2011年3月13日 (日)

自然の容赦ない圧倒的な力に思ふ


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3月11日の午後、地震発生の2時間ほど前ですが、
私はこのブログに「太陽の偉大さ」というテーマで記事をアップしたところでした。

  太陽の偉大さは何だろう……?
   一、途方もない光と熱であること
   一、絶えず惜しげもなく豪勢に与え続けること
   一、きょうも変わりなく東の地平から闇を破って昇ってくること

この日の早朝、いつもどおり近くの雑木林に散歩に出て、
あまりに春の到来を告げる日差しが穏やかだったものですからこう書きました。
そして、その数時間後に地震は起きました。
東京の私のオフィス部屋も恐ろしく揺れました。
そしてテレビ画面に刻々と入ってくる映像……。

* * * * *

それにしても、こうした自然の巨大な力を目の当たりにするとき、
私たちは自然・宇宙のなかに、
あくまでちょこんと生きさせてもらっているのだということを感じます。

一昨日の巨大地震・巨大津波は、
善人だろうが悪人だろうが、
金持ちだろうが貧乏だろうが、
男だろうが女だろうが、
子どもだろうが年寄りだろうが、
また、船だろうが車だろうが家だろうが工場だろうが、
それらを分け隔てなく、根こそぎのみ込んでいきました。
……その容赦のない圧倒的な力。しかしそれは意図ある暴力的な力ではない。

自然の容赦のない圧倒的な力は、太陽がまさにそれで、
太陽は地球上の生きとし生けるものに滋養のエネルギーを与えると同時に殺傷もする。
(例えば紫外線は殺菌・殺傷能力があります)
太陽は何を生かし、何を殺すか、といった意図は持たないように思える。
ただただ、容赦なく、平等に、無関心に圧倒的に与え続けるだけです。

私たち人間ができることは、そうした圧倒的な力の一部を借りて、
最大限に生きさせてもらうことです。
また、その力の背後には、もしかして大いなる意図・法則があるのではないかというふうに
叡智をはたらかせて強く生きることです。
人間が持つ物理的な力は大自然の力に比すれば極微たるものですが、
私たちの思惟は全宇宙をも包含することができます。

私たちは、古来、自然・宇宙に畏怖を抱いてきました。
この原初的な信仰心の根っこである畏怖の念は、
いろいろな意味で傲慢になりすぎた人間をよい方向へ引き戻す作用として大事なものです。

こうした自然災害が起こるたび、
畏怖をベースとして生きること、運命ということについての観を見つめ直すことができれば、
それはひとつの被災をプラスに転じたことにもなるのでしょう。
「地に倒れた者は、地を押して立ち上がる」―――これからの復興は、やはり自然の力を借りて、
自然とともにあるわけです。
人間はこれまでもそうして何度も立ち上がってきました。

まずは救出・救援と最低限の生活環境の復旧です。
がんばろう、東北(関東含め)! 
私たちも我が身のこととして、復興支援にどんな形であれ加わっていきたいと思います。

震災からまる2日が経ちました。
何事もなかったかのように、太陽はきょうも天から光を降り注いでいます。

 

 

2011年3月11日 (金)

留め書き〈020〉~太陽の偉大さ

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                      太陽の偉大さは何だろう……?

                      一、途方もない光と熱であること
                      一、絶えず惜しげもなく豪勢に与え続けること
                      一、きょうも変わりなく東の地平から闇を破って昇ってくること




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立山連山の山の端が白々と明るくなり、日の出を待っていると、
雄山の頂上から一点の光線が走るや否や、
周辺の岩や草はたちまち長い陰を引き、きらきらと輝き出します。

写真を何枚か夢中で撮っているうち、
ものの数分も経てば陽はもうとっぷり山の上に出ています。
そして、日の出前まで凍えていた身体の
陽を受ける面だけがしっかり温まってきます。
太陽の熱量はすごいものだと感じるときです。


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私は沖縄の3月の太陽が最も好きです。
真夏の猛々しい陽ではなく、
人間で言えばまだ思春期の、どことなくはにかみながら微妙で繊細で、
それでいてどこかに芯の入った勢いのある、そんな陽を全身で感じたくて
その時期に滞在することが多いです。



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夕陽の写真を撮っている人であればよく知っていることですが、
空焼けは日没直後よりも10分~15分ほど過ぎたほうが美しい色が出ます。
偉人の多くは、死してなお著作などを通じて今の人びとに影響を与えます。
彼らのつくりだす空焼けを現代の私たちはじゅうぶんに観照したいものです。


                       * * * * *


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2011年3月 4日 (金)

人は「無視・賞賛・非難」の3段階で試される


ソフトバンクの携帯電話CMで、いま「白戸家・授業参観」篇が流れています。

「こども店長」でお馴染の加藤清史郎クンが先生役となって教壇に上がり、
『ちやほやの法則』なるものを説明します。

清史郎先生が“ちやほや”と書かれた球を高く持ち上げ、ズトンと地面に球を落とす。
そのときの清史郎先生のセリフ―――
「持ち上げといて、落とされる。
高く持ち上げられるほど、落差が大きい(再び球を高くから落とす)。
信じられるのは家族だけ……」。
(生徒に扮するマツコ・デラックスが) 「気を付けなよ、先生」。
(清史郎先生) 「あなたも」。
(さらにマツコ・デラックがイヌの白戸家お父さんに向かって) 「あんたもよ」。

……「さんざん持ちあげて、落とす」。
かつてメディアで働いていた自分にとっては身につまされる真実ですが、
このCMには思わず笑ってしまいました。

メディアも世の中も、常に自分たちの関心を奪うキャラクターを欲しています。
政治家にしろ、芸能人、文化人、スポーツ選手にしろ、
ヒーローやスター、アイドル、ヒール(悪役)を何かしら生み続け、
そして同時に、消費し続ける。
これは大衆心理に宿る習慣病のようなものなのかもしれません。

一般人である私たち一人一人も、長い人生途上にあって、
メディアに騒がれるかどうかは別にして、
ときに周囲からちやほやされ、実力以上に持ち上げられるときがあります。
また同時に、少し頭角を現すや否や、
周囲の嫉妬などによってつぶされそうになるときがあります。
そんなとき、私たちが留意しておきたい大事なことを
プロ野球選手・監督して活躍された野村克也さんは、こう表現しています。

「人間は、“無視・賞賛・非難”という段階で試されている」。 (『野村の流儀』より)


〈段階1:「無視」によって試される〉

誰しも無視されることは辛いものです。
自分なりに一生懸命やっても、誰も振り向いてくれない、誰も関心を持ってくれない、
話題にも上らない、評価もされない。
組織の中の一歯車として働いていると、こうした感覚をよく覚えます。
あるいは個人でブログを開設し、
自分の意見や作品をネット発信して叫ぶのだけれど、まったく反応が来ない。
また、就活中の学生が、志望企業にエントリーをしてもしても、
応募は空を切るばかりで、自分という存在が何十回も否定される。
これらはすべて、「無視」という試練にさらされています。

「無視」という名の試練は本人の何を試しているかといえば、それは「負けじ根性」です。

偉大すぎる芸術家などは、その作品があまりに万人の理解を超えているので
ときに、本人の生前には誰もが評価できない場合が起こりえますが、
一般人の場合であれば、たいてい自分の身の周りには目利きの人が多少いるものです。
ですから、もし「無視」によって、自分にやる気が起こらないという状況にあれば、
そのときの答えは、負けじ根性を出して「人を振り向かせてやる!」という奮起です。
その心持ちをしぶとく持ってやっていれば、
ひょんなところから理解者、評価者は現れてくるものです。


〈段階2:「賞賛」によって試される〉
いまはネットでの情報発信、情報交換が発達している時代ですから、
仕事の世界でも、趣味の世界でも、「シンデレラボーイ/ガール」があちこちに誕生します。
ネットの口コミで話題になったラーメン屋が一躍「時の店」になることは頻繁ですし、
「You Tube」でネタ芸を披露した人(ペット動物さえも)が、
1週間後にはテレビに出演し、人生のコースが大きく変わることはよくある話です。
人生のいろいろな場面で、こうした「賞賛」という名の“持ち上げ”が起こります。

「賞賛」は、受けないよりは受けたほうがいいに決まっているのですが、
これもひとつの試練です。「賞賛」によって、人は「謙虚さ」を試されます。
芸能人ではよく目にすることですが、
賞賛によってテング(天狗)になってしまい、その後人生を持ち崩してしまう人がいます。
賞賛は、わがままを引き出し、高慢さを増長させるはたらきがあるからです。

このことを古くから仏法では「八風におかされるな」と教えてきました。
「八風」とは、『ウィキペディア』の説明によれば、
仏道修行を妨げる8つの要素で、
「利・誉・称・楽・衰・毀・譏・苦」をいいます。

このうち前半4つは四順(しじゅん)と呼ばれ、
利い(うるおい):目先の利益
誉れ(ほまれ):名誉をうける
称え(たたえ):称賛される
楽しみ(たのしみ):様々な楽しみ
で、どちらかというとポジティブな要素です。
まさに称賛という試しは、この四順の中にあります。

ちなみに後半の4つは四違(しい)と呼ばれ、
衰え(おとろえ):肉体的な衰え、金銭・物の損失
毀れ(やぶれ):不名誉を受ける
譏り(そしり):中傷される
苦しみ(くるしみ):様々な苦しみ
といったネガティブな要素になります。
これらは次の試しの段階にかかってきます。


〈段階3:「非難」によって試される〉
野村さんが3番目にあげる試練は「非難」です。
そう、世の中は「上げておいて、落とす」ことがあるわけですから。
その人のやっていることが大きくなればなるほど、
妬む人間が増えたり、脅威を感じる人間が増えたりして、
いろいろなところから非難や中傷、批判、謀略が降りかかってきます。

野村さんは「賞賛されている間はプロじゃない。

周りから非難ごうごう浴びるようになってこそプロだ」と言います。

自分を落としにかかる力を撥ね除けて、
しぶとく高さを維持できるか、ここが一流になれるか否かの重大な分岐点になるでしょう。
この分岐点は、いわば篩(ふるい)と言ってもいいものです。
この篩は、その人の技量や才覚によって一流か否かの選別を行うのではなく、
その人が抱く信念の強さによって選別を行います。
結局、自分のやっていることに「覚悟」のある人が、非難に負けない人です。

芸術家として思想家として政治家として、
生涯、数多くの非難中傷を受けたゲーテは言います―――
「批評に対して自分を防衛することはできない。
これを物ともせずに行動すべきである。そうすれば、次第に批評も気にならなくなる」。
(『ゲーテ格言集』高橋健二訳より)

以上のことをふまえ、
「無視・賞賛・非難」という3つの段階で試されることを図にするとこうなるでしょうか。

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さて、さらに発展して考えると、
歴史上の偉人たちはもうひとつ4段階目のプロセスを経ているように思えます。
つまり、下図に示したように、
さらなる困難や妨害といった強力な下向きの力を受けながらも、
しかし、同時に、それを凌駕する上向きの力を得ながら高みに上がっていく、
それが偉大な人の生き様です。
で、このとき受ける上向きの力は、2段階目のときの「持ち上げ」とはまったく異なり、
これは共感や同志という名の堅固なエネルギーの力です。
偉大な仕事には、必ずそれを支える偉大な共感者や同志の力があったはずです。

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私は4段階目にあって大きなことを成し遂げようとする人の姿を
広野に一本立つ大樹のイメージでとらえます。
その大樹は、高く立っているがゆえに、枝葉を大きく広げているがゆえに
風の抵抗をいっそう強く受ける。
しかしその大樹は、人びとの目印となり、勇気づけとなり、
暑い夏の日には広い木陰を与え、冷たい冬の雨の日には雨をしのぐ場所を与えてくれる。
そしていつごろからか、そこにつながる蹊(こみち)もできる。
春や秋には、樹の下で唄や踊りもはじまる。

そして、清史郎先生が樹を見上げてたたずみ、ひと言―――
「いや、あなたは、よくぞ“ちやほやの法則”を乗り越えて、ここまで来ましたな(敬礼)」。


2011年2月25日 (金)

なめてかかって真剣にやる 〈補足〉



「跳ぶことはリスクである。跳ばないことはもっとリスクである」。

さて、あなたはどちらのリスクを選びますか?
―――と前記事でかっこよく書いて終えた。

しかし、こういうことは文字づらでは理解できても、なかなか実践ができない。
やはり(私も含め)、人は人生の多くの局面で跳ぶことを避けたがる……なぜだろう。
それはこういうことがあるからではないか、ということで内容を補足したのが下図である。



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私たちは、
危険を顧みず、勇敢に壁を越えていった人びとが、
結局、坂の途中で力尽き、想いを果たせなかった姿をよく目にする。
崖の底にあるのは、そんな「勇者たちの墓場」だ。

その一方、私たちは次のこともよく目にする。つまり、
現状に満足し、未知に挑戦しない人たちが、生涯そこそこ幸せに暮らしてゆく姿だ。
壁越えを逃避する人たちが、
必ず皆、ゆでガエルの沼で後悔の人生を送るかといえば、そうでもなさそうである。
「安逸の坂」の途中には「ラッキー洞窟」があって、そこで暮らせることも現実にはある。

例えば、会社組織の中でもそうだろう。
正義感や使命感が強くて組織の変革に動く人が、
結局、失敗し責任を取らされ、組織を去るケースはどこにでも転がっている。
逆に、保身に走り利己的に動く社員や役員が、
結局、好都合な居場所を確保してしまい、長く残り続ける……。

怠け者・臆病者が得をすることもあるし、
努め者・勇敢者が必ずしも得をせず、損をすることが起こりえる―――
人間社会や人生はそういう理不尽さを孕むところが奥深い点でもあるのだが、
問題は、結局、私たち一人一人が、みずからの行動の決断基準をどこに置くかだ。
「損か/得か」に置くのか、
「美しいか/美しくないか」に置くのか。

私はもちろん、壁を越えていく生き方が「美しい」と思うので、
常にそうしていこうと思っている。
「美しいか/美しくないか」―――それが決断の最上位にあるものだ。
その上で、最終的に、その方向が「得だったね」と思えるようにもがくだけである。
最初に「損か/得か」の判断があったなら、
いまも居心地のよかった大企業サラリーマン生活を続けていたはずである。



* 「なめてかかって真剣にやる」(本編)に戻る →



 

 

2011年2月23日 (水)

なめてかかって真剣にやる


ずいぶん前のことになるが、米メジャーリーグ野球の松坂大輔選手が

「なめてかかって真剣にやる」といった内容のことをコメントしていたと記憶する。
「なめてかかる」とだけ言ってしまうと、何を高慢な、となってしまいそうだが、
その後の「真剣にやる」というところが松坂選手らしくて利いている。

「なめてかかる」というのは決して悪くない。
いやむしろ、それくらいのメンタリティーがなければ大きなことには挑戦できない。
きょうはそんな壁を飛び越えよという話である。

* * * * *

私たちの眼前には、つねに無限大の可能性の世界が広がっている。
しかし、その世界は壁に覆われていて、どれくらい広いのかよく見えない。
壁の向こうは未知であり、そこを越えて行くには勇気が要り、危険が伴う。
一方、壁のこちら側は、自分が住んでいる世界で、
勝手がじゅうぶんに分かっており、平穏である。
無茶をしなければ、安心感をもって暮らし続けられるだろうと思える。
そんなことを表したのが図1である。

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「既知の平穏世界」と「未知の挑戦世界」の間には壁がある。

これは挑戦を阻む壁である。分かりやすく言えば、
「~だからできない」「~のために難しい」「~なのでやめておこう」といった壁だ。
壁は2つの構造になっていて、目に見える壁と目に見えない壁とに分けられる。

目に見える壁は、能力の壁、財力の壁、環境の壁などである。
目に見えない壁は、不安の壁、臆病の壁、怠惰の壁などをいう。
前者は物理的な壁、後者は精神的な壁と考えていいだろう。

何かに挑戦しようとしたとき、
能力のレベルが足りていない、資金がない、地方に住んでいる、などといった
物理的な理由でできない状況はしばしば起こる。
しかし、歴史上の偉人をはじめ、身の回りの大成した人の生き方を見ればわかるとおり、
彼らのほとんどはそうした物理的困難が最終的な障害物にはなっていない。
事を成すにあたって、越えるべきもっとも高い壁は、
実はみずからが自分の内につくってしまう精神的な壁なのだ。

私たちは誰しも、もっと何か可能性を開きたい、開かねばとは常々思っている。
しかし、壁の前に来て、壁を見上げ、躊躇し、“壁前逃亡”してしまうことが多い。
そんなとき、有効な手立てのひとつは、
「こんなことたいしたことないさ」と自己暗示にかけることだ。
やろうとする挑戦に対し、「なめてかかる」ことで精神的な壁はぐんと下がる。

どんな挑戦も、最初、ゼロをイチにするところの勇気と行動が必要である。
そのイチにする壁越えのひと跳びが、「なめてかかる」心持ちで実現するのなら、
その「なめかかり」は、実は歓迎すべき高慢さなのだ。


で、本当の勝負はそこから始まる。
図2に示したとおり、飛び越えた壁の後ろは上り坂になっている(たぶん悪路、道なき道)。

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この坂で、「なめてかかった」天狗鼻はへし折られる。
たぶん松坂選手も、自分の小生意気だった考え方を改めているに違いない。
怪我やスランプを経験して、相当に試されているはずだ。
だがその分、彼は真剣さに磨かれたいい顔つきになった。
その坂では、いろいろと真剣にもがかねば転げ落ちてしまう。
その坂はリスク(危険)に満ちているが、それは負うに値するリスクだ。

挑戦の坂を見事上りきると、「成長」という名の見晴らしのいい高台に出る。
高台からは、最初に見た壁が、今となっては小さく見降ろすことができるだろう。
このように壁の向こうの未知の世界は、危険も伴うが、それ以上にチャンスがある。


では、次に、壁のこちら側も詳しくみてみよう(図3)。
ここは既知の世界であり、確かに平穏や安心がある。

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しかし、その環境に浸って、変化を避け、挑戦を怠けているとどうなるか……。
壁のこちら側の世界は実はゆるい下り坂になっていて、
本人はあまり気づかないだろうが、ずるずると下に落ちていく。
そしてその落ちていく先には「保身の沼」、別名「ゆでガエルの沼」がある。

ゆでガエルの教訓とは次のようなものだ―――
生きたカエルを熱湯の入った器に入れると、
当然、カエルはびっくりして器から飛び出てくる。
ところが今度は、最初から器に水とカエルを一緒に入れておき、
その器をゆっくりゆっくり底から熱していく。
……すると不思議なことに、カエルは器から出ることなく、
やがてお湯と一緒にゆだって死んでしまう。
この話は、人は急激な変化に対しては、びっくりして何か反応しようとするが、
長い時間をかけてゆっくりやってくる変化に対しては鈍感になり、
やがてその変化の中で押し流され、埋没していくという教訓である。

壁を越えずにこちら側に安穏と住み続けることにもリスクがある。
このリスクは、壁の向こう側のリスクとはまったく異なるものである。
いつの間にか忍び寄ってくるリスクであり、
気がつくと(たいてい30代後半から40代)、ゆでガエルの沼にとっぷり浸かっている。
そこから抜け出ようと手足をもがいても、思うように力が入らず、気力が上がらず、
結局、沼地でだましだまし人生を送ることになる。
安逸に流れる“精神の習慣”は、中高年になってくると、
もはや治し難い性分になってしまうことを肝に銘じなくてはならない。

さて、私たちはもちろんそうした沼で大切なキャリア・人生を送りたくはない。
だからこそ、常に未知の挑戦世界へと目をやり、
大小の壁を越えていくことを習慣化する必要がある。
しかし誰しも、松坂選手のように「なめてかかれる」ほど自信や度胸があるわけではない。

───ではどうすればいいか。
その一番の答えは、坂の上に太陽を昇らせることだ。 「坂の上の太陽」とは、
大いなる目的、夢、志といった自分が献身できる“意味・大義”である。
この太陽の光が強ければ強いほど、高ければ高いほど、目の前に現れる壁は低く見える。
と同時に、太陽は未知の世界で遭遇する数々の難所も明るく照らしてくれるだろう。


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最後に、フランスの哲学者アラン『幸福論』(白井健三郎訳、集英社文庫)から
いくつか言葉を拾ってみる―――

・「人間は、意欲し創造することによってのみ幸福である」。

・「予見できない新しい材料にもとづいて、すみやかに或る行動を描き、
そしてただちにそれを実行すること、それは人生を申し分なく満たすことである」。

・「ほんとうの計画は仕事の上にしか成長しない。
ミケランジェロは、すべての人物を頭のなかにいだいてから、描きはじめたのだなどと、
わたしは夢にも考えない。(中略)ただもっぱらかれは描きはじめたのだ。
すると、人物の姿が浮かんできたのである」。

・「はっきり目ざめた思考は、すでにそれ自体が心を落ち着かせるものである。
(中略)わたしたちはなにもしないでいると、たちまち、ひとりでに不幸をつくることになる」。

―――跳ぶことはリスクである。跳ばないことはもっとリスクである。
さて、あなたはどちらのリスクを選びますか?




* →「なめてかかって真剣にやる」〈補足編〉に続く

 

 

 

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