2009年11月12日 (木)

やさしく・ふかく・ゆかいに・まじめに

Koyoha02 
奥鬼怒にて1


「むずかしいことをやさしく 
 やさしいことをふかく
 ふかいことをゆかいに 
 ゆかいなことをまじめに」


                 
―――井上ひさし


私は自らの職業の定義を「“働くこと/仕事とは何か?”の翻訳人になること」として
6年前に独立し、今に至っていますが、
常に頭の中の下地に敷いているのが、この井上ひさしさんの言葉です。

むずかしいことをむずかしいまま言う、あるいは
むずかしいことをまじめに言う、ことは簡単ですが、
むずかしいことを
「やさしく、ふかく、ゆかいに、まじめに」という経路を通して、
受け手に染み込ませるように伝える(そして結果的に、じゅうぶんに伝わっている)
―――それは生涯を通じて追求せねばならないことだと思います。

ともすると、私の生業とする企業研修サービスの分野、ビジネス書出版の世界では、
「やさしく」が、お手軽なハウツーの披露、
「ふかく」が、感覚的に鋭い切り口を見せながら、実は表面をすくうだけのコンテンツ、
「ゆかいに」が、オモシロオカシクの演出、
「まじめに」が、重くならないよう適当に茶化しを入れる・・・
などにすり替わっていることが多々あります。
それは、より多く売るために、発信側が行うある種の迎合によるものですが、
私はそれらを固く排していきたいと思っています。
(たとえ、不器用で不格好で、非効率で、地味であっても)

で、今週、ン十年ぶりに夏目漱石の『坊っちゃん』を再読しました。
まさに、
「むずかしいことをやさしく 
やさしいことをふかく
ふかいことをゆかいに 
ゆかいなことをまじめに」書いた最良のお手本だと思いました。

Koyoha03 
奥鬼怒にて2


 

2009年11月10日 (火)

「もっと欲しい」から「これでいいのだ」へ

Akinoki 

きょうは『自由からの逃走』などの碩学の著で知られる
ドイツの社会心理学者、エーリッヒ・フロムの言葉から。


「〈所有〉に方向づけられている人は、
自分自身の足よりも松葉杖を使って立とうとする。
そのような人は、実存するということ、
すなわちみずからが望むような自分自身になるということのために、
自分の外部にある対象を用いる。
何かを〈持つ〉限りにおいて、その人は自分自身たりえるのである。
個人は客体の〈所有〉に依拠して、主体としての〈在り方〉を決める。
そのような個人はさまざまな対象によって所有されているのであり、
したがってそれらを〈持つ〉という目標によって所有されているのだ」。

―――エーリッヒ・フロム『よりよく生きる』
(小此木啓吾監訳、堀江宗正訳、第三文明社)



「所有」に執着する生き方ではなく
「在り方」を充実させる生き方へ―――ということを
やや学術的な言い回しではありますが実に的確に表したフロムの言葉です。

私なりにもう一言。
「Have more」(もっと欲しい)の生き方から
「Well-Being」(これでいいのだ)の生き方へ。

2009年10月25日 (日)

「私は~を売っています」

Susuki01 
多摩川にて

◇ ◇ ◇ ◇
冒頭、次のシートを見てください。
私が研修でやっているワークのひとつです。
さて、あなたはこの空欄にどんな言葉を入れるでしょうか―――?
(これに関する解説は本記事の後半部分で)

Wrk01 

◇ ◇ ◇ ◇

「還元論」と「全体論」という考え方が科学の世界にあります。

還元論は、物事を基本的な1単位まで細かく分けていって
それを分析し、物事をとらえるやりかたです。
人間を含め、自然界のものはすべて、
部分の組み合わせから全体ができあがっているとみます。

例えば西洋医学などは基本的にこのアプローチで発展してきました。
胃や腸などの臓器を徹底的に分析することで、
さまざまな治療法を開発するわけです。

他方、胃や腸など臓器や細胞をどれだけ巧妙に組み合わせても、
一人の人間はつくることはできない
全体はそれ一つとして、意味のある単位としてとらえるべきだ
というのが全体論です。
東洋医学は主にこのアプローチです。

この2つの立場は、どちらがよいわるいというものではなく、
バランスよく双方を取り入れて扱っていくのが賢明なやり方です。
しかし、現代文明は何かと還元論に偏重してきています。

何事も論理的に分解をして、分析的に、定量的に、デジタル的に、科学的に考えるのが
何かカッコイイ、合理性に満ちたアタマのよいやり方だという認識が広がっています。
私たちはビジネス現場ではもちろん、
日常生活までそうした還元論的な思考を進んで強要しようとしています。

しかし、
直感(直観)的に統合をして、俯瞰的に、定性的に、アナログ的に、
信念的に考え行動することも
同じように大事なことであり、必要なことなのです。
(たとえ、合理的でなく、非効率であり、ときに不格好であったとしても)

◇ ◇ ◇ ◇

さて、私が携わっている人事・組織・人財教育の世界の話に入ります。
昨今の事業組織が、そしてビジネス世界がどんどん煩雑化するにしたがって、
一人一人の働き手たちは、
自分を、そしてキャリア(仕事人生)をたくましくひらくことができず、
ますます狭いほうへ狭いほうへ追いやられていく―――そんな状況が生まれています。

その大きな理由として、「還元論」的な価値観に基づく方法論の偏重があると思います。

例えば、私たちは優秀な人財をとらえる場合に全人的にとらえようとせず、
部分的な知識や技能の集合体としてとらえるようになっています。
つまり、「人材スペック」なるものをこしらえ、
細かな知識要件、技能要件を設定して、
どのレベルでどれくらいの項目数をクリアしているかによって、
その人物を評価し管理しようとする。

また、MBO(目標管理制度)×成果主義の普及も
一人の働き手を分解的に、定量的に行動させる促進剤としてはたらいています。

その結果、働き手は、その人材スペックの要求項目にみずからをはめ込み、
その枠組みに合わせて成長すればいいという考え方になる。
一職業人として伸び伸びと何か一角(ひとかど)の人物になろうなどという
おおらかな心持ちで我が道をゆく人間はどんどん少なくなるわけです。

そのくせ会社側は、若手従業員に対し、
「5年後どうなっていたいか?」とか
「この先10年間のキャリアプランは?」などと問い詰めたりする。
従業員が答えられるとすれば、せいぜい
「人材スペックのマトリックス表にありますとおり、
3等級の要件a、要件d、要件fの、レベル2+をクリアして、課長になることです」
―――そんな程度のものでしょう。

「キャリアパス」なんていうのは、そんな中から生まれてきた概念です。
組織側が、働き手のキャリアの道筋をいくつか用意してやって、
そこん中から適当に選んで、なぞって上がっていけ―――
まぁ、サラリーマンの世界が「スゴロク」に喩えられるのも、うなずけるところです。

しかし、こうしたキャリアパスを用意してやるやり方も、すでに行き詰っています。
30歳半ばを超えてくる働き手にはこれまで管理職というポストを与えて
なんとか彼らの居場所と道筋を確保できていたのですが、
昨今は、
・管理職のポストが用意できない(組織が右肩上がりで成長していないから)
・そもそも彼らが管理職になりたがらない
・彼らは専門職として等級(そして給料)を上げていきたがっている
・しかし、あまりに細分化された専門職に対し、
 組織はそれほど多様なポストやパスを用意できない
・人材スペックの枠組みを離れ、既成のキャリアパスなどに頼らないぞという
 たくましくキャリアをひらく意識習慣ができていない働き手はオドオドするばかり

◇ ◇ ◇ ◇

で、冒頭のワークに戻ります。

Wrk01

さて、みなさんはこの空欄に何という言葉を入れたでしょうか?

自分は自動車メーカーに勤めているから、
『私は 「クルマ」 を売っています』

自分は介護事業会社に勤めているから
『私は 「介護サービス」 を売っています』

―――というような答えを私は求めていません。
右上に「私の提供価値宣言」としているところがミソでして、
この空欄には、自分が仕事を通じて提供したい「価値」を考えて、書いてほしいのです。
実は、この「提供価値」を考えることが、
職業人としての自分のアイデンティティを確認し、
それを基軸にしてキャリアをひらいていくという原点になるのです。
そしてこれは自発的な「宣言」なのです。

実際の研修では、この提供価値宣言をいきなりやるのは大変ですから、
私は事前作業を1ステップ入れることにしています。
次のシートを見てください。
「5つの自己紹介」という質問シートです。
この5つの質問を経て、提供価値を考えることを誘(いざな)っていきます。

Wrk02 

私個人の例でやってみますと、

1:【勤務先】 (ここは雇用されている会社名がきます)
・私は 「キャリア・ポートレートコンサルティング」 に勤めています。

2:【雇用形態】 (ここは正社員とか契約社員とかフリーランスとかですね)
・そこで私は 「事業主」 として働いています。

3:【職種】 (具体的な職種がきます)
・そこで私は 「人財教育コンサルタント」 をやっています。

4:【業務内容】 (担当業務を書きます)
・日々の私の仕事は 「人財育成研修を開発し実施する」 ことです 。

―――と、ここまでは誰しも簡単に書く事ができます。
さきほど触れた、「私は何を売っているか」という設問に対し、
大方の人は、4番目の設問の答えを書いてしまいがちです。
しかしそれは業務の客観的な説明であって、提供価値を宣言しているものではありません。

次の5番目の設問は、自分の言葉で噛み砕いた主観的な意志の造語をしなければなりません。
私は自分自身の提供価値を次のように考えています。

5:【提供価値】
・私は仕事を通し、
「向上意欲を刺激する学びの場」 
 を売っています。あるいは、
・私は仕事を通し、 「働くとは何か?に対し目の前がパッと明るくなる理解」 
 を売っています。または、
・私はお客様に 「働くことに対する光と力」 
 を届けるプロフェッショナルでありたい。

この問いを通して考えさせたいことは、
私たち一人一人の働き手は、
目に見えるものとして具体的な商品やサービスを売っていますが、
もっと根本を考えると、その商品やサービスの核にある「価値」を売っているということです。

例えば、
保険商品を売っているというのは、根本的には、「安心」を売っているとも言える。
また、新薬の基礎研究であれば、
その仕事を通して、「発見」を売っている、あるいは、
「その病気のない社会」「健康」を売っているととらえることができます。
会計レポートの作成は、取締役に対し、
「正確さ・緻密さ・迅速さによる判断材料」を売っているのかもしれません。

その他、スポーツ選手であれば、
彼らは「感動」や「ドキドキ」「勇気」を売る人たちでしょう。
コンサルタントは「知恵・情報」や「解決」を売っています。
料理人は、「舌鼓を打つ幸福の時間」を売っています。
コメ作りの農家の人は、「生命の素」を売るといっていいかもしれません。

いずれにせよ、5問目の欄には、主観的で意志的な言葉が入ります。
この言葉づくりを、時間をかけてじっくりやらせることが
一人一人の働き手たちを全人的に目覚めさせます。

細分化された人材スペック項目に合わせて、そこに自分をはめ込んでいくアプローチ
とはまったく正反対のアプローチが、この提供価値宣言です。
なぜなら、この宣言によって
「自分は何者であるのか?(ありたいのか?)」、
「丸ごとの自分を使って何の価値を世に提供したいのか!?」が打ち立てられる。
で、そのために、いまの自分はどんな知識、能力を新規に習得せねばならないか、
補強せねばならないか、あるいはどういうキャリアチャレンジを起こした方がよいか、
などの思考順序になるからです。

その宣言をまっとうするために、
いまの仕事のやり方・方向性でいいのか、
いまの会社がいいのか、会社員でやっていたほうがいいのか、
日本に住んでいた方がいいのか、業界を変えた方がいいのか・・・
そんな発想がたくましく湧いてくるわけです。
そういう発想のもとでは、もはや会社側が用意する規定のキャリアパスなど意味をもたなくなる。
白紙の未来カンバスに、まったく自由に絵を描かざるを得なくなる。
で、もがいてもがいて切り拓いた道が、結果的に自分のキャリアパスになる―――
そういうたくましい働き様、生き方に転換するのです。

◇ ◇ ◇ ◇

最後に追加のワークをひとつ。
次のシートの空欄にみなさんはどんな言葉を入れるでしょうか――?

Wrk03 

これは先程の提供価値宣言の発展形です。
自分の存在価値宣言を一言で表現するワークです。
私自身のサンプルを紹介すると、こういう表現になります。

・私は「“働くとは何か!?”の翻訳人」として生きる。

このワークは言ってみれば、自分の現下の人生の「最上位の目的」を
キャッチコピー的に表現することです。
私は「“働くとは何か!?”の名翻訳人」になることを8年前に決意した後、
それを実現するために
サラリーマンからの独立、コンサルティングサービスの研究、
ビジネス著書の出版、教育心理学の勉強、人事(HR)業界での人脈づくり、
など新規の知識習得や技能磨きをやってきました。

これらはすべて上の一大目的の下の手段であり、
実現のための最適解と思われる行動だと思ったからです。
私はいま、小説を一本書いていますが、これもその目的を果たすために閃いたものです。

人は、全人的に投げ出すに値するものをこしらえれば、
部分でやるべきことはいかようにでも見えてくるし、やれるものです。
ですから、大目的に対し情熱を燃やしているかぎり行き詰まりがない。

働く個人も組織も経営者も、
偏重した「還元論」ではなく、「全体論」の視点に寄り戻しをかけて、
働くこと・キャリアを今一度見つめ直す時期にあると思います。

Susuki02

2009年10月10日 (土)

「好き」を仕事にする、ではなく「想い」を仕事にせよ

Inahoct_2 
あれよあれという間に09年も収穫の季節に。
うちの近所でも稲架(ハザ)掛け米の景色が。日本に残したい景色のひとつです


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「少年よ、大志を抱け」 (ウイリアム・クラーク)
「夢見ることができれば、成し遂げることもできる」 (ウォルト・ディズニー)
「思考は現実化する」 (ナポレオン・ヒル)
「想像力は、知識よりも大事である」 (アルバート・アインシュタイン)
「僕は生計のために、夢をみる」 (スティーブン・スピルバーグ)
「心構えした者に、チャンスは微笑む」 (パスツール)
「アイ・ハブ・ア・ドリーム」 (マーチン・ルーサー・キングJr.)
「他人のイメージに従って生きることなどできない」
 (ケビン・コスナー:なぜ自らが監督となって『ダンス・ウィズ・ウルブス』を
 撮ることになったのかと質問されて)

偉業を成し遂げた歴史上多くの人たちが、
夢や志、想い、願い、理想イメージの重要性をさまざまな言葉に残している。

見方を変えれば、彼らはあなたに対して、
自分の向かいたい先の未来景色を描いているか、と問うているようでもある。

世知辛い世の中で、多くの人は各々の人生において、算数ばかりを考える。
しかし、人生とは、絵を描くことであり、
工作(“ものつくり”という意味で)をすることが本質のように思います。
そして、結果的に何かを作品として残す。
作品とは、目に見えるモノや業績に限らない。
自分の人格や自信、充実感のようなものであるかもしれないし、
永く心の中に残る想い出や体験かもしれない。

いずれにしても、まず「描く」ことこそが大事なのです。

しかし、その描くことが難しい。
平成ニッポンの世は、幸運にも、自分の職業選択に関して何を描いても自由ですよ
と言われているにもかかわらず(人類史上、こんな幸せな状態はかつてなかったのに)、
多くの人はそこに難儀を覚える。

ピーター・ドラッカーは
「先進国社会は、自由意志によって職業を選べる社会へと急速に移行しつつある。
今日の問題は、選択肢の少なさではなく、逆にその多さにある。
あまりに多くの選択肢、機会、進路が、若者を惑わし悩ませる」
と言います。

職業が多様化し、職種や業務が溢れる現代においては、
むしろ夢や志を描くという力が衰弱していきます。なぜなら、
あまりにも求人情報・採用条件が
機械的でカタログ的な枠でもって仕事を限定するために、
働き手はそこに自分をはめ込むことを強要され、
結果的に職業・キャリアに対してふくらみのあるイメージを描けなくなってしまうからです。

就職活動を控えた学生の多くが、
そしてすでに職を得て、どこかの会社でサラリーマンをやっている社会人でさえも、
あの会社に「どう入るか」、
目先の仕事を「どう処理するか」、に頭がいっぱいになるだけで、
自身がずっと心の奥に抱える問い「自分はいったい何をしたいのか、何になりたいのか」
・・・それが描けないというのが現実です。


私は、この状態を非難しているわけではありません。
私自身も学生時代は発想貧困な就職意識でした。
ドラッカーも指摘しているように、
あまりに過剰な選択肢の中から職業を選び取ることは、おおいなる戸惑いなのです。
『自由からの逃走』を著したエーリッヒ・フロムも、
「~からの自由」(消極的自由)を勝ち取るのに人類は勇敢に立ち向かったが、
「~への自由」(積極的自由)を最大限活かすことに人類は臆病であり、
うまくないと指摘しました。

さて、前回の記事で、
自分の登るべき山を見つけ出す(正確には、つくり出す)ことの重要性を書きました。
その際に、ともかく「もがいてみよ」とも書きました。

で、今回の記事のコアメッセージは、
やみくもにもがくのではなく、
「想い」の下にもがけ、さらば道は開かれん、ということです。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

キャリア・人生をたくましく切り拓いている人は、
間違いなく「描くことができる人」です。
(実際には誰しも最初から明確に描くことはできないので、
正確には「描こうとする人」「描くことを止めない人」といった表現が適当かもしれません)

私がここで言う「描く力」とは、
具体的には「発想の展開力」と置き換えることができます。

例えば、自分が野球でもサッカーでもいいのですが、
プロスポーツ選手を目指しているとします。
実力と運に恵まれて、そうなれば一番よいのですが、プロスポーツの道も厳しいですから、
そう簡単になれるわけでもありません。
そして、事実、そうなれなかったとします。
あるいは、いったんはプロ選手になれたが、その後ぱっとせずに引退を余儀なくされたとします。

さて、そのとき、あなたは職業選択をどう考えるでしょうか――――?

体育会系で協調性があり、人当たりがいいから、営業の仕事に就こう。
あるいは、身体が頑丈なので作業現場の仕事なら大丈夫だ。
こうした直接的な自分の強みと即効性を結び付けて考えるのは、
けっして悪くはありませんが、通常の発想です。

しかし、もう少し発想を展開してみれば、
プロスポーツ選手に隣接する職業はさまざまに考えられます。
下図はその一例です。
Photo

自分の強みと追加技能や知識の修得を加えれば、
プロ選手を脇から支えるトレーナーやティーチングプロはどうだろう、
また審判員はどうだろうとなります。
また、興味・関心がつながるものとしては、
球団の運営や球場の運営、スポーツメディアの仕事、
あるいは道具メーカーで商品開発などの仕事もあるでしょう。
もちろん、これらの職に就くためには、新たに勉強して身につけなければならない技能や
知識があります。
しかし、そうした努力はどのみち他の選択肢を採ったところでやるべきことです。

さて、発想はまだ発展します。
もし、あなたが、球場の運営に大きな興味を感じ、その関連で職を得たいと思ったとしましょう。
そこで、また発想をします。
(ここでいう発想はもちろん、現実の情報収集も含んだ上での発想です)
すると、球場運営の周辺にもさまざまな仕事が候補として浮かび上がってきます。
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球場ビジネスの経営、イベント興行の仕事、場内の飲食業、球場の営業の仕事、
球場の保守の仕事、天然芝の生産の仕事、等々。
これら仕事について、いろいろと調べていくと、
あなたの中でも新たな発見や興味が湧いてくることでしょう。

上図の例では、あなたがその中でも、天然芝の管理ビジネスに高い関心を寄せ、
さらにそれを追っていくうちに、
ついにはグリーンキーパー(芝の維持管理者)の派遣ビジネスにたどり着くというものです。

この一連の発想の展開で大事なことは、
その発想の根底に、あなたのスポーツへの“想い”が流れ続けていることです。

「自分はプロ選手にはなれなかったけれども、陰から名勝負が生まれることを助けたい。
選手になりそこねたおかげで、その分、
プレー環境や道具に関する選手の要望やかゆみが誰よりもよくわかる。
たまたまその仕事に就いている人間には絶対負けない!」という想いです。


自分の想いをメガネにして、いろいろな職業、職種、業界を見てみる。
そうすると、予想外のつながりや展開が生まれてきます。
上の例では、プロスポーツ選手がグリーンキーパーの人材派遣ビジネスに展開しました。
第三者が聞くと脈絡がありませんが、本人が自分の想いでつながっていればそれでいいのです。
自分の中で、過去に培った経験や強みがすべてその仕事に活きてくれば、
やがて周辺の人間も、お客さんも
「なるほど、この人のつくりだす商品・サービスは確かに違う」と気づくようになるでしょう。

本人がプロスポーツ選手への道が絶たれたとき、もし、発想を面倒がり、
体育会系で人当たりもいいから何でも適当に営業の仕事に就けばいいやと
簡単に就職してしまったら、
その後、「俺はなんでここでこんなものを売っているんだろう?」
という状況に陥ってしまう可能性もあります。

将来をあれこれ発想して展開するには、意志と努力が要りますが、
それは将来の自分を助け、活かすために、今、重要な作業なのです。

どのみち人生はもがかねばならないものです。
ですが、その「もがき」を徒労に終わらせないために、
私たちには「想い」が必要です。
想いの下にもがいていれば、必ず自分の山が見えてくるものです。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

さて、最後に「想い」について補足を。
私がここで使っている「想い」という言葉のニュアンスは、
「具体的な像・姿」×「意義・理念・使命感」の2要素の組み合わせです。
ですから、visionや imaginationとaspirationの混合といった感じです。

この組み合わせを噛み砕いて表現すると、
「想い」=「自分がこうありたい状態」×「~のために」となりましょうか。

したがって、自分がこうなりたい、ああなりたいと想像するだけを
「想いを描く」とは言わないのです。
そこに「何のために」という意義づけがあって初めて「想いを描く」が成り立ちます。

よく「好き」を仕事にする、のがよいと言われる。

私はこれは、半煮えの考え方だと思っています。
(半煮えということで否定ではありません。好きであることはとても大事です)
私は、好きを仕事にしようと脱サラをした人で、その後すぐに行き詰ってしまう事例を
いくつも眼にしてきました。
それは1つに、
そのことが好きだという愛好者の目線は、
いかにそれを生業として継続させていかねばならないかという経営者の目線とは
かなり異なっているので、
好きという熱や思い込みだけでは立ち行かなくなる状況が生まれる。

そしてもう1つは、
「好き」は、ちょっとしたきっかけで、いとも簡単に
「嫌いになった」「飽きた」に豹変することです。

さらに1つは、
「好きであれば何事も何とかなる!」という能天気さのみが一人走りして、
他人の成功イメージをただ単に真似するだけで、
自分独自のイメージを持つことをしない。

ですから、私の主張は、
「好き」を仕事にするのではない。
「想い」を仕事にせよ―――となるのです。

自分がこうありたいという自分なりのイメージを持つ。
そして、その底辺には、「~のために」という意義をしっかり付加している。
「想い」を仕事にするとき、
人は、よいアイデアも湧いてくるし、辛抱強く粘ることもできる、
多少の苦難があっても飽きずに継続ができる。
そうしてもがいているうちに、霧の向こうに自分の山がしっかり見えてくる。

これからは、自分なりの「働く想い」を描く者と描かざる者の間で、
キャリア・人生がくっきり分かれるという二極化が進みます。

想いを描き、エネルギーを無尽蔵に湧かせながらキャリアマラソンを楽しむ人たちと、
想いを持たないがゆえに現状のストレスにあっぷあっぷで、
将来に不安を抱えながら走る人たちと。

2009年9月18日 (金)

「自分の登るべき山」はどこにある!?

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夏を仕事で忙しくしていたら、すでに稲穂は頭を垂れるほどに実り、
時を測ったかのようにヒガンバナ(曼珠沙華)が畦に咲く



私は時々気分転換で
地元の公立図書館の学習室に行って仕事をするときがあります。
社会人学習室は簡単なブース形式になっていて
机や椅子の使い心地はいいし、空調もほどよいので平日でも利用者が多い。

そんな中の常連に、
いかにも「俺は年季の入った司法試験浪人だ!」張りの男性がいます。
机の上には六法全書やら専門書やら参考書やらを何冊も積み上げて
いつも大学ノートに何かを書き込んでいる。(居眠りも多いが)
いつぞやは鉢巻きをして勉強に臨んでいました。
歳格好からすると、すでに5浪や6浪くらいはしていそうな貫禄(?)です。

私が「浪人」で思い出すのは、予備校時代の「東大浪人」でしょうか。
私も1年間予備校に通いましたが、そこには「東大以外は大学にあらず」として
2浪3浪中の先輩受験生がまたぞろいました。
私はその後、運よく慶応大学に入りましたが、驚いたのは、
一応、慶応大学に入学しておき、籍だけ置いて、
もう1年東大受験に専念する幽霊学生がクラスに何人もいたことです。

また、世の中には「ミュージシャン目指してます」とか
「人気芸人になりたいんです」ということで
定職に就かずアルバイトで食いつないで
そのための活動をやり続ける人たちがたくさんいます。

「司法試験合格」にしても
「東大合格」にしても
「ミュージシャンになる」、「人気芸人になる」にしても、
(各自の抱く内面の動機=“何のために”という自問はともかくとして)
これらはひとつの夢であり、目指すべきひとつの目標です。

私はそうした夢や目標をもつことは極めて大事だと思っているし、
(研修でもその重要性を言っている)
初志貫徹のために挑戦を続ける姿には敬意を表したい。

しかし、同時にそうした人たちに対し、
本記事で以下に述べることも頭の中に併存させてほしいと願うものです。


なぜなら上記のような人たちの中で、ある割合の人たちは
夢を言い訳にしてほんとうの実り多き人生を逃していたり、
その目標に向かってただチャレンジしている風だけのことに
満足してしまっているかもしれないからです。


◇ ◇ ◇ ◇

では、本論に入ります。

まず指摘したいことは、キャリア形成には
「意図的につくりにいくキャリア」
「結果的にできてしまうキャリア」の2種類があることです。

前者は、「医者になろう」とか「宇宙飛行士になろう」とか、
明確な目標を定めて、意図的に計画してステップを踏んで
ついにそれを獲得していくものです。

後者は、医者になろうと思って医学の勉強をしていたが
薬学の研究のほうに興味が湧いて、結果的に新薬の研究者になったとか、
医者になったものの、文芸の才能に目覚めて小説家になってしまったとか
(例えば、北杜夫氏や渡辺淳一氏、マイケル・クライトン氏など)、
必ずしも計画的ではなかったが、当初とは違う選択が途中でひらめいて、
もがいて奮闘して、振り返ってみたらその道で食っていた、
そんなようなタイプのものです。

もちろんこの2つのタイプは、シロかクロかというものではなく、
誰しもこの両者の混合でキャリアをつくっていきます。
ですから、状況に合わせてこの両者の取捨選択や、
バランスをうまくとることが肝要なのです。

「意図的につくりにいく」キャリアに固執した場合の欠点として、
「俺はこれになるしかない!」といった絶対無二の目標を立ててしまうがゆえに
他の選択肢が目に入らなくなり、自分の才能を限定してしまう恐れがある、
または、いったん他の道に進んで、
そこから迂回して当初の目標に辿り着くという可能性をなくしてしまう、

などが考えられます。

図1は、そのことを表現したものです。
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キャリア形成の途上、私たちの目前には、
月々日々、年々、大小さまざまな分岐点が現れてきて、
その都度、複数の選択肢が立ちます。
そして、あるものを選択して進んでいく。
あるいは、意思や努力に反してある方向に転がってしまう、そんなことの図です。

例えば、いま自分がA点にいて、
D点という山の頂を「意図的につくりにいくキャリア」として目指しているとしましょう。
B点までは何とかうまく来て、
次にC点に上ってゴールに到達したかったのですが、
そこで失敗をしてしまい、不本意ながらX点に落ちてしまいました。

ここでモヤモヤ、ウジウジとD点という夢が捨てられなくて
モラトリアム状態、夢を言い訳状態にして、時間を浪費してしまうことは
上に述べたとおり「意図的につくりにいくキャリア」の欠点になります。

しかし、そこで頭の切り替えをして、
自分の能力や価値観の再編成を行い、他の活路を見出そうともがく努力が大事です。


その結果、Y点を経由して、
Z点という当初とは違う山の頂に上り詰めることも可能になるのです。
(そしてZ点を経由して尾根伝いにD点に行けるチャンスも芽生えるかもしれません)

そのときあなたは、遠くにD山を眺めながらこう思うでしょう。
「Zという山もまんざらではない。むしろこの山こそ自分が求めていた山だ」、
「C点を目指したときの失敗は自分には十分に意味があったのだ」、
「あの出来事は起こるべくして起こったに違いない」・・・。

この想いに立てたときこそ、まさにあなたが偶発を必然に転換し、
「結果的にできてしまうキャリア」を最大限のものにした瞬間です。


◇ ◇ ◇ ◇

キャリアづくりにおける選択肢や出来事には、あらかじめの正解値はない。
その後の行動で、それを結果的に「正しかった」と確信できる状況にできるかどうか
―――それこそが最重要の問題なのです。

アメリカンフットボールの名コーチとして知られるルー・ホルツはこう言いました。
「人生とは、10%の我が身に起こること。
そして残り90%はそれにどう対応するかだ」。


もうひとつ、画家パブロ・ピカソの言葉―――
「着想は単なる出発点にすぎない
着想を、それがぼくの心に浮かんだとおりに定着できることは稀なのだ。
仕事にとりかかるや否や、別のものがぼくの画筆の下から浮かびあがるのだ。
・・・描こうとするものを知るには描きはじめねばならない」。


私はここで絶対的な目標を立てるな、全ては柔軟的であれと言って、
「意図的につくりにいくキャリア」の欠点だけを強調するつもりはありません。
ひとつ決めた道を何が何でもやり遂げるという生き方は素晴らしいものです。
逆に「結果的にできてしまうキャリア」を偏って肯定すると
今度は漂流するキャリアという現象をまねく危険性が出てきます。

私が本記事で主張したいことは、
・各自が「自分の登るべき山」をもつことは必須である
・しかし「自分の登るべき山」はそれひとつのみではないかもしれない
・キャリアを拓くためのもっとも重要な力は「状況を創出するたくましさ」である
  (計画する力は二の次のものである)
・状況を創出しようと奮闘する過程で見えてくる山が真の山であることが多い
・そう構えれば「自分の登るべき山」はそこかしこに無限に存在する
・そして死ぬ間際に「自分の登った山」(ひとつかもしれないし、複数かもしれない)を
 充実をもって振り返る
 ――それが「幸せのキャリア」(「成功のキャリア」ではない!)である


◇ ◇ ◇ ◇

最後に理解の補足・おさらいとして、図を加えます。
図2をみてください。
1021cp02

あなたは、キャリアの途上で、当初目指したD山もZ山も登頂がかなわずに
(それは意志・努力が足りなかったのか、運命のいたずらなのか分からないが)、
P点に落ちてしまった(P点に退く形にしかならなかった)。
あなたはともかく気落ちしています。

さて、あなたはもうこの世に登るべき山など見出せないのでしょうか?
これまで果たせなかったD山やZ山を恨めしく思いながら生きていくのでしょうか?
もう山なんぞこりごりだと言って適当に自分をごまかして過ごしていくのでしょうか?

・・・まぁ、そうすることもできるでしょう。
(そして、実際、そういう人は多い)

しかし、私が本記事で訴えたいことは、「もがいてみよう!」ということです。
どうもがいたらよいかは次回の記事で書きますが、
ともかくもがくことで、いったん、
Q点のような少し見晴らしのきく場所に辿り着くことができる(図3)。
そして、そこから、実はいろんな次の山が見えてくる。
それはR1という山かもしれないし、R2かもしれない、R3かもしれない、
・・・無限の種類のR山がありうる。
(P点に沈んでいた時には想像もつかないようなR山が)
1021cp03

結果的にR山を登ってしまった人にとっては、過去のP点の自分を悠然と振り返られる。
逆に、P点でもがくことをせず、妥協の人生に流れた人は、
ついぞR山の可能性が無限に広がっていたことに気づくこともなく生きていく。

最後に、本記事のタイトル:「自分の登るべき山」はどこにある!?
に対する答え―――そこかしこに無限にある!


◇ ◇ ◇ ◇
思い出した補足をもうひとつだけ。
私がかつて大学で講義をしたときに学生に伝えたことです。

冒頭の「何がなんでも司法試験合格」「何がなんでも東大」のように
就職の際の会社選びにしても
「何がなんでも三菱商事」とか「何がなんでも三菱東京UFJ」など
世間の決めたランキングに依って、ブランド品を欲しがるように就職先を志望する。
その発想に揶揄と親ごころの助言を込めて、
私は冒険家・植村直己さんの次の言葉を紹介しました。

「私は五大陸の最高峰に登ったけれど、
高い山に登ったからすごいとか、厳しい岸壁を登攀したからえらい、
という考え方にはなれない。
山登りを優劣でみてはいけないと思う。
要は、どんな小さなハイキング的な山であっても、
登る人自身が登り終えた後も深く心に残る登山がほんとうだと思う」。

                        
 ―――植村直己『青春を山に賭けて』

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