初に、古代ギリシャ・ストア派の哲学者エピクテトスの言葉です───
「人はものごとをではなく、それをどう見るかに思いわずらうのである」。

また、フランスの哲学家・モンテーニュは『エセー』でこう言っています───
「事柄に怒ってはならぬ。事柄はわれわれがいくら怒っても意に介しない」。


◆「その出来事が」ではなく「観念が」感情を引き起こす

この2つの言葉を理解するために、卑近な例を出しましょう。
職場の同僚2人が昼食のために定食屋に入りました。
2人は同じメニューを注文して待っていたところ、店員が間違った品を持ってきました。
そのとき、一人は
「オーダーと違うじゃないか。いますぐ作りなおして持ってきてくれ」と、
厳しく当たる対応をしました。

一方、別の一人は
「まぁ、昼食の混雑時だし間違いも時にはあるさ。
店員がまだ慣れてないのかもしれないし。時間もないからそのメニューでいいよ」と、
穏やかな対応をしました。

このように同じ出来事に対し、
結果として2人の持つ感情、そして対応がまったく異なったのはなぜでしょう。───
それは、各々が持つ観念(ものごとのとらえ方、見識、信念)が異なっているからといえます。

すなわち、一人は、
「客サービスは、決して客の期待を裏切ってはいけない。
飲食サービスにおいて注文品を間違えるなどというのは致命的なミスである」
という観念を持っているがゆえに、あのような対応が生じました。
他方、一人は、
「混雑するサービス現場では取り違えや勘違いは起こるものである。
おなかが満たされれば、メニューにあまりこだわらない」
という観念で受け止めたために、あのような対応になりました。

このように人の対応に差が出る仕組みを、
臨床心理学者アルバート・エリスは「ABC理論」でうまく説明しています。

ABCとは、次の3つを意味します。
 ・A(Activating Event)=出来事
 ・B(Belief)=信念、思い込み、自分の中のルール
 ・C(Consequence)=結果として表れた感情、症状、対応など

私たちは、何か自分の身に降りかかった出来事に対し、
「よかった」とか「悔しい」とか感情を持ちます。ですから私たちは単純に、
この場合の因果関係を〈A〉→〈C〉であるかのように思いがちです。

ところが実際は、その感情〈C〉を引き起こしているのは、
出来事〈A〉ではなく、その出来事をどういった信念〈B〉で受け止めたかによる
というのがこの理論の肝です。
すなわち、因果関係は〈A〉→〈B〉→〈C〉と表されます。


Abc thr 


アルバート・エリスは、このABC理論(より正確には「ABCDE理論」)を基に
「論理療法」を創始しました。そのエッセンスは、
「起こってしまった出来事を変えることはできないが、
その解釈を変えることで人生を好い方向に進めていくことはできる」というものです。


◆境遇の下部(しもべ)になるか・境遇を土台にするか

私個人のことを言えば、私は子どものころから身体が丈夫ではありません。
いわゆる虚弱体質の部類で、ともかく飲食するにも、活動するにも無理がききません。
すぐにお腹をこわす、すぐに風邪を引いて熱を出す、とそんなようなありさまでした。
大人になってからは何とか毎日仕事生活を送れるような状態にはなりましたが、
それでも、私は常に、痩せすぎでひ弱な身体に神経をつかう日々を送っています。

私は小学校のころから自分のそうした身体の境遇に落胆していました。
母も同じように痩せて身体が弱いほうだったので、
「あぁ、こんな親のもとに生まれた自分に運がないのだ」と誰を責めるでもなく、
ただ、自分の身体に落胆していました。

小学校5,6年のころだったでしょうか、そんなときに母は、
「健康だと健康の有難みがわからへんでしょ。病弱な人はその有難みがわかる。
これはすごいことと違う?」
「弱い人は弱い人の気持ちがわかる。だから、やさしい人になれる」と言ってくれた。

その言葉を聞いて、私は、
「そうか、弱いってことは、その分、みんなが感じられんことを余計に感じられるんや」
ということに気がついたのです。
───今から振り返ると、まさに私自身がABC理論で論理療法のきっかけを得た瞬間でした。

つまり、「虚弱な身体に生まれた」という出来事〈A〉に対し、
「虚弱な母のもとに生まれた自分に運がないのだ」という受け止め方〈B〉が、
自分を落胆〈C〉に導いていたのです。
〈A〉→〈B〉→〈C〉という因果関係です。〈A〉→〈C〉ではありません。

そこで私は母の言葉によって、〈B〉を変えることができた。
「弱いからこそ、多くを感じられる」という受け止め方〈B〉になった結果、
「虚弱だったとしても、強くやさしく生きていこう」という心持ち〈C〉になったのです。
心持ちが180度変わったわけですが、それが起きた前も後も、
「虚弱な身体に生まれた」という事実〈A〉はなんら変わっていません。


◆私たちは各々の解釈でとらえた世界を生きている

私が本記事「観念が人をつくる」で言いたいのはこのことです。
人は生きていく過程で、それこそ無数の出来事や事実に遭遇します。
それら出来事や事実を、どうとらえ、どう評価するか、そしてどう体験するかは
すべて観念という名の“フィルター” (ろ過器)の影響を受けます。

「世の中に事実はない。あるのは解釈だけだ」という言い回しがありますが、
まさに私たち一人一人は、各々の解釈でとらえた世界を生きているのです。

ですから、健やかな観念をもった人は、
健やかな方向にものごとをとらえ、評価し、体験をします。
結果的に健やかな人間となり、健やかな人生を送っていきます。
もっと言えば、健やかな観念が社会に満ちると、健やかな社会となります。
逆に、冷笑的な観念をもった人は、結果的に冷笑的な人間となり、冷笑的な人生を送ります。
冷笑的な観念が世の中を覆うと、冷笑的な社会になります。
観念というのは、それほど根本的に強力なものです。

人生をよりよくつくっていくためには、もちろん意志や努力や想像が必要ですが、
そもそもその意志を起こせるか、努力するエネルギーを湧かせられるか、明るく想像できるか、
それらを大本(おおもと)で支配しているのは観念です。

なんだ、じゃ、人生明るく生きるためには「ポジティブ・シンキング」だ、
と思われるかもしれません。私はポジティブ・シンキングには肯定的ですが、
昨今ではそれが単なる「気分転換術」として紹介される向きがあるのが残念です。

もちろん観念もポジティブサイドでもったほうがよいに決まっていますが、
観念をつくることは、功利的な術よりも深いものですし、
シンキング(思考)よりも根っこにあります。
観念は、その人の内に複雑に構築される信条体系・価値体系で、
一朝一夕にはできあがらないものです。
言ってみれば、それは心の内の地層のようなもので、
読書やら交友やら、見聞やら体験やらで、長い時間をかけて積もり、
ずどんと居座ってしまうものです。
意志的な努力を継続してやっと醸成できる観念もあれば、
知らぬ間に染まってしまい、それを脱色するのがなかなか難しい観念もあります。


◆いま個人と社会に必要なのは「健やかな観念」

いずれにせよ、どんな観念をもつかは、人生の一大事です。
どんな知識をもつか、どんな技能をもつか、どんな会社に入るかより、はるかに大事です。
私は教育分野の仕事をライフワークにしたいと思い8年前に独立しました。
私は「健やかな観念」こそが個人と社会に必要だと思い、
「働くこと×健やかな観念」を自分の中のキーコンセプトにして
企業研修の場で学びのプログラムづくりを始めました。

私がここで言う「健やかな」とは、
生き生きと強い、素直である、明るく開けている、善的なことに向かっている、
自然と調和している、などの意味合いです。
そうした健やかな観念を涵養してくれる古典的な言葉は世の中にたくさんあります。
先達たちが残してくれた宝石をひとつひとつ拾い集め、
「よりよい仕事を成す」ための学習プログラムという首飾りに仕立てる───
それが私の仕事になりました。

例えば、
 ・「人は努めている間は迷うものだ」 (ゲーテ『ファウスト』)

 ・「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」 (高村光太郎『道程』)

 ・「指揮者に勧められて、客席から演奏を聴いたクラリネット奏者がいる。
  そのとき彼は、初めて音楽を聴いた。
  その後は上手に吹くことを超えて、音楽を創造するようになった。
  これが成長である。仕事のやり方を変えたのではない。意味を加えたのだった」
  (ピーター・ドラッカー『仕事の哲学』)

 ・「他人が笑おうが笑うまいが、自分の歌を歌えばいいんだよ」 (岡本太郎『強く生きる言葉』)

 ・「勤勉なだけでは十分といえない。そんなことはアリだってやっている。

  問題は、何について勤勉であるかだ」 (ヘンリー・デイビッド・ソロー『ソロー語録』)

……これらの言葉を文字面(もじづら)で理解するのは簡単です。
しかし、肚で読む(=観念に落とし込む)ことは簡単ではありません。
しかも普段の仕事につなげて考えることも難しい。そのために、
私は玩具の「レゴブロック」を使ってシミュレーションゲームをやったり、
ドキュメンタリー番組や映画を観ながら討論をやったりします。

研修づくりの方法論の観点から言えば、
「その格言なら知っているよ」という知識を観念に変えていくために必要なことは、
心が活性化している状態、もっと言えば魂が何かを求めて動き出す状態をつくることです。
それは楽しく何かに没頭している場や、
困難を受けて真剣に考えようとしている場を疑似的に設けることです。
そこに普遍的で強い力をもった言葉をすっと差し出すと、
敏感になった心の琴線に響いていき、沁みていきます。
そしてそこから原理原則的なエッセンスを各自から引き出させ、
現実の仕事、現実の生活にどう応用ができそうかを考えさせる───
ここまでやって「知識→観念」の変換作業の半分でしょうか。
あとは、実際、一人一人がそれを糧にいろいろな現実問題を乗り越えていってようやく
自身の観念として肚に据わっていきます。

フランスの哲学者アランが
「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」と言ったとおり、
特に、楽観をもって建設的に事に向かっていこうとする「健やかな観念」は
気分的なものと違い、意志的なものであるために、その形成には忍耐と努力が要ります。


◆知識に肥えていても観念が痩せている

3・11以降、私たちはメディアを通し、
あの荒漠とした被災地でたくましく再起をはかる人たちの姿を数多く目にしてきました。
南アフリカ共和国の心臓外科医であるクリスチャン・バーナードは、かつてこう言っています。

─── 「苦難が人を高貴にさせるのではない。再生がそうさせるのである」。
    (“Suffering is not ennobling, recovering is.”)

確かに、苦難自体が人を高めるというより、
苦難を乗り越えようとするその過程で、人は強く、賢く、優しくなっていくのだと思います。
被災から立ち上がった人たちは、まぎれもなく、
自分の内で強い観念を起こし、そこから再生の意志を奮い立たせた人たちです。

私がテレビ報道から耳にしたのは、
「この震災にも何か意味があるにちがいない」、
「ここから立ち直り、教訓を未来に伝えていくことが自分たちがやれる最大のことだ」
といった勇気に満ちた声でした。
こうした観念を起こすにはすさまじいエネルギーを要したでしょうが、
この再生途上にある人の姿こそ高貴なのだと感じました。

観念は一様ではありません。
感情的な思い込みから、無意識の思考習慣、思想的・宗教的な信念まで、
さまざまな観念が一人の人間の内で、そして社会で、複雑な模様を渦巻いていきます。
あるものは安易に流れ込み感染を広げ、
あるものは試練を経て獲得され静かに感化の波を起こし、
あるものは悲観的で、傍観主義で、利己的で、
あるものは楽観的で、挑戦主義で、利他的で、
これらが四六時中せめぎ合いをし、勢力争いをします。
そして、どんな観念が支配的になるかで、個人の生き方も社会の様相も決まる。

いずれにせよ、観念が人をつくり、個々の観念が社会をつくります。
知識に肥えていても、観念に痩せているという人がいます。
同様に、物質は豊かだが、観念の貧しい社会もあります。
私たちは自身の内部に広がる無限の観念空間の開発に
もっともっと目を向けるときにきていると思います。

2011年9月 2日 (金)

「形→本質」が日本のものづくりの道

Ipnwecp 


日本民族のコンピテンシーは手先の器用さ・繊細な感覚である。

日本はその能力を生かしハード的に優れたモノをつくってきたが、
形状・性能・価格といった「form」次元だけで戦うのは難しい時代に入った。
「form」を超えて「essence」次元にどうさかのぼっていくか───次のステージはそこにある。



◆意志を宣言するアップルvs性能説明をする日本メーカー
 2011年、春の携帯端末機商戦。アップルは『iPhone4』の広告を展開していた。宣伝のためのポスターやリーフレット、ウェブページには、 「すべてを変えていきます、もう一度」 「見たこともない電話のかけ方を」 「マルチタスキングとはこうあるべきです」といったコピーが載せられていた。
 一方、日本の端末機メーカーの宣伝コピーはどうだったか─── 「最薄部8.7mmのエレガントデザインと磨きぬかれた映像美の世界」(ソニー・エリクソン『Xperia arc』)、「トリプルタフネスケータイ~耐衝撃・防水/防塵構造」(NEC『N-03C』)、「ボタンが押しやすい約10.4mmスリムケータイ」(パナソニック『P-01C』)、「バカラのきらめき、歓びのかたち」(シャープ『SH-09C』)。アップルと日本メーカー勢とでは、明らかに商品の訴え方に違いがある。この違いは何なのか? そしてこの違いはどこから生じてくるのか?

 アップルは自分たちが考える携帯端末機の「あるべき姿」を提示し、主観的な意志を宣言している。一方、日本メーカーは、ハード的な性能優位を謳うのが目に付く。それは客観的で説明的な言葉だ。

 図1に示したように、アップルはコンセプトやスタイルといった「コト的」なものを創造することを志向し、抽象的な次元から絶対評価の眼をもって商品づくりをしている。ちなみにここで言う「コト」とは、商品の差異化手法としてよく用いられる記号論的な付加価値(例えば、ある商品に伝説的な物語を付与することによりステータス性を醸し出すことができる)のようなイメージ要素としてのコトではない。「根っこにある何か本質的なコト」という意味で用いている。
 一方、日本メーカーはこぞって、データやスペック(仕様・性能)といった「モノ的」な出来栄えにこだわり、具体的な次元から相対評価の眼で商品づくりをしている。この両者の違いを見て、それが単にコトからのアプローチとモノからのアプローチの違いであると片付けるわけにはいかない。そこには「本質」をつかまえているかどうかの重大な差があるのだ。


Z01 


◆アップルは「essence→form」・日本勢は「form→form」
 世の中の事象において、 「本質は形をまとい、形は本質を強める」 という相互作用がはたらいている。内側に本質の円を、外側に形態の円を描き、それを表したのが図2である。
 アップル「iPhone」の成功は、彼ら自身がとらえた本質的なものを起点として、それを巧みに形態(携帯端末機のハードやソフト、そしてビジネスモデルといった目に見えるもの)に落としたことにある。つまり、「essence→form」の流れがそこにある。もちろん彼らとて最初から本質が明快に分かっていたわけではない。プロトタイプ(試作品)というモノを何度も何度も起こし、仮説として抱いた本質を研ぎ澄ませていくという「form→essence」の流れも同時に起こしたのだが、あくまで主導は「essence→form」である。言い換えれば、彼らの思考は「inside-out」(内から外へ)なのだ。
 さて、伝統的に優れたモノづくりをする日本人の思考はどうか。それは端的には「form →essence」主導の流れだ。 “神は細部に宿る”を体現した伝統工芸品、あるいは茶道や華道、柔道、剣道、能、歌舞伎など「型」を究めて本質にたどりつく修業などはその典型である。日本人は古来、「outside-in」(外から内へ)の思考なのである。

Z02 


 しかし問題は昨今の日本のモノづくりがどうかだ。「essence→form/inside-out」であれ、「form→essence/outside-in」であれ、本来、どちらが良い悪いというものではない。本質をつかみ取るかぎりにおいては、どちらが主導でもよい。それで携帯端末機市場を例に取れば、日本メーカーはやはりformから入っている。しかし、そこからformを究めることで、essenceの次元に上がっていっているだろうか……。残念ながらformの次元に留まり、相対的なハード面での競争を繰り返すだけのように見える。つまり、「form→form」「outside-out」の思考に陥ってしまっているのだ。

◆曖昧さ思考と明瞭さ思考
 図3と図4はアップルと日本メーカーの思考の違いをさらに詳しく考察するために描いたものである。図に示したとおり、「essence」と「form」の間は、「本質→価値・意味→コンセプト→仕組み・スタイル・型→性能・技術→モノ・サービス」といったものが複雑なグラデーションを織りなしながら連続している。
 私たちは「essence」を究めていこうとすればするほど、「曖昧さを取り込む思考」が必要になる。それは言ってみれば「ファジー(fuzzy)な思考」であり、抽象的に、輪郭を描かず、示唆化するように考えることである。そこでは、不確実性・曖昧さを受け入れ、ものごとをまるごと包み込んでとらえようとする全体論的な姿勢となる。また、主観的解釈で仮説を立てる、綜合的・拡散的である、問いに向かって非直線的に、というのもこの思考の特徴となる。ちなみにここで言う「曖昧さ思考」は、「曖昧な思考」とは異なる。前者は曖昧さをもって強く考えることであり、後者はどう考えをまとめてよいかわからず曖昧な状態に留まることである。
 他方、私たちは「form」を究めようとすればするほど、「明瞭さに落とし込む思考」が必要となる。それは「ソリッド(solid)な思考」とも言うべきもので、具象的に、明示して、形式化するように考えることである。そこでは、不確実性・曖昧さを排除して、ものごとを細かに分解し調べて理解しようとする還元論的な姿勢となる。また、客観的説明を積み上げていく、分析的、収束的である、解決に向かって直線的に、というのがこの思考の特徴となる。


Z03 


 アップルは図3のように、抽象度という川をさかのぼっていく曖昧さ思考と、具象度という川を下っていく明瞭さ思考の2つの次元を大きく往復運動しながら事を進めている。そのようなダイナミックな思考過程から、デジタル機器・デジタルライフのあるべき姿や体験価値・体験世界を考え、コンセプトを起こし、「iTunes」によるビジネスモデルを創出し、「iPod」はじめ「iPhone」や「iPad」といったハードを生み出した。彼らのつくり出すものは断片的な製品やサービスのひとつひとつではなく、まさに「i-Something」ともいうべき“ホールプロダクト(whole product)”なのだ。

 真に成功するイノベーションは、技術中心ではなく、人間中心である。人間中心であるとは、曖昧で不明瞭で、ときに揺らぎ、ときに執着するような人間の想いや欲求の核にあるものをとらえることを最重要事項とする。そして、「お客様、あなたの欲しかったものはこういったものではなかったですか?」といって形にして差し出すために技術を使う。
 確かに、消費者から日々寄せられる具体的な声を分析し、商品開発に役立てることは欠かせない。しかしそれら客観的分析アプローチから可能になるのは、改良や改善であって、既存枠を打ち破るような商品の創出ではない。なぜなら消費者は目の前にある具体的な商品については雄弁に語るが、いまだ体験せぬ夢の商品に関しては語れないからだ。よく言われるのはこうだ。―――「消費者の声分析はクルマのバックミラーのようなものだ。後ろはよく見せてくれるが、決して前を照らして見せてくれるわけではない」。
 だからこそ、消費者の声を超えて、つくり手こそが大胆に主観的な直観で仮説を立て、曖昧さの中へ深く入り込んでいかねばならない。そしてそれを形にして、しつこくお客様に差し出すことを繰り返さねばならない。アップルはそれをやっているのだ。

◆ものづくりが「form」次元で勝てる時代は終わった
 他方、日本メーカー勢はそれに比べ、残念ながら図4のように思考の幅が縮こまった形になっているように思える。思考を曖昧さ次元に切り込むことなく、洞察がモノ寄りで留まっている。だから、出てくる製品や広告メッセージはどれもハード的な性能を謳うだけになってしまう。加えて、日本のメーカーにはアップルのようにホールプロダクト的な世界観がないために、ハードの性能で局所局所で戦うしか方策がないという状況もある。


Z04 


 昨今の一般消費財の開発・製造現場は、スピード化と生産効率化のプレッシャーが過酷である。システマチックに大量にモノづくりを行う大きな組織の製造業であればあるほど、アイデア出しから技術検討、コスト検討、意思決定などに関わる思考作業をできるだけ効率化させたいという誘惑にかられる。そのために洞察の過程は分業化され、計画立てられ、目標に向かって直線的になる。「次の製品は現行より何ミリ薄くできます」「他社より安く商品化できそうです」といった「form」の次元でモノづくりを考えるほうが、多くの関係者がわかりやすし、コンセンサスも得やすい。明瞭さ思考に留まることは、万人に明瞭であるがために、ある意味、組織を動かすにはラクなのである。
 しかしそれと引き換えに、着想と試作の往復運動はどことなく機械的に硬直化してしまう。そこからは突拍子もなく独創的であるとか、パラダイムを変えるようなエポックメーキングなものが出づらくなる。「品質はいいけど、面白みがないね」と言われる日本の製品の多くはこの回路の中にはまっている。
 アップルが大組織にもかかわらずその硬直化を免れているのは、スティーブ・ジョブズ氏のいい意味での変人ぶりと、コンセンサスを得ることの困難を恐れず、曖昧さ次元を漂う思考を楽しもうとする組織文化があるからだ。そしてまた、ジョブズ氏の無理難題な夢想に技術が試作で応えようとする強靭さもある。

 市場や店頭には、日々さまざまに具体的な商品が現れてくる。また、新聞や雑誌、業界紙などにもそれらの情報が溢れる。しかし、すでに誰かが形にしたものに振り回され、他社の成功物語に浮足立つより、私たちにはやるべきもっと大事なことがある。それは一生活者に立ち返って、自分のなかに曖昧とある想いや願望、意味や価値の芯が何であるかに考えを巡らせることだ。 「form」の次元に拘泥せず、「essence」の次元に上がっていくこと───これが日本のものづくりに課せられた問題である。そしてそれは突き詰めれば、1人1人の働き手が「曖昧に考える力」を養い、個として局面を突破できる独自で強いアイデアを出せるようになるかという教育、あるいは組織文化の問題となる。

◆思考ツールの簡便さが思考力を弱めている
 「form」次元に思考が留まっているのは、何も携帯端末機メーカーだけの話ではない。広く私たち1人1人のビジネスパーソンの思考もそうなってしまっているきらいがある。明瞭に物事をとらえ、整理し、説得するためにロジカルシンキングやフレームワーク思考の習得が花盛りである。確かにこれらは有益なスキルではある。
 しかし私が企業の研修現場で、そして大学院のMBA(経営学修士)課程で少なからず目にするのは、それらが簡便なツールと化し、もはやその型や枠に物事を流し込むことで何かを考えた気になったり、その行為自体が目的になったりしている風景だ。まさにこれは思考の型や枠といった「form」に留まっている姿である。

 私たちは物事を「的確に合理的に考えるため」にロジカルシンキングやフレームワーク思考を取り入れている。しかし、実際は「ラクで能率的に考えるため」にすり替わっていることが多い。評論家の小林秀雄はその点をこう喝破する─── 「能率的に考える事が、合理的に考える事だと思い違いをしているように思われるからだ。当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。(中略)考えれば考えるほどわからなくなるというのも、物を合理的に究めようとする人には、極めて正常な事である。だが、これは能率的に考えている人には異常な事だろう」 (『人生の鍛錬』新潮社より)。

 考える手間を省くことを習慣化すると、頭はやがて形式化され単純化された情報しか処理できなくなる。昨今の若年層社員についてしばしば指摘される個別具体的に記述された文章しか読めない、マニュアル化されないと行動ができないといった傾向はこのことと無関係ではない。

 「その話は抽象的だ」というのは、多くの場合、ネガティブな意味に使われる。しかし、本質を含んだ深く広いことは、抽象的ににじみやぼかしを含んでしか表せないことがある。例えば、パスカルの放った「人間は考える葦である」という言葉はとても抽象的である。これを私たちは「抽象的すぎる」と批評できるだろうか。それを抽象的だという人は、実は、その本人に抽象的な表現を読解する力が欠けているからということもある。

 時代をあげた「わかりやすさ信仰」「論理思考信仰」「即効・能率信仰」によって、私たちはとても大事なものを捨て去っている。いったいぜんたい、アップルのジョブズ氏がマシンガンのように夢想的アイデアを発するとき、周辺に「わかりやすく」と気づかっているだろうか、ツリー図にして系統立てて考えているだろうか、“MECE”(モレなく、ダブりなく)で語らなきゃいけないなど意識しているだろうか。それは結果的に「誰かが後付け」でやっているのだろうが、最初の枠を打ち破るところのアイデアは、とても無秩序で理不尽で破天荒でつじつまの合わない、むしろ穴だらけ、甘さだらけの、抽象的で多くが理解に苦しむアイデアであったに違いない。しかし、このブレイクスルーを個々の人間がやれるところに、そして組織もそれを奨励するところにいまだ米国の強さはあるのだ。

 日本人は手先の器用さ・繊細さを長所とし、モノから思考し、他から型を取り込んで我が物としてしまうことに秀でた民族である。しかし時代は、モノや型といった「form」次元のみでビジネスを制することがますます難しくなってきている。抽象的な「essence」の次元に思考を巡らせ、曖昧さを許容し、むしろ曖昧さを味方につけなければ、真に強い独自の商品は生み出せなくなっている。曖昧さ思考は、明瞭さ思考に比べ直接的・即効的ではないが、“根本的”である。
 能面から無限の表情を読み取り、碗のひび割れからも茶の幽玄の世界を観る。ひとつの所作のなかに道の奥義を込める。日本人が古来持つ「form」を究めて「essence」をつかむ能力をいまこそ再生すべき時がきている。そうすることで私たちはアップルやグーグルとは異なった、そしてまた安さで勝負をかけてくる新興諸国とは異なった形で世界とやりあっていける。



【後記】
この記事は、ビジネス雑誌『THINK!』(東洋経済新報社)2011年夏号に寄稿した
「曖昧さ思考トレーニング」の一部分を再編集したものです


私もかつてはメーカーに勤めていたので、
日本のものづくり(広く製造業)の問題はそう易々と語れないことを承知しています。
そんな中で、「form」と「essence」、
そして「曖昧さ思考」と「明瞭さ思考」という切り口で問題を私なりに書いてみました。
業界の現場、アカデミックな世界から見れば、本記事は、
穴だらけ、不足だらけで、論理飛躍の箇所がいくつもあろうかと思います。
しかし、未熟だろうが、偏っていようが、不格好だろうが、
私はこうした主観的な見解を個々の日本人が怖がらずにもっともっと発し、
建設的な目的の下に考えを交流すべきだと考えます。

私もかつては企業組織の中で数えきれないほど討議をやりましたし、
今でも顧客企業の担当者と議論を重ねたりします。
そこで感じることは、皆があまりにロジックを組み立てることに懸命になり、
その結果、モレやダブリを気にして思考が縮こまったり、
フレームワークの中に収めようと思考が窮屈になったりすることです。
説明を受ける側も、どこかにロジックの欠陥はないかとそんな目線になる。
会議の場は、分析や批評が溢れはするが、
ついぞ「自分たちはどうするんだ」とか「自分たちは事業をこう定義する」といった
肚から出る主観的な意志や見解は立ち現われてこない。
結局、対前年何%増といった事業計画上の数値目標だけが、
客観性・合理性を帯びた金科玉条として組織の中を跋扈することになります。


私は日本の製造業がもっと力強く続いてほしいと願いながらこの記事を書いています。
そのためのキーコンセプトは「曖昧さ思考」だと思っています。
本文でも触れたとおり、「曖昧さ思考」は「曖昧な思考」ではありません。
「曖昧さ思考」とは、曖昧さの中で、曖昧さを相手にしながら、
曖昧さの奥に潜む本質をつかむ思考のことです。
一方、「曖昧な思考」は考えがまとまらず、頭がモヤモヤとしている状態です。
もちろん分析的にロジカルに考えるという「明瞭さ思考」は前提として不可欠です。
で、その「明瞭さ思考」を超えたところの「曖昧さ思考」の発揮なくして
日本の製造力、ビジネス力、経済力の力強い維持は難しいと思っています。

 

 

過去の記事を一覧する

Related Site

Link