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2011年10月

2011年10月16日 (日)

目的と手段を考える〈下〉~金儲けは目的か手段か?


  目的と手段の理解を深めるために考察問題を出しましょう。 「金儲け(利益追求)は、仕事(あるいは会社)の目的か?それとも手段か?」 という問いです。これに対し、あなたはどんな答えを持つでしょうか。


  ところで、金を儲けることは、人類が貨幣を考案したとき以来、社会に多くの考える題材を与えてきました。お金は欲望に直結しており、変幻自在で強大な力を持っていますし、それを考え扱うには倫理観や価値観もありますから、非常にとらえようが難しいものだからです。

  「金持ちが天国の門を通り抜けるのは、駱駝(ラクダ)が針の穴を通るより難しい」とは聖書の言葉です。金儲けは罪である、金欲は悪だという意識は、現代の資本主義社会ではかなり薄らいできた感はありますが、それでも、例えば過度の利殖行為、つまり金儲けのための金儲けに対して、多くの人は何か眉をひそめます。また同様に、企業にとって利益追求は至上の目的であるとする考え方にも、多くの議論が残るところです。

  さて、考察の問いに戻り、あなたの人生において、金儲けはどんな位置づけでしょうか。生計を立てていくにはお金が不可欠なので、金儲けは「目的」と考えられます。しかし同時に、金を儲けることが、ある別の目的達成のために役立つことがありますので、「手段」ともなりえるでしょう。もしくは、その他の何かであるかもしれません。

◆利益は事業の目的ではなく「条件」である
  この考察問題を解くためには、目的と手段以外に新たに2つの要素を考え起こす必要があります。それが、 「条件」と「成果・報酬・恵み」 です。
  私たちは、そもそも、目的の達成・手段の行使をするために基本的な支えや環境が必要になります。それが「条件」です。条件は間接的に目的や手段利に利く要素となります。

  さて、ピーター・ドラッカーは次のように言います。─── 「事業体とは何かを問われると、たいていの企業人は利益を得るための組織と答える。たいていの経済学者も同じように答える。この答えは間違いだけではない。的外れである。利益が重要でないということではない。利益は企業や事業の目的ではなく、条件である」 (『現代の経営』より)
  ドラッカーは、企業や事業の真の目的は社会貢献であると他で述べています。その真の目的を成すための基本「条件」として利益が必要だと、ここで言及しているのです。

  金は経済の世界では言ってみれば血液のようなものです。人間の体は、血液が常に良好に流れてこそ健康を維持でき、さまざまな活動が可能になります。そして血の流れが止まれば、人体は死を迎える。それと同じように、経済活動の血である金の流れが止まったときには、その経済活動や事業体は死に直面します。ただ、だからといって、血のために私たち人間は生きるのでしょうか? 
「サラサラの血をつくるために、日夜がんばって生きています!」と生き方はどこかヘンです。やはり人間の活動として大事なことは、その身体を使って何を成したかです。血は、肉体を維持するための条件であって、目的にはなりません。そう考えると、利益追求が企業にとっての目的ではなく、条件であるとするドラッカーの指摘は明快な力強さを帯びてきます。
  私たち職業人の一人一人の生活にあっても、金を儲けることは、目的というより、自分がよい仕事をするために必要な基礎条件である───これが1つのとらえ方です。

◆利益は結果的に生まれる「恵み」である
  次に、もう1つの要素である「成果・報酬・恵み」について考えてみましょう。手段を尽くして目的を成就させると、結果的に何かしらの産物が出ます。産物とは、具体的なモノかもしれませんし、目に見えないコトかもしれません。経済的な利益をここに位置づけることもできます。

  
○「本質的には利益というものは
   企業の使命達成に対する報酬としてこれをみなくてはならない」。
                           ───松下幸之助『実践経営哲学』)

  ○「徳は本なり、財は末なり」。
   「成功や失敗のごときは、ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである」。
                                             ───渋沢栄一『論語と算盤』

  松下幸之助は、事業家・産業人として 『水道哲学』 というものを強く抱いていました。それは、蛇口をひねれば安価な水が豊富に出てくるように、世の中に良質で安価な物資・製品を潤沢に送り出したいという想いです。松下にとって事業の主目的は、物資を通して人びとの暮らしを豊かにさせることであり、副次的な目的は、雇用を創出し、税金を納めるということでした。そして、そうした目的(松下は“使命”と言っていますが)を果たした結果、残ったものが利益であり、それを報酬としていただくという考え方でした。

  一方、明治・大正期の事業家で日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は、財は末に来るもの、あるいは糟粕のようなものであると言いました。仁義道徳に基づいた目的や、その過程における努力こそが大事であって、その結果もたらされる財には固執するな、無頓着なくらいでよろしいというのが、渋沢の思想です。

  渋沢は、第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、そして一橋大学や日本赤十字社などに至るまで、多種多様の企業・学校・団体の設立に関わりました。その活躍ぶりからすれば、「渋沢財閥」 をつくり巨万の富を得ることもできたのでしょうが、「私利を追わず公益を図る」という信念のもと、蓄財には生涯興味を持ちませんでした。
  このように、お金や利益を儲けようとか追求しようとか、それを主たる動機にするのではなく、主たる動機は別にあって、お金や利益はそのための“前提”として大事である、“結果的”に授かるものである、というのがドラッカーや松下、渋沢のとらえ方です。


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◆金儲けをどう位置づけるかは自分の意思
  とはいえ、やはり、お金や利益を目的にする人たちはいます。金融商品で投機的に利益を出そうとする行為はその典型です。また、儲けることが効果的な手段になる場合もあります。深刻な経営危機から再生を図る企業にとって、四の五を言わず、利益を出すことは重要な手段です。大幅な赤字決算、大規模なリストラから立ち直る途上において、「利益が出た!=黒字に戻った!」というのは、何よりの社内活気づけの材料になるからです。

  以上、金儲けは目的か手段かについて考察してきましたが、結論から言えば、それは目的にもなりえるし、手段にもなりえる。あるいは、条件や成果・報酬・恵みにもなりえます。より正確には、これら4つの要素の複雑微妙な混ざり合いとなるでしょう。どの要素の比重が大きくなるかは、その人の意思によって決まります。───こういうふうに結論付けると、読者は「何か平凡な結びだなぁ」と感じるかもしれません。しかし、平凡ではありますが、経済を営む私たち1人1人はよくよくこのことを真面目に受け取らねばなりません。この世で、金を魔物にするも天使にするも、それは人間次第。金に振り回される社会になってしまうのも、金をうまく使える社会にするのも、結局、人間の意思に任されているのですから。

 

→ 目的と手段を考える〈上〉を読む

Haramura rf
長野県諏訪郡原村にて



2011年10月15日 (土)

目的と手段を考える〈上〉


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  私たちは日々の仕事をしていく中で、また中長期に仕事人生を歩んでいく中で、自分のやっていることが袋小路に入ってしまうことがよくあります。そんなとき、冷静に原因を分析してみると、いつしか当初の目的がどこかに消えてしまっていて、手段が目的にすり替わり、それに振り回されていたことに気づく───そんな経験はみなさんお持ちでしょう。何かを成し遂げようとするとき、目的と手段をきちんと理解しているか否かは、事の結果に大きく影響します。本稿ではその目的と手段について改めて考えます。

◆目的と手段の基本的な形
  「目的」とは目指す事柄をいいます。そして、その事柄を実現する行為・方法・要素が「手段」です。何かを成し遂げようとするとき、目的と手段は1セットになっていて、平たく言えば、 「~のために〈=目的〉」+「~する/~がある〈=手段〉」 という形になります。例えば、「平和を守るために、署名活動をする」、「平和を守るために、法律がある」といったような形です。その関係を図に示すとこうなります。


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◆目的と手段は相対的に決まる
  さて、冒頭の疑問のように、私たちはときとして、何が目的で何が手段であったか混乱してしまう、気がつけば手段が目的に入れ替わっていたなどという経験をよくします。これはなぜでしょうか───。それは、目的と手段は目線を置くレベルによって「相対的」に決まるものだからです。つまり、あるレベルでは目的であったものが、違うレベルでは手段になりうるということが起こるのです。それを図で考えてみましょう。

  
図2は、ある一般的な人の人生の流れを例として描いたものです。レベル1は、小学校低学年のときのことを思い出してください。このころは、「テストでいい点を取る」ために、「しっかり算数を習う・きちんと漢字を覚える」という目的・手段の組み合わせがあります。ところが、レベル2の高校生くらいになると状況が変わってきます。レベル1では目的だった「テストでいい点を取る」は、レベル2では手段となります。その手段の先には、「希望の大学に入り、好きな研究をするため」という目的が新たに生じたのです。しかし、人生が進み、就職段階のレベル3にくると、レベル2で目的だった「希望の大学に入り、好きな研究をする」は、新たな目的である「専門を生かした就職をするため」の手段となります。


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  このように、ある1つの目的は、より大きな目的の下では手段となります。つまり、自分がどのレベルに目線を置くかによって、何が目的か、何が手段かが、相対的に決まってくるわけです。自分が常に意欲的になって、ある1つの目的を達成した後、次の新たな目的を掲げ続ける限り、この目的・手段の入れ替わりはどこまでも続いていくことになります。このことは逆方向もまた真なりで、何を成したいかという目線が下がってしまっても、やはり目的・手段の入れ替わりが起こります。

◆目的=目標+意味
  目的について、もう1点重要なことを加えておきましょう。目的と目標の違いは何でしょうか───。目標とは、単に目指すべき状態(定量的・定性的に表される)や目指すべき具体的なもの(例えば、模範的な人物や特定の資格など)をいいます。そして、そこに意味や意義が付加されて目的となります。したがって、両者の関係を簡潔に表すと、 「目的=目標+意味」 となります。

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  実際のところ、何か事を成すにあたって、目的の代わりに目標を置くことはできます。しかし、この場合、意味が欠如しているので、実行者にとっては「目標疲れ」が生じることがあります。昨今の職場に疲弊感が溜まっているというのは、実は、向かう先に意味を感じていないがための目標疲れであることが要因の1つです。ですから、私たちは目標に意味を加え、目的に変えなければ、強く長く働いていけません。
  いずれにせよ、目的は「目標+意味」、この2つの要素がそろってはじめて目的と呼べるようになります。目標なき目的は、単なる理想論・絵空事となるおそれがあります。また、意味なき目的は、単なる割り当て(ノルマ)となるおそれがあります。

 ではここで、目的と手段について、先達たちの言葉を拾ってみましょう。

 ○「知識の大きな目的は、知識そのものではなく、行為である」。
          ───トマス・ヘンリー・ハクスリー(イギリスの生物学者)

 ○「私の哲学は技術そのものより、思想が大切だというところにある。
  思想を具現化するための手段として技術があり、
  また、よき技術のないところからは、よき思想も生まれえない。
  人間の幸福を技術によって具現化するという技術者の使命が私の哲学であり、
  誇りである」。
 

                                      ───本田宗一郎『私の手が語る』

 ○「最も満足すべき目的とは、一つの成功から次の成功へと無限に続いて、
  決して行き詰ることのない目的である」。 

                                ───ラッセル『ラッセル幸福論』

 ○「組織は、自らのために存在するのではない。組織は手段である。
  組織の目的は、人と社会に対する貢献である。
  あらゆる組織が、自らの目的とするものを明確にするほど力を持つ」。 

                            ───ピーター・F・ドラッカー『断絶の時代』

◆自問リスト
  さて、今の自分の仕事の目的と手段について振り返るとどうなるでしょうか。次の問いを自分に投げかけてみてください。

  〈Ask Yourself〉
  □あなたの今担当している仕事の
    ・目標は何ですか?
    ・意味(自分なりに見出した価値・やりがい・理由・使命・大義)は何ですか?
  □あなたの今得ている知識や技能は、何を成すためのものですか? 
   その知識や技能の習得自体が目的になっていませんか?

  □今の仕事において、目的は手段を強め、また同時に手段は目的を強めているでしょうか?
  □今の目的の先に、もう一つ大きな目的を想像することができますか?
  □あなたの所属している組織(課や部、会社)の事業目的、存在目的は何ですか?
   また、それら目的をメンバーで共有していますか?



【補足:目的と手段の特殊な形】
  以下、補足として目的と手段の特殊な形を3つ書き添えます。
1つめに、目的と手段が一体化するという形。手段という行為がそのまま目的化するもので、これを「自己目的的」と呼びます。例えば、芸術家の創作がそうです。画家は絵を描くために、絵を描きます。美の創造はそれ自体目的であり、手段ともなるのです。岡本太郎はこう言っています。

  ○「芸術というのは認められるとか、売れるとか、そんなことはどうでもいいんだよ。
   無条件で、自分ひとりで、宇宙にひらけばいいんだ」。

                                     ───岡本太郎『壁を破る言葉』

 次に、目的がなく(またはその意識がなく)、ただその行為に没頭する形です。これは、ポジティブな「無目的的」行為で、例えば、子どもの遊びが当てはまるでしょう。『エクセレント・カンパニー』の著者であるトム・ピーターズは、砂で遊ぶ子どもの様子をこう書いています。私たちも子どもの遊びのように、一心不乱に仕事に没頭できたら幸せですね。

 
○「遊びはいい加減にやるものではない。真剣にやるものだ。
  ウソだと思うなら海辺で砂のお城を作っている子供を見てみるといい。
  まさに一心不乱、無我夢中・・・。作り、壊し、また作り、また壊し・・・。
  何度でも作り直し、何度でも修正する。ほかの物は目に入らない。
  ぼんやりよそ見をしていれば、お城は波にさらわれてしまう。失敗は気にしない。
  計画はいくら壊してもいい。壊していけないのは夢だけだ」。 

                       ───トム・ピーターズ『セクシープロジェクトで差をつけろ!』

 
そして、3番めは、目的がなく(またはその意識がなく)、ただその行為に漂流する形です。これはネガティブな「無目的的」行為であり、例えば、絶望者の行動が当てはまるでしょう。社会学者のクルト・レヴィンは、絶望者の行動を次のように表現しています。

 
○「人は希望を放棄したときはじめて「積極的に手を伸ばす」ことをやめる。
  かれはエネルギーを喪失し、計画することをやめ、
  遂には、よりよき未来を望むことすらやめてしまう。
  そうなったときはじめて、かれはプリミティヴな受身の生活に閉じこもる」。

                              ───クルト・レヴィン『社会的葛藤の解決』


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  → 「目的と手段を考える〈下〉~金儲け目的か手段か?」に続く


 

2011年10月10日 (月)

留め書き〈024〉~悪神のささやき -続-


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     「ほぅ、程々の生き方じゃ駄目だってことかい。
     しかし、“もっともっと”っていうお盛んな欲をもった人間が
     成果を一人占めしようとして、世の中の差別と蔑みを生んでるんじゃないのかい。

     いったいぜんたい、おまえさんは
     『2:8』の「2」の人間が、富の8割を押さえている世の中をどう思う?
     我々はいまこそ古人の言葉に耳を傾けるときではないのかね。
     ───“足るを知れ”と」。


* * * * *

正義を行いたいとする欲望は、
いつしか独善を強いる欲望へと変わるときがある。
愛したいという気持ちは、
知らぬ間に憎んでやるという気持ちへ変じる可能性がある。
「お金をもっと稼ぎたい」という欲求が健全に仕事と生活を進める場合もあれば、
それで身を持ち崩す場合もある。

自分に湧いてくる欲望に「善」「悪」のラベルが付いているわけではない。
また、どこまでが「OK」で、
どこを超えると「OKでない」かの線引きがあるわけでもない。

だから、人間の欲望は促進すべきなのか、それとも抑制すべきなのか、
これは簡単に答えを出せる問題ではない。
欲望には、「陽の面」と「陰の面」があって、人間を育てもするし、惑わしもする。
社会を進歩させもするし、混乱させもするのだ。

大事なことは、欲望の底にある心持ちがどうであるかだ。
もし、その欲望が、自分だけに閉じた(つまり小我的)感情で、
他と不調和的な心持ちから起こっているなら、「陰の面」が出てしまうだろう。
こんなときは、他人をかえりみず「欲を貪(むさぼ)る」、
もっと成長できるにもかかわらず「欲を怠(おこた)る」という状態が起こる。

逆に、その欲望が、社会に開いた(つまり大我的)意志で、
他と調和的な心持ちから起こっているなら、「陽の面」が出るだろう。
そのときは、健全に「欲を制する」、
自分の可能性を縦横無尽に伸ばせるよう「欲を開く」という状態になる。

ここでの悪神のささやきにはトリックがある。
悪神は「足るを知る」という玉条をもって、
欲をすべて一絡げにして“程々にせよ”と耳打ちする。
富の偏りをあげて、欲の強さを一緒くたに金欲に結びつける。

私たちが自身に求めるべきは、
欲を押し並べて“程々”にすることではない。
その欲を自己以外に開いていくことだ。
そうすれば自然と大きな智慧が湧いてきて、
貪欲でいいときと、抑制すべきときの見境がきっちりできるようになる。

賢く強く生きるために、私たちは己の欲望の主人になることだ。



→  悪神のささやき〈前編〉を読む

 

留め書き〈023〉~悪神のささやき



Tome024 



       「人生の幸福なんてもんは、“鈍感さ”で決まるのさ。
       この世は鋭い人間ほど不幸を味わうように出来ているだろう。
       だから幸せになりたかったら、ゆめゆめ鋭い人間にならないことだね。
       幸福は絶対量じゃなく、充足度だからさ。
       高いものを求めれば求めるほど、現実との差で苦しみが増す。
       十の者が、殊勝にも百を求めるところから不幸は始まるんだ
       十の者が、六か七で満足していれば、それはもう幸福そのものさ。
       野心にしても、向上心にしても、程々に留めておくのが賢い生き方ってもんだ」。


* * * * *


アリやミツバチ、そして人間の社会には、 『2:8(ニ・ハチ)の法則』なるものがあって、
真面目に働く者が2割・テキトーに働く者が8割で社会が回っていくらしい。
ちなみに、アリの巣から2割の働き蟻を取り除くとどうなるか?───
すると不思議なことに、真面目な働き蟻が2割現れて巣全体が存続していくという。

……じゃ、いつまでもしぶとく、
テキトー組に居座っていたほうがラクに生きられる、そう考えたくもなる。

確かに、会社組織を見渡してみても、
問題意識が鋭敏で、仕事ができる人間にはどんどん仕事が集まってくる。
そのために、仕事で身体を壊すのは決まって、鋭敏なできる社員だ。
会社のテキトー族が過労で倒れることなど聞いたことがない。

組織内でヘタに向上意欲をもち、成長だ、変革だなとど責任感を背負って頑張るより、
叱られない程度・クビにならない程度に鈍くテキトーに立ち回る側にいたほうが
シアワセなサラリーマンライフを送れる───これが組織の中の処世術なのかもしれない。

“テキトー”という言葉が悪ければ、”ホドホド(程々)”という表現でもいいのだが、
いずれにせよ「ホドホドは身を助ける」という生き方が勝利を得ている現象を
私たちは少なからず目にする。

しかし、実際のところ、
「あいつは適当にやっていつもラクをする人間だ」とか
「うちの部長は保身的で何もせず、ただ部下を厳しく働かせるだけの上司だ」とか、
他人にそういうレッテルを貼って、人と自分を分断させることはあまり建設的ではない。
むしろ、これは「己心の対話」としてとらえたい。

『2:8の法則』の

「2」の方に回る生き方か、
「8」に回る生き方か。

「鋭く・上を目指して」の行動を起こすのか
「鈍く・テキトーに」の行動で流すのか───。

私たち一人一人は、
心の内で常にその綱引きをしながら一瞬一瞬、一日一日、一年一年を生きている。
私たちは誰しも、「強い自分」と「弱い自分」、
「打ち勝とうする心」と「流される心」の2つをもっているのだ。
そして、その両者の綱引きが、10年、20年という時間単位を経て、
各々の人生コース・生き方の模様が独自のものとして固まっていく。



→ 悪神のささやき 〈後編〉に続く



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山梨県・小淵沢から蓼科方面へ「八ヶ岳エコーライン」を走る

 

 

2011年10月 5日 (水)

正常値に収まっているから健康なのではない


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野菜の市場はさながら「自然の造形ワンダーランド」。
ひとつひとつのいのちが纏(まと)うひとつひとつの造形は、人為ではとうていつくりえない表現物。

───八ヶ岳中央農業実践大学校(長野県)の直売所にて



昨晩、テレビのニュース番組で、
聖路加国際病院理事長の日野原重明さんが100歳を迎えたことを報じていた。いまも現役で医療活動を続ける先生の姿を拝見するたび、

自分も生涯かくありたいと気が引き締まる思いです。
私の読書メモから先生の言葉をひとつ紹介しましょう。


  「健康とは、数値に安心することではなく、
   自分が『健康だ』と感じることです」。

              ───日野原重明『生きかた上手』より


私たちは、なにかと数値で管理し(され)、時間で管理する(される)時代に生きています。
仕事上のことのみならず、生活上のことまで、
管理表や時計の中に収まるよう自分を仕向けます。
数値管理による生活は、“小さな安心・満足”は得られても、
生きていることの“大きな実感・自由感”は失われます。
ときに数値を離れ、時計をはずして、
自分の感覚で伸び伸びと生活を味わうことが大切ではないでしょうか。

* * * * *

私たちはしばしば、数値に収まること、数値を獲得することを目的化するときがあります。
そのとき、たいてい手段が目的に変わってしまっている場合が多いものです。

私はフィットネスクラブに通っていますが、そこでは、
「体脂肪率を何%以下にする」「胸周りの筋肉を何cm増やす」「背筋力を何kgまで強める」
といったことを目標に日々クラブ通いする人たちがいます。
「この数値のためなら、多少健康を損ねてもいい!」くらいの勢いの人もいます。
また、英語検定のひとつにTOEICがありますが、
「TOEICで満点を取る」ことをひたすら目指す人たちも世の中にたくさんいます。
これらは趣味だと考えれば、向上意欲をもった立派な趣味なので、
おおいにけっこうなことではあります。

しかし、やはり最終的に大事なことは、
それら数値に収まること、数値を獲得することを超えて、
その健康な身を使って何を行うか、その語学力で誰に何を語るか、です。
結局、身体や言語は、何か事を成すための手段なのです。

健康のことで言えば、
日野原先生は生きがいをもつことが最大の健康法だとおしゃっています。
生きがいとは、生きる上での“大きな意味”です。
大きな意味のために、自分の身を最大限に活かして使っていく。
その過程の中でこそ、人は伸び伸びと健康になっていくものだと思いますし、
健康でなければよい仕事ができないので、自然と健康増進にも気を配るようになる。

結局、「目的」が一番大事です。
目的の質とレベルに応じて、人は強くなり、賢くなれるのです。



 

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