偶発を必然化する力―――秋の読書4冊
◆人生・キャリアはJazzだ
ジャズ音楽の醍醐味は、そのアドリブ(即興)にあります。
ジャズにおいては、とりあえず楽譜はあるものの
ミュージシャンたちはたいていその場その場の雰囲気でアドリブを仕掛けていく。
ジャムセッションで、演奏メンバーは何の曲をやるかは分かっていますが、
それをどう弾いて、結果、どう仕上がっていくかは、
本人たちにも想像がつかない。
当日の聴衆の雰囲気によっても左右されるでしょうし、
誰か1人が弾いたアドリブの一節が他のメンバーに引火し、
それがどんどん大きくなり、これまでにない演奏になる場合もあるでしょう。
ジャズの演奏の出来不出来は、もう演奏してみないと分からないわけです。
そして、演奏してみた結果、初めて
本人たちも「俺たちがやりたかったのはこういう演奏だったのだ」とわかる。
考えてみれば、人生もキャリアもジャズと同じようなものです。
自分の能力や意志、体力、経済力といったものを統合的に組み合わせて、
自らの生き様・働き様といった作品をこしらえていく。
しかし、ことはすべて型どおり、予定通りには進まない。
運や縁といった偶発のいたずら要素も大きい。
ですから、人間は毎日の生活を即興演奏しているともいえる。
アドリブとは「逸脱の創造行為」ととらえてもいいでしょうが、
この逸脱という試みは、基本的な演奏技術を習得し、
演奏の場数を豊富に経験した上で、
「偶発」に下駄を預けることの妙味を知っている者こそがやると、
すばらしいアウトプットを誕生させることができる。
私は、自分が行っているキャリア研修で
「人生やキャリアも、ある部分、
アドリブを意図的に楽しむという“行き当たりばったり”でいいんですよ」
と言っています。
ただし、
その上で、納得のいく生き様・働き様を表現していくためには、
もろもろの基礎力やイマジネーションがあってこそ、と付け加えています。
自分の意志も能力も経済力も脆弱なままでは、
逸脱を十分な創造人生までに変換することはできません。
◆「ハプンスタンス・アプローチ」~偶発を楽しめ!
キャリアは「計画された行き当たりばったり」でよい、とする研究成果を出したのは、
「Planned Happenstance Theory」 を提唱した
米スタンフォード大学のジョン・クランボルツ教授です。
教授によれば、
キャリアは100%自分の意のままにコントロールできようものではなく、
人生の中で偶然に起こるさまざまな出来事によって決定されている事実がある。
そこでむしろ大事なことは、
その偶発的な出来事を主体性や努力によって最大限に活用し、チャンスに変えること、
また、想定外な出来事を意図的に生み出すように積極的に行動することだ
という論旨です。
そのために、各人は好奇心、持続性、柔軟性、楽観性、冒険心を持ち、
失敗を許容するおおらかさを持つことが重要だといいます。
これらを教授は「ハプンスタンス・アプローチ」
(偶発を肯定的に利用しチャンスに変える)と名づけていますが、
変化の激しい時代を生きる上で、この心の持ち様はとても有効だと思います。
*
ジェラート・パートナーズのH.B. Gelatt博士は、同じような観点から
意思決定の方法論として
「Positive Uncertainty」 (不確実性を肯定的に受け入れる)
という概念を提唱しています。
◆「セレンディピティ」~迎えに行く偶然
科学の世界では、偉大な発見が偶然の失敗や何気ない所作から生まれることが多い。
しかし、果たしてそれは、
偶然だったのか、それとも必然だったのか・・・?
「チャンスはその心構えをした者に訪れる」。
Chance favors the prepared mind.
これは、フランスの細菌学者ルイ・パスツールの言葉。
ノーベル賞を受賞する科学者たちが頻繁に引用することでもつとに有名です。
2002年同物理学賞受賞の小柴昌俊博士も
著書『物理屋になりたかったんだよ』の中でこう述べています。
「たしかにわたしたちは幸運だった。
でも、あまり幸運だ、幸運だ、とばかり言われると、それはちがうだろう、
と言いたくなる。幸運はみんなのところに同じように降り注いでいたではないか、
それを捕まえるか捕まえられないかは、
ちゃんと準備をしていたかいなかったかの差ではないか、と」。
そこで、西洋の言葉には「セレンディピティ」という便利な一語がある。
“serendipity”とは、オックスフォード『現代英英辞典』によれば、
「楽しいものや思いがけないものを偶然に見つけること。あるいはその才能」とある。
セレンディピティの研究でいくつかの著書がある澤泉重一氏は、
偶然の中から何かを察知する能力として、
セレンディピティを「偶察力」と名づけています。
氏はまた、人生には「やってくる偶然」だけではなく、
「迎えに行く偶然」があるといいます。
つまり後者は意図的に変化をつくり出して、そこで偶然に出会おうとする場合をいう。
その際、事前に仮説をいろいろと持っておけば、何かに気づく確率が高くなる。
基本的に有能な科学者たちは、こうした習慣を身につけ、
歴史上の成果を出してきたと氏は分析します。
パデュー大学のラルフ・ブレイ教授によれば、
セレンディピティに遭遇するチャンスを増やす心構えとして、
「心の準備ができている状態、
探究意欲が強く・異常なことを認識してそれを追求できる心、
独立心が強くかつ容易に落胆させられない心、
どちらかというとある目的を達成することに熱中できる心である」としている。
(澤泉重一著『セレンディピティの探究』より)
◆哲学は偶然性をどう考えるか
偶然性は哲学の世界においても大きなテーマであり続けてきました。
『偶然性と運命』(木田元著)は、
幾人もの哲学者たちがそれをどうとらえてきたかをわかりやすく解説してくれます。
マルティン・ハイデガーは、独自の時間論の中で偶然をとらえます。
人間は、現在を生きるとき、未来や過去をも同時に生きている。
つまり、外的で偶然的なものとしか思われない現在のこの出逢いが、
あたかも自分のこれまでの体験の内的展開の必然的到達点であるかのように
過去の体験が整理しなおされ、未来に向かって意味が与えられる。
ハイデガーはこれを<おのれを時間化する>と表現しました。
また、日本の九鬼周造は、運命を
「偶然な事柄であってそれが人間の存在にとって非常に大きい意味をもつ場合」
と定義づけ、運命とは偶然の内面化されたものであるとします。
また、ヴィルヘルム・フォン・ショルツは必然化された偶然を
「運命の先行形態としての偶然」と言い、
カール・ビューラーはそうした必然化されたときの感覚を
『ああ、そうか!(アハ)体験』(Aha-Erlebnis)と呼んでいます。
ゲオルク・ジンメルは、
「事象を同化していくほどの生の志向をもたないばあいには、
自然性に流されて生きることになり、 <運命より下に立つ>ことになるし、
内部から確固としてゆるぎない生の志向をもつ者は
<運命より上に立つ>ことになる」と言及している。
◆運命決定論と運命努力論との間(はざま)で
「人生においては何事も偶然である。
しかしまた人生においては何事も必然である」とは、
哲学者の三木清の言葉です(『人生論ノート』)。
なぜなら、「生きることは“形成”すること」であるがゆえに、
人間は、偶発や失望を必然や希望に変換し、形成しなおすことができるからだと、
三木は言いたいのだと思います。
例えば、人生、紆余曲折を経て、ある地点にたどり着いたとき、
来し方を振り返ってみると、
「ああ、あのときの失敗はこういう意味があったのか」、
「あのときの出来事は起こるべくして起こったのだな」
といった思いにふけるときがあります。
それがつまり、自分が偶発を必然に変えることができたということでしょう。
人間の運命に関しては、
何かの力で先天的に決められているとする運命決定論と
後天的な意志と努力でどうにでもなるとする運命努力論との
二元的な考え方がありますが、
実際のところ、その2つの間の無限のグラデーションなのだと思います。
まァ、すでに凡人・凡才として生まれ出てしまっている私にとっては、
先天的なこの凡運をいかんすることもできないので、
おおいに偶然を必然化することに注力し、
最大限自分をひらいていこうと思っています。
ひらく伸びシロは、見通せないほど広大にあると思います。
【推薦読書】
・『その幸運は偶然ではないんです!』J.D.クランボルツ/A.S.レヴィン著(花田光世/大木紀子訳/宮地夕紀子訳)ダイヤモンド社
・『セレンディピティの探究』澤泉重一・片井修著(角川学芸出版)
・『偶然性と運命』木田元著(岩波書店)
・『人生論ノート』三木清著(新潮社)