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2013年8月

2013年8月23日 (金)

Study to be quiet / 静かなることを学べ

Mt_asama 正面に見えるのが「浅間山」の外輪山である「前掛山」(2524m)
左手前にあるのが「トーミの頭」(2298m)。ここからの眺めは浅間山を独り占めできる





“Study to be quiet”

───もともとは聖書のなかの言葉らしいのだが、アイザック・ウォルトンが『釣魚大全』(1653年)で用いたことで、より一般に知られる言葉となった。

中学生でもわかる簡単な4つの英単語の羅列だが、とても深い空間を持つ言葉。「努めて静かであれ」「穏やかであることを学べ」「泰然自若と生きよ」など意訳もさまざまある。

人生の最終目的地は、どんな国で暮らし、どんな家族を持ち、どんな職業に就き、どれほどの財力を手に入れようとも、この“quietなる境地”にたどり着くことではないかと思う。
この場合の“quiet”とは、なにも苦労がない、なにも悩みがないという意味での「静か・穏やか」ではない。むしろ、いまだ苦労も絶えない、悩みもさまざまあるが、それでもおおらかに構え、それらのことに動じずに生きていける心の強さをもったときの「静か・穏やか」だ。だから私たちは死ぬまで、“Study to be quiet”の継続なのだ。


ただ、私たちは凡夫だから、なかなか普段の生活のうえで“quiet”になれない。でも、趣味のなかで“quietなる境地”を一時(いっとき)でも学ぶことができる。それが「釣魚」であるというのがウォルトンだ。私は釣りと並んで「登山」も強く推したい。

釣りも登山も、肉体的な負荷にさらされ、外界の状況を刻々と察知していくという意味では動的である。しかし、心には忍耐と沈思が求められ、きわめて静的である。釣果や登頂といった結果は、長い長い「静かな時間」の末に、ごほうびとしてやって来る(ときに、やって来ない)。

釣りや登山が与える最高のものは、「釣れた!」「登った!」という感動よりもむしろ、おおいなる自然に抱かれながら、一個の小さな我が大きな我と溶け合っていく、そのときのすがすがしくも力強い「静かさ」を学ぶ機会ではなかろうか。


ちなみに、『釣魚大全』の原題は、“The Compleat Angler, or the Contemplative Man's Recreation”(完全なる釣り師:もしくは沈思する人間の娯楽)となっている。







Yunoko 奥日光(栃木県)湯ノ湖にて釣り人を撮る




2013年8月 9日 (金)

留め書き〈034〉~読む側の創造が良書を良書たらしめる

Tome034s



「よい書物」が生まれるためには二つの創造が要る。

ひとつに、
書き手が言葉による鐘を創ること。

もうひとつは、
読み手がそれをどんとたたき、音色に耳を立てること。






たとえば、私はいま、
池田晶子さんの『14歳からの哲学』(トランスビュー)を読み終えた。
彼女独自のスタイルの哲学書で、ほんとうによい著作だと思う。

ところが、試しに、Amazon.co.jpの読者レビューをみてほしい。
80件を超えるレビューのうち、おおかたは高い評価だが低い評価も少なくない。
低い評価を与える人のコメントを読むと、
読み取る器(それは読解力であったり、咀嚼力であったり、心の態度であったり)に
問題ありと思えるものが多数なのだが、
さりとて本人は目一杯そう思って、この本をとらえている。
彼らにとってこの本は良書からかけ離れているのだ。

また逆に、もしこの本を、人気の女性哲学エッセイストが著した本ということで、
その評判を鵜呑みにしてありがたく文字づらを読むだけの人がいるとすれば、
彼(彼女)にとっても、それは良書とはいえない。
読み手のなかでオリジナルな創造が起こっていないからだ。

むしろ前者の場合で、その本の中身には全く賛同できず、辛辣な批評を書くものの、
それに刺激されて、何か創造的な思考なり発想なりが生まれたなら、
それは本人にとって逆説的に良書といっていいかもしれない。

百万部売れているからといって良い本であるわけではない。
読み手のなかに、なにか強い理解なり、感動なり、空想世界なり、アイデアなり、
創造物が出来上がってこそ良書なのだ。
読み手に大きな創造物をこしらえさせる力をもつ本ほど、大きな本といえる。
良書とはそうした意味で、最終的に読み手がつくる個別的なものである。



2013年8月 7日 (水)

「働くマインド」のエクササイズをしよう

 

Fukei01



先週の土曜日、知人が代表理事を務めるNPOのイベントでミニワークショップをやりました。参加者は若きビジネスパーソンたち。NPOのスタッフ含め20名弱が夏真っ盛りの土曜の午後に集まり、会議室にこもって3時間、ワイワイガヤガヤと熱くワークを楽しんだのでした。


ワークショップのテーマは、

「機会をみずからつくり出し、
その機会によってみずからを変える」。

ワークは2つ。「働く理由」を探っていく個人作業と、「仕事の報酬」を考えていくグループ作業と。特段、高い料金を設定してやるセミナーでもなく、私も手弁当的に参加している会なんですが、それでも出す内容・課題に関しては手加減しません。企業内研修でやっているものとほぼ同じものをぶつけます。

私はヨガを少しやっていますが、ヨガは「正しく深くやる」ことが大事です。正しく深くやってこそ、よい鍛えとよい休息が得られ、さらにその後のよい活動につながっていきます。「適当にやんわりと」では、中途半端でさしたる効果も出ません。

意識や心の鍛錬もそうだと思います。「適当にやんわりと」では効果がありません。だから、こうしたワークショップも手加減なく、大きな問いを投げかけ、討論し、意見を共有してもらったほうがよいのです。「正しく深く」考えた後は、心が元気になるんです。「明日から何か違う気持ちで踏み出せそう」という快活なリフレッシュ感や充電感があります。

この日集まってきた人たちは、仕事に対する意識の高い人たちばかりでしたので、とても深いやりとりができ、時間があっという間に過ぎました。はたから見れば、「何を夏の土曜の午後に3時間も密室で(今夕は花火大会もあるのに)……」と思われる向きもあるかもしれません。ですが、やっている私たちからすれば、それは楽しみでやっていることであり、ある意味、「ちょっとみんなで集まって草野球やろうよ」とか、「花火見に行こうよ」という“リクレーション”となんら変わるものではありません。

むしろ、単なる「リクレーション(recreation)=気晴らし・娯楽」というより、本来の字義である「リ・クリエイション(re-creation)=再創造」に近いかもしれません。つまり、働くことの根っこを問うワークをすることによって、「働くマインド・仕事への意識」を “つくり直し=再創造し”、明日からの仕事生活に向かう。そしてキャリアをよりよく開いていく。

私たちは、身体の健やかさを保つために運動が大事なことを知っています。ですから、スポーツをしたり、散歩をしたり、ジムでエクササイズをしたりします。さて、それと同じように、どれくらいの人が「マインド・心の面での運動」をしているでしょうか?
意味の見出せない仕事に日々忙殺されて働く心が虚弱になっている場合もあるでしょう。また逆に、事なかれ主義で会社にぶら下がる意識が強くなり働くマインドがメタボになっている場合もあるでしょう。「マインド・心」にも運動が必要です。

思ってみれば、私たちは土曜日、そうしたマインド・心のレベルでのエクササイズ(運動)を存分に楽しんだのでした。




Fukei02 今回のワークショップの主催:特定非営利活動法人SIP


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