« 2013年10月 | メイン | 2014年2月 »
あなたの働く忠誠心は、組織(会社)にあるだろうか? それとも職業・仕事にあるだろうか? その忠誠心の置き方によって「組織人」の意識と「仕事人」の意識とに分かれる。
【組織人(会社人)の意識】
・雇用される組織(会社)に忠誠を尽くす
・組織(会社)とはタテ(主従)の関係
・組織(会社)が要求する能力を身につけ、会社が要求する成果を出す
・組織(会社)の信頼で仕事ができる
・組織(会社)の目的の下で働く
・組織(会社)は船。沈没したら困る。下船させられても困る
・組織(会社)内での居場所・存在意義を見つけることに敏感
・みずからの人材価値についてあまり考えない
・組織(会社)ローカル的な世界観
・「一社懸命」
【仕事人の意識】
・自分の職業・仕事に忠誠を尽くす
・組織(会社)とはヨコ(パートナー:協働者)の関係
・仕事が要求する能力を身につけ、仕事を通じて自分を表現する
・自分の能力・人脈で仕事を取ってくる
・自分の目的に向かって働く
・組織(会社)は舞台。自分が一番輝ける舞台を求める。舞台に感謝する
・世に出る、業界で一目置かれることを志向する
・自分が労働市場でどれほどの人材価値を持つかについてよく考える
・コスモポリタン(世界市民)的な世界観
・「一職懸命」
私のように個人で独立して事業を行っている場合は、依って立つ組織はないので当然、「仕事人意識」100%で働くことになる。一方、会社員や公務員のように 組織から雇われている場合は、この2つの意識の混合になる。たいていの人は、やはり組織人意識の割合が大きくなるだろう。だが、なかには仕事人意識が勝っ ている人もいる。
◆自分を勤務先で紹介するか・仕事内容で紹介するか
自分のなかでどちらの意識が強いかは、たとえば下のような自問をしてみるとよい。自分が一職業人として社外で自己紹介するとき、XとYのどちらのニュアンスにより近いだろうか。
【Xタイプ】
〇「私は〈 勤務会社 〉 に勤めており、
〈 職種・仕事内容 〉を担当しております」。
【Yタイプ】
〇「私は〈 職種・仕事内容 〉の仕事をしており、(今はたまたま)
〈 勤務会社 〉に勤めております」。
Xは「組織人」の自己紹介ニュアンスである。組織人であるあなたを言い表すものとして、まず勤務先があり、次に任された職種・仕事内容が来る。他方、Yは「仕事人」のものである。仕事人はまず職種・仕事内容で自己を言い表す。そしてその次に勤めている組織が来る。
仕事人の典型としてプロスポーツ選手の場合で考えてみよう。たとえば、米メジャーリーガーのイチロー選手の場合、どうなるかといえば、「私は〈プロ野球選 手〉の仕事をしており、今はたまたま〈ニューヨーク・ヤンキーズ〉に勤めております」だ。数年前であれば、後半部分は「今はたまたま〈シアトル・マリナー ズ〉に勤めております」であった。
野球にせよ、サッカーにせよ、プロスポーツ選手たちは、仕事の内容によって自己を定義する。彼らは「組織のなかで食っている」のではなく、「自らの仕事を直接社会に売って生きている」からだ。彼らにとっての仕事上の目的は、野球なり、サッカーなり、その道 を究めること、その世界のトップレベルで勝負事に挑むことであって、組織はそのための舞台、手段になる。そういう意識だから、世話になったチームを出て、 他のチームに移っていくことも当然のプロセスとしてとらえる。ただ、それは組織への裏切りではない。“卒業”であり、“全体プロセスの一部”なのだ。
◆「組織人×依存心」=「雇われ根性」が生む諸問題
さて、ひるがえって日本の働き手で圧倒的多数を占める組織人に話を移そう。言うまでもなく、戦後の日本は、組織が「終身雇用によるヒトの抱え込み×年功ヒエ ラルキー型」を強力に実行し、そのなかで労働者が忠誠心を組織に捧げて、与えられる仕事を真面目にこなしてきた。労使を挙げて、コテコテの組織人が大量に 生産された時代だった。
ここで組織人やその意識を悪く言うのではない。私自身もサラリーマンとして働いた17年間の蓄積があればこそ独立 ができた。会社が過去から蓄えたノウハウを伝授してもらい、会社の信頼度で仕事を広げ、人脈をつくり、会社のお金で研修もさまざまに受けた。組織人である ことのメリットを感じながら、それを最大限活かし成長していく意識は、むしろ奨励されるべきことである。
問題なのは、組織人意識が依存心と結びついた場合である。「組織人×依存心」は、いわば「雇われ根性」を働き手に染みつかせ、さまざまな問題を誘発する。下は組織人と仕事人の仕事意識を図化したものである。
組織人の図式において着目すべき点は、仕事が組織のなかに囲われているということだ。これは、組織が雇用や人事権、業務命令権などを通して仕事を実際的に握っていることもあるが、本質的には、働く個が、「自分はその仕事分野で独立しているわけでもなく(するつもりもなく)、仕事は組織のなかにあり、組織から受けるものである。突き詰めれば今のこの仕事は自分のものではない」という意識を表している。必然的に、働く個は、組織との関係を「タテの主従」関係ととらえる。組織人はそのタテ関係を前提にしたうえで、頑張ろうとする。
他方、仕事人の意識はまったく異なる。仕事人は、たとえ組織に雇われの身であっても、「今のこの仕事は自分のものである」と強く認識し、仕事を自分のなかに収めている。そして「組織は自分に機会と場を提供してくれる存在であり、この組織でずっと働くかもしれないし、将来独立することだってあるかもしれない」と考えている。そこには担当仕事を一つの職業として抱く、プロフェッショナルとしての矜恃がある。
ともかく組織人は、仕事は組織から発生し、組織から言い渡されるものだという心の姿勢に傾きやすい。そこに依存心が混じるとどうなるか───自律性が脆弱化する。
個々の働き手の自律性の弱まりは、さまざまな症状になって現われる。言われたことはやるが言われた以上の仕事はしない、先回りした行動ができない、仕事をつく り出せない、自身の役割を広げることをしない……などだ。また、そこで問題が根深いのは、本人は仕事をそれなりにこなしているという自覚でいることであ る。ともかく、いろいろと“お膳立て”をしてやらなければ、十分な仕事をやれない状態になる。
◆組織の不正・不祥事の温床
もう1つ、組織人の意識が潜在的に抱える問題について指摘しておこう。それは、顧客目線が組織都合になりがちであることだ。組織人は自分が雇ってもらっている組織を船とみる。当然、その船が沈没したり、自分が下船を命じられたりすることを極端に怖れる。そのために、組織の自己保存ための方策には寛容的にならざるをえない。
たとえば、顧客に対して、ある売り方や取引条件が組織に都合よすぎるという状況があったとしよう。あなたが一消費者の立場からみたときに、それは理不尽であ り、あきらかに売り手のわがままだと感じている。さて、そのときに、あなたは組織に向かって「そのやり方は改めるべきです」と言い切り、変革の行動に出ら れるだろうか。
わかりやすい例を出してみよう。あなたは、ある中堅食品メーカーに勤めて10年になる。ここ最近、会社の業績がかんばしく ない。従業員減らしが始まるという噂も耳にする。そんななか、ある商品の売れ行きが好調で、それがかろうじて会社の売り上げを支えている。社長からの命令 で、あなたの部署もその商品の拡販をやることになった。が、その商品は食材偽装まがいのもので、法律の網をくぐったきわどいものであることを知った。その とき、あなたは組織に対し、どう行動できるだろう。
もちろん、いまこれを読んでいるあなたは、頭のなかで「そんな犯罪じみたことはやりた くない。会社に反対意見を言う」となるだろう。しかし、現実に目の前に会社の倒産が見え隠れし、あるいは、自分の解雇の脅威があったなら、ほんとうにそこ で組織に背けるだろうか。仕事人意識を強く持って働いている人間であれば、仕事は自分のなかにあり、他で雇われうる力も保持しているだろうから、そこを去 ることは十分できるのだが。
実際、企業や官公庁でさまざまな不正・不祥事が起こる。そのときの要因を探っていくと、組織の自己保存・そこ で働く者たちの自己保存が至上目的化して生じるケースが後を絶たない。いずれにせよ、組織人の意識に依存心が加わると、顧客目線が組織都合になったり、組 織の自浄作用が弱まったりする害が起こる。
◆「出世」とは何か?
ところで、「出世」とはどういうことだろう。組織人のとらえ方としては、部長に上がったとか、役員になったとか、そういう社内の階段を上っていく話になる。
電通の元プロデューサーとして有名な藤岡和賀夫さんは、『オフィスプレーヤーへの道』の中の「“出世”の正体」という章でこう書いている。
「自分の会社以外の世界からも尊敬される、愛される、
それは間違いなく『世に出る』ことであり、『出世』なのです。
そこで肝心なことは、『世に出る』と言ったときの『世』は、
自分の勤めている会社ではないということです。
(中略)
自分の選んだ会社を“寄留地”として、
そこを足場として初めて『世に出る』のです。
(中略)
“寄留地”を仕事の足場として、ビジネスマンという仕事のやりかたで、
もっともっと広い社会と関わっていくということが『世に出る』ということなのです」。
以前、韓国のあるIT会社のマネジャーから面白い話を聞いた。その会社では、マネジャークラス以上の人間は、少なくとも年に1回、業界のカンファレンスやビ ジネスエキスポなどで講演やセミナーをしなければいけない、というルールがある。実行できなければ、降格評価の材料となるそうだ。「社内の管理業務だけに 閉じこもっているな。社外に開いて、『この分野に○○社あり』『この分野に“誰々”あり』とアピールしてこい」というもので、これは、いわば、「組織内“仕事人”」をつくり出す方針として注目に値する。
◆ほんとうの「愛社精神」とは
元プロ野球選手の松井秀喜さんは、読売巨人軍を去って、ニューヨーク・ヤンキーズに入団した。だが、松井さんの巨人を愛する心はいまもって深いだろう。でき るかぎりの恩返しはしたいにちがいない。仕事人であっても、かつて所属した組織への愛情を注ぎ、恩に報いることはできるのである。逆に、組織人であって も、組織に愛情や恩情を注がない人もいる。そのくせ、組織への「ぶら下がり意識」は強いことさえある。
ほんとうの「愛社精神」とは、組織 に雇用され続けたいという下心から起こるものではない。世の中にどんな価値を届ける事業が望ましいか、顧客のためにどんな商品・やり方が理想であるか、な どの共通の目的のもとに、組織と個人が対等な立場で言い合える関係のなかで生まれるものである。だから、ほんとうの愛社精神を持った個人は、ときに組織に 対して苦言を呈することもあるのだ。
また、次のような愛社精神の表れもある。IBMやアクセンチュア、リクルートといった企業は、仕事人意識の強い人たちが多く集まる。したがって彼らは転職で出て行くケースが多い。しかし、社外に巣立った人たちは、元の会社と継続的に関係を保持しながら、 場合によっては、競合しながら業界を育て盛り上げていくことをしている。彼らは元の会社での武勇伝をそこかしこで披露し、いかに自分がそこで育てられたか を語る。そういった話が業界に流布すると、その会社に人財が流入しだすということが起こる。つまり、人財をよく輩出する組織は、人財をよく取り込めるという循環が生まれるのだ。巣立った人びとの武勇伝が、元の会社への強力な恩返しになっているわけである。
繰り返して言うが、組織人の意識自体が悪いわけではない。ただ、組織人の意識は、本質的に、依存心と結びつきやすく、保身的、閉鎖的な姿勢に陥りやすい。だ からこそ、仕事人の意識を意図的に取り込む努力をしなければならない。仕事人の意識は、自律心を呼び起こし、革新的、開放的な姿勢を強める。ともかく日本 の会社・官公庁は、「組織ローカルな人間」を育てすぎるし、働き手本人たちもそこに安住したいと望む傾向がある。私はみずからが行う人財育成プログラム で、「仕事コスモポリタン」を増やしたいと思っている。その仕事分野において、境界を越えていく世界市民的な人間が日本の仕事現場には少ないからだ。
◆「働く理由」として大事なもの3つを挙げよ
私がやっている研修プログラムのなかで『「働く理由」自問ワーク』 というのがある。なぜ自分は働くのか、日々この仕事をやるのはどうしてか、をあらためて見つめる作業である。あまりにも単純で使い古された問いのように思 えるが、日常の雑多な業務処理に追われる仕事現場では、この問いにじっくりと真正面から考える機会は少ないし、ましてや互いの「働く理由」について真面目 に話し合う場もほとんどないように思える。
実際、研修でこれをやってみると、各自がなにかずっと胸の奥底にくすぶらせていた固まりが一気に噴き出す感じで、皆が実に熱く語り出す。「人はパンのみに生きるのか?」という問いは、いまもって大きく深いテーマなのだ。
このワークに用いる自問シートは次のようになっている。まず左側に働く理由の選択候補をいくつか挙げてある。たとえば、
□ この仕事を行うことによって、生計が立てられるから
□ この仕事を行うことによって、裕福になり、財を成したいから
□ この仕事を行うことによって、自分は尊敬されたり、頼りにされたりするから
□ この仕事を行うことによって、成功し、有名になりたいから
□ この仕事を行うこと自体が楽しいから
□ この仕事を行うことによって、自分を成長させることができるから
□ この仕事は、家族に誇れたり、家族が応援してくれているものであるから¥@r
□ この仕事を行うことによって、さまざまな人との出会いが生まれるから
□ この仕事を行うことによって、社会に影響を与えることができるから
□ この仕事を通じて、自分の生き方を表明したいから
□ この仕事を通じて、世の中に残したい何かがあるから
□ その他( )
これらの理由リストのなかで当てはまるものにチェックを付けていき、それぞれの理由の大事さについて1~5の数値で重み付けをしていく。そして最後に、最も大事だと思う理由の上位3つを順に自分の言葉で書き出す。
1■この仕事(働くこと)は、〈 〉ために大事である。
2■この仕事(働くこと)は、〈 〉ために大事である。
3■この仕事(働くこと)は、〈 〉ために大事である。
さて、働く理由としてこの上位3つに入るものにどんなものがあるだろうか。私がさまざまな研修現場できいてみると、まずもって「生計を立てるため」、そして 「自己を成長させていくため」「いろいろな人と出会うため」などが上位の常連となる。すなわち、「お金」「成長」「人とのつながり」が働くことの大事な理 由として感じられているようだ。
ではもっと限定して、受講者が働く理由のトップ1に挙げるものは何なのか。これは実施する研修の対象企業、受講者の年次によって多少差が出るが、おおよそ、「お金」を挙げる人が50%、そして「非お金」(=成長や出会いや志の実現など)を挙げる人が50%となっている。働く理由のトップ1に「非お金」を挙げる人は、実は少なからずいるのだ。
私が実施するのはほとんどが企業内研修なので、受講者は同じ会社の同じ年次の集まりになる。しかし、働く理由のトップ1については、「お金」と「非お金」の 真っ二つに割れるところが面白い。もとより、働く理由のトップ1に「お金」を挙げるのが低次であるとか、「非お金」を挙げるから高尚であるという話ではな い。お金は大事であるし、不当に安い給料で満足するものでもない。今の時代、経済難はさまざまな形で自分に起こってくるものだから、お金を第一に考えるの は当然のことだ。
ただ研修で受講者とのやりとりを観察していると、トップ1に「お金」を挙げる人の一部には、「しょせん、仕事は生きてい くために我慢してやるもの」といった労役感や、「もっと買いたいものがあるのに、いまの年収じゃ足りないよね」といった物欲ベースの不足感が見え隠れする ところもある。その一方で、トップ1に「非お金」を挙げる人の多くは、今の仕事に何かしらのやりがいを見出していて、そこにおおかたの意識が向かっている 様子である。没頭できる仕事テーマがあり、そこに没頭した結果、振り返ると月末に給料が振り込まれていた、そんな感じの仕事生活になっている。
◆「お金を得ることは働く目的か?」にどう答えるか
生きていくうえで、もちろんお金は大事である。だがそのとき、お金を得ることを働く目的に据えるのか、それとも、目的は他にあってお金は手段もしくは結果的に得られればよいものなのか、この両者の意識の差は、実は大きい。
そこで私はさらに下の問いを受講者に投げかけ、討論してもらう。
【問い】
あなたにとって、お金を得ることは働く目的か?
あなたの担当事業(あるいは会社)にとって、利益獲得は事業の目的か?
もちろんこの問いに対する唯一無二の正解はない。働くことは算数の世界ではなく、芸術(アート)の世界に近いともいえる。だからその人なりの意味や価値の尺 度が当然ある。実際、研修ではさまざまな意見が飛び交う。その多様な尺度による考え方を共有することで、受講者は自分の考え方の偏り具合や熱い/冷たいを 相対的に知る。そして互いに刺激しあうなかで、自分の考えを強める人は強め、修正する人は修正し、冷めていた人は少し熱くなる。そうして意味や価値をはか る尺度もできてくるのだ。私が請け負うキャリア形成に関するマインド醸成研修は、こうした「ピア・ラーニング」(仲間相互による学び合い)こそが一番有益 なものになる。
さて研修では、各グループでのディスカッション内容を発表してもらった後、私のほうからもある種の考え方を提示する。まず1つめ。ピーター・ドラッカーは次のように言う。
「事業体とは何かを問われると、たいていの企業人は利益を得るための組織と答える。たいていの経済学者も同じように答える。この答えは間違いだけではない。的外れである。利益が重要でないということではない。利益は企業や事業の目的ではなく、条件である」。 ───『現代の経営』より
ドラッカーは、企業や事業の真の目的は社会貢献であると他の箇所で述べている。その真の目的を成すための「条件」として利益が必要だと、ここで言及しているのである。
金(カネ)は経済の世界では言ってみれば血液のようなものである。人間の体は、血液が常に良好に流れてこそ健康を維持でき、さまざまな活動が可能になる。血 の流れが止まれば、人体は死を迎える。それと同じように、経済活動の血である金の流れが止まれば、その経済活動や事業体は死に直面する。ただ、だからと いって、血のために私たち人間は生きるのだろうか? 「血をつくるために、日夜がんばって生きています!」という生き方はどこかヘンだ。やはり人間の活動として大事なことは、その身体を使って何を成すかである。血は、肉体を維持するための条件であって、目的にはならない。そう考えると、利益追求が企業にとっての目的ではなく、条件であるとするドラッカーの指摘は説得力がある。
私たち職業人の一人一人の生活にあっても、金を得ることは、目的というより、自分が仕事をするために必要な基礎条件である───これが1つのとらえ方である。
◆お金は結果的に生まれる「恵み」である
次はこの2人の言葉である。
○「本質的には利益というものは企業の使命達成に対する報酬としてこれをみなくてはならない」。 ───松下幸之助『実践経営哲学』
○「徳は本なり、財は末なり」。「成功や失敗のごときは、ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである」。 ───渋沢栄一『論語と算盤』
松下幸之助は、事業家・産業人として『水道哲学』というものを強く心に抱いていた。それは、蛇口をひねれば安価な水が豊富に出てくるように、世の中に良質で 安価な物資・製品を潤沢に送り出したいという想いである。松下にとって事業の主目的は、物資を通して人びとの暮らしを豊かにさせることであり、副次的な目 的は雇用の創出だった。そして、そうした目的(松下は“使命”と言っているが)を果たした結果、残ったものが利益であり、それを報酬としていただくという 考え方だった。
一方、明治・大正期の事業家で日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は、財は末に来るもの、あるいは糟粕のようなものである と言った。仁義道徳に基づく行為こそが目的であり、その過程における努力が大事であって、そこからもたらされる財には固執するな、無頓着なくらいでよろし いというのが、渋沢の思想である。渋沢は、第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、そし て一橋大学や日本赤十字社などに至るまで、多種多様の企業・学校・団体の設立に関わった。その活躍ぶりからすれば、「渋沢財閥」をつくり巨万の富を得るこ ともできたのだろうが、「私利を追わず公益を図る」という信念のもと、蓄財には生涯興味を持たなかった。いずれにせよ、お金・利益を「結果的に生まれる恵 み」とするのも一つのとらえ方である。
◆「建物と地盤」
私もこれら3人が指摘したよ うに、「条件」あるいは「結果的な恵み」としてのお金・利益を強く意識している。その解釈イメージを促すために、私は受講者に「建物と地盤」のメタファー を提示する。すなわち、自分たちが働く目的はあくまで何かの建物をこしらえて、さまざまな人に使ってもらうことである。だが、その建物は地盤がしっかりし ていないと建たない。お金を得ること、利益を獲得することは、言ってみれば地盤づくりに当たる。
もしその建物が多くの人に利用してもらい役に立て ば、その結果の恵みとして、お金が得られることになる。その利益でさらに地盤を固め、土地を大きくしていけば、さらに複雑で大きな建物が建てられる。自己 の能力を証明し、人に役立っていくのはあくまで建物を通じてであり、どんなものを建造していくかこそが働く目的となる。地盤づくり自体は目的にはならない (なったとしても、副次的な目的に留まる)。
私は、仕事とは突き詰めれば、能力と想いを掛け合わせて行う「表現活動」だと考えている。お金や利益はその「表現活動」を可能にしたり、発展させたりする機能として効いてくるものだ。だから、お金は血液であり、地盤であるのだ。
◆働く動機の5段階
さて、働く理由・目的についてさらに考察を深めたい。私は、自律的に働くことの意識醸成を目的とした研修をやってきて、さまざまな観察や分析から「働く動機」を5段階に整理している。それを表したのが下図である。
[段階Ⅰ]金銭的動機
動 機の一番土台にくるのが「金銭的」動機である。そこには「生きていかねばという自分」がいて、誰しも懸命に働こうとするのである。金銭を動機として働くこ とが必ずしも卑しいということではない。「食っていくためにはお金がいる。だからきちんと働いてお金を得、生活を立てていこう」とする姿はむしろ尊い。金 銭的動機は、個人を労働に向かわせ、社会の規律や秩序を守るための土台として機能する大事なものだ。ただ、金銭的動機は、「外発的」であり、「利己的」で ある。
[段階Ⅱ]承認的動機
誰 しも他から自分の能力や存在を認められたいと願う。そこにはたらくのが「承認的」動機である。仕事でうれしかったことをアンケートすると、「上司から褒め られた/難しい仕事を任された」「お客様からありがとうを言われた」「ネットに発表した記事が多くに読まれた」など、承認にかかわることが多く出てくる。 ソーシャルメディア『フェースブック』の「いいね!」ボタンも、いわばこの承認的動機を刺激するものの一つである。ただし、この動機もどちらかというと 「外発的」「利己的」の部類である。
[段階Ⅲ]成長的動機
仕事をやるほどに自分の能力が伸びていく、深まっていく、となればもっとその仕事をやってみたくなる。それはその仕事が「成長的」動機を喚起しているからだ。この場合、仕事そのもののなかに動機を見出しているので、「内発的動機」となる。だが、いまだ「利己的」ではある。
[段階Ⅳ]共感的動機
仕事や働くことは、一人では完結しない。何かしら他者や社会とつながりを持つものである。Ⅱ段階目の「承認」より、もっと相互に、積極的に、質的に他者と結びつくことで、やる気が起こってくるのが「共感的」動機である。
自分のやっていることが他者と共感できる、他者に影響を与えることができる、社会に共鳴の渦をつくることができる、そうした手応えは強力な力を内面から湧き起こす。この段階から「利他的」な動機へと変容してくる。
[段階Ⅴ]使命的動機
自分が見出した「おおいなる意味」を満たすために、文字通り、“命を使って”まで没頭したい何かがあるとき、それは「使命的」動機を抱いている状態であるといえる。夢や志、究めたい道、社会的な意義をもったライフワークなどに一途に向かっている人はこの段階にある。
ちなみに、これら5つの動機を性格づける「外発的/内発的」「利己的/利他的」という二元的な分類について、内発的だから優れ/外発的は劣るとか、利己的は ダメで/利他的はよい、ということではない。これらは本来、優劣や善悪で差別するものではない。「内発的」と「利他的」の掛け合わせである使命的動機が段 階Ⅴとして一番上に置かれているのは、その動機を抱くことが最も難しいからである。動機を抱く難度が階段の高さを示していると考えてほしい。逆に言えば、 金銭的動機(段階Ⅰ)は生存欲求からの動機で、最も容易に起こることから一番下に来ているのだ。
◆動機を重層的に持つこと
ここから最後の重要な点に入っていく。5つの動機自体には、優劣がつけられないものの、「動機の持ち方」としては、望ましい持ち方と望ましくない持ち方がある。
動機の持ち方として望ましいのは、これら5段階ある動機を重層的に持つことである。動機を重層的に持っていれば、仮に一つの動機が失われても、他の動機がカバーしてくれることとなり、働く意欲は持続される。また、動機どうしが相互に影響し合い、統合的に動機が深まりを増すことも起こるからだ。
お金を儲けたいという動機は抱いてもいっこうにかまわない。ただその動機の層だけにどっぷり浸かって、過度に利己的にやるとすれば、いずれ問題を引き起こす ことになるだろう。また、この段階Ⅰの動機だけに終始して働くことは、先も述べたように、「地盤づくり」だけをやって、結局は「建物」を生涯建てなかった ことに等しい。自分の仕事人生を振り返って、何の建造物もこしらえず、世の中に何の貢献も機能も果たさなかったというのは、どこかさみしくはないだろう か。
だから、お金を儲けたいという動機と同時に、他の動機も重層的に持つことだ。そうすることで、手にするお金は真に生かされるし、また 複合的に湧いてくるエネルギーで長く強く働くことができる。段階Ⅱ以降の動機こそ、「建物」を立てようという意志を内面に湧き起こさせるものである。つま り───
動機Ⅱ)何か自分なりの「建物」を建てて人に知ってもらいたい
動機Ⅲ)その「建物」をつくることはいろいろな知識・技術が身について楽しい
動機Ⅳ)その「建物」に共感してもらえる人びととつながることでワクワクする
動機Ⅴ)その「建物」が多くの人に役立ってうれしい
これを読んでいる人のなかには、「ともかく自分は正社員の職を得て、生活をやりくりしていくのに精一杯だ。夢や志を描くなど程遠い」と漏らす状況があるかも しれない。しかし、志を立てるのに何のコストがかかるというのだろう。想い描くことは、誰でも、いま、この場で、タダでできることなのだ。想い描くことをしないかぎり、「食うためだけの仕事」という重力圏から抜け出せない。
ウォルト・ディズニーはこう言った───「夢見ることができれば、成し遂げることもできる」。キング牧師は「アイ・ハブ・ア・ドリーム」と叫んだ。「心構えした者に、チャンスは微笑む」とパスツールは残した。このように偉人・賢人たちは一様に想い描くことの重要性を説いてきた。
◆使命的動機の「シャワー効果」
もちろん私は、働く動機を重層的に持つための内省ワークを研修のなかでやる。そのときに方向は2つある。
1つは動機の段階を上げていく方向。つまり動機難度の低いほうから高いほうへと内省を促していくやり方だ。たとえば、「その仕事によってどんな成長が得られ ますか? あるいは、現状の仕事をどんなふうに変えていけば、自分の成長が起こるようになりますか?」といった段階Ⅲの動機を喚起させる問いを投げる。次 に、「その仕事を通じてどんな人たちとつながることができるのでしょう?」や「あなたは一職業人として何の価値を世の中に提供する存在ですか?」といった 具合に段階Ⅳ、段階Ⅴの問いに上げていく。こうした自問を通して、自分の担当仕事に「非お金」的な動機を重層的に持たせていくわけである。
もう1つの方向は、いきなり段階Ⅴの動機を見つめさせるやり方である。これは具体的には、段階Ⅴの使命的動機に生きた特定の人物をロールモデルとして取り上 げ、「おおいなる意味」のもとに仕事を成し遂げる人間がいかに自己を強く開いていけるかを学び取るものである。考察していけばわかるのだが、ひとたび使命 的なテーマを見出し、そこに没入していくとどうなるか───
・そのテーマに共鳴する同志との出会いが生まれ深いつながりができる。
(→動機Ⅳが喚起され、満たされる)
・そのテーマを成し遂げるための能力発揮・能力習得・能力再編成が起こる。
(→動機Ⅲが喚起され、満たされる)
・そのテーマの仕事がやがて人びとの耳目を集め出す。
(→動機Ⅱが喚起され、満たされる)
・気がつくと必要なお金が得られていた。あるいは回り出していた。
(→動機Ⅰが満たされる)
そう、つまり、段階Ⅴの動機をしっかり抱いて懸命に動けば、他の動機は自然と上から順に喚起され、満たされるのだ。私はこれを、使命的動機の「シャワー効果」と呼んでいる。
と はいえ、20代にせよ、40代にせよ、私の主要顧客であるサラリーパーソンに「夢を描け、志を立てよ」といっても敬遠されるばかりである。たいていの大人 は、「いまさらプロサッカー選手や宇宙飛行士になれるわけでもないさ」と心のなかで苦笑いをする。だから私は、彼らのなかにある夢や志の概念を変えさせな ければだめだと思っている。
限られた少数の人間しか成しえない壮大で特別なことをやるのが夢や志ではない。みずからの本分で、何か世の中に役立っ ていこうと自分なりの目標を決める。あるいは一つの道に肚を据える。そしてその成就に向かって自己を開き、越えていこうと持続的に挑戦をする。あるいは、 道から逃げないで一歩一歩進む。そのプロセスこそが、すでに夢や志に生きている状態なのだ。
さて最後に。「人はパンのみに生きるのか?」という問いに対し、私はこう答えるようにしている。───
「人は志にこそ生きる。
おおいにもがくことになるが、そこでパンを食いそびれることはない」。