2009年12月28日 (月)

ゲーテ『ゲーテ格言集』

私はちょっとした贈り物として本を差し上げることがよくあります。
これまで、いろいろな本を贈ってきましたが、
その中でもっとも数多く使ってきたのがこれです。

『ゲーテ格言集』 (高橋健二訳、新潮文庫)ゲーテ表紙

いま私の手元にあるものは、平成19年発行の第112刷(定価:400円)です。たぶん今はさらに増刷され、定価も変わっていると思いますが、それにしても初版が昭和27年ですから、威風堂々のロングセラーです。

わずか400円、薄い文庫本でありながら、
私はこれを“宝石”を贈っていると思っています。
ここに収められたゲーテの言葉の数々は、まさに不壊の宝石であって、その言葉を心に取り込んだ人の心を飾ります。
また、ゲーテの言葉の宝石は心を飾るだけでなく、力を湧き出してもくれます。

人生には、調子のいいとき、わるいとき、楽しいとき、苦しいときがありますが、
そのいずれの状況においても、この本を開いて、さーっと目を通すと、
そのときの自分の琴線に触れてくる言葉が必ず見つかります。
そして、そこから力を得て、その状況を乗り越えてゆく。

20代ではピンとこなかった言葉が、30代のある日突然に、すーっと見えてくる。
30代では素通りさせていた言葉が、40代になって初めて、ずっしり重く響いてくる。
古典たりえる偉大な本というのは
生涯を通じて、汲めども汲めども尽きない奥深さをもったものですが、
ゲーテの書き残したものはまさにそのひとつにちがいありません。

ゲーテの『ファウスト』をいきなり読んでみろと言われても、
多くの人にとってそれは難解すぎる。
だから、こうした名言集を最初に読んでみるというのは入門書として好適です。
実際、私もこの『ゲーテ格言集』を読んで、そこから出典元である『ファウスト』やら『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、『ゲーテとの対話』(エッカーマン)などの読書にさかのぼっていきました。

さて、ここからゲーテの言玉をいくつか拾ってみましょう。

「考える人間の最も美しい幸福は、
 究め得るものを究めてしまい、究め得ないものを静かに崇めることである」。

「内面のものを熱望する者は、すでに偉大で富んでいる」。

「才能は静けさの中で作られ、性格は世の激流の中で作られる」。

「自分に命令しないものは、いつになっても、しもべにとどまる」。

「人は努めている間は迷うものだ」。

「人間は現在を貴び生かすことを知らないから、
 よりより未来にあこがれたり、過去に媚びを送ったりする」。

「君の胸から出たものでなければ、人の胸をひきつけることは決してできない」。

「世の中では、人間を知るということでなく、
 現在目の前にいる人より利口であるということのほうが関心事である」。

「批評に対して自分を防御することはできない。
 これを物ともせずに行動すべきである。
 そうすれば、次第に批評も気にならなくなる」。

「真に行為する人間を作るものは、才能や、あれこれのことに対する技能ではない。
 性格は人格にもとづくものであって、才能にもとづくものではない」。

「悪趣味な者に技術が結びつくと、これより恐ろしい芸術の敵はない」。

「見識の代わりに知識を持ち出す人々がある」。

「『なぜ、私は移ろい易いのですか。おお、ジュピターよ』と、美が尋ねた。
 『移ろい易いものだけを美しくしたのだ』と、神は答えた」。

・・・どうですか、これらの言葉がどれだけ今の自分に響いてくるでしょうか?
強く響いてくるなら、それだけ今、自分が強く生きようとしているんでしょう。
深く沁み込んでくるなら、それだけ今、深く物事を考えようとしているんでしょう。
大きな人の大きな言葉は、
自分の強さ、深さに応じて光と力を与えてくれるものです。

ゲーテ紙面1 



ゲーテ関連では、加えて、次の本もお勧めします。
『ブッデンブローク家の人々』『魔の山』『ヴェニスに死す』などの名作を残した
ノーベル文学賞作家トーマス・マンが語るゲーテの本です。
偉人が巨人を語ったほんとうに内容の濃く重い一冊です。

『ゲーテを語る』
トーマス・マン著(山崎章甫訳)岩波文庫

Goethe wo kataru















* * * * * *
Yosegaki
【追記】
過日、立命館大学でキャリアデザインに関する講演をやりました。 
そして、その運営にあたっていただいた同大学経済学部「キャリアデザインプロジェクト」のスタッフ一同から、寄せ書きが届きました。
当日の講演の受講者の感想を切り貼りしてくれたもので、内容は私にとってとても勇気づけられるものでした。


スタッフ16名のみなさんに感謝の意を込めて、
後日、私は『ゲーテ格言集』を16冊贈りました。

スタッフのみなさん、どうもありがとう!

Ritsuphoto

2009年12月27日 (日)

志力格差の時代〈中〉~格差の根っこはどこにある?


Asashimo 

「いやー、毎年の新入社員たちは何事も受け身になるばかりで」
「最近の学生がますますこぢんまりと保守的になって」
「ゆとり世代は何かと覇気がなくて」・・・

こうした「イマドキの若者」論(小言?)は、
いつの時代にも先行世代のおじさん・おばさん・上司・経営者・学者などから出てくる。

しかし、私はあまり一般論で先入観を持たないようにしている。
やはり、それは個別の人間の問題なのだ。
どの時代・どの世代にも受動的・保守的・覇気のない人間はいるし、
逆に、能動的・革新的・覇気に満ちた人間もいる。
とはいえ、この両者の格差は看過できない質のものになってきている。

起業家養成の活動を行う「ETIC」(代表理事;宮城治男)というNPOがある。
そこに集う学生や若年社会人たちを見ていると、一般論として揶揄される若者とは全く違う。

「社会的起業」という想いを軸に、
さまざまな背景をもつ若者たちがとても熱く寄り集まってきているのだ。
ここでは、大学生の中にも早くから志を見つける者がいる。
彼らの熱気をみていると、
個々にはどんな就職・キャリア展開をしていくのか予想がつかないが、
その想いの強さを抱いているかぎり「どう転んでも大丈夫だな、この子たちは」と思える。
それほどに、青いけれど、元気である。

と、その一方で、意欲的に腑抜けしたような若者が多いのも事実である。
私は、大学での講義や企業での研修で、
個々人が潜在的に持つ成長意欲や仕事意欲、キャリア形成意欲を
思考の補助線を与えながらステップ・バイ・ステップで引き出し、
どのような方向性(ベクトル)や理想像(イメージ)で描けるか
というワークをやっているが、まったくペンが動かないという人がけっこう出る。
(彼らは受講態度が不真面目なわけでなく、ほんとうに想い描けないのだという)

また、講義の後や研修の後に、
時間が許せば個別に相談を受けたりすることもあるのだが、
本当にもう自分のやりたいことの欠片も想い描けない人が来て、深刻な顔で
「どうすれば自分の意欲が想い描けるのでしょうか?」と質問をされるときがある。

平成ニッポンが、平和の代償として、意欲的に去勢された人間を続々生みだしている。
―――そんな現実を私はひしひしと感じる。

とはいえ、それによらず、熱を帯びた人間だっている。
そこには、意欲を湧かす者と湧かさざる者との格差がある。

* * * * *

ココ・シャネル(シャネル創業者)の名言;

「20歳の顔は、自然の贈り物。
50歳の顔は、あなたの功績」。


私は研修・講演などでこの言葉をよく紹介しているが、
これとともに、次のことを言い加えている。

28歳までのキャリアは“勢い”。
29歳からのキャリアは“意志”。
そして、50歳でのキャリアは、あなたの“人生の作品”。 

人生の作品とは、仕事の実績や経験などはもちろん、
あなた自身の人格や福徳、人脈、忘れ得ぬ今生の思い出などを含めて考えたい。

私も40代後半を迎え、自分自身や周辺を見るにつけ、また、
ビジネス雑誌記者として七年間、さまざまな経営人やビジネスパーソンを取材してきて、
ほんとうにキャリア・人生というものは、10年・20年という単位をかけて、
その人の“意志”(イシの字は、“意思”ではなく“意志”という志を当てるほう)が
如実に表われてくる
のだなぁと確信できる昨今である。

それは例えば同窓会などで容易に観察できる。
小学校にせよ、中学高校にせよ、大学にせよ、
卒業するときは、おおよそドングリの背比べだった同級生たちが、
今や、キャリアの悲喜こもごも、人生スケールの大小こもごもの差がついている。

注)
私が観察するのは、経済的な成功(暮らしが豊かそうか否か)というこもごもではない。
その歳になって、
どれだけ満足の仕事・意味を感じられる仕事に就けているのか、というこもごも、
どれだけの広さ・高さの景色で日々を送っているか、というこもごも―――
である。

こうした中長期をかけて表れるキャリア・人生の「こもごも」、
つまり多様な(質的)差異、人生の作品の差異はどこから生まれてくるのか?


本人の能力差? 家庭の経済力の差? 
たまたま就職した会社の差? もろもろの機会の差?
それとも性格の差? 運の差? 育ちの差? 容姿の差?・・・

どれも一因であるには違いないが、
私はそれらはむしろ二次的なものだと思っている。
私が考える大本の要因は、意欲の差、もっと表現を加えれば「志力」の差である。

(現代日本のような、ある意味まともな仕組みで動いている平時の社会においては)
志力さえあれば、たとえ自分が先天的に
能力的、機会的、環境的に多少ハンディキャップを負った状況だったとしても、
後天的な意志的努力によって、10年、20年をかけ、
それを補って余りあるほどに自身のキャリアを発展させていくことができる
―――私は強くそう思う。

志力とは、自分の内に志を育む力、そして志から得る前進力をいう。
志力とは、欲望の一種だが、反応的ではなく、意志的なものをいう。
(つまり外的な刺激で明滅するものではなく、環境に左右されず内面に湧き続ける意欲)

* * * * *

いま、世の中でいろいろな「格差」が問題となっている。
「年収格差」、「雇用格差」、「学習機会の格差」、「情報格差」、「希望格差」等々。

確かに、格差をマクロ的に分析し、マクロ的な手立てを打つことは大事だし不可欠だが、
社会やメディアや大人たちがマクロ的にああだこうだと言っているばかりでは、
本当の解決には至らない。

なぜなら、マクロ論議では、
格差が生じるのは、いまの利益至上経済システムに問題があるからだ、とか、
向上意欲を失った者の側に問題が多いからだとか、
そういった極めてざっくりした結論で押し進めるために、
弱者側に追いやられてしまった人たちを、
「そうだ、すべては社会が悪いのだ」と開き直りをさせる方向にしか事が進まない。
で、解決方法はといえば、手当の支給。
これでは、格差が固定化する回路に入ってしまう。
社会やメディアは彼らに脆弱な言い訳を与えるだけで、決して自己蘇生を促しはしない。

だから、そうさせないために、ミクロのアプローチ、
つまり格差の問題を個々の問題として、一人一人の人間に迫らなくてはならない。
自分の人生の責任は、最終的に自身が引き受けねばならないのだと。

いみじくも、ジャック・ウェルチ(GE社・元CEO)はこう言った;
「みずからの運命をコントロールせよ。
さもなくば、他の誰かがそれをやるであろう」
と。

そのために、
人の人生・キャリアにこもごもと差が生じる「根本要因」は、
生まれ持った能力差というより、年収差というより、運の差というより、
「志力」の差なんだと、一人でも多くの大人たちは、厳父・賢母のごとく、
後続の若い世代にそこかしこで言い続ける必要がある。
(だから私もいろいろな場で言う)

* * * * *

アメリカもまた、格差という面では、日本以上に諸問題を抱えている。
しかし、少なくともあの国では、
いまなお「アメリカンドリーム」が根強く個々人に信奉されていて、
その意味では日本より、格差問題を乗り越える個々の潜在力は強いといえるかもしれない。
(アメリカンドリームは、志の力というよりは俗的な欲望まで含んではいるけれども)

しかし、日本ではアメリカンドリームに代わるような
個々の自己蘇生力を奮い起こす明快な民族的コンセプトがない。
私個人は、アメリカンドリームほど単純明快ではないが、
ひとつの提起として

「社会的起業精神」を挙げたいと思っている。

この「社会的起業精神」の涵養を
うまく教育(小中高・大学教育、社会人教育)の中に組み入れることで、
格差の根っこに横たわる志力格差の問題によい効果をもたらすのではないかと期待もしている。

次回はこの「社会的起業精神」について詳しく触れます。

Yakiimo


 

2009年12月 5日 (土)

志力格差の時代〈上〉~ロールモデルは不在か?

Tohukuji01 
京都・東福寺にて(1)


「あなたが尊敬する人は誰ですか?」―――こういうアンケートが行われると、
日本の子供・若者の場合、たいてい答えが決まっている。

その答えの第1位は、ダントツで「両親(父・母)」である。
これは長年変わりがない。
そして1位に遠く離された格好で、「先生」とか「兄弟」とか、
今なら「イチロー」とかが続く。

「なんだ、親子関係がギスギスしているような風潮で、安心できる結果じゃないか」
と大人たちは、うれしがるかもしれない。
一方、子供たちも、「一番に尊敬できるのは両親です」と答えておけば、
周りから感心されるばかりなので、とりあえず無難にそう答えておくか、
一部にはそんな心理がはたらいているのかもしれない。

私は、多くの子供・若者が、判を押したように「尊敬する人は両親」と答えるのは、
あまり感心しないし、その流れは変わった方がいいとさえ思っている


これは何も、親を尊敬するな、と言っているのではない。
もしこれが「あなたが一番感謝したい人は誰ですか?」―――「両親です」、
「あなたが一番大事にしたい人は誰ですか?」―――「両親です」、
であるならば、これはもう諸手を挙げて感心したい。
親というものは、尊敬の対象というより、感謝の対象のほうがより自然な感じがする。

* * * * *

今回の京都出張は、大学で講義を行うのが目的でした。
大学生に対し「就活テクニック」を伝授するセミナーは花盛りであるが、
大学生最大の問題である―――「そもそも自分のやりたいことがわからない」
といったことに深く向き合い自問するセミナーや講義は少ない。
(ときどき、「自己診断テスト」とか「適性能力発見テスト」といった
自己分析ツールによって職業選択を考えさせるプログラムがあるけれども、
これによって自分のやりたいことがつかめるわけではない。
生涯を賭してやりたいことというのは、分析ではなく「想い」から生じるものだから

そんな折に、立命館大学から、
「就活テクではなく、キャリアをきっちり考える公開講義をやりたいので」
ということで依頼があり、話をお受けすることにしました。

「自分のやりたいことがわからない」、
「自分のなりたいものがわからない」
――――
こうした問いに対する答え(答えというより“方向性”とか“像”とかいったもの)を
自分の中に持つために私が伝えていることはただひとつ―――

「立志伝・人物伝を読みなさい」です。

私は、若い世代の「やりたいこと・なりたいもの」の発想・意欲が薄弱なのは、
ひとえに模範とすべき人物像(広い意味で“ロールモデル”)の欠如だと思っている。

多様な人間像・多様な生き様・多様な働き様を、彼らは残念ながらあまりにもみていない。
多分、社会・大人たちがそう誘(いざな)ってこなかったことの結果だと思う。
そして若い世代はテレビに出てくる人しか知らない、知ろうとしない(人を知るのも受け身だから)。
いずれにしても、彼らの知る人は、狭い上に偏り過ぎている。
だから、自分の生き様をどうしていきたいのか、発想も意欲も湧きにくい。

小さい頃から多様なモデルを摂取していれば、
尊敬する人は?という問いに対して、誰も彼もが「両親」と紋切りに答えるわけはないのです。

だから、私が大学生や若年社員向けの講義や研修で言うことは、
「今一度、野口英世やヘレンケラーやガンジーなどの自伝や物語を読んでみなさい」です。

もちろん、ここで言う野口英世やヘレンケラーなどは象徴的な人物を挙げているだけで、
古今東西、第一級の人物、スケールの大きな生き方をした人間、
その世界の開拓者・変革者ならだれでもいいわけです。

そうした偉人たちについて、
小学校の学級文庫(マンガか何かで書かれた本)で読んだ時は
誰しもたいていその人の生涯のあらすじを追うのに精いっぱいだったと思う。
しかし、ある程度大人になってから、活字の本で改めて読んでみると
そこには新しい発見、啓発、刺激、思索の素がたくさん詰まっている。

それら偉人たちの生涯に真摯に触れると、
まず、自分の人生や思考がいかにちっぽけであるかに気がつく。
同時に、自分の恵まれた日常環境に「有難さの念」がわく。
そして、「こんな生ぬるい自分じゃいけないぞ」というエネルギーが起こってくる。
それは、“焦り”という感情というより、“健全な前進意志の発露”に近い。

そうやって多様なモデルを摂取し続けていると、
具体的に「ああ、こんな生き方をしてみたいな」という模範モデルに必ず出会える。
そして、何らかの行動を起こし、もがいていけば、
自分の方向性や理想像がおぼろげながら見えてくる。
そこまでくると、自分の集中すべきことが明確になってきて、ますます方向性と像が
はっきりしてくる―――
これが私の主張する「自分のやりたいこと・なりたいもの」が見えてくるプロセスです。

私が書物で出会ったロールモデルはそれこそ挙げればきりがないのですが、
その一つに、大学のときに読んだ『竜馬がゆく』(司馬遼太郎著)の中の坂本竜馬がある。
私はこの竜馬の姿を見て、二つのことを意志として強く持ちました。

一つは、狭い視界の中で生きない。世界が見える位置に自分を投げ出すこと。
一つは、どうせやる仕事なら、自分の一挙手一投足が世の中に何か響くような仕事をやる。

このときの意志が、自分としては、その後の米国留学、
メディア会社(出版社でのビジネスジャーナリスト)への就職につながっていきました。

冷めた人間の声として、
小説の中の坂本竜馬なんぞは、過剰に演出されたキャラクターであり、
それを真に受けて尊敬する、模範にするなどは滑稽だ、というものがあるかもしれない。
しかし、どの部分が演出であり、どこまでが架空であるかは本質的な問題ではない。
そのモデルによって、自分が感化を受け、意志を持ち、
自分の人生のコースがよりよい方向へ変われば、それは自分にとって「勝ち」なのです。
他人がどうこう言おうが、自分は重大な出会いをしたのだ!---ただそれだけです。

ともかく最初のローギアを入れるところが、一番難しい。
しかし、方法論としては、極めて単純で「第一級の人物の本を読もう!」なのです。
「何を、どう生きたか」というサンプルを多く見た人は、
自分が「何を、どう生きるか」という発想が豊富に湧く。

確かに、身の周りを見渡して、立派なロールモデルはいないかもしれない。
(職場の上司や経営者だって、立派な人物は極めて少ない)
しかし、図書館に行けば、古今東西、無尽蔵にいる。
時空を超えて、自分の生涯のコースを変えるモデル探しをすることを、是非お勧めしたい。

Tohukuji02 
京都・東福寺にて(2)


 

2009年11月29日 (日)

自分を超えていくところに、新しい自分と出合う

Kanjiro1 
京都・東山馬町「河井寛次郎記念館」にて(1)


私は地方出張の折には、たいてい滞在を伸ばして社会見学をすることにしています。
今回は京都出張でしたが、名刹紅葉観光もそこそこに、かねてから訪ねたかった二人の陶芸家の記念館に足を運びました。

二人の陶芸家とは、河井寛次郎(1890-1966)と近藤悠三(1902-1985)。お二人とも日本の陶芸界に多大な影響を与えた巨星です。

河井の言葉です。
(以下、河井の言葉は『火の誓い』より)

・「焼けてかたまれ 火の願い」
・「もうもうと煙吐いてる 火の祈祷」
・「真白に溶けてる 火の祈念」
・「撫でてかためている 火の手」
・「焚いている人が 燃えている火」
・「祈らない 祈り 仕事は祈り」
・「何ものも清めて返す火の誓い」

これら短い詩文の中に散りばめられた“祈り”だとか “誓い” だとかいう語彙。これらの語彙が河井寛次郎の内から湧出したことは、なにも、河井だけに限定されたこと、陶芸家だけに限定されたことではありません。

私は、たとえサラリーマンであっても、自分の任され仕事と真剣に向き合い、それを自分なりに咀嚼し、天職(あるいは夢・志、使命といったもの)にまで昇華させていけば、誓いや祈りという語彙が、やがて自分の身から湧き出してくるものだと確信しています。

逆に言うと、目の前の仕事を高いレベルで自分のものにし、そこに何らかの悟りをもった人であれば、上の言葉は深い味わいをもって読めることができるでしょう。

私は2年前に刊行した自著『“働く”をじっくりみつめなおすための18講義』の中で
「真剣な仕事は“祈り”に通じる」
「真によい仕事をしたときは、必然的に哲学的・宗教的な経験をしてしまうものだ」
と書きましたが、
こうした河井の言葉は、仕事と「祈り・誓い」の結び付きを明確に示してくれるもので、私にとっては一つの邂逅であり、心強く思ったものです。

河井の言葉を続けます。

・「冬田おこす人 土見て 吾を見ず」

・「見られないものばかりだ―――見る
 されないものばかりだ―――する
 きめられたものはない―――決める」

・「自分で作っている自分
 自分で選んでいる自分」

・「この世は自分をさがしに来たところ
 この世は自分を見に来たところ
 どんな自分が見付かるか自分」

・「新しい自分が見たいのだ―――仕事する」

・「おどろいている自分に
 おどろいている自分」

・「何という大きな眼
 この景色入れている眼」

・「暮らしが仕事 仕事が暮らし」

とまぁ、このような言葉を無尽蔵に弾き出すのが河井の「いのち」です。
たぶん、本人は「いのち」の迸(ほとばし)りの何千分の一、何万分の一しか言葉として
残していないでしょうから、タイムマシンに乗って、直に本人に接触できたとしたら、多分、その烈しい「いのち」に火傷を負わされそうです。

仕事に冷めた人間は、こうした言葉を読んで、「仕事好きのワーカホリックはみんなこんなことを言う」と言い捨てるかもしれません。最後に記した「暮らしが仕事 仕事が暮らし」なんていうのも、昨今のワークライフバランス観点からすれば「バツ」でしょう。しかし、そうした見方でこれらの言葉を皮相的に排除することこそ「仕事」というものを矮小化してとらえる行為にほかなりません。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

さて、二人め、近藤悠三の言葉です。

「ロクロやったら、ロクロが上手になる。上手になると良いロクロができにくい。つまり字をうんと勉強してやり出すと、決まった字になって味がぬけるということがありますねぇ。ロクロでもうんとやり出したら、抹茶茶碗の場合ですけど、ようないし、困ってねぇ。困らんでも、それをぬけてしもうたらいいんですけど・・・。

なんぞ、手でも指でも一本か二本悪くなるか、腕でも片方曲らんようになれば、もっと味わいの深いもんができるかと思うし、しかし腕いためるわけにもゆかんので、夜、まっくらがりで、大分やりましたねえ。そして面白いものできたようやったけど、やっぱし、それはそれだけのものでしたね。

いちばんロクロがようでけた時は調子にのるし、無我夢中になると、いつの間にか茶碗ぐらいでも三十ぐらい板に並んでいて、寸法なんかあてずに作っていても、そろうとるんですな。そしてあっと思ってるうちに三十ぐらいできてるんですな。きちんと同じに揃っているものが―――。

あとから考えたことやけど、私の手の中に土が入ってきて、勝手にできる。つまり土ができにきよる。わしが作るんと違う。そういうようなことがずうっとありましたな。四十から五十ぐらいの時かな。つまり修練ですねえ。そうして、勝手にできたものが名品かというと、そうではない。勝手にできるというところで満足してしまうと職人になってしまいますねえ」。

この一節は、作家の井上靖さんの著書『きれい寂び』の中の「近藤悠三氏のこと」という箇所で紹介されているものです。

私はこの言葉を読んで、彼の、(職人という境地を超えて)芸術家であることの魂というか執念というか剛毅な気骨を感じました。

修練や経験を重ねていって、知識的・技巧的に優れたものをアウトプットできるようになることはビジネスパーソンにとっても重要な成長ですが、しかし、その段階で満足して留まってはいけない。仕事にはその先がまだまだある。個々のビジネスパーソンにとって“その先”とは、どんなものなのか?それを考え、挑戦する意志を持てば、仕事をまっとうするという空間には無限の広がりが出てくる。そうなるとまさに、ヒポクラテスの言った「人生は短く、技芸の道は長い」に通じてきます。

この後の記事でも触れようと思っていますが、私はサラリーパーソンに対し、芸術家、あるいは芸術家という生き方をもっとロールモデルとして取り込むべきだと考えています。

芸術家は、厳しく自分を超えていくところに、つかみたい表現と出合います。あるいは、厳しく自分を超えていくところに、新しい自分と出合います。その働き様・生き様こそ、サラリーパーソンの模範とすべき姿だと思うからです。


Kanjrotei2 
「河井寛次郎記念館」にて(2)

2009年11月22日 (日)

3つの仕事~塗り絵・油絵・切り絵

Matis01 

◆マティス絵画の昇華点「Jazz」シリーズ

20世紀を代表するフランスの画家アンリ・マティス。
マティス最晩年の傑作とされるのが切り絵シリーズ「Jazz」です。
マティスは高齢になるにつれ手先や視力が弱くなり、油絵の筆が持てなくなってきました。
とはいえ湧き上がる創作への情熱を抑えきれるわけもありません。

そこで彼は、色紙とハサミを持ち、「切り絵」に没頭します。
切り絵はいったん紙にハサミを入れたが最後、やり直しはききません。
その一度きりの即興性が音楽でいう「Jazz」と共通 しているところから、
マティスはみずからの切り絵作品群を「Jazz」と命名したわけです。

読者のみなさんも一度、その作品をご覧になってください。
(ネット検索にかければ代表的な作品が画面上でいくつも見られると思います)
その色使いと構図、簡略化されたフォルム。
そこにはこれぞマティスといわんばかりの独創性が踊っています。

一見誰にでもハサミで切り取れそうな紙の断片ですが、
それを即興の芸術として成り立たせている完成度の高さは、
やはり彼のそれまでの何十年にも及ぶ創作活動から体得した技と感覚ではないでしょうか。

◆即興の中にこそ宿る真の実力
即興という芸術形態は、
常に不測の状況との対面、そして瞬時のレスポンス(反応)から生み出されます。
やり直しは不可です。

切り絵であれば、
ハサミを入れるその一刀一刀で作品の出来不出来が刻々と移り変わります。
その点では、書道も同じで、一画一画の筆運びで作品の優劣が決します。

ジャズ音楽もまたそうです。譜面はあってなきがごとし、
瞬時先の未知の時空間に音色を奏でていくその1フレーズ1フレーズ、
共演者とのかけあい、そして聴衆の反応がそのまま作品として仕上がっていきます。
その作品がいいか悪いかは、もう、やってみないとわからないのです。

即興(アドリブ)とは「(規定表現からの)逸脱的創造行為」ととらえてもいいでしょうが、
この即興という試みは、何も芸術家だけに限られた特別な行為ではありません。
私たち1人1人のビジネスパーソンにとっても不可欠で大事な行為です。

なぜなら、私たちが日ごろ行う1つ1つの仕事においても、
未知の状況に対面にしながら、みずからの技術と意志でもって
状況を“即興的”に創出していくことが求められるからです。

◆3つの「仕事」
さて、そんなことから、
私は、ビジネスパーソンが日々行っている「仕事」に3つあるなと思いました。

02-009(3つの絵仕事 

まず、仕事は大きく分けて
「与えられる仕事」
「自分でつくり出す仕事」の2つがあります。

与えられる仕事とは、
すでに他者(上司か、会社組織か)が決めた仕事があって、
あとはあなたが正確にやりこなす仕事です。

絵で言えば、「塗り絵」のようなものです。
紙の上には、あらかじめ線で絵が描いてあり、その枠内に色をつけていく類のものです。
そこで問われるのは、どんな着色剤を使うか(水彩絵の具か、色鉛筆か、ペンキかなど)、
どんな配色にするか、どう枠からはみ出さないようにていねいに塗るか・・・
くらいのものです。

さて、自分でつくり出す仕事は、さらに2つに分かれます。
「積み重ねていく」仕事と、
「伸(の)るか反(そ)るか」の仕事の2種類です。

両者とも、何を描くかということは自分でイメージしなくてはなりません。
その点で、塗り絵とは全く違うレベルにあります。

「積み重ねていく仕事」とは、
いわば「油絵」的な仕事をいいます。
つまり1つ1つの絵筆さばきを何千回、何万回と重ねていって
やがて1枚の大きな作品をこしらえるというものです。
整理して言えば、
持続・発展の仕事、ローリスクでシュア(手堅い)リターンのもの、
到達点をある程度予測しながら仕上げていく仕事です。

比較してローリスクであるというのは、
油絵の場合、仮に筆運びや色付けに失敗したとしても、
再度上から新しい絵の具を塗れば修正がききます。
ひとつひとつの意思決定や行動に時間をかけることができ、
しかもやり直しができるという意味で、リスクが低いということです。
ですから、長い期間に労力を注ぎ込み大作を仕上げることも可能になります。

一方、「伸るか反るかの仕事」は、
まさに「切り絵」的な仕事のことであり、リスクの高い仕事です。

いざ、やってみなければ結果はわかりません。後戻りもできません。
経営者の仕事や、起業(独立起業はもちろん企業内起業も含む)的な仕事はこの典型です
言い換えれば、英断・開拓の仕事です。

不測の状況の中での一挙手一投足が、その事業の成否に大きく影響します。
いとも簡単に失敗するときもあれば、
本人が予想だにしなかった素晴らしい結果が出るときもあります。

◆「塗り絵」仕事の繰り返しでいいのか?
私たちは職業人として、日々いろいろなレベルの仕事をしています。
塗り絵的な仕事をずっと繰り返してキャリアを終える人もいれば、
油絵的な仕事を丹念に続けて、
大小を問わずいくつかの作品を業績として残していく人もいます。
また、新規事業の立ち上げや全く新しい会社を興すという切り絵的な仕事に
情熱を燃やす人もいます。

私個人は6年前に会社勤めを辞め、いまは独立してビジネスをしています。
言ってみれば、切り絵作品に挑戦している最中で、
そのハサミの一刀一刀に細心の注意を払いながら、
でも潔く切り込みを入れている毎日です。

私の事業がどんな作品に出来上がるか、
1日、1ヶ月、1年、5年をおいて振り返って初めて、
その出来栄えがわかるといった状況です。

まだ事業で成功したわけでもありませんので、偉そうなことはいえませんが、
切り絵的な仕事には、塗り絵には当然比べようもなく、
そして油絵とも全く異なった面白さや喜び、気づき(悟りに近い)があります。

独立してからの1年1年は、サラリーマン時代の1年1年に比べて、
濃度が2~3倍になった感じでしょうか。
さらにはサラリーマンをずっと続けていたら絶対に感得することもなかったような思いを
自分の中に植え付けることもできました。

ですから、一端の職業人であれば、
何らかの形で切り絵的な仕事にチャレンジすることをおおいにお勧めしたいのです。

確かに会社の中で働いている以上、「塗り絵」的な仕事はどこまでいってもなくならないし、
「塗り絵」的な仕事をこなすことによって、
職業人としての基本が磨かれるといったプロセスもあるでしょう。

ですが、「塗り絵」的な仕事にどっぷり浸かったままいると、
今度は「塗り絵的な仕事だってツライんだ。
誰かがやんなきゃいけない仕事を自分がやってんだからもっと評価してくれ(給料が安い)」
なんていう都合のいい自己正当化をしはじめます。
そうなっては、働く個人にとっても、雇う組織にとっても不幸です。

会社に雇われるビジネスパーソンとしては、おそらく
「油絵」的な仕事をベースにし、ある部分「塗り絵」的な仕事が混じってくる、
そして、ときに「切り絵」的な仕事に挑戦していく―――
これが理想の姿だと思います。

最後に「切り絵」的仕事をする際の注意点を3点だけ。
1つに、基本力を備えること。
 (芸術家が行う即興にしても、それは基本技術あってこそのものです)
2つに、リスクに対しての適切な感覚をもつこと。
 (何事もやみくもにやるのは、むしろ愚行です)
3つに、不測の状況下でも仕事を楽しむためには、そこに「情熱」を感じていること。
 (情熱なしには、精神的・肉体的負荷に耐えられません)

Matis02

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