「成功」と「幸福」は別ものである <下>
◆成功は消費される
成功と幸福は別ものであることについて、3回に分けて書いてきました。
前々回・前回と、「成功」を何かネガティブなものとして
扱ったような感じですが、そうではありません。
働く上で、成功することは当然、目指すべきことです。
最初から失敗でよいなどということでは、何事も成し遂げられません。
しかし、成功は取り扱いにおいて、注意が必要ということです。
1つには、成功は他者との比較相対、
あるいは点数による勝ち負けで決まることが多く、
自分の持つ個性本来の評価の結果ではないこと。
したがって成功は、多分に俗的な手垢の付きやすいものになります。
もう1つには、
1回きりの成功の上にあぐらをかいていると、
次の大きな失敗を呼び込むことがおおいにあること。
ヒルティが『幸福論』に記す下のことは、頭に焼き付けておくべき至言です。
・「人間は成功によって“誘惑”される。
称賛は内部に潜む傲慢を引き出し、富は我欲を増大させる。
成功は人間の悪い面を誘い出し、不成功は良い性質を育てる」。
・「絶えず成功するというのは臆病者にとってのみ必要である」。
さらに1つには、成功は一過性のものであり、消費されること。
成功は歓喜・高揚感・熱狂を呼びますが、
それは揮発性のもので長続きしない。
幸福が与えてくれる持続的な快活さとは対照的です。
イギリスの作家スウィフトが、
「歓喜は無常にして短く、快活は定着して恒久なり」と言ったのは、
まさにこのことです。
◆成功や失敗は糟粕のごときものである
結局、成功を自分の中でどうとらえればいいのか――――
私は、渋沢栄一の次の言葉が心にピシッときます。
「成功や失敗のごときは、
ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである。
現代の人の多くは、ただ成功とか失敗とかいうことのみを眼中に置いて、
それよりもモット大切な天地間の道理をみていない、
かれらは実質を生命とすることができないで、
糟粕に等しい金銭財宝を主としているのである、
人はただ人たるの務を完(まっと)うすることを心掛け、
自己の責務を果たし行いて、
もって安んずることに心掛けねばならぬ」。
―――――『論語と算盤』より
渋沢栄一は、江戸・明治・大正・昭和を生きた
“日本資本主義の父”と呼ばれる大実業家です。
第一国立銀行はじめ、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、
秩父セメント、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、
サッポロビールなど、渋沢が関わった企業設立は枚挙に暇がありません。
実業以外にも、一橋大学や東京経済大学の設立に加わったり、
東京慈恵会や日本赤十字社などの創設を行なったりと、
その活躍の幅は非常に広い。
彼のそうした仕事の数々からすれば、
「渋沢財閥」を形成するには充分な金儲けができたにもかかわらず、
渋沢はそうしたものにはいっこうに関心がなく、
亡くなるまで、財産めいたものは残さなかったといいます。
だからこそ、上の言葉は、説得力をもってズシンと腹に響いてきます。
◆気がつけば「幸福である」という状態
さて、3回にわたって、
幸せのキャリアとは?仕事の幸福とは何だろう?と考えてきました。
結局、それは渋沢の言う“丹精”込めて励みたいと思える仕事
(=夢や志、大いなる目的)をみずからつくりだすこと、
そして、その仕事を理想形に近づけていく絶え間ない過程に身を置くこと
にほかならないと思います。
もしそうした仕事、および過程に没頭し、自分を発揮することができれば、
もうそれこそが幸福であり、一番の報酬なわけです。
成功や失敗というものは、その過程における結果現象であり、通過点に過ぎない。
成功や失敗には、獲得物や損失物を伴うが、
そんなものは、真の仕事の幸福の前では副次的なものに思えてくるでしょう。
幸福は、それ自体を追ってつかめるものではない。
自分が献身できる、自分に意味ある何かを、自分でこしらえて、
そこに没頭する。
・・・そしてある時点で、振り返ってみて、
「あぁ、自分は幸せだったんだな」と気づく――――
それが、幸福の実体に近いものなのでなかろうか、
そう私は考えています。
*なお、こうした論議は
弊著『“働く”をじっくりみつめなおすための18講義』で詳しく行なっています。
そちらも是非ご覧ください。