2013年10月19日 (土)

稲刈りとハザ掛け そしてレンゲの種まき

Inekari01

4月末に田植えをしてから、はや5ヶ月半。無事、稲刈りです。
タビ(足袋)を履き、鎌を持っていざ出陣。

商業用の米はたいてい、機械で脱穀、乾燥、精米に回されますが、
この「田んぼの学校」では、まずハザ掛けにして2週間ほど乾燥させます。
機械による大量・効率化生産ではないことをじっくりやるのが楽しくもあります。
「時間の流れにゆだねる」「待つことを覚える」ことは、
大人にとってもよい気づきの機会となります。

ただ、すべて手作業でやっていると、逆に、
農業の方々にとっての機械化・効率化(+農薬使用)の必要性も強く感じます。

そして、稲を刈った後の田んぼには、レンゲの種を播きます。
レンゲは空気中の窒素を取り込んで根に蓄える性質をもっています。
春の田植え前にそのレンゲを土に鋤込むことで地力を回復させる肥料になるのと、
除草の効果も期待できると教わりました。

また、レンゲが満開の春の田園風景は私たちの目に癒やしを与えてくれますし、、
ミツバチ(と養蜂業)にとっても恵みとなります。
古人が伝える自然農法はほんとうに無駄がありません。

稲刈り後の田んぼには、米粒がたくさん落ちます。
スズメたちがたくさん寄ってきて、小鳥たちも肥ゆる秋到来です。

Inekari02




2013年9月24日 (火)

姉妹ブログ『働くこと原論』を開始します!

Elw_top 『働くこと原論』ブログ
http://careerscape.lekumo.biz/genron/top.html


* * * * *

このたび、もう1つ別の執筆サイトを立ち上げます。

『働くこと原論』ブログは、
人財教育コンサルタント・概念工作家として独立し10年を超えた私が、
これまで書いた執筆原稿や研修・講演で用いたコンテンツを体系的にまとめるものです。

働くって何だろう、よりよい仕事って何だろう、
キャリア(職業人生)をひらくとはどうすることだろう、を中心テーマにして、
いくつかの項目に分け述べていきます。

「原論」と名づけていますが、多分に主観を含んでいて、
論を立て検証するというよりは随筆的に書き進めていくという、
その意味では「働くことに関する私の講釈集」のようなものです。

いずれにせよ「原論」に込めた意図は、
「根本を考え、本質的なものを取り出し、まとめる」ということです。

生きる時代を問わず、またビジネス、芸術、スポーツなど働く世界を問わず、
人が何か仕事を成そうとするとき、
つねに大事なことは「大本(おおもと)を考える・原点にもどる」ことではないでしょうか。
基となる仕事観をしっかりとつくり、意識することで人は、
強く、高く、深く、広がりをもって仕事をすることができます。

一人一人のビジネスパーソンはじめ、
管理職や経営者の方々、人事・人材育成担当の方々、そしてすべての働く人に向けて、
働くことの大本・原点を考える材料を提供したいと思います。
これは私のライフワークの一部であり、
月々日々、一本一本書き重ねていくつもりでいます。
最終的には100~200本の記事の固まりになろうかと思います。

本サイト『人財教育コンサルタントの職・仕事を思索するブログ』が
雑多な所感・出来事をフロー的に書き連ねていくものとしたら、
『働くこと原論』のほうは、
学びのコンテンツを体系的・ストック的に集積するものとなります。

両サイトとも、更新は不定期で頻度もそう多くはありませんが、気長におつきあいください。



2013年9月 『働くこと原論』執筆開始にあたって
キャリアポートレートコンサルティング
村山 昇


2013年9月 5日 (木)

「成長とは何か」を自分の言葉で定義せよ


◆研修の現場から~成長体験から成長の本質を導き出す演習
私は研修で「成長するとは何か?を自分の言葉で定義せよ」という演習を行っている。
具体的には、各自にこれまでの仕事のなかで「いちばん成長できた経験」をあげてもらい、グループで共有する。そして、そうした自他のさまざまな経験エピソードを踏まえたうえで、「成長すること」の本質は何かを抽出し言語化する作業を行う。
こうした演習を通し、受講者のなかに「ああ、結局、成長するって大本はそういうことなんだな」「多様な機会が成長に通じているんだな」「どんな業務にも自分が成長できる芽は隠れているんだな」という気づきが起こる。


「成長」についての本質を自分の言葉で腹に据えさせることで、日々の苦しかったり、つまらなかったりする仕事のなかにも、自分を成長させてくれる要素というものが何かしら発見できるはずだという意識を育むのがこの演習の狙いである。

ちなみに、下にあげるのは実際の研修で出てきた「成長」の定義の一例である(受講者はおおよそ新卒入社3~5年目の20代社員)───

・成長とは、限界の幅が広がり、他に認められること
・成長とは、得た知識や技術、経験に自信と信頼を持つことである。
 それらが他者に認められた時、成長したと強く実感することができる。
・成長は、自分に負荷をかけて、それを乗り切った時に起きる

・努力している時に、後から自然についてくるもの

・成長とは、物事を見る際の観点が増える事である
・成長とは、新たなステージへ進むための武器。

・受動から能動になること

・継続して能力の“筋トレ”をすること
・成長とは、できなかった事が自然とできるようになるまで身につくこと

・成長とは、自分に対する対価が増えることである

・成長とは、挑戦するこころを忘れないこと!
・自分の存在意義を実感すること

・経験を積み重ねることが成長である。

・自分の中の多様性を増やすこと
・昨日できなかったことが、今日できるようになること

・成長とは、課題を解決する力が大きくなることであり、

 より大きな課題を解決できるようになったときには、成長しているといえる。
・振り返りながら全力で走ること



これら受講者が書き出した言葉は、いずれも具体的な成長経験から引き出したという点がこの演習のミソである。私が拙著『キレの思考・コクの思考』でも述べたとおり、具体と抽象の2つの次元を往復することによって納得感のある力強い答えを導き出すことができる。抽象だけの思考は脆弱になるし、具体だけの見聞で終わっては広く応用展開できない。抽象と具体の両輪を回すという意味でも効果のある演習になっている。


◆「成長」をさまざまに考える
ちなみに、私が受講者に紹介している成長の定義をいくつかあげる。

○〈成長を考えるヒント1〉

成長とは、

「長けた仕事」を超え、
「豊かな仕事」をするようになることである。



成長には、「技術的な成長」と「精神的な成長」がある。技術的な成長は、いわば「長けた仕事」を生み出す。技術的な成長の観点では、ものごとの処理の「巧拙(上手か/下手か)」が問題になる。だが、人は技術的な成長だけではほんとうに次元の高い仕事はできない。もう一方の精神的な成長が不可欠なのだ。その点をピーター・ドラッカーは次のように書く───

「指揮者に勧められて、客席から演奏を聴いたクラリネット奏者がいる。
そのとき彼は、初めて音楽を聴いた。
その後は上手に吹くことを超えて、音楽を創造するようになった。
これが成長である。
仕事のやり方を変えたのではない。意味を加えたのだった」。



精神的成長で問題になるのは「意味」である。意味を見出したときに、その仕事人は「長けた仕事」を超え、その人でなければ創造できない「豊かな仕事」を生み出す。

誰しも入社3年くらいまでの間や、新しい業務を任された当初は、技術が伸びる「喜び」がある。しかし、仕事慣れしてくるにしたがって惰性が生じてくる。仕事に対するモチベーションの低下やキャリアの停滞感もそうしたところから始まる。組織はそうした状態に対し、ジョブローテーションによる異動や新しい役割を与えるなどして従業員の意識をリフレッシュさせようとする。それはそれで有効的な“外科的”な方法ではある。

しかし、その人がほんとうに次の成長ステージに上がっていくためには、“内からの”変化が要る。それがすなわち、みずからの仕事に対し、意味を満たす「喜び」を見出せるかどうかだ。真の成長は「内的変革」にあり、これがなされてこそ次の技術的成長も起こる。そしてそこからさらに精神的な成長があり、内的変化が起こる。この絶え間ない循環がキャリアを無限に開いていく。

また、精神的な成長を得ている人は、仕事に対し気分的な「楽しい」ではなく、意志的な「楽しい」になっているので、多少のしんどさや苦労に耐える粘りを持つことができる。つまり、「しんどいけど、楽しい」「厳しいけど、やりがいがある」という意識で仕事に向かえるのだ。

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* * * * *

○〈成長を考えるヒント2〉

成長とは、

リスクを負って殻を破ったときに得られる収穫物である。



日本の伝統芸能の世界では「守・破・離」という言葉が使われる。その道を究めるための成長段階を表したものである。

「守」:
 師からの教えを忠実に学び、型や作法、知識の基本を
 習得する第一段階。「修」の字を置く場合もある。

「破」:
 経験と鍛錬を重ね、師の教えを土台としながらも、
 それを打ち破るように自分なりの真意を会得する第二段階。

「離」:
 これまで教わった型や知識にいっさいとらわれることなく、
 思うがままに至芸の境地に飛躍する第三段階。


これを「枠をめぐる3種類の人間」として、現代風に焼き直したものが下図である。


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1番目に『枠の中の「優秀者」』。
2番目に『枠を変える「変革者」』。
3番目に『新たな枠をつくる「創造者」』。
後にいくほど難度・リスク度は高くなり、その分、成長度も大きくなる。

あなたは、そして、あなたの組織は、どのレベルで満足しているだろうか?───と自問してほしい。


* * * * *

○〈成長を考えるヒント3〉

挑戦して失敗することも立派な成長である。

成功の反意語は失敗ではない。「挑戦しなかった」ことである。



何かに挑戦する。その時点で、あなたは成長を手に入れている。
成功すればもちろん技術の習得や経験知、自信、人とのつながりなどを得ることができたはずだし、仮に失敗したとしても、やはり経験知を得ている。発明王トーマス・エジソンがこう言い切ったように───「私は失敗したことがない。うまくいかない 1万通りの方法を見つけたのだ」

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成功するにせよ、失敗するにせよ、いったん挑戦すれば、いろいろなものが内的資産として貯まる。そこには同時に次の挑戦の「種」が宿される。そしてまた挑戦に向かう。すると、また新しい内的資産が貯まり、次の「種」が宿される。そしてまた挑戦する……この繰り返しが、成長という名の「勇者の上り階段」となる。

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挑戦は、成長を約束する。
成功の反意語は失敗ではない。「挑戦しなかったこと」である。







2013年8月23日 (金)

Study to be quiet / 静かなることを学べ

Mt_asama 正面に見えるのが「浅間山」の外輪山である「前掛山」(2524m)
左手前にあるのが「トーミの頭」(2298m)。ここからの眺めは浅間山を独り占めできる





“Study to be quiet”

───もともとは聖書のなかの言葉らしいのだが、アイザック・ウォルトンが『釣魚大全』(1653年)で用いたことで、より一般に知られる言葉となった。

中学生でもわかる簡単な4つの英単語の羅列だが、とても深い空間を持つ言葉。「努めて静かであれ」「穏やかであることを学べ」「泰然自若と生きよ」など意訳もさまざまある。

人生の最終目的地は、どんな国で暮らし、どんな家族を持ち、どんな職業に就き、どれほどの財力を手に入れようとも、この“quietなる境地”にたどり着くことではないかと思う。
この場合の“quiet”とは、なにも苦労がない、なにも悩みがないという意味での「静か・穏やか」ではない。むしろ、いまだ苦労も絶えない、悩みもさまざまあるが、それでもおおらかに構え、それらのことに動じずに生きていける心の強さをもったときの「静か・穏やか」だ。だから私たちは死ぬまで、“Study to be quiet”の継続なのだ。


ただ、私たちは凡夫だから、なかなか普段の生活のうえで“quiet”になれない。でも、趣味のなかで“quietなる境地”を一時(いっとき)でも学ぶことができる。それが「釣魚」であるというのがウォルトンだ。私は釣りと並んで「登山」も強く推したい。

釣りも登山も、肉体的な負荷にさらされ、外界の状況を刻々と察知していくという意味では動的である。しかし、心には忍耐と沈思が求められ、きわめて静的である。釣果や登頂といった結果は、長い長い「静かな時間」の末に、ごほうびとしてやって来る(ときに、やって来ない)。

釣りや登山が与える最高のものは、「釣れた!」「登った!」という感動よりもむしろ、おおいなる自然に抱かれながら、一個の小さな我が大きな我と溶け合っていく、そのときのすがすがしくも力強い「静かさ」を学ぶ機会ではなかろうか。


ちなみに、『釣魚大全』の原題は、“The Compleat Angler, or the Contemplative Man's Recreation”(完全なる釣り師:もしくは沈思する人間の娯楽)となっている。







Yunoko 奥日光(栃木県)湯ノ湖にて釣り人を撮る




2013年8月 9日 (金)

留め書き〈034〉~読む側の創造が良書を良書たらしめる

Tome034s



「よい書物」が生まれるためには二つの創造が要る。

ひとつに、
書き手が言葉による鐘を創ること。

もうひとつは、
読み手がそれをどんとたたき、音色に耳を立てること。






たとえば、私はいま、
池田晶子さんの『14歳からの哲学』(トランスビュー)を読み終えた。
彼女独自のスタイルの哲学書で、ほんとうによい著作だと思う。

ところが、試しに、Amazon.co.jpの読者レビューをみてほしい。
80件を超えるレビューのうち、おおかたは高い評価だが低い評価も少なくない。
低い評価を与える人のコメントを読むと、
読み取る器(それは読解力であったり、咀嚼力であったり、心の態度であったり)に
問題ありと思えるものが多数なのだが、
さりとて本人は目一杯そう思って、この本をとらえている。
彼らにとってこの本は良書からかけ離れているのだ。

また逆に、もしこの本を、人気の女性哲学エッセイストが著した本ということで、
その評判を鵜呑みにしてありがたく文字づらを読むだけの人がいるとすれば、
彼(彼女)にとっても、それは良書とはいえない。
読み手のなかでオリジナルな創造が起こっていないからだ。

むしろ前者の場合で、その本の中身には全く賛同できず、辛辣な批評を書くものの、
それに刺激されて、何か創造的な思考なり発想なりが生まれたなら、
それは本人にとって逆説的に良書といっていいかもしれない。

百万部売れているからといって良い本であるわけではない。
読み手のなかに、なにか強い理解なり、感動なり、空想世界なり、アイデアなり、
創造物が出来上がってこそ良書なのだ。
読み手に大きな創造物をこしらえさせる力をもつ本ほど、大きな本といえる。
良書とはそうした意味で、最終的に読み手がつくる個別的なものである。



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