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2008年3月

2008年3月31日 (月)

アラン『幸福論』

古今東西、数々の名著がきら星のごとくある中、

私がこのブログで推す滋養本として、何からはじめればよいか――――

その答えは簡単に出ました。

これまでの自分の著作や執筆原稿、研修講義の中で

どの本からの引用がもっとも多いだろうと考えてみたのです。

・・・その結果、世に言う「三大『幸福論』」がそうであろうと。

三大とは著者でいう、アラン、ヒルティ、ラッセルです。

今回は、アランの『幸福論』(白井健三郎訳、集英社文庫版)

を取り上げます。

Photo いまの世の中、「幸福」というと、

すでにいろいろに手垢のついた言葉になってしまった気がしますが、

アランの記す「幸福」は、

ああ、幸福とはそういうことだったんだなという原点を

シンプルに力強く思い戻させてくれるものです。

彼が言い起こす幸福は、

動的で意志的、包容力があり、普遍性と高邁な精神に満ちています。

例えば、

「人間は、意欲し創造することによってのみ幸福である」

#44

「幸福だから笑うわけではない。むしろ、

笑うから幸福なのだと言いたい」

#77

「外套ぐらいにしかわたしたちにかかわりのない種類の

幸福がある。遺産を相続するとか、

富くじに当たるとかいう幸福がそうである。

名誉もまたそうだ。

・・・(中略)

古代の賢者は、難破から逃れて、

すっぱだかで陸に上がり、

『わたしは自分の全財産を身につけている』と言った」

#89

「悲観主義は気分に属し、

楽観主義は意志に属する。

・・・(中略)

あらゆる幸福は意志と抑制とによるものである」

#93

私がこの本で教わった極めて重要なことは、

「幸福とは、静的な状態ではなく、動的な行いそのものなのだ」

ということです。

アランの言う幸福は、徹底的に行動主義です。

上に挙げた「幸福だから笑うわけではない。むしろ、

笑うから幸福なのだと言いたい」という行動主義的幸福は、

いろいろなことに敷衍(ふえん)して考えることができます。

つまり、

平和などない。だから、平和を成すのだ。

正義などない。だから、正義を行なうのだ。

自由などない。だから、自由を活かすのだ。

愛などない。だから、愛するのだ。

健康などない。だから、健康をつくるのだ。

ある幸せな状態、もしくは、ある好ましい状態があって、

そこに自分が身をうずめて、いい気分でいるというのは、

真の幸福ではない。

むしろ、自身の置かれた状況が苦しくとも、厳しくとも、

何らかの理想に向かっているそのプロセス自体が、

実は本当の幸福である。

その結果として得られたものは、ごほうびに過ぎない。

――――私はアランの助けを借りて、幸福をこう咀嚼したことで、

自分自身、随分、頭がすっきりし、気がラクになりました。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

アランは哲学者ということですが、

この本は、いわゆる哲学書の類ではありません。

幸福論と「論」の字が付いていますが、

原題は、『幸福に関する語録』となっており、

言ってみれば、短いエッセイ集(全部で93話)です。

しかし、最初は取っ付きにくいかもしれません。

彼独自のレトリックがそうさせるのかもしれません。

私は図書館に行って、まず、

アランの『幸福論』についての解説本をいくつか読んでから

この本をじっくり読みました。

そうしたほうが、読み方のツボがわかっていいかもしれません。

2008年3月30日 (日)

やせた知力・ふくらみのある知力

◆“on”は「~の上に」ではない!

「知る力」は、

働く上で、そしてまた、生きていく上で、基本中の基本となる能力です。

これをおざなりにはできません。

私は、「知る力」には“ふくらみ”が重要だと思っています。

言い換えれば、

やせた知力では、やせた仕事しかできない。

逆に、ふくらみのある知力を持てば、ふくらみのある仕事ができる。

そう考えています。

では、知る力の“ふくらみ”とは、どういうことでしょうか?

そのときに、私がいつもいいなと思う図はこれです。

02002e_4 

これは、『Eゲイト英和辞典』

(ベネッセコーポレーション発行:慶應義塾大学・田中茂範教授監修)で

前置詞「on」を引いたときに出てくる図です。

私たちは学校で、onを「~の上に」という意味で暗記してきましたが、

この辞書はそうではないといっています。

もし、onを「~の上に」で暗記してしまうと、

the fly on the ceiling(天井に止まったハエ)”とか、

a crack on the wall(壁に入ったひび割れ)”、

a village on the border(国境沿いの町)”などの言い表しに

頭が回らなくなる。

そして、都度都度、また1つ1つ単語を丸暗記するハメに陥る。

その点この辞書は、

onは、タテ・ヨコ・上下を問わず「何かに接触している」ことを示す

単語であると(イメージを見せて)言っています。

確かに、そういうonが持つ大本のイメージを頭に染み込ませておけば、

その単語を使う場合の広がりが自然とできる。

これが、知ることの“ふくらみ”というものです。

◆大本の原理原則をイメージで持て

大本の「イチ」をイメージで保持し、

それを「十」にも、「百」にも発展応用させていく―――――

こういった“ふくらみのある知力”を養っている人は、

仕事や人生において、予期せぬ場面に出くわしたとしても

状況に対応し、状況をつくりだす思考ができる人です。

他方、

末梢の知識・事柄を丸暗記することだけに忙しい“やせた知力”の人は、

知識外・想定外の状況に対面したときの応用がきかない

この「知る力」のふくらみについて、

私なりにまとめたコンセプト図が下です。

002002_2

私が事業として行なっている職業人向けの教育プログラムにおいても、

知識の切り売り伝授はやめておこう、

大本の原理原則をイメージとして、腹に落としてもらおうという想いです。

そうするために、

いろいろな原理原則概念をイメージ化することに精を出しています。

このブログでも、いろいろな図を掲示していきます。

梵鐘を割り箸でたたくな! 丸太でたたけ!


今年(08年)、独立後4冊めの著作に挑戦しています。

「職・仕事・働くこととは何か?」をさまざまな角度から照射していきますが、

その中で、ひとつの寓話を創作し、中心に据える予定です。


きょうはその創作寓話を、先立って紹介したいと思います。


□ □ □ □ □ □ □ □ □


むかし、あるお寺の和尚さんが、2人の童子を呼び、こう言いました。


「本堂の裏に蔵があるじゃろ。

実はあの蔵の中に、大事な宝物が代々保管されておる。

その宝物が何か、ひとりずつ、蔵に入ってみてくるがいい。

しかし蔵には窓もなく、昼間でも中は真っ暗じゃぞ、気をつけてな」。


まず1人めに、青の童子が蔵に入っていきました。


蔵の中は、和尚さんの言ったとおり、真っ暗で何もみえません。

しかし、目の前に“何か”があることは気配でわかります。

具体的に何であるかは見当がつきません。


そのとき、童子の足裏に、枝の端くれほどの木片が触れたので、

青の童子はそれを拾い上げ、

目の前の“何か”をたたいてみました。


カラン、カラン・・・ カラン、カラン・・・


青の童子は蔵の中から出てきて本堂に戻り、こう告げます。


「なんだ和尚さん、あれは“鍋”か“やかん”ではないですか」―――――


* * * * * *


次に、赤の童子が蔵の中に入っていきました。


そのとき、赤の童子も真っ暗闇の中、足裏で触れた木片を拾い上げ、

目の前に感じる“何か”をたたいてみました。


カラン、カラン・・・ カラン、カラン・・・


赤の童子はさらに、しゃがみこんで足元のまわりを手で探ってみました。

クモの巣やら、ほこりやらをかぶりながら

頭をどこかにぶつけながら、はいつくばって手を伸ばしていくと、

今度は重い丸太のようなものが手に触れました。

その丸太を持ち上げ、

童子は目の前の“何か”を力いっぱいたたいてみました。


ゴォーーーーン。


赤の童子は本堂に戻り、和尚さんにこう言います。


「あんな立派な“梵鐘”の音は聞いたことがありません」―――――と。


□ □ □ □ □ □ □ □ □



私がこの寓話で言う「梵鐘」は、

「職・仕事・働くこと」の隠喩(メタファー)です。


働くことは、ほんとうに奥深い人間の営みです。

私たちは、職・仕事を通して、無限大に成長が可能ですし、

職・仕事から、無尽蔵に喜びや感動を引き出すことができます。


私は、「働く心持ちを再考築」するための研修を

そこかしこの企業・団体でやっていますが、

受講者(社員・職員)の中には、

「働くって、所詮こんなもんさ」とか、

「うちの会社の今の仕事って、やっぱ限界あるよね」とか、

そんなような割り切り、しらけ、あきらめの境地の人たちが必ず何割かいます。


もちろん、その境地に至った背景は人それぞれにあるでしょう。

安易・怠惰で開き直っている場合もあれば、

苦渋の体験・出来事を経て、そう閉じこもってしまう場合もあるでしょう。


しかし、いずれにせよ、「働くって、所詮こんなもんさ」という人は、

お寺の鐘を割り箸でたたいている人です。

チン、チーン、カラン、カラン、くらいにしか鳴りません。


しかし、働くことは、本来、すごく大きくて立派な梵鐘です。

ただ、その立派な形状は、あらかじめ目にははっきり見えません。


こちらが丸太で、どーんと叩けば、

ゴォーンと響くものです。


そして、その奥深いゴォーンという音は、

打った本人のみならず、村じゅうに響いて、

人びとに時を知らせ、他者の益となります。


鍋・やかんが、せいぜい、自分が食べるためだけの益しか

果たさないことを考えると、対照的です。


さて、あなたは、「働く」という宝物に対して、

割り箸でたたきますか?

丸太でたたきますか? ―――――

2008年3月28日 (金)

キャリアを拓く“地頭力” ~『THINK!』誌寄稿

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* * * * * * * * * * * * * 

現在、書店で発売中のビジネス雑誌THINK!』08年冬号No.24

(東洋経済新報社発行)に、8ページの寄稿をしています。

この雑誌は毎号まるごと1つのテーマの特集号ですが、

今回のテーマは「地頭力トレーニング」。

私はその中で、「キャリアを拓く“地頭力”」と題して執筆しました。

その冒頭部分を少し抜き出して紹介します。

◆2つの賢さ ~ お勉強ができる賢さ/世間を渡り抜く賢さ

世の中には、立派な学歴がなくても

思うがままに仕事人生を切り拓いている人がいる。

他方、一流大学・大学院の出身者といえども、

誰もが素晴らしい仕事人生を送るわけではない。

また同様に、IQがいくら高くても、仕事下手、生き方下手の人は多い。

このことはつまり、お勉強問題が解ける賢さと、

働く・生きるをうまく取り仕切る賢さは、

ある面で別物だということです。

この2つの賢さを言い当てる表現が、

いわゆる「アカデミック・スマートネス(academic smartness)」

「ストリート・スマートネス(street smartness)」です。

「アカデミック・スマートネス」は、

知識、分析、論理、計画等による明晰性、合理性を基とした賢さです。

その名のとおり、学校や学術界で養われ、流通する能力形式です。

他方、「ストリート・スマートネス」は、

知恵、経験、勘、目算等による主観力、展開力を基とする賢さです。

その名のとおり、巷でしぶとく生き抜いていくための雑多な知恵です。

1人1人の働き手が、みずからのキャリア(仕事人生)を

切り拓いていくためには、後者、

つまりストリート・スマートネス的な賢さがどうしても必要になります。

なぜなら、人生は、偶発の連続であり、

常に不測の出来事や理不尽な力、とらえどころのない人間関係、

自身の刻々とゆらぐ想い等とファジーに葛藤して、

みずからのキャリア進路を創出していかねばならない営みであるからです。

人生は残念ながら、というよりもむしろ奥深きかな、

初速度と打ち出し角度を決めさえすれば、

後は着地点が計算で確実に予測可能であるようにはできていないのです。

・・・・中略

私はキャリア形成における「地頭のよさ」とは、

自分自身の知識、技能、行動特性、価値観を統合的に連結させ、

みずからが理想的に働くイメージや生きる道筋をひらめかせる、

そういった知恵を生み出す賢さであると定義します。

・・・(以下、記事省略)

◆生きることは、算数ではなく、工作/耕作である

結局、私がこの記事を通して言いたかったことは、

知識や技能(スキル・テクニック)だけで、

つまり上頭(うわあたま)のよさだけでは、

自身のキャリアをたくましく切り拓いていくことはできない。

自らの働き観を思索すること、

理想の状態を想い描くこと、

行動で仕掛け、状況が動いたら、知識や技能を組み替えなおしてまた仕掛けること、

偶発を必然的な出来事として認識すること、

など、頭の地の部分を使ってこれらのことをぐるぐる考え、

状況をつくりだす中でこそ、

キャリアはたくましく切り拓かれる。

働くことや生きることの本質は、算数ではないと思います。

何でも簡単に割り切れて、すべてに答えのあるものではないし、

功利的な結果のみを追うものでもありません。

働くこと・生きることの本質は、言ってみれば、工作/耕作ではないでしょうか。

地頭をギシギシ音を立てながらフル回転して考え、

何らかのものを自分なりに工(耕)作していく。

・・・そんなことをキャリア理論や達人の言葉を引用しながら、

記事としてまとめていきました。

ご関心があれば、一度、雑誌をのぞいてみてください。

2008年3月21日 (金)

私の「シュヴァルの理想宮」プロジェクト

フランス南部の片田舎村オートリーヴに

1867年から29年間、この地域の郵便配達員をした

フェルディナン・シュヴァルという男がいました。

彼の仕事は、来る日も来る日も、16km離れた郵便局まで徒歩で行き、

村の住人宛ての郵便物を受け取って、配達をすることでした。

毎日、往復32kmを歩き続けたその13年め、

彼は、ソロバン玉が重なったような奇妙な形をした石につまずきます。


そして、その日以降、

配達の途中で変わった石に目をつけ、

仕事が終わると石を拾いにゆき、

自宅の庭先に積み上げるという行為を続けます。

彼は結局、33年間、ひたすら石を積み続け、

独特の形をした建造物(宮殿)をこしらえて、この世を去った。

――――それが、「シュヴァルの理想宮」の話です。



詳細の話は、

『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』(岡谷公二著・作品社)をご覧下さい。

ネット検索をかけてもいろいろ情報が取れると思います。

私は、この話を知ったとき、

「塵も積もれば山となる」という言葉を超えて、

シュヴァルの「愚直力」に大きな感銘を受けました。

また、

そんなものは単なるパラノイア(偏執病)男の仕業さ、

というような分析もありますが、たとえそうだったとしても、

没頭できるライフワークを見つけたシュヴァルは

間違いなく幸福者だったと思います。

冷めた他人がどうこう評価する問題ではありません。

私は、33歳のときに

「人の向上意欲を刺激する仕事をしたい」と想い、

ビジネス出版社から、教育出版社に転職をしました。

その後、30代半ばには、

「世の中にない教育サービスを打ち立てたい」と想いが明確になり、

40歳では、教育の中でも、

「働くとは何か?の翻訳家になる」をテーマとして起業したいと決意し、

自営業を開始しました。

この「職・仕事を思索するためのブログ」は、

まさに私のライフワークテーマに沿った個人プロジェクトです。

日々、書き積み上げていく1本1本のエントリー(記事)は、

シュヴァルが家に持ち帰った石の1つ1つです。

1年後や5年後、そして10年後、

このブログが、どんな形の建造物になるか、今はまだ予想がつきませんが、

将来のある時点で、

「よくぞこんなものをこしらえたものだ」と

シュヴァルが自分の宮殿を見つめるがごとく、

私もこのブログを振り返ることになるでしょう。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

造物とは不思議なもので、

それは自分の頭や手から生まれ出されるわけですが、

その実、それが最終的にどう出来上がるかは、自分でもわからない。

いみじくも、かのパブロ・ピカソが言った

「着想は単なる出発点にすぎない・・・着想を、

それがぼくの心に浮かんだとおりに定着できることは稀なのだ。

仕事にとりかかるや否や、

別のものがぼくの画筆の下から浮かびあがるのだ・・・

描こうとするものを知るには描きはじめねばならない」。

     ――――『語るピカソ』(ブラッサイ著:みすず書房)


は、このことをいうのでしょう。


未知なる自分の創造物との出合い―――――

それは創造的な仕事をする人が受け取ることのできる

最大の喜びです。


「働くとは何か?」「職・仕事とは何か?」について、

自分はどう考え、どう行動に出すか――――それをわかるために、

まず私は、このブログ発信という形で考え、行動に出すことから

始めたいと思います。




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