2011年5月31日 (火)

人づくりは「親心」から ~人財育成担当者の心得


先週末、台風2号が近づく中、大阪の企業で研修をやってきました。

今回の研修のご依頼をいただいたのは
会社の人事部(人財開発部)ではなく、労働組合からでした。

「働くこととは何か?」は労働組合にとっても、本命中の本命のテーマ。
その企業では、会社(人事部)が行う研修体系の中にキャリア教育関連のものがなく、
ならば組合でそれをやってあげたい、という背景からです。

入社3年目の組合員(社員)数十名が全国から研修所に集まり、
1泊2日のうち、2日目を私の研修プログラムにあてました。

「キャリアマインド研修」
~“仕事・働くことって何だろう”をレゴブロックで考える

と題した研修は、
概ね、企業の人事部から依頼される場合と同じプログラムで組んだのですが、
今回は少し“ゆるめ”でつくりました。
というのは、人事部主催の研修というのは、どうしても業務の一環ということもあり、
研修設計への要請として「成果物を出させるようにしてください」、
「目標を書かせるような欄をつくってください」、
「5年後のありたい姿を記入させてください」のような事項が出てきます。

まぁ、それ自体は悪ではありませんが、どうしても受講者からすると構えてしまう。
その点、今回は組合主催ということもあり、
そんな成果物の提出・目標記入ワークなどは一切省きました。
その分、とてもリラックスしてプログラムを終えられたような気がします。

「働くとは何か?」という人生の問題は、多分に個人の価値観の領域ですから、
会社側は社員がどんなことを書くのかを知りたがるのは理解できますが、
何かと“吸い上げる”のはかえって逆効果な場合があります。
それに会社側の悪いクセとして、
何事も「計画的に目標を持って」ということをよしとする考え方が支配しています。
もちろん事業はそうでなければなりませんが、
個人のキャリアについては、「プランド・ハプンスタンス理論」のようなものがあるとおり、
偶発性が無視できないものです。

私は「よいキャリア形成」というのは、
計画のあるなしではなく、「想い」のあるなしだと思っています。
ですからプログラムも、働くことの「想い」(ベクトルやイメージ、そして意味)を
肚に据えることを重点的にやっています。
だから、私個人は(キャリア研修はスキルトレーニングではないので)
受講者の提出物を設けるとすれば、感想文だけでいいと思っています。
会社側はその感想文から伝わってくる「熱」(もちろん熱い感想文もあれば、冷めたものもある)
をいろいろと感じるだけで十分なような気がします。

さて、それにしても、
今回の研修がとてもいい雰囲気の感じで終えられた一番の理由は、

この企画をした労働組合の委員長、書記長、運営委員の方々の
“思い”ではなかったと思いました。

もちろんこの合宿研修の目的は、組合への理解というものが第一にあるわけですが、
それ以上に、
2日目の研修で「仕事・働くこと」について何かしら感じ取っていってほしい、
今後この子たちがたくましく一職業人として育っていってほしい、といった
「親心」にも似た思いがいろいろなところににじみ出ていたということでしょうか。

彼らの親心めいたものは、
この研修の依頼をいただいた最初のメールからすでに私は感じ取っていました。
研修の意図や背景、そして、どう私のプログラムを知り、
なぜ私のプログラムを選んでいただけたのか、などを丁重にメールでくださり、
そこには手作りで予算は限られているが、
少しでも組合員のためによい会を開催したいという真摯な思いが詰まっていました。

* * * * *

人財育成、つまり「人づくり」をやる側のもっとも大事な基本は、
やはり「このように育ってほしい」という“親心”なのだなと再認識しました。

私のところには、研修依頼の問い合わせメールがさまざまに舞い込みます。
たいていは人事部の人財育成/人財開発担当者からです。
私のやっているプログラムが「仕事・キャリア・働くとは何か」、
「自律したプロフェッショナルとはどういうものか」といった
マインド・観醸成のものだけに、特に分かりやすいのですが、
おおよそ最初のメールでその担当者の親心具合がわかります。

メールの内容で、キャリア関連の研修をやりたいが、
資料はあるか、実績企業はどこか、料金はいくらか、といったように、
いかにも研修の外側の部分だけを問い合わせてくるような場合、
担当者の親心はあまりないように思います。
で、実際、そういった担当者にお会いしてみても、
何か機械的に数社の情報を集め、比較して依頼先を決めているようなことが多い。

親心のある担当者は、最初のメールで、自身の問題意識や動機を必ず語ります。
これこれこういう問題意識や動機があって、
それに見合うプログラムを探していたところ、
ここ(私のサイト・私の書籍)にたどり着いたので問い合わせします、といったような。
親心のある担当者であればあるほど、
実際にお会いして話したときに、その問題意識や動機をめぐって話は尽きなくなります。


さて、人財育成担当者は総じて仕事熱心な人が多いのですが、
仕事熱心が必ずしも親心の大きさにつながっていない場合も多いと私はみています。

人財育成担当者の中には、人事を「戦略」で熱心に語る人がいます。
こうした人は、どことなくヒトを戦略のための素材・資源とみる傾向があって、
個々の人間の有り様をあまり気にかけない傾向性があります。

また、人事を「制度」で熱心に語る人がいます。
制度設計にとても関心が強い人は、
ヒトを「スペック(人材要件)」でとらえる傾向性が強くなります。
スペックを細かく記述して、個々の生の人間をそのスペックにはめ込んで、
組織総体の人づくりを考えようとします。

また、人事を「知識・理論」で熱心に語る人がいます。
「今年の管理職研修は、サーバント・リーダーシップをやろう」とか
「コンティンジェンシー理論をやろう」とか、
「モチベーション理論なら、最新のこの先生に来てもらおう」とか、
そういった理論系コンテンツに傾倒する人ほど、
自社の社員をどんな人財に育てたいのかを、自らの言葉とイメージで保持していません。

人をつくるということに対して「親心」のある方は、
戦略を超え、制度を超え、知識・理論を超え、
豊かにふくらみをもって「こういう人財になってほしいな」という包容力・愛情があります。
それは30分ほども話をすればわかります。
その包容力・愛情が、研修プログラム選びの真剣さになります。
その真剣さが、最初の問い合わせメールに自然とにじみ出てくるものなのです。
そして最終的には、研修の場の空気にも影響を与え、
組織全体の人づくりにも影響を与えていきます。

私は、もっともっと「親心」をもった人事担当者が増えていくことを願っていますし、
そうした担当者に多く出会っていくことが楽しみでもあります。




 

2011年4月30日 (土)

3つの「助ける」~援助・互助・自助

Koinob 2011 


私たちは今回の震災で多くの「助ける姿」・「助ける精神」をみた。

街角には多くの人が義援金箱を持って声をからした。
義援金はメディアを通しても、そして海外からも集まった。
お金だけではなく、生活物資も全国・世界から届けられた。
そして救出・救援・復興・再建のための労働力もさまざまな形で提供されている。
こうした被災者・被災地を「援助」するためのものが
広範に迅速に寄せられるのをみるにつけ、人の行為の有難さをあらためて感ずる。

同時に私たちは、被災者の方々が互いに支え合い、勇気づけ合う姿を数多く目撃した。
世知辛くなった現代社会、人づきあいが淡泊になったと言われる地域社会で、
「いや、人同士のつながりや絆はいまだ健在だった」と感じることができた。
「互助」の精神は日本人のなかに、そして国境を越えて人類のなかに、
きちんと生き続けているのだ。

さて、気がかりなのは「自助」だ。
確かに、地震から1カ月半が経って、
たくましくみずからの人生を立て直そうとする人びとの物語を
私たちはテレビなどのマスメディアを通してひとつひとつ知ることができる。
しかし、いまだ多くの人は無為にしか過ごしようのない日々を送っているのが現実だろう。
立て直そうとする意志もある、身体もある、技術もある……しかし、
土地が汚染されていて作付けができない農家。
同様に、酪農家や漁師の人たち。

仮に作物ができたとしても、風評という力によってお客がつくかどうか。

「自らを助けよう」にも、仕事がかなわないのではどうにも立ち行かない。
「援助」もきた。「互助」もある。
しかし「自助」がくじけてしまっては、真の再生復興はない。

私たちは、例えば発展途上国への支援のあり方で次のようなことをすでに知っている。
―――彼らが真に必要なのは、
「お金」ではなく「お金を稼ぎ自立するための手段」であることを。

「自助」の根本は、仕事をすること。
そして「自助の精神」の根本は、仕事をやることに意味と喜びを見出すことだ。
今日の社会において、人は仕事を通じて、
生活の糧を得、自分の身体と精神をつくり、協働し、他者や社会に貢献していく。
そしてその過程がまさに「自らを助ける」ことにほかならない。

生きる意欲を持った者なら誰しも、援助だけで生きていくのをよしとしないだろうし、
互助だけで生きていくことにもどこか限界を感じるだろう。
(援助・互助は無論大事なものであるが)
私たちは最終的に、自助の力を湧き起こして、一人一人立ち上がりたいのである。

被災地外の人間にとって、募金や生活物資提供など外側からの支援はいろいろとできる。
しかし同時に、
自助という個人の内面の力に関し、いったいどんなことができるのだろう。

私自身が持っている答えのひとつは「言葉と観念」を差し出すことである。
ここでいう言葉は、「がんばろう」「つながろう」といったような励ましの合言葉というより、
肚にずしんと据わる観念(やさしく言えば“心持ち”)を含んだ強い言葉のことだ。
そうした「強い観念・強い言葉」は、人の内面に「強い力」を生む。
例えば、私は苦しいときに次のような言葉で自らを助けてきた。

 ○「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」。
 ○「幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい」。

                          ―――アラン『幸福論』 (白井健三郎訳、集英社文庫)


 ○「人生の幸福は、

  困難に出会うことが少ないとか、全くないかということにあるのではなくて、
  むしろあらゆる困難と戦って輝かしい勝利をおさめることにある。
  力というものは、弱点にうち勝つ習練から生じるのである」。

                       ―――ヒルティ『眠られぬ夜のために』 (草間平作訳、岩波文庫)


 ○「高い山の美しさは 深い谷がつくる」。

                                      ―――加島祥造『LIFE』 (PARCO出版)


 ○「(挑むべき苦痛がないとしたら)徳、勇気、強壮、剛毅、果断などを

  われわれの間で誰が尊敬するであろうか。
  人は軽薄の友である歓喜や、快楽や、笑いや、冗談によって幸福なのではない。
  むしろ、しばしば、悲しみの中にあって、剛毅と不屈によって幸福なのだ」。

                                       ―――モンテーニュ『エセー』 (原二郎訳、岩波文庫)


他人からの援助はとても有難い。

互いが励まし合うことも素晴らしい。
しかし問題は、一人家に帰り、一人部屋で考え、一人眠る段になって、
一人立ち上がる気力と行動を起こせるかだ。
一人っきりになって、結局、意気消沈してしまい、
何もできずじまいの日々を送ることは往々にしてある。
援助や互助が真に報いられるためには、それが自助と結びつかねばならないのだ。
だからこそ、自助が最も大事である。

その自助の精神を呼び覚ますために、私は強い言葉を送りたい。
そして平時から強い観念を教育プログラムを通じて広げていくのが
自らの仕事の重大な役目だとも感じている。

日本が真にこの震災を乗り越えたという証は、
経済がもとの状態に戻ったとか、町が再建されたとかいう以上に、
日本人の自助の精神が強くなったかどうかにある。

最後に。
昨晩のプロ野球、東北楽天イーグルスの地元仙台での第一戦。
勝利の試合の後で、嶋基宏選手が球場のファンの前で御礼の言葉を述べた。

 ―――「この1カ月半で分かったことがあります。
 それは誰かのために戦える人間は強いということです。
 今この時を乗り越えた先には、もっと強い自分と未来が待っているはずです」。

とても強い観念を含んだ、とても強い言葉であった。
私たちはこういう言葉を肚で聞いて自助の力を養っていく。
そしてこういった言葉を体現する個人が増えてくることによって、
社会全体が自助力を増していく。
もちろんその自助力は、経済力や文化力につながっていく。

震災後1カ月半が経ち、日本人は見事な援助、互助の姿を見せた。
以降は、私たち一人一人の自助が試されることになる。



*【参考図】
「3つの助」をイメージ的に表すと次のようになる……

3jo image 


 



2011年3月29日 (火)

新社会人に贈る2011~人は仕事によってつくられる


Sakura04

 この4月から社会人となられるみなさんおめでとうございます。厳しい就職戦を乗り越えてひと安心したのも束の間、晴れの門出の直前に未曾有の大震災が起こりました。会社によっては入社式を自粛するところもあります。ほんとうに大変な時期のスタートとなりましたが、こういう時こそ、日本はみなさんの若い息吹を必要としています。きょうは餞(はなむけ)として次の3点をお話ししたいと思います。


 1)仕事は「機会(チャンス)」に満ちている
 2)大きな生き方・生き様に触れよ
 3)50歳になったとき「自分は何によって憶えられたいか」



◆「仕事」とは何か 
 
 みなさんは厳しい就職戦を乗り越え、晴れて仕事の舞台を得ることができました。新入社員研修を終えると、配属があり、そこからはいよいよ大切な仕事を任されることになります。そしてその仕事の成果でもって生計を立て、仕事の経験によってさまざまなことを学び成長していくことになります。社会人になるとは、言いかえれば仕事ともに人生を進めていくことでもあるのです。

 さて、職場に配属されればすぐに気づくでしょうが、私たちは日ごろ、「仕事」という言葉をよく使います。―――「この伝票処理の仕事を明日までに片付けておいてほしい」、「営業という仕事の難しさはここにある」、「課長の仕事はストレスがたまって大変だ」、「彼が生涯にわたって成し遂げた仕事の数々は人びとの心を打つ」。「そんな仕事はプロの仕事とは言えないよ」、「あの仕事ができるのは日本に10人といないだろう」。

 「仕事」という言葉は、意味的に大きな広がりをもっています。仕事は短期・単発的にやるものから、長期・生涯をかけてやるものまで幅広い。また、自分が受け持つ大小さまざまの仕事に対し、動機の持ち具合もいろいろあります。例えば、やらされ感があったりいたしかたなくやったりする仕事もあれば、自分の内面から情熱が湧き上がって自発的に行なう仕事もあります。そうした要素を考えて、仕事の面積的な広がりを示すと次のような図になります。

Sigoto hirogari

 明日までにやっておいてくれと言われた伝票処理の単発的な仕事は、言ってみれば「業務」であり、業務の中でも「作業」と呼んでいいものです。たいていの場合、伝票処理の作業には高い動機はないので、図の中では左下に置かれることになります。また、一般的に中長期にわたってやり続け、生計を立てるためから、可能性や夢を実現するためまでの幅広い目的を持つ仕事を「職業」と呼びます。

 営業の仕事とか、広告制作の仕事、課長の仕事といった場合の仕事は、職業をより具体的に特定するもので、「職種」「職務」「職位」でしょう。「生業・稼業」や「商売」は、その仕事に愛着や哀愁を漂わせた表現で、どちらかというと生活のためにという色合いが濃いものです。

 さらに仕事の中でも、内面から湧き上がる情熱と中長期の努力によってなされるものは、「夢/志」や「ライフワーク」「使命」あるいは「道」と呼ばれるものです。そして、その仕事の結果、かたちづくられてくるものを「作品」とか「功績」という。「彼の偉大な仕事に感銘を受けた」という場合がそれです。

 

◆その仕事は作業ですか? 稼業ですか? 使命ですか?

 ここで、訓話としてよく使われる『3人のレンガ積み』を紹介しましょう。

―――中世ヨーロッパのとある町。建設現場で働く3人の男がいた。そこを通りかかったある人が、彼らに「何をしているのか」と尋ねた。すると1番めの男は「レンガを積んでいる」と言った。次に2番めの男は「カネを稼いているのさ」と答えた。最後に3番めの男が答えて言うに、「町の大聖堂をつくっているんだ!」と。


 1番めの男は、永遠に仕事を「作業」として単調に繰り返す生き方です。2番めの男は、仕事を「稼業」としてとらえる。彼の頭の中にあるのは常に「もっと割りのいい仕事はないか」でしょう。そして3番めの男は、仕事を「使命」として感じてやっています。彼の働く意識は、大聖堂建設のため町のためという大目的に向いていて、その答えた一言に快活な精神の様子が表れています。

 日々月々やっていく仕事を、単なる繰り返しの「作業」ととらえるのか、給料をもらうためだけの「稼業」ととらえるのか、それとも、夢や志といったものにつなげていくのか―――各人のこの意識の違いは目には見えませんが、5年、10年、20年経つと、はっきりと人生模様そして人間性として外見に表れる形で差がついてきます。コワイものですよ。

 どうかみなさんは、みずからの仕事を大きな目的・意義につなげる意識を持ち続けてください。そうすれば仕事というのは、生活の糧を稼ぐ「収入機会」であるばかりでなく、自分の可能性を開いてくれる「成長機会」となり、何かを成し遂げることによって味わう「感動機会」となり、さまざまな人と出会える「触発機会」となり、学校では教われないことを身につける「学習機会」となり、社会の役に立てる「貢献機会」となり、あわよくば一攫千金を手にすることもある「財成機会」となります。

 仕事は、実に機会(チャンス)に溢れているのです。このような機会の固まりを、お金(給料)をもらいながら得られるのですから、会社とはなんとも有難い場所ではありませんか。

 社会人の先輩の一部には、仕事がつまらなくなると「仕事は仕事、趣味は趣味」と割り切り、「趣味で人生楽しめばいいや」という人がいます。しかしこれは少し残念な姿勢です。趣味を楽しむことが悪いというのではありません(私も自分の趣味を大いに楽しんでいます)。仕事という大切な機会を十全に生かそうとしない姿勢が残念なのです。

 作家の村上龍さんは著書『無趣味のすすめ』でこう言っています―――

 「趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクを伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している」。


 みなさんはもう社会人になった。これ以降、あなたを職業人としてしつけ、鍛えてくれるのは親でも学校の先生でもありません。それは仕事です。仕事が、あるいは仕事に関わる上司や仲間やお客様が、あなたを成長させてくれるのです。どれだけ成長できるかは、どれだけ仕事に強く当たっていくかで決まります。是非、こぢんまりとまとまることなく、仕事にぶつかっていってください。「仕事とは人格の陶冶である」と心得てください。


◆生き方・働き方は人からしか学べない ~大きな生き方に触れよう

 突然ですが、ひとつ質問をします―――「あなたの尊敬する人は誰ですか?」。

 さて、みなさんは誰をあげたでしょうか。日本人の場合、この質問に対する答えは決まっています。答えの第1位は、ダントツで「両親(父・母)」です。これは近年変わりがありません。ちなみに、1位に遠く離された格好で、「先生」とか「兄弟」とか「イチロー」などが続きます。

 「なんだ、親子関係がギスギスしているような風潮で、安心できる結果じゃないか」と、一部の大人たちはうれしがっています。しかし私はその逆です。多くの子ども・若者が判を押したように「尊敬する人は両親」と答えるのは、あまり感心しませんし、その流れは変わった方がいいとさえ思っています。

 私は何も親を尊敬するな、と言っているのではありません。もし、これが「あなたが一番感謝したい人は誰ですか?」―――「両親です」であるならば、これはもう諸手を挙げて感心したい。親というものは、尊敬の対象というより、感謝の対象のほうがより自然な感じがするのは私だけでしょうか。

 少し厳しい言い方になりますが、いまの日本の子どもや若者はあまりに多くの人を見ていませんし、多くの人の生き方に触れていません。ですから、尊敬する人は?という問いに対して、頭が回らず誰も彼もが「両親」と紋切りに答えてしまうのではないでしょうか。「一番に尊敬できるのは両親です」と答えておけば、周りから感心されるばかりなので、とりあえず無難にそう答えておくか、というような心理もはたらいているかもしれません。

 私が大学生や若年社員向けの講義や研修で言うことは「今一度、野口英世やヘレンケラーやガンジーなどの自伝や物語を読んでみなさい」です。もちろん、ここで言う野口英世やヘレンケラーなどは象徴的な人物をあげているだけで、古今東西、第一級の人物、スケールの大きな生き方をした人間、その世界の開拓者・変革者なら誰でもいいわけです。

 そうした偉人たちについて、小学校の学級文庫(マンガか何かで書かれた本)で読んだ時は、その人の生涯のあらすじを追うのに精いっぱいだったと思います。ですが、ある程度大人になってから、活字の本で改めて読んでみると、そこには新しい発見、啓発、刺激、思索の素がたくさん詰まっているはずです。

Sakura01  それら偉人たちの生き方・生き様に触れると、まず、自分の人生や思考がいかにちっぽけであるかに気がつきます。同時に、自分の恵まれた日常環境に有難さの念がわく。そして、「こんな生ぬるい自分じゃいけないぞ」というエネルギーが起こってくる。

 私は仕事柄、「どうすれば自分のやりたいことが見つかりますか?」「夢や志を持つにはどうすればよいですか?」といった質問をよく受けます。私の返答はこうです―――「大きな生き方をしている人に一人でも多く触れてください」。ここで言う「触れる」とは、直接的な出会いもそうですが、読書を通しての出会いも含みます。図書館などに行けば、私たちは時空を超えて、さまざまな人と出会うことができます。

 そうやって多様な人物、多様な生き方を摂取し続けていると、具体的に「ああ、こんな生き方をしてみたいな」という模範(専門用語では「ロールモデル」と言います)に必ず出会えます。そして、その方向に行動を起こし、もがいていけば、だんだん道が見えてきます。そして自分と同じ方向に動いている人たちが周りに寄ってきて、彼らからもまた刺激を受けます。そうしてますます方向性と理想像がはっきりしてくる―――これが私の主張する「自分のやりたいこと・なりたいもの」が見えてくるプロセスです。

 私個人が書物で出会ったロールモデルはそれこそ挙げればきりがないのですが、そのひとつに、大学のときに読んだ『竜馬がゆく』(司馬遼太郎著)の中の坂本龍馬があります。私はこの龍馬の姿を見て、2つのことを意志として強く持ちました。1つは、狭い視界の中で生きない。世界が見える位置に自分を投げ出すこと。もう1つは、どうせやる仕事なら、自分の一挙手一投足が世の中に何か響くような仕事をやる。このときの意志が、自分としては、その後の米国留学、メディア会社(出版社でのビジネスジャーナリスト)への就職につながっていきました。

 冷めた人間の声として、小説の中の坂本龍馬などは、過剰に演出されたキャラクターであり、それを真に受けて尊敬する、模範にするなどは滑稽だ、というものがあるかもしれません。しかし、どの部分が演出であり、どこまでが架空であるかは本質的な問題ではない。そのモデルによって、自分が感化を受け、意志を持ち、自分の人生のコースがよりよい方向へ変われば、それは自分にとって「勝ち」なのです。他人がどうこう言おうが、自分は重大な出会いをしたのだ!―――ただそれだけです。

 ともかく最初のローギアを入れるところが、一番難しい。しかし方法論としては極めて単純で、「第一級の人物の本を読もう!」なのです。「何を、どう生きたか」というサンプルを多く見た人は、自分が「何を、どう生きるか」という発想が豊富に湧き、強い意志を持てる。だから是非とも人との出会いには敏感に貪欲になってほしいと思います。

◆50歳になったとき「自分は何によって憶えられたいか」

 いざ仕事を始めてみればわかりますが、本当にビジネス現場の時間はせわしなく流れていきます。日々の業務をこなすことに追われていると、1年、3年、5年、10年があっという間に消えてしまうものです。そんななかで、私が重要だと思うのは、漫然と日々を過ごさないということです。そのためにお勧めしたいのが「30年の計」を立てることです。

 ピーター・ドラッカーの次の言葉を紹介しましょう―――

  「私が一三歳のとき、宗教のすばらしい先生がいた。
  教室の中を歩きながら、『何によって憶えられたいかね』と聞いた。
  誰も答えられなかった。先生は笑いながらこういった。
  『今答えられるとは思わない。でも、五〇歳になっても答えられなければ、
  人生を無駄にしたことになるよ』」。
                               (『プロフェッショナルの条件』より)

 これはズシンとくるエピソードです。漫然と生きることを自省させてくれる問いかけです。これと同様のことを内村鑑三も言っています―――

    「私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、
  この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、
  これらに私が何も残さずには死んでしまいたくない、との希望が起こってくる。
  何を置いて逝こう、金か、事業か、思想か。
  誰にも遺すことのできる最大遺物、それは勇ましい高尚なる生涯であると思います」。
  
                               (『後世への最大遺物』より)


 強く優れた組織は、必ずと言っていいほど、長期の理念やビジョンの下に進んでいます。個人のキャリア・人生についても同じことが言えます。「50歳までに何か自分の存在意義を残したい」というのはある種の理念であり、ビジョンです。こうした長期の想いを描いた人とそうでない人の差は、1年1年の単位でははっきり見えないかもしれませんが、10年、20年、30年の単位ではきちんと表れてきます。

 変化の激しい時代ですから、20代、30代、40代は実にいろいろなことが起こるでしょう。成功もあれば失敗もある、順風も吹けば逆風も吹く、漂流や停滞する時期が幾度となく訪れる。若いころは悩みや迷いがつきものです。しかし、「50歳の時点で納得したキャリア・人生を送っているかどうかが本当の勝負だ」と腹を据えていれば、短期の波風など楽観的に見つめられるようになります。ですからどうか、長期のどっしりとした想いをもって仕事に向かってください。

 少子高齢化や人口動態の変化を受けて、メディアは「縮むニッポン」というフレーズを使いはじめました。考えてみれば、大人がこうした悲観を含んだ表現を使うことは、これからを担って立つみなさんには失礼な話であると思います。みなさんはどうかこうした悲観の言葉に飲み込まれないでいただきたい。どうか「縮んでたまるか」という気概をもって、だらしのない大人たちを目覚めさせてください。

 では、みなさんが50歳になったときにまたお会いしましょう。そこで「自分が憶えられる何か」が見つかっていますように(祈)。



* * * * *
【関連記事】

〇新社会人に贈る2015 ~働くという「鐘」「山」はとてつもなく大きい

〇新社会人に贈る2014 ~仕事は「正解のない問い」に自分なりの答えをつくり出す営み

〇新社会人に贈る2013 ~自分の物語を編んでいこう

〇新社会人に贈る2012 ~キャリアは航海である

〇新社会人に贈る2011~人は仕事によってつくられる

〇新社会人に贈る2010 ~力強い仕事人生を歩むために





 

2011年3月23日 (水)

命を懸けて働く人びとに感謝と敬意を


「命を懸けて働く」、「体を張って仕事をする」とはよく口にする表現ですが、
いま、まさに文字通り、みずからの生命を極度の危険にさらして働く人びとがいます。

福島原発の状況はまだ予断を許しませんが、
事が落ち着いた時点で、東京電力はそのリスクマネジメントに欠陥がなかったか、
改めて追及されることになるでしょう(たとえ想定外の大地震だったとはいえ)。
しかし、現下、
放射線を浴びながら不眠不休で事故の処理に当たる社員たちの献身は尋常ではありません。
(ましてや、彼らの家族も多くは被災難民なのですから)

また一方では、計画停電のために、日夜、刻々と変わる状況を見ながら、
停電規模を最小限に食い止めようと体力と神経をすり減らす東電社員たちもいます。

(過去に経験のない)計画停電が発表になった翌日、
結局、停電は行われず終日電気が来ました。
それをマスコミは「二転三転する判断」「事前通告なし」などという表現で批判的に報じ、
一般市民の一部はツイッターで
「やるならやる、やらないならやらないではっきりしてくれ!」「かえって迷惑だ!」
と非難めいた発信をしていました。

……これらの反応に私は違和感を覚えます。私の感覚では、
「結果的に電気が来たんだから有難いな。
現場の担当者たちも懸命に情報と技術を集めて回避してくれたんだろうな。お疲れ様」です。
特に何か商売をやっている人、病気の人にとっては、もっと有難かったにちがいない。
結果的に電気がみなのもとに来た―――これを喜び合うのが本当ではないでしょうか。

また、日ごろ何かと揶揄される公務員(役場の人たち)も頑張っています。
自分の家のこと、家族のことは二の次で、
混乱のなかで公務を献身的にやっている姿がテレビに映し出されている。
自衛隊員も、その屈強な身体を使って、
被災者をおんぶしたり抱えたりしながら、一人一人救出していく。
そして消防隊やレスキュー隊の放水活動。
人の働く姿がこれほど頼もしく勇ましいと見えたのは本当に久しぶりのことです。

こうした中、
「電気を何が何でも安定的に供給するのが東電の仕事だろ」
「税金もらって市民のために働くのが公務員。だから当然でしょ」―――
といったような暴君と化した顧客・納税者意識が私たちの心の中にあるとすれば、
それはとても残念なことです。

彼らの献身的な仕事は、もはや給料をもらっているとかいないとか、
給料分に見合っているとかいないとか、そんな次元の話ではない。
一人の人間が、やむにやまれぬ責任感、利他精神から必死に働いている心に
私たちは素直に敬意を捧げてもよいのではないでしょうか。

ましてや、(職業的にではなく)無報酬で、
人のため、復興のために動いている人たちに対しては、
無条件に最大限の敬意と感謝を捧げたいと思います。


◆とても残念な仕事

その一方で、とても残念な働く姿もあります。例えば、
すでにネット上で話題となっている週刊誌『AERA』3月28日号(朝日新聞出版)
の表紙と中吊り広告。
物々しい防毒マスクを装着した人物を強調的にクロースアップ撮影し、
警戒を発するように赤い文字で載せられた「放射能がくる」という大見出し。
中身の記事のタイトルも煽情的な表現が踊る。

私はそれを見た瞬間、心理的な嫌悪感と、生理的な拒絶感が走りました。
私もかつて雑誌メディアに身を置いた人間ですから、
雑誌に対しての評価は冷静にできるつもりです。

確かに記事の1本1本は読んでみればさほど過激ではなく、劣悪なものではない。
ジャーナリズムメディアの役割のひとつは世の中の監視機能ですから、
東電や政府の動きについていろいろな角度からチェックを入れるのはよいでしょう。
しかし、この号からじっとり臭ってくるのは、
エリート気取りのジャーナリズムの高慢さと
「部数を売らんかな」という商業主義、そのためのセンセーショナリズムです。

『AERA』側は、 「編集部に恐怖心を煽る意図はなく、
福島第一原発の事故の深刻さを伝える意図で写真や見出しを掲載しましたが、
ご不快な思いをされた方には心よりお詫び申し上げます」
お詫びメッセージをツイッターで発信したものの、
ツイッターという軽めのメディアを選んでいるところにその反省の軽さがうかがえます。
マックス・ウェーバーの言葉を借用すれば、
まさに “精神のない専門人” の鼻持ちならない姿がここにあります。

また、もうひとつの残念な仕事。
地震のあった3日後、都心から自宅に戻る電車の中で、
隣に立つ人の夕刊紙をふとのぞき込んだら、次のような記事見出しが目に入りました。
「大暴落市場でがっつり儲ける急反発株30社」 ……。
地震の被害が刻々と明るみに出るテレビ映像を横目で見ながら、
記者はこの記事を書いたのでしょうか。
そしてこの夕刊紙の発行人もこうした類の記事がイケル!とほくそ笑んだのでしょうか。

世の中は、有象無象の者がいて、有象無象の仕事をやることで、
多様性をもちながら動いていきます。ですから、
AERAの表紙や夕刊紙の儲け株記事がこのタイミングで出てもいいでしょう。
ただ、私はそれを不快に思うので、不買・不読という形で拒否します。
(今回はこの記事を書くためにAERAを読みましたが)
人によっては買って支持する人もいるでしょう。
拒否する人が増えれば、そうした行為・仕事は、弱まるか修正されますし、
支持する人が増えれば、そうした行為・仕事は、強まり増長します。

そうした意味で世の中を動かす根本は、一般市民(民衆)の感覚・観念です。
一人一人の感覚・観念は、家庭でのしつけや学校での教育にはじまり、
日常の会話、ネット上でのコメント、メディアの発信コンテンツなど
さまざまな方面からの影響によってつくられます。

人は(特に若いうちは)何かと刺激や快楽を欲する動物で、その面では、
真面目でまっとうな、そして考えることを要求する内容ほど見向きをしなくなります。
ですが、やはり良識ある大人たちは、地味で無視されようとも、
言うべきことを表に出していく労力を惜しんではなりません。
分別ある大人の無言放置という怠惰こそ、世の中をあらぬほうへ動かしてしまいます。
だから私もこうして地味で不格好だけれども声を出します。


◆義援金について

私も微力ながら義援金をしました。
で、私が行った先は「あしなが育英会」です。
もちろんどこの団体に寄付をしても被災者のために使われるわけですが、
私は特にこの震災で多く出るであろう遺児のための学費援助に協力したいと思いました。
「あしなが育英会」はそうした遺児の支援団体です。

こうした大災害が起こった時、当然のことながら、
支援は直接的な被害や被害者の復旧・救済に最優先に向けられます。
そんな中で、見過ごされがちになるのが間接的に被害を被った人たちの支援です。
親を亡くしたり、あるいは親が職を失ったりして、
学費を出せず進学をあきらめざるをえない子どもたちは、目立ちませんが多く出るでしょう。

私も大学に進学しようとした時、家庭の経済状況が悪く、
進学断念という不安にかられたことがありました。
結局は奨学金を得て進学できたわけですが、本当にその支援制度には有難みを感じました。
子どもたちが大切な教育機会を失うことは、
本人はもちろん、国にとっても大きな損失です。

ちなみに、私は寄付を習慣化することにしています。
そのヒントをくれたのはプロスポーツ選手です。
例えば、元阪神タイガースの赤星憲広選手は、
自分の盗塁数に合わせて車椅子を施設に寄贈していました。
また、ソフトバンクホークスの和田毅投手は、
「公式戦で1球投げるごとにワクチン10本、勝利投手になったら20本」という
ルールを決めて募金することにしているそうです。

これにならって私も、毎年1回、その年のメール受発信数をカウントして、
メール1本当たりいくらという金額を決めて、計算し募金をすることにしました。
メールの受発信数が増えるということは、
それだけ自分の事業も発展している証拠ですから、
事業を伸ばせば伸ばすほど募金額も増えていくという心の張りにもなります。

◆BUY福島・BUY宮城・BUY茨城
原発事故の処理が長引くにつれ、農産物の汚染問題も持ちあがってきました。
きょうの報道では、原発近辺の農産物から微量の放射線物質を検出したということで、
出荷停止になっています。
こうした野菜農家、酪農家も間接的な被害者です。

こうした方々に私たちができる支援は、
(もちろん政府の調査を終え、安全宣言を待ってのことですが)
「BUY福島・BUY宮城・BUY茨城・BUY岩手・BUY千葉」産品です。
また、風評を信じて、これらの地域のものを一緒くたに敬遠しないことです。
どんどん買ってあげることも大きな支援になります。 

実際のところ被災した方々が、
町の復興、人生の復興をやっていくために最も大事なものは「仕事」です。
仕事があれば、もちろんお金も回り出しますし、
何よりも「さぁ、頑張るぞ」と精神が持ち上がります。
真の復興はみなさんが「生きる手段・働く場」をしっかり手に入れるところからです。

原発周辺の土地の放射能汚染はとても気になるところですが、推移を見守るしかありません。
結果的に、近辺の農家の方々が、
これまでどおり大地に根ざして仕事が続けられるよう切に祈ります。

 




Ume 01 
「国破れて山河在り 城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺ぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」―――
とは中国の詩人、杜甫のあまりにも有名な『春望』ですが、
まさにこの詩の表現を借りるなら、国流されて山河在り……。
それでも梅が花をつける季節がやってきました。
自然を恨むことなく、天を恨むことなく。前を向いて。


 

2011年3月19日 (土)

留め書き〈021〉~乗り越えること



Tome021 


               困難それ自体には、人を強くさせるはたらきはさほどない。
               困難を乗り越えようとする過程で、人は強く、賢く、優しくなっていく。

 
  復興は日本人一人一人の強い気持ちから。
  がんばろう!東北・関東!



Sinsaiakari rr 
特に夜の時間帯の計画停電は、
ろうそくの灯りの中で普段考えないようなことを考えさせてくれる


 

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