留め書き〈037〉~梅に生まれてくるのではない。梅と生きるのだ。
以前、私は小説書きに挑戦した。
そのなかで一人の陶芸家を登場させ、
冬雨に打たれる老梅を前に、彼にこう言わせた───
「梅に生まれてくるのではない。梅と生きるのだ」と。
私たちはよく「親は選べないからね」などと言う。
つまり、生まれる先は自分の意図ではなく、誰かのもとに受動的に生を受けるという考え方だ。
英語でも、生まれるとは「be born」と受動態で表現される。
確かに私たちは、肉体的には、受動的に形質を受け取る。
しかし、それよりもっと奥の次元では、
私たちはそうした親元や、引き受ける形質や、環境を“みずから”選んで(より正確には引き寄せて)、
この世に出来(しゅったい)してきているのではないか。
つまり、漫然とくじ引き的に、人に生まれてきているわけではない。
ニッポンの誰それ夫婦のもとに、昭和という時代に、男として、
その両親の遺伝子によって想定される形質をあえて選んで、生まれ出ようという
エネルギーの志向性が『わたし(我)』の根源なのだ。
そして、この世に、心身を授かり、
『わたし(我)』は、かけがえのない『村山昇』として生ききろうとする。
最初の「梅」は一般名詞「a plum tree」にすぎない。
後の「梅」は、特定の独自性をもった「the plum tree」である。
生きるとは、
みずからの選択と、そのなかで最善の自己を開花させようとする奮闘である。