「苦」と「楽」の対称性
強烈な個性を発し続けるミュージシャン、矢沢永吉さんが糸井重里さんとの対談で次のように語っていた。
矢沢:いいことも、わるいことも、あるよ。昔、僕が言ったこと、覚えてる? 「プラスの2を狙ったら、マイナスの2が背中合わせについてくる。プラスの5を狙ったら、マイナスの5がついてくる。プラスを狙わないなら、マイナスもこない。ゼロだ」って。で、どうしますか?って、神様が言うんだよ。俺は、若さがあったから言えたんだよ。「えい。くそ、一度の人生、オレは10狙ってやる!」ってね。そしたら、間違いなかったね、10の敵が来たよ。
糸井:表裏がセットなんだね。
矢沢:セットなんだから、いろんなことが足引っ張るんだよ。めんどくせーわけよ! 10の夢を見たら、案の定、10の面倒くさいことがきたよ。だけどさ、面倒くさいからとか、いやだとかで一歩も動きません、ゼロでいいです、というのは悲しい話でね。(中略)じーっとしとけば、叩かれることもなかったんだよ。ところが、じーっとできないじゃん。
───『新装版ほぼ日の就職論「はたらきたい」』より
夢と面倒くさいことはセットである。夢の大きさに比例して面倒くさいことが付いてくる。あの矢沢節でこのことを言われたなら、強力な説得力をもって腹にズドンとくるでしょう。
生きるうえで、働くうえで、いつでも、喜びは苦労と対になっている。だから、ほんとうの苦労を経なければ、ほんとうの喜びを味わうことはできない。そこそこの苦労から得られるものは、そこそこの喜びでしかない。その点を、フランスの哲学者アランは次のように言い表します。
「登山家は、自分自身の力を発揮して、それを自分に証明する。この高級な喜びが雪景色をいっそう美しいものにする。だが、名高い山頂まで電車で運ばれた人は、この登山家と同じ太陽を見ることはできない」。
───アラン『幸福論』
「高い山の美しさは深い谷がつくる」。
───加島祥造『LIFE』
苦と楽は対称性を成し、その幅は体験の厚みとなり、人間の厚み、仕事の厚み、人生の厚みをつくっていく。ドストエフスキーがなぜあれだけの重厚な小説を書き残せたのか。それは彼の死刑囚としての牢獄体験や持病のてんかんなど、暗く深い陰の部分が、押し出され隆起して至高の頂をつくったからでしょう。キリスト教にせよ仏教にせよ、なぜいまだに多くの人に連綿と信じ継がれているのか。それは、イエスや釈迦の悲しみが深く大きいために、愛や慈しみもまた深く大きいと人びとが感じるからではないでしょうか。
昨今、文学にしても、絵画、映画にしても、作品が小粒になったと言われる。それは豊かで穏やかな社会が苦を和らげるために、表現者の厚みをなくさせていることがひとつの理由にあるのかもしれません。
そんな人生の真実を熟知していたのでしょう。陶芸家で人間国宝だった近藤悠三は、つくれどつくれど、みずからの作品が大きくなっていかないことを思いわずらい、次のように語ったといいます。
「なんぞ、手でも指でも一本か二本悪くなるか、腕でも片方曲らんようになれば、もっと味わいの深いもんができるかと思うし、しかし腕いためるわけにもゆかんので、夜、まっくらがりで、大分やりましたねえ。そして面白いものできたようやったけど、やっぱし、それはそれだけのものでしたね」。
───井上靖『きれい寂び』より
あえて自分の身体の一部を不自由にしてまで芸の極みに到達したい。それほどまでに近藤は苦を欲していたのでした。
ともかくも苦と楽は対称性をもちます。そしてその苦楽の幅は、その人の厚みを形成します。もし、自分がある不幸や不遇、悲しみやつらさのなかにあるなら、それとは対称の位置にある幸福や喜びを得られる可能性があります。ですから考え方によっては、自分がネガティブな状態にあることは、ある意味、すでに半分の厚みを得ているわけで、あとは残り半分のポジティブを手に入れるチャンスが目の前にあるということです。
もし、いまの自分が幸も不幸もそこそこレベルだとしたら、自分の厚みもそこそこということになるでしょう。そんなそこそこで満足していてはダメだというのであれば、矢沢さんの言ったとおり「プラス2」を狙うのではなく、「プラス10」を狙う生き方に変えることが必要です。そして身に降りかかってくる「マイナス10」を勇敢に乗り越えることで、「プラス10」を獲得する。その過程で、その人は「20」の厚みに成長していく。そしてその後、「20」の厚みに相応する仕事をし、人間を呼び寄せ、環境を変えていく。
先天的に、あるいは自分の意志のきかないところで苦労を背負わされることはさまざま起こります。ですが、そのマイナス分をプラスに転じていこうとするのは自分の選択です。また、特段苦労はないという生活のなかに、夢や志を描いて、その成就のための負荷を意図的につくりだそうとするのも選択です。人生の厚みを決めるのは、やはり自分の意志であり、選択です。
「艱難汝を玉にす(かんなんなんじをたまにす)」という言葉のとおり、自分が石になるか、玉になるか、の選択はいつも自分にあり、その境目は艱難を選ぶかどうかにかかっています。作家の村上龍さんはこう書いています。
「趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクを伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している」。
───村上龍『無趣味のすすめ』
冬の寒さを知るほど、春の陽の暖かさを知る。まもなく春が巡ってきます。
【補足の考察】
「苦と楽は対称性をなす」という考え方のほかに、「苦と楽は表裏一体である」というとらえ方もできます。苦と楽、美と醜、善と悪のように対立する概念を、一体のものとしてとらえる思考は、特に東洋哲学において顕著です。
『梵我一如』(「梵=宇宙」と「我=個人」は一体である)や『因果一如』(原因と結果は一体である)、『色心不二』(「色=肉体・物質」と「心=魂・精神」は一体である)、『身土不二』(「身=行い」と「土=環境)は一体である)など、東洋は二元論で分離させず一元論で考えることをしてきました。
その概念イメージは、苦と楽を「メビウスの環」の表裏として考えるといいかもしれません。ちなみに、美と醜、善と悪などの対立概念をこうしてメビウスの環に描く発想は、江戸中期の禅僧である白陰(はくいん)が、布袋(七福神の一つ)をモチーフにした禅画のなかで試みています。