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2014年2月27日 (木)

留め書き〈036〉 ~「へこみ」は「うつわ」



Tome036_2



打ちのめされたり、傷ついたり、落ち込んだりした状態を
俗に「凹(へこ)む」という。

凹んだ部分は器になる。
その器でなにかをすくうことも、なにかを受け容れることもできる。




* * * * *



ブッダやイエスの教えが、なぜ千年単位の時空を超えて人びとを抱擁するのか。
それは彼らが偉大な苦しみのなかに身を置き、光を発したからだ。

ガンジーやキング牧師の言葉が、なぜ力をもって私たちの胸に入り込んでくるのか。
それは彼らが深い深い闇の底から叫んだからだ。

ドストエフスキーが狂気的なまでに善と悪について書けたのは、
彼があるときは流刑の身となり、兵士となり、
またあるときは、てんかんを患い、賭博に明け暮れ、まさに狂気の淵でものを考えたからだ。

正岡子規があれほど鋭く堅牢な写実の詩を詠めたのは
病苦に悶絶し、命の火も絶え絶えになるなかにあって、
魂で触れることのできる堅い何かを欲したからだ。


東山魁夷はこう書いた───

「最も深い悲しみを担う者のみが、人々の悲しみを受け入れ慰めてくれるのであろうか」。   (『泉に聴く』より)



ヒルティは『幸福論』のなかでこう記す───

「ある新興宗教の創始者が、自分の教義の体系を詳しく述べて、これをもってキリスト教にかえたいというので、彼(タレーラン侯)の賛成をもとめた。すると、タレーランはこう言った、しごく結構であるが、新しい教義が徹底的な成功をおさめるにはなお一事が欠けているようだ、『キリスト教の創始者はその教えのために十字架についたが、あなたもぜひそうなさるようにおすすめする』と」。



人は、苦しんだ深さの分だけ喜びを感受できる。
また、ほんとうに悲しんだ人は、ほんとうに悲しんでいる人と、ほんとうの明るさを共有できる。
生きることの分厚さや豊かさといったものは、
こうした苦や悲といったネガティブにえぐられることによって獲得できる。
宗教が慈悲や愛を基底にしているのはこのことと無関係ではない。

いずれにせよ、
負を正に転換できる人間の力はすばらしい。

ほんとうの喜びは、ほんとうに苦しんだ人が手にできるのだ。



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