目的と手段を考える〈下〉~金儲けは目的か手段か?
目的と手段の理解を深めるために考察問題を出しましょう。 「金儲け(利益追求)は、仕事(あるいは会社)の目的か?それとも手段か?」 という問いです。これに対し、あなたはどんな答えを持つでしょうか。
ところで、金を儲けることは、人類が貨幣を考案したとき以来、社会に多くの考える題材を与えてきました。お金は欲望に直結しており、変幻自在で強大な力を持っていますし、それを考え扱うには倫理観や価値観もありますから、非常にとらえようが難しいものだからです。
「金持ちが天国の門を通り抜けるのは、駱駝(ラクダ)が針の穴を通るより難しい」とは聖書の言葉です。金儲けは罪である、金欲は悪だという意識は、現代の資本主義社会ではかなり薄らいできた感はありますが、それでも、例えば過度の利殖行為、つまり金儲けのための金儲けに対して、多くの人は何か眉をひそめます。また同様に、企業にとって利益追求は至上の目的であるとする考え方にも、多くの議論が残るところです。
さて、考察の問いに戻り、あなたの人生において、金儲けはどんな位置づけでしょうか。生計を立てていくにはお金が不可欠なので、金儲けは「目的」と考えられます。しかし同時に、金を儲けることが、ある別の目的達成のために役立つことがありますので、「手段」ともなりえるでしょう。もしくは、その他の何かであるかもしれません。
◆利益は事業の目的ではなく「条件」である
この考察問題を解くためには、目的と手段以外に新たに2つの要素を考え起こす必要があります。それが、 「条件」と「成果・報酬・恵み」 です。
私たちは、そもそも、目的の達成・手段の行使をするために基本的な支えや環境が必要になります。それが「条件」です。条件は間接的に目的や手段利に利く要素となります。
さて、ピーター・ドラッカーは次のように言います。─── 「事業体とは何かを問われると、たいていの企業人は利益を得るための組織と答える。たいていの経済学者も同じように答える。この答えは間違いだけではない。的外れである。利益が重要でないということではない。利益は企業や事業の目的ではなく、条件である」 (『現代の経営』より)。
ドラッカーは、企業や事業の真の目的は社会貢献であると他で述べています。その真の目的を成すための基本「条件」として利益が必要だと、ここで言及しているのです。
金は経済の世界では言ってみれば血液のようなものです。人間の体は、血液が常に良好に流れてこそ健康を維持でき、さまざまな活動が可能になります。そして血の流れが止まれば、人体は死を迎える。それと同じように、経済活動の血である金の流れが止まったときには、その経済活動や事業体は死に直面します。ただ、だからといって、血のために私たち人間は生きるのでしょうか? 「サラサラの血をつくるために、日夜がんばって生きています!」と生き方はどこかヘンです。やはり人間の活動として大事なことは、その身体を使って何を成したかです。血は、肉体を維持するための条件であって、目的にはなりません。そう考えると、利益追求が企業にとっての目的ではなく、条件であるとするドラッカーの指摘は明快な力強さを帯びてきます。
私たち職業人の一人一人の生活にあっても、金を儲けることは、目的というより、自分がよい仕事をするために必要な基礎条件である───これが1つのとらえ方です。
◆利益は結果的に生まれる「恵み」である
次に、もう1つの要素である「成果・報酬・恵み」について考えてみましょう。手段を尽くして目的を成就させると、結果的に何かしらの産物が出ます。産物とは、具体的なモノかもしれませんし、目に見えないコトかもしれません。経済的な利益をここに位置づけることもできます。
○「本質的には利益というものは
企業の使命達成に対する報酬としてこれをみなくてはならない」。
───松下幸之助『実践経営哲学』)
○「徳は本なり、財は末なり」。
「成功や失敗のごときは、ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである」。
───渋沢栄一『論語と算盤』
松下幸之助は、事業家・産業人として 『水道哲学』 というものを強く抱いていました。それは、蛇口をひねれば安価な水が豊富に出てくるように、世の中に良質で安価な物資・製品を潤沢に送り出したいという想いです。松下にとって事業の主目的は、物資を通して人びとの暮らしを豊かにさせることであり、副次的な目的は、雇用を創出し、税金を納めるということでした。そして、そうした目的(松下は“使命”と言っていますが)を果たした結果、残ったものが利益であり、それを報酬としていただくという考え方でした。
一方、明治・大正期の事業家で日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は、財は末に来るもの、あるいは糟粕のようなものであると言いました。仁義道徳に基づいた目的や、その過程における努力こそが大事であって、その結果もたらされる財には固執するな、無頓着なくらいでよろしいというのが、渋沢の思想です。
渋沢は、第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、そして一橋大学や日本赤十字社などに至るまで、多種多様の企業・学校・団体の設立に関わりました。その活躍ぶりからすれば、「渋沢財閥」 をつくり巨万の富を得ることもできたのでしょうが、「私利を追わず公益を図る」という信念のもと、蓄財には生涯興味を持ちませんでした。
このように、お金や利益を儲けようとか追求しようとか、それを主たる動機にするのではなく、主たる動機は別にあって、お金や利益はそのための“前提”として大事である、“結果的”に授かるものである、というのがドラッカーや松下、渋沢のとらえ方です。
◆金儲けをどう位置づけるかは自分の意思
とはいえ、やはり、お金や利益を目的にする人たちはいます。金融商品で投機的に利益を出そうとする行為はその典型です。また、儲けることが効果的な手段になる場合もあります。深刻な経営危機から再生を図る企業にとって、四の五を言わず、利益を出すことは重要な手段です。大幅な赤字決算、大規模なリストラから立ち直る途上において、「利益が出た!=黒字に戻った!」というのは、何よりの社内活気づけの材料になるからです。
以上、金儲けは目的か手段かについて考察してきましたが、結論から言えば、それは目的にもなりえるし、手段にもなりえる。あるいは、条件や成果・報酬・恵みにもなりえます。より正確には、これら4つの要素の複雑微妙な混ざり合いとなるでしょう。どの要素の比重が大きくなるかは、その人の意思によって決まります。───こういうふうに結論付けると、読者は「何か平凡な結びだなぁ」と感じるかもしれません。しかし、平凡ではありますが、経済を営む私たち1人1人はよくよくこのことを真面目に受け取らねばなりません。この世で、金を魔物にするも天使にするも、それは人間次第。金に振り回される社会になってしまうのも、金をうまく使える社会にするのも、結局、人間の意思に任されているのですから。