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2011年3月23日 (水)

命を懸けて働く人びとに感謝と敬意を


「命を懸けて働く」、「体を張って仕事をする」とはよく口にする表現ですが、
いま、まさに文字通り、みずからの生命を極度の危険にさらして働く人びとがいます。

福島原発の状況はまだ予断を許しませんが、
事が落ち着いた時点で、東京電力はそのリスクマネジメントに欠陥がなかったか、
改めて追及されることになるでしょう(たとえ想定外の大地震だったとはいえ)。
しかし、現下、
放射線を浴びながら不眠不休で事故の処理に当たる社員たちの献身は尋常ではありません。
(ましてや、彼らの家族も多くは被災難民なのですから)

また一方では、計画停電のために、日夜、刻々と変わる状況を見ながら、
停電規模を最小限に食い止めようと体力と神経をすり減らす東電社員たちもいます。

(過去に経験のない)計画停電が発表になった翌日、
結局、停電は行われず終日電気が来ました。
それをマスコミは「二転三転する判断」「事前通告なし」などという表現で批判的に報じ、
一般市民の一部はツイッターで
「やるならやる、やらないならやらないではっきりしてくれ!」「かえって迷惑だ!」
と非難めいた発信をしていました。

……これらの反応に私は違和感を覚えます。私の感覚では、
「結果的に電気が来たんだから有難いな。
現場の担当者たちも懸命に情報と技術を集めて回避してくれたんだろうな。お疲れ様」です。
特に何か商売をやっている人、病気の人にとっては、もっと有難かったにちがいない。
結果的に電気がみなのもとに来た―――これを喜び合うのが本当ではないでしょうか。

また、日ごろ何かと揶揄される公務員(役場の人たち)も頑張っています。
自分の家のこと、家族のことは二の次で、
混乱のなかで公務を献身的にやっている姿がテレビに映し出されている。
自衛隊員も、その屈強な身体を使って、
被災者をおんぶしたり抱えたりしながら、一人一人救出していく。
そして消防隊やレスキュー隊の放水活動。
人の働く姿がこれほど頼もしく勇ましいと見えたのは本当に久しぶりのことです。

こうした中、
「電気を何が何でも安定的に供給するのが東電の仕事だろ」
「税金もらって市民のために働くのが公務員。だから当然でしょ」―――
といったような暴君と化した顧客・納税者意識が私たちの心の中にあるとすれば、
それはとても残念なことです。

彼らの献身的な仕事は、もはや給料をもらっているとかいないとか、
給料分に見合っているとかいないとか、そんな次元の話ではない。
一人の人間が、やむにやまれぬ責任感、利他精神から必死に働いている心に
私たちは素直に敬意を捧げてもよいのではないでしょうか。

ましてや、(職業的にではなく)無報酬で、
人のため、復興のために動いている人たちに対しては、
無条件に最大限の敬意と感謝を捧げたいと思います。


◆とても残念な仕事

その一方で、とても残念な働く姿もあります。例えば、
すでにネット上で話題となっている週刊誌『AERA』3月28日号(朝日新聞出版)
の表紙と中吊り広告。
物々しい防毒マスクを装着した人物を強調的にクロースアップ撮影し、
警戒を発するように赤い文字で載せられた「放射能がくる」という大見出し。
中身の記事のタイトルも煽情的な表現が踊る。

私はそれを見た瞬間、心理的な嫌悪感と、生理的な拒絶感が走りました。
私もかつて雑誌メディアに身を置いた人間ですから、
雑誌に対しての評価は冷静にできるつもりです。

確かに記事の1本1本は読んでみればさほど過激ではなく、劣悪なものではない。
ジャーナリズムメディアの役割のひとつは世の中の監視機能ですから、
東電や政府の動きについていろいろな角度からチェックを入れるのはよいでしょう。
しかし、この号からじっとり臭ってくるのは、
エリート気取りのジャーナリズムの高慢さと
「部数を売らんかな」という商業主義、そのためのセンセーショナリズムです。

『AERA』側は、 「編集部に恐怖心を煽る意図はなく、
福島第一原発の事故の深刻さを伝える意図で写真や見出しを掲載しましたが、
ご不快な思いをされた方には心よりお詫び申し上げます」
お詫びメッセージをツイッターで発信したものの、
ツイッターという軽めのメディアを選んでいるところにその反省の軽さがうかがえます。
マックス・ウェーバーの言葉を借用すれば、
まさに “精神のない専門人” の鼻持ちならない姿がここにあります。

また、もうひとつの残念な仕事。
地震のあった3日後、都心から自宅に戻る電車の中で、
隣に立つ人の夕刊紙をふとのぞき込んだら、次のような記事見出しが目に入りました。
「大暴落市場でがっつり儲ける急反発株30社」 ……。
地震の被害が刻々と明るみに出るテレビ映像を横目で見ながら、
記者はこの記事を書いたのでしょうか。
そしてこの夕刊紙の発行人もこうした類の記事がイケル!とほくそ笑んだのでしょうか。

世の中は、有象無象の者がいて、有象無象の仕事をやることで、
多様性をもちながら動いていきます。ですから、
AERAの表紙や夕刊紙の儲け株記事がこのタイミングで出てもいいでしょう。
ただ、私はそれを不快に思うので、不買・不読という形で拒否します。
(今回はこの記事を書くためにAERAを読みましたが)
人によっては買って支持する人もいるでしょう。
拒否する人が増えれば、そうした行為・仕事は、弱まるか修正されますし、
支持する人が増えれば、そうした行為・仕事は、強まり増長します。

そうした意味で世の中を動かす根本は、一般市民(民衆)の感覚・観念です。
一人一人の感覚・観念は、家庭でのしつけや学校での教育にはじまり、
日常の会話、ネット上でのコメント、メディアの発信コンテンツなど
さまざまな方面からの影響によってつくられます。

人は(特に若いうちは)何かと刺激や快楽を欲する動物で、その面では、
真面目でまっとうな、そして考えることを要求する内容ほど見向きをしなくなります。
ですが、やはり良識ある大人たちは、地味で無視されようとも、
言うべきことを表に出していく労力を惜しんではなりません。
分別ある大人の無言放置という怠惰こそ、世の中をあらぬほうへ動かしてしまいます。
だから私もこうして地味で不格好だけれども声を出します。


◆義援金について

私も微力ながら義援金をしました。
で、私が行った先は「あしなが育英会」です。
もちろんどこの団体に寄付をしても被災者のために使われるわけですが、
私は特にこの震災で多く出るであろう遺児のための学費援助に協力したいと思いました。
「あしなが育英会」はそうした遺児の支援団体です。

こうした大災害が起こった時、当然のことながら、
支援は直接的な被害や被害者の復旧・救済に最優先に向けられます。
そんな中で、見過ごされがちになるのが間接的に被害を被った人たちの支援です。
親を亡くしたり、あるいは親が職を失ったりして、
学費を出せず進学をあきらめざるをえない子どもたちは、目立ちませんが多く出るでしょう。

私も大学に進学しようとした時、家庭の経済状況が悪く、
進学断念という不安にかられたことがありました。
結局は奨学金を得て進学できたわけですが、本当にその支援制度には有難みを感じました。
子どもたちが大切な教育機会を失うことは、
本人はもちろん、国にとっても大きな損失です。

ちなみに、私は寄付を習慣化することにしています。
そのヒントをくれたのはプロスポーツ選手です。
例えば、元阪神タイガースの赤星憲広選手は、
自分の盗塁数に合わせて車椅子を施設に寄贈していました。
また、ソフトバンクホークスの和田毅投手は、
「公式戦で1球投げるごとにワクチン10本、勝利投手になったら20本」という
ルールを決めて募金することにしているそうです。

これにならって私も、毎年1回、その年のメール受発信数をカウントして、
メール1本当たりいくらという金額を決めて、計算し募金をすることにしました。
メールの受発信数が増えるということは、
それだけ自分の事業も発展している証拠ですから、
事業を伸ばせば伸ばすほど募金額も増えていくという心の張りにもなります。

◆BUY福島・BUY宮城・BUY茨城
原発事故の処理が長引くにつれ、農産物の汚染問題も持ちあがってきました。
きょうの報道では、原発近辺の農産物から微量の放射線物質を検出したということで、
出荷停止になっています。
こうした野菜農家、酪農家も間接的な被害者です。

こうした方々に私たちができる支援は、
(もちろん政府の調査を終え、安全宣言を待ってのことですが)
「BUY福島・BUY宮城・BUY茨城・BUY岩手・BUY千葉」産品です。
また、風評を信じて、これらの地域のものを一緒くたに敬遠しないことです。
どんどん買ってあげることも大きな支援になります。 

実際のところ被災した方々が、
町の復興、人生の復興をやっていくために最も大事なものは「仕事」です。
仕事があれば、もちろんお金も回り出しますし、
何よりも「さぁ、頑張るぞ」と精神が持ち上がります。
真の復興はみなさんが「生きる手段・働く場」をしっかり手に入れるところからです。

原発周辺の土地の放射能汚染はとても気になるところですが、推移を見守るしかありません。
結果的に、近辺の農家の方々が、
これまでどおり大地に根ざして仕事が続けられるよう切に祈ります。

 




Ume 01 
「国破れて山河在り 城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺ぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」―――
とは中国の詩人、杜甫のあまりにも有名な『春望』ですが、
まさにこの詩の表現を借りるなら、国流されて山河在り……。
それでも梅が花をつける季節がやってきました。
自然を恨むことなく、天を恨むことなく。前を向いて。


 

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