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2008年9月16日 (火)

心のマスターとなれ

◆「精神のない専門人」が跋扈する
昨年(2007年)の世相を象徴する漢字は『偽』。
そして、その流れはいっこうに留まる気配がないようです。
汚染米の流通やウナギの産地偽装など、連日「食の偽装」ニュースが世間を騒がせます。

また、昨日は米国大手の証券会社が経営破たんしたニュースも飛び込んできました。
米国の不動産市場のバブルをけしかけ、
マネーゲーム化させた仕組みの中で荒稼ぎした末の身勝手な突然死。

これらの出来事に限らず、そこかしこで起こる経済人のモラル崩壊の現状はまさに、
マックス・ウェーバーが言う
「精神のない専門人・心情のない享楽人」たちがこの世を跋扈し、
経済というシステムをますます醜悪なものにしてしまっている姿に写ります。
(*経済とはそもそも「経世済民」という“民を救う”目的のものであったはず)

こういう問題の解決には、決まって法規制のアプローチが論議されます。
確かにそれは必要ですが、それはどこまでいっても対症療法です。
法の抜け道を探して、このような私利私欲を求める行為はいつまでもやまないでしょう。
なぜなら根本の問題は、人間の「欲望」というやっかいなものからきているからです。
ここに目線を入れないかぎり、根本の解決は難しいものです。
そのためには、やはり哲学や思想、宗教心の次元にまで入り込む必要があります。

* * * * * * *

◆欲望を制御できない個人・企業・社会
個々の人間が働く上においては当然のこと、生きる上においても、
さらにいえば企業体、社会全体においても
みずからの欲望をどう司っていくかは、肝心・要の仕業です。

欲望は人間にとってやっかいなシロモノで、
欲は人を惑わしもすれば、成長させもする。
つまり、善悪の2面性があるわけです。

欲に振り回されれば、それは煩悩であり、
欲をうまく生かしていけば、それは菩提となる。
人間は、意志と叡智によって、煩悩を菩提に転換することができる。
(大乗)仏教はそれを「煩悩即菩提」と説きました。

しかし、
現代の科学技術と経済システムは、人間の諸機能を飛躍的に拡張させることとなり、
それは同時に、人間の欲望も爆発的に増長させることとなりました。

その増長する欲望のペースに、人間の自制心が追いついていかない――――
これが、現代文明の抱える根源的な問題のひとつです。

「欲しろ→満たせ、欲しろ→満たせ」・・・・
この際限ないチキンレースから個人も、企業も、社会も抜け出せないまま、
暴走機関車は「より多くのモノを・より多くのカネを」と走り続けている―――
そんな様相です。

◆人間の叡智は欲望をコントロールできるか
作家の司馬遼太郎さんは、生前、
「この現代社会にメッセージを残すとすれば、何ですか?」との質問に、
―――― 『知足』(ちそく=“足る”を知る)
という一言を発していらっしゃいました。

大著『歴史の研究』で著名な歴史家のアーノルド・トインビー博士も、
文明的視座の考察から、人間が自制心という叡智を断行しないかぎり、
その文明は存続できない旨を分析しています。

そんな時代だからこそ、個人も企業も、
みずからが、みずからの「心のマスター」(=主人・司者)にならなくてはいけない。

欲望自体は滅することはできないし、また、そうする必要もない。
善にも悪にもなりえる欲望は、そのコントロールのしかたこそが問題なわけです。

* * * * * * * *

◆欲の2面性
欲の持つ善悪2面性は、とてもあいまいでとらえにくいものです。
その善悪2面は、表裏一体でありながら、表と裏は境目がなく、つながっています。

私は、欲望のもつ2面性を「メビウスの帯」としてイメージしています。
図のように、欲のもつ陽面を<欲望X>、陰面を<欲望Y>とすると、
欲望Xと欲望Yは、表裏一体でありながら、ひとつながりのものになるわけです。
(コインの表裏のように、表裏が明確に断絶されているわけではない)

05007a

例えば、
一人の為政者が権力を持って「正義を行ないたい」という欲は、
いつしか知らずのうちに「独善を強いる」欲に変わっていくときがあります。

また、よく芸人は「遊びも芸の肥やしだ」と言って、奔放に遊びますが、
これは場合により「立志・求道」という欲求からのものでしょうし、
場合により「享楽・奢欲」という欲求からのものでもあります。

さらに、欲を和らげる方向にも、こうした2面の組み合わせがあります。
「清貧」でありたいは、「無頓着」で済ませたいということにつながっていますし、
また、「無欲」でいたいは、「怠惰」でいたいとつながっています。

結局、欲望を「陽面」でコントロールし、自分を昇華させることができるのか、
それとも、欲望の「陰面」に翻弄され、そこに堕してしまうのか、

ここがひとつの重大な、幸福と不幸の分岐点があるように思います。

◆それは大我に根ざした欲か・小我から来る欲か
そして、この分岐点において、自分がどのような「心持ち」をするかこそが、
最も根源的な問題となるでしょう。

「大我的・調和的に、開いた意志」の心持ちをするのか、
「小我的・不調和的に、閉じた感情」の心持ちをするのか
、です。

下の図は、それを統合的にまとめたものです。

05007b


「大我的・調和的に、開いた意志」の心持ちをすることは、
端的に言えば「おおいなるもの」を感得しようとすることだと思います。

過去の偉人・巨人たちの古典名著を読むにつけ、
彼らは例外なく、「おおいなるもの」を感じ取り、それを言葉に表しています。


「教えてほしい。いつまでもあなたが若い秘密を」・・・
「何でもないことさ。つねに大いなるものに喜びを感じることだ」。
――――ゲーテ『ゲーテ全集1』


「平和とは、個人的満足を超えたところにある理想の目標と、
魂の活動との調和を意味する」
「平和の体験によってひとは自己にかかずらうことをやめ、
所有欲に悩まされることがなくなる。
価値の転換がおこり、もろもろの限界を超えた無限のものが把握される」。
――――ホワイトヘッド『観念の冒険』


「自己実現の達成は、逆説的に、
自己や自己意識、利己主義の超越を一層可能にする。
それは、人がホモノモスになる(同化する)こと、
つまり、自分よりも一段と大きい全体の一部として、
自己を投入することを容易にするのである」。     
――――エイブラハム・マスロー『完全なる人間』


◆よりよい仕事とは哲学的・宗教的な体験である
私のような凡人が、抹香くさい教訓をたれることは
これ以上差し控えたいと思いますが、
人間が真摯に熱中して何かの仕事を成し遂げようとするとき、
大我的で調和的な、おおいなる何かに、必然的につながる、抱かれる
という摂理は普遍的に存在するのだと思いますし、
私個人も、そのかけらを体験するところでもあります。

よりよく働くためには、哲学や宗教的な心持ちが要ります。
また、よりよく働けたときには、結果的に
何かしら、哲学的・宗教的な経験をしてしまうものです。

その哲学的・宗教的な経験こそ、私は『仕事の幸福』であると思っています。

私は、ビジネス雑誌記者を7年間やって、
成功者と言われるさまざまなビジネスパーソンやら経営者やらを取材しましたが、
仕事や事業を私欲の道具にして、
ゲーム感覚で勝ち上がり、短期的に浮き上がる人たちも多く目にしてきました。
彼らが得たものは「仕事の快楽」であって、
「仕事の幸福」ではないように思います。


また、みずからの保身のために、
偽りを行い、他を踏み倒してまで儲けを追求するやり方は論外です。

欲望を「開く」、または「制する」ところに個人と社会の幸福はあり、
欲望を「貪る」、または「怠ける」ところに個人と社会の幸福はない

――――こう強く思います。

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