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2012年6月

2012年6月27日 (水)

新著『プロセスにこそ価値がある』刊行!

プロセスにこそ価値がある
今朝、出版社から届いた著者献本分の10冊。

書籍は今後、その大部分が電子メディアに置き換わっていくのだろうが、書き手・作り手にとってみれば、
やはり「手触り感」ある紙媒体の本として出来上がってくるほうが、比べようもないほどに嬉しいもの。



* * * * *

このたび独立後7冊目となる著書を上梓することができました。 プロセスに価値カバーs

『プロセスにこそ価値がある』
(メディアファクトリー新書)

〈序章より〉
仕事を嬉々としてやれる。嬉々とまではいかなくとも、穏やかに興味を持ってやり続けられる。「目標疲れ」しにくい仕事人生にしていく。そのために重要なことは何か?───それがこの本のテーマである「プロセス(過程)を大事にしよう」です。もう一つ加えておけば、結果とプロセスの先に「意味」を見つけることです。
この本は、目標や結果に追われるビジネス現場で、いま一度、「プロセス」について考えてみよう。すると毎日の仕事の景色が変わってくるぞ、そして中長期的に地に足の着いたキャリアを歩んでいけるぞ、という提言をまとめたものです。


きょうはこの本の中の議論を一部ここで紹介したいと思います。

* * * * *

   私が行っている企業内研修のサービスの中で、『キャリアMQ』という診断ツールがあります。これは個々の従業員の働くマインドや価値観がどんな傾向性を帯びているかを、65の設問に答える形で判定するものです。そこに次のような問いがあります。さて、AとBにつき、あなたはどちらの考え方に近いでしょうか───?

A;
「多少の無理や違和感があっても、
組織と合意して決めた業務目標をクリアするところに
働き手の成長がある」。

B;
「仕事はやりがいや納得感を最優先に設計されれば、
結果は後から付いてくるものだ。
無理な目標設定はかえって働き手のモチベーションを下げてしまう」。


   ……Aは「形ある成果を出すこと」を上位に考え(=結果主義)、Bは「きちんとプロセス(過程)を整えること」を上位に考えるもの(=プロセス主義)といえます。
   例えば、あなたがいま、いつも厳しい数値目標達成に走らされる部下であれば、「私は断然、Bです」と答えるでしょう。しかし、もし自分が経営危機に陥っているベンチャー企業の社長だったらどうでしょう。そのとき「私はBです」だなんて悠長なことを言っていられるでしょうか。

   で、実際のところ、このAとBの回答割合はどうなっているのか。私の顧客企業からデータを取って算出してみました。


Rvsp res02


   図にまとめたとおり、一般社員では人数のうえで、ほぼ7割(68%)が「プロセス重視」です。中間管理職はどうでしょう。状況は逆転して「結果重視」(52%)に振れています。これは経営側に寄っていけばいくほど、結果=利益を出さなければ、会社が回っていかないことの責任意識が強くなるためでしょう。あるいは、若い者をヘタに甘やかしてはだめだ、試練をもって成長させなければならない、といった年配者独自の考え方があるのかもしれません。
   しかしここで注目すべきは、結果重視とはいえ、中間管理職のなかで「プロセス重視」とする人数の割合は48%であり、半数に近いのです。これはおそらく、彼らもまた組織のなかでは上司を持つ身であり、「結果を出せ」のプレッシャー下にある身だからかもしれません。

   「結果とプロセス」のどちらが大事か?───は、とても悩ましげな問題です。「結果もプロセスもどちらも大事」と言ってしまうことは簡単ですが、それだけだと思考や意識が発展していきません。このテーマを深く考えることは、やがて「働くとは何か?」「仕事の幸福とは何か?」につながっていくからです。

◆「しんどくてツライ」か・「しんどいけど楽しい」か
   私は、企業の現場で「仕事とは何か?」「よりよいキャリア(職業人生)とは何か?」「プロフェッショナルとは何か?」といったテーマを研修にして実施しています。そうした教育プログラムを開発するにあたって、顧客企業の人事担当者といろいろと討議をするのですが、そのときに必ず出てくる職場問題の一つが、

───「みんな『目標疲れ』している」ということです。

   「目標疲れ」とは、毎期毎期、個人に課される数値目標、担当部署が掲げる数値目標を達成せよというプレッシャーに疲れることです。確かに、目標どおりに結果が出れば、達成感があってうれしいですし、その努力は給料にも反映されることでしょう。ですが、昨今の経済は必ずしも右肩上がりではなくなり、単純に対前年何パーセント増という目標を立てて結果を出すことが難しくなっています。加えて、多くの会社が成果主義制度の導入に踏み切ったことで、「結果を出さなければ」の精神的負荷はますます一人一人の社員に増しています。

   私もサラリーマン時代の経験で知っていますが、思うとおりの結果が出ないときは気分が落ち着かないものです。胃も痛くなるし、頭もさえない。上司との会話もぎこちなくなるし、自分が何かフワフワと漂流している感じで、「このままの状態でいいのかな」と不安にもなります。ましてや年次が上がってきてチームリーダーや管理職ともなれば、今度は自分が目標を部下に課さなければならなくなる。「サザエさん症候群」ではありませんが、日曜の夕食時、テレビからあの番組のテーマ曲が流れてくると、気分が重くなったものです。

   次の図を見てください。Aさん、Bさん、2人の働き様を表しました。

   Aさんの状態は逆台形です。とても不安定で、いまにも倒れそうな感じです。なぜなら、目標が重くのしかかっていて、自分の能力と時間をどう使うかというプロセスが小さくしぼんでいるからです。こういうあっぷあっぷの状態で、なんとか日々の仕事をやりきっている人が、実は日本の職場に増えています。仕事が「しんどくてツライ」という心理モードです。

Hatarakizu


   他方、Bさんはとてもどっしりとした形になっています。言ってみれば「富士山の上に太陽が輝いている」感じです。プロセスが力強く土台をつくり、そこから目標へとつながっています。そして目標の先に目的があります。「目標」と「目的」という言葉は混同して使われがちですが、目標とは単に成すべき数量や状態を言い、目的はそこに「~のために」という意味が加わったものです。

   Bさんの図で注目すべき点は、上で輝いている目的がモチベーション・やる気を起こし、プロセスを刺激していることです。
   人間は意味から力を湧かせる動物です。ですから、結果を出すことのプレッシャーが多少あったとしても、自分のやることに意味を見出していれば忍耐力と継続力をもって頑張ることができます。その力はプロセスを育みます。そして最終的に結果につながっていくわけです。すると、また次の目標に向かっていける。「しんどいけど楽しい。もっと挑戦してみよう!」という気持ちになれるのはこうしたメカニズムによるものです。

   Aさんはいわば、「目標に働かされる働き様」で、
   Bさんは、「みずからの目的に生きる働き様」と言っていいかもしれません。

◆「結果追求」から解き放たれた人間が得る「ライフワーク」
   男子フィギュアスケートの高橋大輔さんは、2010年のバンクーバー冬季五輪で銅メダルを獲得した後、将来のことについて、「スケートアカデミーみたいなものを作ってみたい。僕はコーディネーターで、スピン、ジャンプとかそれぞれを教える専門家をそろえて……」と語っていた。結局、その後も現役続行ということでこの計画はしばらく置くことになりましたが、彼は将来必ず実行すると思います。

   また同じように、プロ野球の読売巨人軍、米メジャーリーグで活躍した桑田真澄さんも引退表明時のコメントは次のようなものでした。───「(選手として)燃え尽きた。ここまでよく頑張ってこられたな、という感じ。思い残すことはない。小さい頃から野球にはいっぱい幸せをもらった。何かの形で恩返しできたらと思う」。その後、彼は若い世代への野球指導の道で精力的に活動を続けています。

   一方、プロサッカー選手として現役にこだわる三浦知良さんはこう言います。───「かなったか、かなわなかったかよりも、どれだけ自分が頑張れたか、やり切れたかが一番重要」、「成功は必ずしも約束されていないが、成長は約束されている」(『カズ語録』より)。

   勝負の世界を生き抜いてきた3人のこうした発言には、「結果を出すこと」を超えたところにある何か深い境地が感じられます。彼らは、いまや、フィギュアスケートと共にある人生、野球と共にある人生、サッカーと共にある人生、そのプロセス自体を深く噛みしめながら毎日を送っている。もちろんプレーをすることは依然最上の喜びでしょうが、人を育てることにも強いやりがいがあるでしょう。スポーツ普及のためにさまざまな場所で論議をし、イベントを企画・開催する。そうしたことに知恵を出すのも刺激的にちがいありません。
   そこには「結果追求」から解き放たれた人間が得た「ライフワーク」があります。ライフワークとは、人生の「大いなる目的」を見つけ、そこに向かう「大いなるプロセス」に没頭できる毎日です。

◆「結果・成功」は一時的な興奮vs「プロセス・意味」は継続的な快活
   有名プロスポーツ選手に限らず、人生の後半からほんとうの自分らしさを手に入れている人たちを観察して、私があらためて思うのは次のようなことです。

○働くことの成熟化に伴って、「結果・成功」志向は弱まっていき、「プロセス・意味」志向になる。これは個人にも組織にも当てはまる。

○つまり、「結果・成功」を手にするよりも、「意味」のもとに自分が生きている/生かされている「プロセス」に、より確かな喜びを感じるようになる。

○「結果・成功」は高揚や興奮を与える。しかし一時的である。「プロセス・意味」は人を快活に・辛抱強くさせる。それは持続的である。

○「プロセスを楽しむこと・意味を見出し満たすこと」がキャリアや人生の目的になる。「結果・成功」はそのための手段となる。「結果を出さねばならない・成功しなければならない」が目的化すると、よからぬ回路にはまり込む。


   このあたりのことを、賢人たちの言葉から補っておきたいと思います。

「人間の値打ちとは、外部から成功者と呼ばれるか呼ばれないかには関係ないものです。むしろ、成功者などと呼ばれない方が、どれだけ本当に人生の成功への近道であるかわかりません。だれが釈迦やキリストを成功者だとか、不成功者だとかという呼び方で評価するでしょうか。現代でも、たとえばガンジーやシュバイツァーを成功者とか、失敗者とかいういい方で評価するでしょうか。世俗的な成功の夢に疑惑をもつ人でなければ、本当に人類のために役立つ人にはなれないと思います」。

                              ───大原総一郎(『大原総一郎~へこたれない理想主義者』井上太郎著より)


「ずっと若い頃の私は百日の労苦は一日の成功のためにあるという考えに傾いていた。近年の私の考えかたは、年とともにそれと反対の方向に傾いてきた」「無駄に終わってしまったように見える努力のくりかえしのほうが、たまにしか訪れない決定的瞬間よりずっと深い大きな意味を持つ場合があるのではないか」。

                                              ───湯川秀樹(『目に見えないもの』講談社学術文庫あとがきより)


   このお二人の無私で透明感のある言葉を、私はようやく咀嚼できるようになってきました。とはいえ、次のメッセージも決して忘れてはならないものです。

「勝ち負けは関係ないという人は、たぶん負けたのだろう」。

                                   ───マルチナ・ナブラチロワ(テニスプレイヤー)


   そう、やはり勝つという結果にはこだわるべきなのです。特に若いうちは、野心でも利己心でも、ギラギラと何かを獲得しようと動き、もがいたほうがいい。最初から結果を求めずに、「私はプロセス重視派です」なんて言うのは、実際のところ、逃避か臆病か怠慢の言い訳にしかなりません。そういう姿勢は、結局、先の2人(大原と湯川)の言った「成功を考えないこと・プロセスが実は大事であること」の深い次元での理解からも遠くなります。

◆幸福とは意味に向かって坂を上ること
   結果や成功を語るとき、そこに忘れてはならないワードは「目的」です(目的は“意味”と置き換えてもよい)。何のための結果を追い求めているのか、何のための成功を欲しがっているのか───それが何か大きな意味につながっているなら、やがて結果も成功も心の中心から外れていくでしょう。代わって、プロセスに身を置くことが幸福感として真ん中に据わってきます。
   ですが、そのとき仕事がまったくラクになるかといえば、そうではないでしょう。ほんとうにやりがいのある仕事はやはり「しんどい」んです。挑戦であり、戦いですから。「けど楽しい」。これが事実です。幸福というのは、決して安穏として夢見心地に浸る状態ではありません。

   「幸福とは、自分が見出した意味に向かって坂を上っている状態」。
   ───これが私の考える幸福の定義です。

   フランスの哲学者アランが『幸福論』(白井健三郎訳、集英社)の中で、「登山家は、自分自身の力を発揮して、それを自分に証明する。かれは自分の力を感ずると同時に考慮する。この高級な喜びが雪景色をいっそう美しいものにする。だが、名高い山頂まで電車で運ばれた人は、この登山家と同じ太陽を見ることはできない。……人は意欲し創造することによってのみ幸福であると言っているとおりです。そして、そうした状態でやっている仕事が、実は「天職」なんだろうと思います。

   「結果とプロセス」どちらが大事か、という問いに対する私の結論は、次の一文に集約されます─── 「大いなる意味」を見つけ、そこにつながる「大いなるプロセス」を一つ一つ楽しもう!
 (「大いなる意味」の下で働くとき、「結果」を出すことは、大いなるプロセスの中に溶け込んでいく、あるいは、「結果が出た/出なかった」に一喜一憂せず泰然自若と構えられるようになる)


   これを日々溌剌と実践できる個人が一人一人増えていくことによってこそ、溌剌とした組織、快活で健やかな社会ができあがるのだと思います。
  
   では、本書でお会いできることを願って!




2012年6月10日 (日)

留め書き〈028〉~読書の3種類

Tome027

読書という名の深呼吸をしよう。
ふかくすえば、ふかくはける。
おおきくはけば、おおきくすえる。



今年、おかげさまで私は2冊著書を出版する予定がある。
うち1冊を今週脱稿することができた。
これについては、あと6月末に書店に並ぶのを楽しみに待つのみだ。
そして、もう1冊のほうの執筆を始める。

人の思考は、みずからが読んできたものに相応して、
大きくもあり小さくもある、深くもあり浅くもある。

だから、深い次元の本を求め、深く汲み取ろうと努力を続けていくと、
自分が書くものもじょじょに深さを得ていく。

また、大きな本を書こうという意欲をもてばもつほど、
大きな本と出会えるようになる。
(どんな本が真に大きな本なのかが見えてくるようになる)


本(=著書)とは不思議なものだ。
本は、その書き手の知識体系や観念世界、情念空間をまとめたものである。

読み手にとっては、自分の外側にある1つのパッケージ物なのであるが、
それがひとたび読書という行為を通じて、自分の内面に咀嚼されるや、
自分の新たな一部となって、
自分の知識体系・観念世界・情念空間をつくりかえる。
これが本の啓発作用というものだ。

その意味では、読書は飲食と同じ。
良い食事は、良い身体をつくり、動くエネルギーとなる。
良い読書は、良い精神をつくり、意志エネルギーとなる。

本は、自分の外側にある一つの縁であり、
それを摂取することによって自分の内側を薫らせるものだ。

* * * * *

読書の役割を、私は主に次の3つで考える。

   〈1〉啓発の読書
   〈2〉獲得の読書
   〈3〉娯楽の読書

1番めは冒頭触れたとおりだ。啓発とは「開き・起こす」ということである。
「啓発の読書」の開き・起こすメカニズムは図に示すとこんな感じだろうか。

Dokusho01

私たちは、まず本を開いて文章を読んでいく。
最初は①「著者の表現世界の中を泳ぐ」わけだ。
そうするうち、著者の伝えてくる内容が、自分にまったく新しかったり、
自分が既にもつ考え方と異なったりして、②「自分の中の知の体系に揺らぎが起こる」。

揺らぎを覚えた自分は、それを排除するか、
それを取り込んで、③「新しい知の体系を再構築しようとする」
そして、
④「その再構築した体系であらためて著者の書いていること
を咀嚼しようと試みる」

図に表れているとおり、啓発の読書によって2つの円が大きくなる。
1つは、②→③で、自分の中の知の体系が再構築され大きくなる。
もう1つは、①→④で、その本を咀嚼できる器が大きくなる。
最初、読んだときは①の器でしか読めなかったものが、
自分の中の知の体系が大きくなることで、④の器で読めるようになったのだ。

このように、啓発の読書の場合、
本が自分を大きくしてくれ、
大きくなった自分が、その本をより大きく読めるようになるという
相互の「拡大ループ」ができあがる。

ちなみに大事なことを加えておくと、
自分が読む本の大きさ・深さというのは、
自分の知の体系の大きさ・深さ(=図でいえば③の円)によって決まる。
だから、いくら良書・偉大な本であっても、
「なんだ、この程度か」と思う人と、
「やっぱりすごいな、この本は!」と思う人と、差が出る。
本というのは、あくまで、自分の読み取る器次第なのである。


次に、2番めの「獲得の読書」について。
獲得の読書とは、情報獲得、知識獲得、技術獲得のための読書をいう。
たとえば、
市場調査のためにさまざまな白書や購買データを読む。
新しい業務の知識を得るために、その分野の専門書を読む。
資格試験のために、技術の解説書や習得マニュアルを読む。

これらの読書は、図に示したように、情報・知識・技術といった固まり・断片を
1つ1つ集めて積んでいくものである。

その集積は、ヨコに広がったり、タテに重なったり、奥に伸びていく。
この集積ボリュームが複雑で大きい人を、博識とか達者と呼ぶ(「オタク」な人もそうだ)。

Dokusho02


最後、3番めの「娯楽の読書」について。
娯楽の読書は、自分を啓発しようとか、何か知識・技術を得ようとか、そういう
目的はなく、ただ、楽しみのために読む行為をいう。
極端に言ってしまうと、読了後に何かが残らなくてもいい、
その経過時間が心地よければいいというものだ。

娯楽とは、英語では「pastime」と書く。
まさに「時間を経過させる=ヒマつぶし」。

この場合の読書の様子は、図のとおり、刺激の上下を楽しむだけだ。
たとえば、サスペンス小説を読むとき、
ハラハラがあり、ドキドキがあり、最後にクライマックスを迎えて終わる。

私は読書をこのように3種類に分けるが、
すべての読書がきっちりこのいずれかに収まるとはいえない。
たいていは3つの混合である。
娯楽として小説を読んだとしても、その小説から啓発を受けて自分の知の体系
が広がることもあるだろうし、何かの知識が増えることもあるからだ。


さて、もっとも有意義であるが、もっとも力を使うのは、
言うまでもなく「啓発の読書」だ。
個人においても、社会全体においても、この読書に向かう意欲が弱まっていることを
感じるのは私だけではないと思う。

社会や時代をつくるものは、経済や文化、教育、政治、宗教などいろいろある。
しかし、その根本は、
個々人に宿る「エートス」ともいうべき、気風・精神性にある。
活き活きとした健全なエートスは「啓発の読書」なしには醸成されない。

個々人が古今東西の書物と一人向き合い、自分の内側を開き・起こさないかぎり、
経済、文化、教育、政治、宗教からの施策などは、うわすべりするだけで、
じゅうぶんな効果は出ない。

日本人はたいていが「読み・書き・そろばん」はできる。
しかし、読むことを通して、自分を耕し、強くすることができなくなっている。
パソコンやスマートフォンの普及で、仕事場でも電車の中でも、
「読む量」は減っていないという分析がある。
確かに「獲得の読書」「娯楽の読書」は、むしろ盛んになっている。
たが、「啓発の読書」は敬遠され、多くの人はそこから逃げたがっている。

良書を一冊手に取って、著者の表現した世界を鑑(かがみ)にして自分の世界を
豊かに掘り起こすという負荷作業がどこか面倒なのだろう。
世の中には、負荷なしに享受できる
心地よいだけのモノ・サービス・コンテンツは溢れている。
しかし、負荷を嫌ってばかりいたら、いつ負荷に立ち向かうというのか。

そうするうち、現実生活の悩みや苦しみ、不遇や事故などの負荷に遭遇して、
「もう生きるのいやだ」ということになるのだろう。

私はいま、この歳になって、石川啄木の『一握の砂』を読み返している。
あれだけの才能に恵まれながら、けっして報われることのなかった26年の生涯。
啄木の自身に懊悩し、時代を先駆け、運命に抗おうとし抗いきれない吐露を
彼の文字の中から汲み取れば汲み取るほど、私は力を得る。
『一握の砂』は物としては、500円前後で買える薄い文庫本である。
しかし、ここからは、ほぼ無尽蔵のものが耕せる。
読書とはなんと手軽で安上がりな、しかし偉大な心の鍛錬機会だろうか。

個人をよりよく変える、社会をよりよく変えるために、
「啓発の読書」は不可欠である。
だからこそ私は、事あるごとに、良書から力ある言葉を引用して、
多くの人を読書に誘いたいと思っている。



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