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2008年4月

2008年4月19日 (土)

「成功」と「幸福」は別ものである <下>


◆成功は消費される 

成功と幸福は別ものであることについて、3回に分けて書いてきました。


前々回・前回と、「成功」を何かネガティブなものとして

扱ったような感じですが、そうではありません。

働く上で、成功することは当然、目指すべきことです。

最初から失敗でよいなどということでは、何事も成し遂げられません。


しかし、成功は取り扱いにおいて、注意が必要ということです。


1つには、成功は他者との比較相対、

あるいは点数による勝ち負けで決まることが多く、

自分の持つ個性本来の評価の結果ではないこと。

したがって成功は、多分に俗的な手垢の付きやすいものになります。


もう1つには、

1回きりの成功の上にあぐらをかいていると、

次の大きな失敗を呼び込むことがおおいにあること。


ヒルティが『幸福論』に記す下のことは、頭に焼き付けておくべき至言です。


・「人間は成功によって“誘惑”される。

  称賛は内部に潜む傲慢を引き出し、富は我欲を増大させる。

  成功は人間の悪い面を誘い出し、不成功は良い性質を育てる」。

・「絶えず成功するというのは臆病者にとってのみ必要である」。

さらに1つには、成功は一過性のものであり、消費されること

成功は歓喜・高揚感・熱狂を呼びますが、

それは揮発性のもので長続きしない。

幸福が与えてくれる持続的な快活さとは対照的です。


イギリスの作家スウィフトが、

「歓喜は無常にして短く、快活は定着して恒久なり」と言ったのは、

まさにこのことです。



◆成功や失敗は糟粕のごときものである

結局、成功を自分の中でどうとらえればいいのか――――

私は、渋沢栄一の次の言葉が心にピシッときます。


「成功や失敗のごときは、

ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである。

 
現代の人の多くは、ただ成功とか失敗とかいうことのみを眼中に置いて、

それよりもモット大切な天地間の道理をみていない、

かれらは実質を生命とすることができないで、

糟粕に等しい金銭財宝を主としているのである、

人はただ人たるの務を完(まっと)うすることを心掛け、

自己の責務を果たし行いて、

もって安んずることに心掛けねばならぬ」。


        ―――――『論語と算盤』より



渋沢栄一は、江戸・明治・大正・昭和を生きた

“日本資本主義の父”と呼ばれる大実業家です。

第一国立銀行はじめ、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、

秩父セメント、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、

サッポロビールなど、渋沢が関わった企業設立は枚挙に暇がありません。


実業以外にも、一橋大学や東京経済大学の設立に加わったり、

東京慈恵会や日本赤十字社などの創設を行なったりと、

その活躍の幅は非常に広い。


彼のそうした仕事の数々からすれば、

「渋沢財閥」を形成するには充分な金儲けができたにもかかわらず、

渋沢はそうしたものにはいっこうに関心がなく、

亡くなるまで、財産めいたものは残さなかったといいます。


だからこそ、上の言葉は、説得力をもってズシンと腹に響いてきます。



◆気がつけば「幸福である」という状態

さて、3回にわたって、

幸せのキャリアとは?仕事の幸福とは何だろう?と考えてきました。


結局、それは渋沢の言う“丹精”込めて励みたいと思える仕事

(=夢や志、大いなる目的)をみずからつくりだすこと

そして、その仕事を理想形に近づけていく絶え間ない過程に身を置くこと

にほかならないと思います。


もしそうした仕事、および過程に没頭し、自分を発揮することができれば、

もうそれこそが幸福であり、一番の報酬なわけです。


成功や失敗というものは、その過程における結果現象であり、通過点に過ぎない。

成功や失敗には、獲得物や損失物を伴うが、

そんなものは、真の仕事の幸福の前では副次的なものに思えてくるでしょう。


幸福は、それ自体を追ってつかめるものではない。

自分が献身できる、自分に意味ある何かを、自分でこしらえて、

そこに没頭する。

・・・そしてある時点で、振り返ってみて、

「あぁ、自分は幸せだったんだな」と気づく――――

それが、幸福の実体に近いものなのでなかろうか、

そう私は考えています。




*なお、こうした論議は

弊著『“働く”をじっくりみつめなおすための18講義』で詳しく行なっています。

そちらも是非ご覧ください。

2008年4月18日 (金)

「成功」と「幸福」は別ものである <中>


成功と幸福は明確に違います。

この違いを腹で押さえておくと、働いていく上で、生きていく上で、

随分ラクになります。


私は、両者の違いを次のような図で考えます。


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◆成功/不成功は「定規を当てる」こと 

まず、左側の『定規モデル』をみてください。


これは、自分が仕事上で獲得したもの、例えば、

収入とかそれで買ったモノ、あるいは自分の知識や能力、

さらには仕事の成果・業績など、

有形・無形を問わずそれらのものを、

定規(スケール)を当てて、自他で比較して評価することを表しています。


その結果、自分の「相対的な位置」が確認できます


他人よりも多く、うまくやっていれば喜び、ほめられ、

逆に、他人より少なく、ヘタであれば元気をなくし、責任を問われる。


当てる尺度はたいてい、定量的なものか、単純な定性的なもので、

どれも一般化されていて、

その実行者本人の複雑で繊細な個性価値を表すには程遠いものです。


しかし結局、世に言う「成功と不成功(失敗)」「勝ち組と負け組」とは、

まさにこの定規による相対的な判別を指しているのです。



◆幸福は「器をつくる」こと 

では、幸福とは具体的にどういうことでしょうか。

それが『器モデル』です。


仕事の幸福は、まず、自分の「器」(ポット)をこしらえることから始まります。

器の素材や形状は、自分なりでいいのです。

それは、仕事人生に対する、あなたの個性・美意識・価値観の表れですから。


したがって、器をこしらえる活動自体もまた楽しいものです。

また、器の大きさは、自分の「構え」の大きさに等しいものになるでしょう。

構えとは、心構え、精神的な懐(ふところ)、視野、世界観といったものです。


そして、その器は、

仕事そのもの、および仕事から得られるもので満たされていきます。

そしてまた、器の中身を他者に注いでやることもひとつの喜びとなります。

 

こうした、器をこしらえること、器を満たすこと、 

器の中身を他に注ぐことすべてが、「仕事の幸福」なのです。


また、健全な志と野心の区別はつきにくいものですが、

前者の達成意欲は器を大きくしようとするものです。

しかし、後者の執着心は、器を大きくするというより、

器のどこかに穴かヒビ割れを起こすのでしょう。

――――入れても入れても、決して貯まることがない。



◆成功は相対的なもの・幸福は個性的なもの

結論から言えば、成功(あるいは不成功)は、

他との比較相対を基に成されるもので、

幸福とは、自分に絶対軸を据えて、それを基に感得するものです。


哲学者・三木清の『人正論ノート』から重要な箇所を抜き出してみましょう。


「成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、

人間は真の幸福は何であるかを理解し得なくなった。

自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである。


他人の幸福を嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見ている場合が多い。

幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、

成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである。

だから成功は、その本性上、他人の嫉妬を伴い易い。(中略)


純粋な幸福は各人においてオリジナルなものである。

しかし成功はそうではない。

エピゴーネントゥム(追随者風)は多くの場合成功主義と結びついている。

近代の成功主義者は型としては明瞭であるが個性ではない」。


2008年4月15日 (火)

ヒルティ『幸福論』


世の中に出ているいろいろな本には、

いろいろな効用があります。


働いていくため・生きていくために、

基本的な栄養(例えばタンパク質)を与えてくれる知識・技能本もあれば、

いっときのゾクゾク感やワクワク感(例えばビタミン)を与えてくれる

文芸小説や趣味雑誌などもあります。


また、たるんだ心に喝(かつ)を入れてくれる

(スパイスとか強壮剤のような)立志伝とか歴史小説もあります。


そんな中、このブログでは、

働く私たちにとって“滋養”になる本を紹介しています。


生涯の長きにわたって働くうえで、

私たちには基礎心力を増すための薬膳本みたいなものが必要です


内容は地味だけれども、まさに滋味で滋養がある本、

仕事人生の途上で幾度もページを開きなおし、

そのときの自分の状況にそって、

いつも何か新しい知恵とエネルギーを湧かすことのできる本―――


きょうもその類の名著ですが、前回に続いて三大幸福論のひとつ

ヒルティの『幸福論』(草間平作訳、岩波文庫)

を取り上げます。


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◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

カール・ヒルティ(1833-1909年)は、法学者であり、政治家であり、

また歴史家、思想家でもありました。

ともかく、範疇を超えた19世紀の「スイスの聖人」と呼ばれる人です。

彼が晩年に書き上げたこの『幸福論』は、

まさに精神の巨人が、

後世の人びとに残した遺言といった感があります。


岩波文庫の翻訳版で3巻に分かれており、

かなりの分量があるのですが、

どのページを開いても、何かしら心にフックし、

行をかみ締めて読むほどに、じわり効いてくる箇所がいくつも見つかります。

(私の『幸福論』の紙面はマーカー線と付箋だらけです)


正直言うと、私は学生時代に一度この本を手にしましたが、

第一部(1巻め)で読むのが続かなくなったと記憶しています。


理由は、いま振り返ると2つありそうです。

1つめに、内容が「教条的」過ぎて毛嫌いしたから

2つめに、そのころは本当の苦労知らず、挫折知らずだったから。


まず、確かにこの本は、キリスト教の宗教的倫理的著作です。

ヒルティは、この本を通して、

神の偉大さや、信仰心・罪の意識の重大さを気づかせようとしています。

したがって、紙面には、

「神」とか「罪」とか「宗教」「聖書」などの文字が頻出します。


だからといって、それだけでこの本から遠ざかっているとすれば、

それは非常にもったいないことです。

人類のひとつ大きな資産から目を閉じているわけですから。


この本に書いてあることは、極めて普遍的で包容力があります。


私は(決してヒルティはそう望まないでしょうが)、

「神」を「大宇宙を貫く摂理・叡智」と置き換えて読ませてもらいました。

すると、何かわだかまりが解けたようで、

自分なりにさまざまなものが汲み取れるようになりました。


また、この本は、

生きるうえで、逆説的だけれども、

苦難や試練、不遇、不安等があればこそ、幸福を勝ち取り得る、

否、

大いなる目的の下に苦難や試練を乗り越えることが幸福そのものである

という思想が基底となっています。


したがって、現在・過去において、

何かしらの苦難や試練、失敗、挫折、修羅場などをある程度経験していないと

この本の言っていることは、心の琴線に触れてきません。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

ですから私は、この本を、

自分が何かしらネガティブな状況に陥ったときに読むものとして

お勧めしたいと思っています。


「先が見えない」、「もうガマンの限界だ」、

「どこかへ逃げ出したい」、「なぜ、事が裏目裏目に出るんだ」、

「この世には神も仏もない。自分にはとかく運がないんだ・・・」、

「なぜ、あんな輩ばかりが世間で成功していくのか」などなど――――

そんなときに開けるといいかもしれません。


イケイケドンドンで、調子のいいときは、

別の景気のいい軽快な本を選べばいいと思います。


さて、私が選ぶ
ヒルティの思想をよく表していると思われる言葉は、

例えば次のようなものです。

・「真の仕事ならどんなものであっても必ず、

真面目にそれに没頭すれば、間もなく興味がわいてくるという性質を

もっている。人を幸福にするのは仕事の種類ではなく、

創造と成功のよろこびである」。


・「まず何よりも肝心なのは、思い切ってやり始めることである。

仕事の机にすわって、心を仕事に向けるという決心が、

結局一番むずかしいことなのだ。

一度ペンをとって最初の一線を引くか、あるいは

鍬を握って一打ちするかすれば、それでもう事柄は

ずっと容易になっているのである」。


・「働きの徳は、働く人だけが真に楽しみと休養の味わいを知りうる

ことである。先に働いていない休息は、

食欲のない食事と同じく楽しみのないものだ」。


・「人生における真の成功、すなわち、人間としての最高の完成と、

真に有用な活動とに到達することは、

しばしば外面的な不成功をも必然的に伴うものである」。


・「絶えず成功するということは、ただ臆病者にとってのみ必要である」。


・「人格の深み、また、われわれが多くの人にすぐ気づく

ゆったりした気風、これは立派に不幸に堪えてきた人にのみ

そなわるもので・・・(中略)・・・不幸のうちにどのような力が、

どんなに深い内的幸福が、ひそんでいるかを自ら経験しなかった者には、

その本当の意味は絶対に分かりはしない」。


・「これとは反対に、いわゆる不断の幸福をもつ人たちは、

必ずどこかちっぽけな、平凡な感じがつきまとうものだ。

・・・彼らはこのお守り(幸福)を失いはすまいかと、

いつもびくびく暮らしている。

ところが、不幸になれた人は、

最後には気高い落ち着きを得て、苦難に直面しても元気を失わず、

しばしば進んで苦難を迎えようとさえ望むようになる」。


・「悪い日がなかったら、たいていの人は決してまじめな

思想に到達することはないであろう」。


・「すぐれた文学、同様にまた、ほんものの芸術はすべて、

苦悩から(情熱からではなく)生まれる

苦悩がなければ、深さを欠くことになる」。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「疲れの時代」、「迷い・惑いの時代」にあって、

世の中のあちこちで、「癒し」が求められています。


しかし「癒し」は、疲れ・迷い・惑いに対する根本解決には

なりません(当面の対症療法的な効果はあります)。


根本的な解決は、いい言葉が見つかりませんが、

「叱咤激励」にこそあると思います。


ヒルティは、この本を通し、厳父・慈父のような存在です。

現代社会は、子供や若い世代を叱咤激励する父性の存在を著しく欠いています。


自分がネガティブな状況に陥っているとき、ともすると、

「癒し」などという甘やかしと紙一重のところに逃げ込んで、

そこに留まる人がいます。

そうではなく、そういうときこそ、

ヒルティのような厳父の一言を吸収して、

たくましく立ち上がる生命力を湧かせねばなりません。


ここの分岐点は、生きていく上で、非常に大きな一点でありますが、

ここだけは、他の誰でもない

自分自身が引き受けなくてはならない一点です


私もそういうときに、幾度か、この本に助けられてきました。

2008年4月12日 (土)

基本は「展職」!場合により「転職」・結果として「天職」


◆職人の手と道具
私はかつて勤めた出版社で、

デザイン雑誌の編集をやっていたときがあります。

取材の中でも、

伝統工芸家や職人さんの取材はとても面白かったものです。


取材時に私が毎回、目を引かれたのは、

彼らの手と道具です。


長年の間、力と根気を入れて使った手や指は、

道具に沿うように曲がってしまいます。

また、道具も、彼らの指の形に合うように

すり減って変形してしまいます。


時が経つにつれ、互いが一体感を得るように馴染みあった手と道具は、

それだけで味わい深い誌面用の絵(写真)になります。


真新しい道具が手に馴染まず、なにか違和感がありながらも、

使い込んでいくうちに手に馴染んでいく、

もしくは手が道具に馴染んでいくという関係は、

職と自分との関係にも当てはまると思います


つまり、

仕事人生の途上で出合う雇用組織・職・仕事で、

あらかじめ自分に100%フィットしたものなどありえない


仕事内容が期待と違っていた、

人間関係が予想以上に難しい、

自分の能力とのマッチング具合がよくない――――など、

どこかしらに違和感は生じるものです。


ただ、そうしたときに職業人としての自分がやらねばならない対応は、

自分の行動傾向をその職・仕事に合うように少し変えてやる、

もしくは

自分の能力を継ぎ足したり、改善したりすることです。


または、その職・仕事の環境を自分向きに変えてやる、

あるいは、

些細な違和感を乗り越えられるよう

雇用組織との間で大きな目的を共有するという努力も必要です。


* * * * * * * * * *

◆最初の仕事はくじ引きである 

ピーター・ドラッカーもこう言っています。


「最初の仕事はくじ引きである。

最初から適した仕事につく確率は高くない。

得るべきところを知り、

向いた仕事に移れるようになるには数年を要する」と。



私は職業人の最も重要な能力の一つは、

「状況対応力/状況創造力」だと思っています。


ドラッカーの言うとおり、

最初の仕事はくじ引きなんだから、

「はずれ」が出ることもあると楽観的に構える。

でもその「はずれ」は、自分の状況対応、状況創造によって

人為的に「当たり」に変えることができる


結論的に言えば、

キャリアづくりとは、職業選択というくじ引き後の

職と自分の馴染み化(状況対応/状況創造)のプロセスなのだと思います。


そして結局、その馴染み化をうまくやれるかどうかは、

「自律マインド」です。

(“自律マインド”に関しては、詳細を次の機会に書きます)


努めて自律的であろうとする人は、

多少の職場の違和感、不満、不足、不遇をその場で乗り越えていける。


自律的になることがしんどそうで逃げる人は、

違和感、不満、不足、不遇を嫌って、すぐに居場所を変える。

(そして漂流回路に陥るリスクを自ら大きくする)


* * * * * * * * * *

◆3つの「テンショク」

目の前の職・仕事と自分が馴染み合うように状況を変えていく

その自律的な営みを、私は、「展職」と名づけています。


「展職」の「展」は、

“展(の)べる” とか“展(の)ばす”と訓読みし、

広げる、進める、変えるといった意味を含んでいます。


どんな職業・仕事も、展べる余地は無限にあります

ただ、それをやるかやらないかは、すべて働き手本人の問題です。

「小さな役はない。小さな役者がいるだけだ」――――

とは、演劇の世界の言葉ですが、

それと同様に、


「つまらない仕事はない。

仕事をつまらなくしている人間がいるだけだ」ともいえます。

したがって、

長きにわたる仕事人生において、基本は「展職」です。

そして場合により、「転職」が必要かもしれません。

(私も、実際、4回もしました!)

しかし、転職は、あくまで手段です

自分の目的観や方向性がある程度みえているなら、その選択肢は有効でしょう。

しかし、安易な動機でそのハイリスクのカードを切ると、

ますます状況を悪化させることがあります。注意してください。


まさに、転職が「転ぶ職替え」になります。

転びはじめると、それが“転びグセ”になることも往々にしてあります。


ですから基本は、ある忍耐さを持って、

「展職」に取り組んでみることです。


そうこうしているうちに、結果として、

「天職」、あるいは、

生涯を通じてやり続けたいライフワークのようなものがみえてきます。

(それは、「展職」についてくるごほうびみたいなものかもしれません


私が、研修などで受講者のみなさんに言っていることは次のようなものです。


職・仕事との向き合いで、決して短気を起こさないこと。

キャリアは、短距離競争ではなく、

いろいろガマンの要るマラソンだから


2008年4月 7日 (月)

ヒトを全人的に育てる思想


【沖縄・石垣島発】


◆ホンダの人財育成思想:OCT
あるとき、ホンダのマネジャークラスの方にお会いして

“OCT”なる言葉を聞きました。


――――「OCT(オン・ザ・チャンス・トレーニング)」


「人は育てられるのではない、自ら育つ」というスタンスに立ち、

会社側はそのための環境とプロセスを整えること、

これがホンダの人財育成の根本思想だというのです。


確かに、ホンダの歴史をみても、

例えば、1959年(創業11年め)、伝説の「マン島TTレース」参戦では

メカニックもライダーも全員20代。

人選も「やりたいやつは手をあげろ!」「はいっ!」で決まったといいますし、


同じく、59年、やはり30代の一人の課長(白井孝夫氏)に

鈴鹿工場建設のすべてを、

本田と藤澤の経営側は一任しました。

白井課長は、その勉強のために

「おまえ、しばらくヨーロッパに行って来い」と言われたそうです。


それと同時に、ホンダの有名な文化として、


『三現主義』:

・現場に行け

・現物、現状を知れ

・現実的であれ


『自己申告主義』:

研究や開発は、アイデアを出した人がそのテーマの責任者となる

いわゆる“言い出しっぺ”がリーダー


こうしたことがベースになって、

「チャンスの中でヒトは勝手にしぶとく育っていく」というホンダのOCTが

組織の中に、人財育成“思想”として根を張っているのだと思います。


これは思想であって、

人財育成戦略とか、戦術とか、施策などという

何か仰々しく、カッコつけて実行しているものではなく、

組織体に染み込んだDNAレベルのもののように感じます。


その大本である本田宗一郎さんも、

・「創意発明は天来の奇想によるものではなく、

せっぱつまった、苦しまぎれの知恵である」

(だから、人を2階に上げておいて、はしごをはずせば、いい知恵がわく)


・「見たり聞いたり試したりの中で、試したりが一番大事なんだ」


・「やりもせんに」

(やりもしないで、机上の知識でものの可否を断ずるな)


など、いろいろな語録を残しています。


* * * * * * * * *


◆全人的・全体的に仕事を動かせるヒトが激減している

私は新卒で最初、文具・オフィス用品メーカーに入り、商品開発を担当しました。

入社時からいきなり担当商品を割り当てられ、

プロダクトマネジャーとして、

アイデア出し・企画から試作品、デザイン、製造、流通、

広報・広告、アフターサービスまで、

それぞれの工程の専門スタッフをチーム化して、夢中(霧中)で働きました。


この会社・この部署には3年弱在職しまして、いくつかの商品を

世に送り出したわけですが、結果的に、ここでの経験が、

その後の私の全てを育ててくれたといっても過言ではありません。


ちなみに当時の私の直接の上司(部長)は、

アスクル株式会社を立ち上げられた岩田彰一郎社長です。

プラス株式会社の今泉公二副社長とともに、このお二人は、

まさに私にとっての本田宗一郎的存在でした。


私の場合、職業人として何年も経ってから、

ようやく、やれP/LB/Sだとか、やれマーケティングだとか、

あるいはSWOTだの5 Forcesだの戦略論の勉強をやりましたが、

学んだ当初、どうも、現実味の迫力に乏しく、

ひとつひとつの知識が「ギスギスとやせて」いて

腹ごたえがないように思えました。

(アタマをシャープに体系的に整理し直すという意味では、

とても有益・有意義だと思っていますが)


他方、

ひとつの完結するプロジェクトなり、大きな仕事単位を

どっさり任されることは、

全人的に、全体的に取り組まねばならない奮闘であって、

それは格好の

体験、学習、コミュニケーション、修羅場、歓喜の機会を与えてくれます。

その意味で、実に「ふくよかな」なのです。



現在、世の中のさまざまな研修教育プログラムは、

細分化の流れにあります。

これは、現在のビジネスがどんどん細分化(分業化)・煩雑化し

専門能力が欠かせないことに呼応しています。


だから、会社側も、テーマが細分化されたスキル習得研修や

専門知識の植え付けセミナーに多くの従業員を行かせます。


現在の組織内のヒトの問題のひとつを挙げれば、

ヒトがいやおうなしにどんどん「知識でっかち」

あるいは「技能でっかち」になっている中、

全人的・全体的に仕事を動かせるヒトが激減していることです。


すでに多くのミドル管理職でそれができなくなっているとすれば、

上下方向に支障をきたします。つまり、

若手に対する現場のOJTの内容は乏しいものになるでしょうし、

近い将来の上級マネジメントの人財供給にも難が出てきます。


* * * * * * * * *


◆全体論的な視点からの人財育成

還元論(あるいは機械論)と全体論というのが、科学の概念であります。


還元論は、物事を基本的な1単位まで細かく分けていって

それを分析し、物事をとらえるやりかたです。

人間を含め、自然界のものはすべて、

部分の組み合わせから、全体ができあがっているとみます。


西洋医学は基本的にこのアプローチで発展してきました。

胃や腸などの臓器を徹底的に分析することで、

さまざまな治療法を開発するわけです。


他方、胃や腸など臓器や細胞をどれだけ巧妙に組み合わせても、

一人の人間はつくれない、

全体はそれ一つとして、意味のある単位としてとらえるべきだ

というのが全体論です。

東洋医学が主にこのアプローチです。


この両方は、どちらかが良い悪いではなく、

要は、バランスが大事です。


どうも、私には、技能研修や知識研修は、還元論アプローチにみえます。

一方、ホンダの『OCT』は、全体論アプローチにみえます。


医療の世界では、東洋医学への見直しが高まっているように、

(ガンと共生する考え方や、漢方薬、ヨガなど)

人財育成も、全体論的な角度からの見直しが必要だと思います。



それは小難しいことではなく、

どんとチャンスをどんと与えることではないでしょうか。


本田宗一郎は、「やりもせんに」といいました。

サントリーの鳥井信治郎は、「やってみなはれ」

ナイキのCFコピーは、Just Do It !



私も、キャリア教育、働く自律マインド醸成教育において、

全体論的なアプローチをしようと考えています。

その詳細に関しては、順次、このブログで触れていくつもりです。





□ □ □ □ □ □ □ □ □

08年 沖縄キャンプ終了>


4月2日から石垣島で行ってきた仕事の春キャンプも今日が最終日です。

海を眺めながらの集中的な思索作業、執筆作業、再構築作業を終えて、

また東京に戻り、

研修の実施やら、関係者とのミーティングやら、普段どおりの仕事を再開します。


沖縄キャンプの期間中に撮った写真を間近にアップするつもりです。

で今度は、夏に軽井沢キャンプを予定しています。

Photo7

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