「火の心」と「水の心」~五輪の感動を消費しないために
この2週間、居間のテレビからはいつもオリンピック中継の熱い映像と音声が流れていたのだが、それも終わり、お盆休みの静けさを取り戻した庭先では、いつの間にか、セミが生命力いっぱいに鳴いている。
3・11以降最初のオリンピックとあって、試合後の街の声は「感動をありがとう」、「勇気をもらえた」というのが多かった。
さて、選手たちはがんばった。4年間の辛く厳しい準備過程を経て、晴れの舞台で精一杯表現した。では、そこから感動・勇気をもらった私たちは、きょうから何にそのエネルギーを生かすか───? それを自分の生活・人生・仕事にうまく生かしてこそ、選手たちへのほんとうの「ありがとう返し」になるのではないか。
興奮や高揚による感動は、ある意味、火のようなものである。
ぼっと燃えあがって、すぅっと消えていく。
誰しも感動したときは、おれもがんばろう!と思う。しかし、それはいわば“火の心”であって、長く保持することは難しい。
生活・人生にはそうした一時(いっとき)の刺激も大事だが、それ以上に大事なのは、そのとき決めたことを持続していく習慣である。習慣は、“水の心”によってなされる。絶え間なく滔々と流れる川の水のように、きのうもきょうも、昨年も今年も、そして5年後も同じように流れてこそ、川は澄み、自分の形となり、海を豊かにしていく。
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「人格は繰り返す行動の総計である。
それゆえに優秀さは、単発的な行動にあらず、習慣である」。
───スティーブン・R・コヴィー 『7つの習慣』
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「同じ情熱、同じ気力、同じモチベーションで持続することができる人が、一番才能がある人じゃないかと思っているのです。奨励会の若い人たちを見ていると、手が見えると言うのですが、一つの場面でパッと発想が閃く人がたくさんいるのです。しかし、だからといって、そういう人たちが全員プロになれるかというと、意外にそうでもないのです。
逆に、そういう一瞬の閃きとかきらめきのある人よりも、見た目にはゆっくりしていて、シャープさはさほど感じられないが、でも確実にステップを上げていく人、ずっと同じスタンスで将棋に取り組むことができる人のほうが結果として上に来ている」。
───羽生善治・今北純一著 『定跡からビジョンへ』
今回、五輪選手たちからもらった感動が単なる興奮だった人は、おそらく、次の興奮を求めて、また別の強い刺激を追いかけるだろう。彼らは退屈が嫌いなのだ。
逆に、この感動を自分をつくるためのものに変換しようと思った人は、何か挑戦の準備をしたり、何か習慣を始めたりするだろう。準備や習慣といったものは、元来、退屈なものである。しかし、この退屈ではあるが、中身を詰めていくプロセスこそが、よりよく生きることの本体である。それは、バートランド・ラッセルが「偉大な本は、おしなべて退屈な部分を含んでいるし、古来、偉大な生涯は、おしなべて退屈な期間を含んでいた」(『ラッセル幸福論』)と書いたとおりである。
人は刺激ばかりを追っていると疲れる。退屈さの中の“耕し”がないと、心身は決して満ちてこない。ロマン・ロランは次のように警告する───「魂の致命的な敵は、毎日の消耗である」(『ジャン・クリストフ(一)』)と。
「水の心」を持って、自分が掲げた目的のもとに、日々の行動を積み重ねていくこと───文章で書けば、これもまた退屈な表現だが、これがなかなかできないのが私たち凡人なのだろう。しかし、考えてみれば、五輪という舞台に立ったアスリートたちは、みな、こうしてきたのだ。あらためて敬服。
祭りは終わった。されど、個々の人生は続く。
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「どんなにゲームで活躍しようが、自分の中では、どこにも、何にも到達していないという感じです……人生と同じで、死ぬまでの間は通過点なんです」。
───三浦知良 『カズ語録』
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「一日は一年の縮図である。夜は冬、朝と夕方は春と秋、そして昼は夏である」。
───ヘンリー・ディビッド・ソロー『森の生活』
さて、きょう一日、何をしようか。
一日即一年、一日即一生である。
*(引き続き行われるパラリンピック出場の選手のみなさんのご活躍も期待します)