Study to be quiet / 静かなることを学べ
正面に見えるのが「浅間山」の外輪山である「前掛山」(2524m)
左手前にあるのが「トーミの頭」(2298m)。ここからの眺めは浅間山を独り占めできる
“Study to be quiet”
───もともとは聖書のなかの言葉らしいのだが、アイザック・ウォルトンが『釣魚大全』(1653年)で用いたことで、より一般に知られる言葉となった。
中学生でもわかる簡単な4つの英単語の羅列だが、とても深い空間を持つ言葉。「努めて静かであれ」「穏やかであることを学べ」「泰然自若と生きよ」など意訳もさまざまある。
人生の最終目的地は、どんな国で暮らし、どんな家族を持ち、どんな職業に就き、どれほどの財力を手に入れようとも、この“quietなる境地”にたどり着くことではないかと思う。
この場合の“quiet”とは、なにも苦労がない、なにも悩みがないという意味での「静か・穏やか」ではない。むしろ、いまだ苦労も絶えない、悩みもさまざまあるが、それでもおおらかに構え、それらのことに動じずに生きていける心の強さをもったときの「静か・穏やか」だ。だから私たちは死ぬまで、“Study to be quiet”の継続なのだ。
ただ、私たちは凡夫だから、なかなか普段の生活のうえで“quiet”になれない。でも、趣味のなかで“quietなる境地”を一時(いっとき)でも学ぶことができる。それが「釣魚」であるというのがウォルトンだ。私は釣りと並んで「登山」も強く推したい。
釣りも登山も、肉体的な負荷にさらされ、外界の状況を刻々と察知していくという意味では動的である。しかし、心には忍耐と沈思が求められ、きわめて静的である。釣果や登頂といった結果は、長い長い「静かな時間」の末に、ごほうびとしてやって来る(ときに、やって来ない)。
釣りや登山が与える最高のものは、「釣れた!」「登った!」という感動よりもむしろ、おおいなる自然に抱かれながら、一個の小さな我が大きな我と溶け合っていく、そのときのすがすがしくも力強い「静かさ」を学ぶ機会ではなかろうか。
ちなみに、『釣魚大全』の原題は、“The Compleat Angler, or the Contemplative Man's Recreation”(完全なる釣り師:もしくは沈思する人間の娯楽)となっている。