寝る前の30分間はテレビを消そう
奈良公園から東大寺大仏殿の金色の甍(こんじきのいらか)を望む
◆「孤の時間」をつくれ
「我々が一人でいる時というのは、
我々の一生のうちで極めて重要な役割を果たすものなのである。
或る種の力は、我々が一人でいる時だけにしか湧いて来ないものであって、
芸術家は創造するために、
文筆家は考えを練るために、
音楽家は作曲するために、
そして聖職者は祈るために一人にならなければならない」。
───アン・モロウ・リンドバーク『海からの贈物』
多くの現代人が無くしているもののひとつに、「孤の時間」があります。
ここで言う「孤の時間」とは、自分一人になって何かを思索する時間です。
(一人になって漫然とダラダラ過ごす時間ではありません)
特に若い人ほど、孤独な時間を怖がるようです。
あるいは、一人でいるのを何か友だちのないカッコ悪いこととしてとらえがちです。
しかし、孤の時間を豊かに持つことは、
友人・知人を多く持つことと同様に、人生にとって大切なことです。
歴史上のあらゆる偉業や名作には、
たとえそれが複数の人間の手で成されたものであっても、根本は、
一人の人間の「孤の時間」の中で芽生え、醸成され、決断された思考や意志が
決定的に必要だったのです。
「孤の時間」を持つために、私は2つのことを勧めています。
1つは、散歩すること。
もう1つは、夜寝る前の30分間はテレビを消して、
古典名著とか偉人伝とか大きな規模の本を読むことです。
週1日でも2日でも、こうしたことを習慣にしてみると、
3ヵ月もすれば自分が何か変わってくるのがわかるでしょう。
そしてそれは5年、10年、20年の時間でみると、
人生コースを変える大きな力になります。
思索といっても、眉をひそめながら何かを考え込むことでなくていいんです。
想いや願い、アイデアを自由に伸び伸びと巡らせることです。
何か答えを見つけようとするのではなく、
自分の思考空間が広がっている、深まっていることを楽しむことです。
そして静寂さを滋養に変える体験をすることです。
こうした祈りにも似た作業、思想の深呼吸をする暇(いとま)をもつことがいまの日本人には必要です。
◆「人とほんとうにつながる」ってことは何だろう
「僕らはたいてい、部屋にいるよりも、
人と交わっているときの方がずっと孤独である」。
───ヘンリー・デイヴィッド・ソロー『森の生活』
私たちは誰しも、人とつながりたい、つながりあっていたい、と願う。
だからパーティーへ行く、宴会も出る、集まりにも加わる、
ミクシィもやる、フェイスブックもやる、ツイッターもやる。
けれど、つながりの拡大に比例して
いっこうに気持ちがどっしりしてこないのはなぜでしょう。
それはそのつながりや交わりがほんとうのものでないからかもしれません。
じゃぁ、「ほんとうのつながり」って何だろう───?
それは少し月並みの答えになりますが、
「深いところで強くつながる」こと。
じゃぁ、「深く強くつながる」ためにはどうすればいいのだろう───?
それは「深く強く自分を突き出す」こと。
そのヒントは─── “Only is not lonely.”
「Only is not lonely.」は、
糸井重里さんが主宰するウェブサイト『ほぼ日刊イトイ新聞』の表紙ページに
掲げられているコピーです。
「オンリー(唯一)であることは、必ずしもロンリー(孤独)ではない」
というメッセージには、味わい深いものがあります。
糸井さんはこう書いています───
「孤独」は、前提なのだ。
「ひとりぼっち」は、当たり前の人間の姿である。
赤ん坊じゃないんだから、誰もあんたのために生きてない。
それでも、「ひとりぼっち」と「ひとりぼっち」が、
リンクすることはできるし、
時には共振し、時には矛盾し、時には協力しあうことは
これもまた当たり前のことのようにできる。 (中略)
「ひとりぼっち」なんだけれど、
それは否定的な「ひとりぼっち」じゃない。
孤独なんだけれど、孤独じゃない。
───糸井重里「ダーリンコラム」(2000-11-06)より
個性のない人たちが群れ合って、尖がった個性や出るクイを批評し、
つぶすということが組織や社会では往々にして起こります。
また、孤独を怖がる人たちが、
やはり孤独を同じように怖がる人たちと、不安しのぎの結び付きをすることもあります。
しかし同時に、
「オンリーな人」たちが、深いところでつながって互いを理解し合い、
強く創造し合うということも起こります。
オンリーな存在として一人光を放とうとするとき、
真の友人が不思議と何処からか寄ってきます。
そしてオンリーであることを研ぎ澄まそうと一所懸命にもがいていると、
いつしか同じ志のネットワークのなかに自分がいることに気づきます。
こうしてオンリーは決してロンリーではなくなるのです。
残業の日々が続き、ふと帰宅途中に、月明かりの下で触れた街路樹の木肌のやさしさを
どうしようもなく文字にして書きつけたくなったとき、その人は、
宮沢賢治の詩とつながるかもしれません。
そしてそこでは、現代の物質文明をある距離から見つめ、
自然や宇宙からインスピレーションを感じている人たちが結び付きあっています。
周囲に蔓延する「しょうがない」「変わるはずがない」といったあきらめの空気のなかで、
一人立ち上がって事を起こそうと戦うとき、その人は、
マハトマ・ガンジーやキング牧師の生き様とつながるかもしれません。
そしてそこでは、世の中をよりよくしたいという情熱を持ち、
けれども多くの人の内にある保身主義、悲観主義の手ごわさを痛感している人たちが
心を通わせあっています。
大衆的な人気取りの芸術、権威に守られた芸術に抗うように
一人反骨の創造の炎を燃やそうとするとき、その人は、
岡本太郎の言葉とつながるかもしれません。
そしてそこでは、認められようが認められまいが、
自分の叫びを形に表そうとする人たちが勇気を与え合っています。
私たちは、深く強く自分自身を突き出すとき、
同じように深く強く生きた人たちと、時空を超えてピーンと交信ができます。
「あぁ、この人も自分と同じように、いや自分以上に、苦悩したんだ。
そして頑張ってる」───
こうした心の対話ができる関係が、“ほんとうにつながる”状態をつくる。
孤独は孤立を意味しない。
むしろ真の孤独を知った人どうしは、深く強く結ばれる。
そのために、私たちは、孤独にものを考える時間が必要です。
さて今晩、寝る前の30分間、テレビを消してみてはどうですか───。
早朝に興福寺五重塔を歩く