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2009年1月

2009年1月29日 (木)

「勝ち・負け」のキャリアから「自分なりをひらく」キャリアへ

【沖縄発】
杜甫の詩『春望』の有名な一節・・・

国破れて山河在り、城春にして草木深し

(争いによって国はなくなってしまったが、山や河は変わらずそこにある。
城内では春が訪れ草木が青く茂っている)

春の陽光にキラキラ輝く沖縄の海をみていると、
百年に一度といわれる金融危機などどこにいったものやら
自然は悠久の昔と変わらぬ穏やかな姿をとどめている。

この金融危機がほんとうに百年に一度の難局であるならば、
人びとは同時に、百年に一度の価値観の転換をはからなければならないと思います。

量的な多寡で、人の生き方までをも「勝ち負け」で判定するやり方は
見直さなければならない。
量的な「競争」はいつしか「狂走」へと変貌してしまいました。

次の時代は、個々の人間・個々の組織・個々の国が「自分なりをひらく」ことを、
互いが尊重し合い、刺激し合い、そしていい意味で競い合うといった
質的な「共創・競創」の価値観が醸成されることを願います。

「自分なりをひらく」といった場合の、“ひらく”とは、

・個々が自らの才能を嬉々として“啓く”
・個々が生きる目的意識を(共通善=common good)へと“開く”
・個々が己の進む道をたくましく“拓く”


といった意味です。

「自分なり」を突き詰めることは、ややもすると利己主義に陥る危険性があります。
ですから、私は「自分なり」を“ひらく”ことが大事な観点だと思っています。
“ひらく”という意識と行動は、賢者のものです。

以下は、
2つの価値観:「勝ち負け」VS「自分なりをひらく」の目線からみた対比です。
さて、これをご覧のみなさんは、現状どちらに近いでしょうか?

= = = = = = = = = =
□「勝ち・負け」キャリアの目線
●「自分なりをひらく」キャリアの目線
= = = = = = = = = =

□仕事=「効率・効果・規模」重視の成果を出すこと
●仕事=「自分なりの表現」をすること

□ともかく常に右肩上がり志向
●揺らぎながらでよい。ときに高みを目指し、ときに深掘りをする

□それは、組織から降って来る「ミッション」   
●それは、自分の中から湧き起こる「パッション」

□勝ち負け・競争   
●やりがい・ユニークさ・共創

□「ナンバー・ワン」目指してがむしゃらに 
●「オンリー・ワン」になりたいと悠然と

□瞬間の「熱い/冷たい」  
●持続する「程よい温かさ/ぬるさ」

□その仕事は成功か、失敗か    
●その仕事は納得か、妥協か

□私は戦士(四六時中、緊張)   
●私は釣り人(時に緊張:餌にかかったときは一心不乱)

□書類!会議!書類!会議!プレゼン!交渉!会議!・・・  
●ものを考え、ものを書き、人に語り、夢に想いを馳せ

□モーレツに、あれもこれも 
●熱心に、そこをていねいに

□年収:もっと高く、高くなければ(脅迫観念) 
●年収:それなりであれば有難や(感謝の念)

□スケールアップ/スケールダウン
●等身大

□ハードワークをこなす自分の姿がカッコイイ!   
●多少不器用な自分を許してやろう(^o^)

□休日はジム。そして栄養ドリンク
●休日は自然態

□心身を痛める過度のストレス
●程々のストレスは成長の母

□業務目標:量的目標を決めて、明日上司と面談
●人生目標:たぶんこっちの方向

□会社の色に染まる
●仕事に自分の色を着ける

□朝起きるのがツライ   
●あー、よく寝た。さ、朝メシ!

□上昇は善、下降は悪
●青でもよし、赤でもよし

□隣の芝生(他人の成功具合)が気になる  
●我が家の芝生(自分の成長具合)をかわいがる

□頑張らねばと思う自分   
●遠くを見つめる自分

□激流の中を泳ぎ切る体力   
●強風の中でも折れない竹のしなやかさ

□外からの評価が大事   
●自分への意味づけが大事

□プロセスは管理され、結果を評価され   
●プロセスを楽しもう。結果は天命

□燃焼、そして脱力
●マイペース、時に没頭

□年収アップの転職 
●自分の使命を見つける転職

□成功の連続こそ実力の証。失敗は恥  
●勝っておごらず、負けてクサらず

□激流下りのラフティング(ボートから落ちないように必死)   
●湖のカヌー(のんびり。でもオールをこぐ力はしっかり)

Oki_hana

“自由”であることの負荷

Img_0166_2【沖縄発】
先週末から沖縄・本島に短期滞在しています。

昨年3月末に「春の仕事キャンプ」を張って以来、10か月ぶりの沖縄です。
今回も休み半分、仕事半分・・・といいますか、
私の場合、
「仕事と遊び」、あるいは「働くことと休むこと」の境目はなく、両者が和合している『ライフワーク・ブレンド』の状態なので、
まぁ、気が向けば仕事をするし、
ときに気が向けば観光するし、
また、その出かけた足で、移住場所の土地探しもやるといった
“行き当たりばっ旅”な過ごし方をしています。

先週末から、沖縄は数日間、寒い日が続きました。
ですが、月曜日からようやく気温が上がり始め、
昨日、今日は20度Cを超えてきて、
薄着でもいいような陽気になっています。

そしてすでに始まった「桜祭り」。
写真は、本島北部にある今帰仁城址で撮った1枚です。

* * * * * * *

さて、日本人にとって、沖縄といえば、今では観光地としての顔が濃くなっていますが、
忘れてならないのは、沖縄が“祈りの地”であることでしょう。
沖縄平和記念公園、ひめゆりの塔に出向くたびに
戦争に駆り出され、命を散らしていった若い男女のことが想い出されます。
(合掌)

狂気の中で狂気を強要された時代、
当時の青年たちに「自由」などというものはなかった。

さて、それから、約60年以上が経ち、世は平成ニッポンの時代。
現在の私たちには、自由が溢れるほどあります。
これは過去の人びとが苦労して獲得してくれた賜物なのですが、
そんな歴史的認識や恩などは、ほとんどの人の頭から抜け、
「自由であること」が空っぽになり、重荷にすらなっているように思えます。

「やりたいことがわからない」、
「どう生きたいか特に希望はない」、
「とりあえずこの会社に入ったが、あとは何となく生きている」
・・・などなど、
目の前には自由という大海原があるにもかかわらず、
漕ぎ出すことができない(しない)で、浜辺でうろちょろしている場合が多いのです。

ピーター・ドラッカーは次のように言います。
「自由は楽しいものではない。それは選択の責任である。楽しいどころか重荷である」。
(『ドラッカー365の金言』より)

また、エーリッヒ・フロムもこう指摘しました。
「(近代人は)個人を束縛していた前個人的社会の絆からは自由になったが、
個人的自我の実現、すなわち個人の知的な、感情的な、感覚的な諸能力の表現という
積極的な意味における自由は、まだ獲得していない。
・・・かれは自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、
あるいは、人間の独自性と個性にもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの
二者択一に迫られる」。

(『自由からの逃走』より)

学びたいものは何でも学ぶことができる、
なりたいものには何でもなることができる
(もちろん、そうなる努力と運をつかんでのことですが)
――――こういう自由な環境下にありながら、
なぜ、私たちはそれを敬遠してしまうのでしょうか。

その大きな理由の一つは、自由には危険やら責任やら判断やらが伴うので、
そのために大きなエネルギーを湧かせる必要があるからでしょう。
人は、自由そのものを敬遠しているのではなく、
それに付随する危険や責任、判断、エネルギーを湧かすことに対して、
面倒がり、怖がっていると考えられます。

選ばなくてすむといった状況のほうが、基本的にラクなのです。
確かに、日常生活や仕事生活で、大小のあらゆることに対して、
事細かに判断をしなくてはならないとしたら、面倒でたまりません。
多くのことが、自動的に制限的に決められて流れていくことも場合により望ましくあります。

しかし、人生に決定的な影響を与える職業選択において、
その自由を敬遠するのは、一つの怠慢や臆病にほかならないでしょう。

今の日本は、平和と経済的繁栄の代償として、
個々の人間の生きる力の脆弱さを招いてきました。
この脆弱化の進行は決して見過ごすことのできない問題です。

また、この脆弱化の別の現れ方として、
昨今のマネーゲーム的資本主義の暴走もあります。
「市場は自由の下でこそ最善に機能する」という黄金律を誰もが安易に信じ込んだ結果、
市場は実物経済を離れ、マネーがマネーを膨らませるという野放図に陥った。

こうした自由の履き違えが起こるのも
根源的には、欲望を自制できない個々の人間の脆弱さにあります。

「~からの自由」に甘えることは簡単ですが、
「~への自由」を獲得することは何とむずかしいことか。

フロムの指摘が、いまなお鮮明に私たちに投げかけられています。

私は人財教育という分野をライフワークにしようと決めましたが、
私が目指す教育は、一般によく言われる
「キャリアデザイン研修」とか「就労意識教育」などという
薄っぺらいものでありたくはない。

働く観や生きる力を、どのようにしてたくましくできるかという
人間づくり(ひいてはそれが国づくり・世界づくりにつながる)の視点にもぐって
やりたいと考えています。

---こういう心持ちに自分をリセットできることが、
沖縄の地で得ることの最大のものかもしれません。

Img_0269

*沖縄平和記念公園の高台から春の海を望む

2009年1月 7日 (水)

「成長すること」の3つの観点

09年も明けて、1週間。
日々の仕事がまた忙しく動き始めましたが、
みなさんは「年初の決意」(New Year's resolution)を書き出す人でしょうか?
私はビジネスダイアリーとは別でアイデア手帳をこしらえているのですが、
そこに毎年、公私の想い・誓いを書き込んでいます。

定量的な目標はほとんど書きません。
心の奥から湧き出すマグマのようなものを文字に落として書いています。
「こうありたい」「こうするゾ!」のような理想イメージも含めて。
そして、一年ごとのテーマを一語で表す。

今年のテーマは「抜け出る」年(The Year of Getting Out)としました。
ちなみに、昨年が「かたちづくる」年(The Year of Forming)、
一昨年が「深化する」年(The Year of Deepening)でした。

まぁ、その1年はテーマどおりにいかないことのほうが多いのですが、
それでも、自分の“内なる声”を書き出し、
テーマ付けすることは、なんとなく気が引き締まっていいものだと思います。

さて、きょうは、「成長」ということにつき書きます。
私は、人が「成長すること」を3つの観点から考えています。

●第1の観点=【水平的成長】
これは主に仕事の量や種類をこなすことによって、
その結果、その仕事に順応する、視野が広がる、経験の幅を持つといった成長です。

誰しも、その仕事に不慣れで未熟なころは、
ともかく繰り返しその仕事に挑戦したり、場数を踏んだりして自信をつけます。

また、大企業では、ジョブローテーションで、定期的に従業員を配置換えしますが、
これも多様で幅のある業務経験を積ませることが目的です。

その他、自己啓発のためにいろいろな分野の読書をしたり、
セミナーや異業種交流会に参加をして、
自分の知識領域の面積を拡大させるのも水平的な成長です。
加えて、留学や旅行も格好の水平的成長の機会になるでしょう。

概して、水平的成長は、
流動的に多様な物事を見聞することで得るものといえます。

●第2の観点=【垂直的成長】
これまでの仕事より難度の高い仕事に挑戦し、それをクリアしたとき、
あるいは、仕事上の苦境・修羅場をくぐって、
無事、事態をとりまとめることができたとき、人は、垂直的成長を遂げることになります。
いわゆる「一皮向けた」変化、「大人になった」変化がこれにあたります。

また、こういう経験によって、これまでとは一段高い目線で考えられるようになった、
より高い志向・目標を描くようになった、より深くものを見つめるようになった、
などは垂直的成長の証です。

概して、垂直的成長は、固定的にある箇所で奮闘し、
深掘りする中で得られることが多いように見受けられます。

なお、水平的成長と垂直的成長は、完全に二分しているものではなく、
人が成長するとき、たいていはこの両方の微妙な混合によって得られるものです。

●第3の観点=【連続的な成長・非連続的な成長】
成長を考える第3のキーワードは
「連続・非連続」(もしくは、「地続き的・飛び地的」)です。

この「連続・非連続」という言葉は、
もともとイノベーション(技術などによる革新)のプロセスを研究する現場から生まれてきたものです。
著名なイノベーション研究者であるヨーゼフ・シュンペーターは、
非連続的なイノベーションを次のように例えています―――

「いくら郵便馬車を列ねても、
それによって決して鉄道を得ることはできなかった」
と。

私たちの成長にも、「連続・非連続」といった2つの種類がありそうです。
ひとつの職種、会社、業界で、日々、知識・技能を習得し、経験を重ね、
そのキャリアパスを一歩一歩進んでいくという連続的な成長(地続き的な成長)がひとつ。

そして、ある日、突然、何かの出会いやチャンスとめぐり合い、
これまでとは分野の全く異なる世界で仕事を始め、
非連続的に大飛躍していく成長(飛び地的な成長)がもうひとつです。

非連続的成長には、こうしたキャリアパスに関わることだけではありません。
働く意識の非連続的成長もあります。
例えば、次のピーター・ドラッカーの言葉が象徴的にそれを表しています。

「指揮者に勧められて、客席から演奏を聴いたクラリネット奏者がいる。
そのとき彼は、初めて音楽を聴いた。
その後は上手に吹くことを超えて、音楽を創造するようになった。
これが成長である。
仕事のやり方を変えたのではない。意味を加えたのだった」。

                                                              ――――『仕事の哲学』(ダイヤモンド刊)より

人は仕事に大きな意味を見出したとき、それに向き合う意識ががらっと変わります。
それこそまさに、心が非連続的な跳躍をしたときです。

◆成長は目的ではない
多くの上司や社長、先生方、親たち、大人たちは、
部下や従業員、生徒、子供たちに向かって「成長しろ、成長しろ」と言う。
そして、私たち一人一人も「成長しなくては」と(強迫観念的に)思っている。

しかし、私たちは、必ずしも「成長するゾっ!」と思って成長するわけではない。
一生懸命、何か課題に取り組み、解決できたときに、
“結果的に”成長しているというのが実態です。


だから、人は
「成長しなければ」とか、「なぜ成長しなければならないか」を考えてもはじまらない。
どんな仕事に没頭すれば、成長せずにいられないか、という順序で成長をとらえるべきでしょう。
成長は目的ではないからです。
何かを全うしたときに結果的にそうなってしまうものです。

ですから、私たち一人一人にあっては、
十分に自分の“内なる声”“心の叫び”を聴き取るべきです。
「この世に生まれて何がしたかったのか」という抗しがたい想いを汲み取ることです。
そして、それを明確に腹に落とすために、自分の言葉で書き出すこと。

平成ニッポンの世で、いろいろな格差が問題となってきていますが、
私はその根本は、個々の人間の
「内なる声」格差、「心の叫び」格差から生じていると思っています。
(この問題は深くて大きいので、また別機会に書きたいと思います)

そして、また、会社組織にあっては、
長の職にあるものは、部下に対し、
仕事の定量的な目標を与え、
あるいは仕事のやり方のみを教えるのではなく、

仕事に対する“内なる声”、あるいは仕事の意味を
部下本人が見出すよう「よい問い」を投げかけ、「よい課題」与えることが求められると思います。

2009年1月 4日 (日)

「ぎっこんばったん化」する社会

最近、いつごろからか、
さまざまな社会の動きが「大振れ」することに気づくのは私だけでしょうか?


例えば、平均株価の動き。
数年前までなら、特別な出来事が起こらないかぎり、
1日の日経平均株価が100円とか200円動くのは珍しいことで、
きょうはやけに荒れたなと誰しも感じたものです。

ところが、昨今の市場は、1日の変動が上がるにせよ下がるにせよ
300円やら500円動くのは珍しくない。
もちろん、昨年後半来の金融危機の影響はあるにしても、
それ以前から、株価がぎっこんばったんと大振れするのが恒常化する気配がありました。

これはつまり、
(個人であれ機関であれ)投資家たちが、より短期の売買に傾いているのが
ひとつ大きな理由としてあると思います。

特に個人投資家の場合、
投資先の決定は、いわゆる「美人コンテスト」化し、
他人が買う(=上がる)から買う、他人が売る(=下がる)から売るといった現象を
加速するため、株価の一方的な流れを形成してしまう。

飛び交う材料をめぐって(それが真実情報であれ、ガセ情報・風評であれ)、
ひとつの銘柄が
今日はストップ高、1日明けてストップ安なんていう現象は日常の光景となりました。

いずれにしても、
その企業のファンダメンタルズをみて、中長期に安定的に株を保有する投資家が
数の上でも、額の上でも、
相対的に低くなってきている現状から
株価はぎっこんばったん動くことになる。

◆政治もワンフレーズ・ワンイシューにぎっこんばったん
さて、同様に、ぎっこんばったんと動くのは国民の政党支持も同じです。
ついこないだまでは、小泉劇場を熱く支持し、
衆議院選挙を自民党の圧勝に導いた国民の心はいまやすっかり移ろい、
今度の衆議院選挙では、民主党の圧勝が確実視される状況。

支持政党なしが最大多数の日本において、
浮動票のゆくえが政治の流れを決めるのは是としても、
問題は、その浮動票を握る人びとがどんな意識で票を投じるかです。

前回の衆議院選挙の教訓は、
小泉さんの魅惑的な「ワンフレーズ・ポリティクス」、
「ワンイシュー選挙戦略」
(郵政民営化:○か×か!?)に
国民が短絡思考に陥ってしまったということです。

もし、次の衆議院選挙を
「とりあえず民主党に政権もたせてみるか選挙」
「いまの与党は無能だ。懲らしめ選挙」という
やはり短絡化した意識での投票なら、中長期にいい結果にはならないと思います。

*ちなみに、
一流の国民の下には、一流の政治家が輩出し
二流の国民の下には、三流の政治家が巣食う

という言い回しを以前どこかで聞きました。至言!

ともあれ、政治を取り巻く状況も
ぎっこんばったんと大振れする世の中になりつつある。

◆メディアもぎっこんばったん
もうひとつ大振れするものを加えておくなら、それは「メディア」です。

本来、メディアは(それがマスであればあるほど)その世の中への影響力から
力強い良識というバランス感覚が求められるものですが、
どうも、ここもぎっこんばったんしている。

私は、20代から30代にかけて7年間、
あるマスメディアで経済記者として働きました。

入社時はおりしもバブル経済まっさかりの1989年。
いろいろと景気のいい話をバンバン書きました。
何が売れてる、これが売れてる、ヒットの秘訣はどうだこうだと記事を量産しました。

ところが、バブルがはじけて、一転、
今度は誰が悪い、彼が悪い、失敗の研究などを記事化しました。

・・・そうこうしているうちに、気づいたのです。
「あぁ、俺のやっていることは、所詮、世の中の表層を文字にしているにすぎない」。
「ましてや、それを強調して書かないことには記事として読まれない。
だから大げさに書かねばならない。俺の職業は、中身のない拡声器だ
と。
そして、会社側もそれをいっこうに省みようとしない。

私は自分がやっていることの無意味さ加減に辟易して、そこをすっぱり退職しました。
(その後、教育系の出版社に転職して道を変えました)

2005年のライブドア事件の前後においても、
当初、ホリエモン(堀江氏)をさんざん持ち上げておいて、
次にはさんざんこき下ろすということが起こったとき、
「あぁ、メディア業界は変わってないのだなぁ」と改めて思いました。

そして、現況の金融危機問題、そして派遣切り問題などをみても、
メディアの伝え方は明らかにバランスを欠き、
正義感っぽいセンチメンタリズムに浸って報道するだけで、
本質を浮き彫りにできないでいる。
おそらく、次の展開になったときに、メディアはそっち方面を偏った形でどーっと報じ、
さらには全く別の大事件が起きたら、
もうこっちの問題は置き去りにして、以降は何も触れなくなる。
たぶん、そんな動きになるのでしょう。

◆雪崩的に感情世論を形成するネットメディア
さらに、メディアの中で危うい力を持ってきたのが、
「ネット書き込み」という名のメディアです。

これはひとつのメディア機関・企業というより、個々の声の集合体としてのメディア。
「2ちゃんねる」などをはじめとする書き込みサイトは
いまや世論形成のメディアとして無視できないほどの力を持ちはじめています。

中国政府は、国民(特に若者や政府への不満分子)を扇動するメディアとして
ネットの書き込みサイトを厳しく監視・統制しています。
中国の現況をみるに、それらを放置しておけば、雪崩的に国民感情が形成され、
どこかで暴動が起きるくらいのことは容易に想像できます。

「ネット書き込み」というメディアは、
音もなく、一方的に、あっちへこっちへ、
人びとの感情(←やがて一部の世論にもなりうる)を振り回します。

とはいえ、
「私はネット書き込みを行き交う情報なんて信憑性が低くて信じない」という人が、
この記事を読んでいただいている中には多いと思います。
しかし、世の中には、
情報リテラシーが未熟なまま20代、30代を迎える人がどんどん増えていて、
「えっ、こんな情報にそそのかされちゃうの?」といったことが
ますます増えているのです。

◆ぎっこんばったんの要因
これら、世の中がぎっこんばったんと大振れする状態は、
もちろんよい状態ではありません。
(人によっては、「2・26事件」前の様相に似てきたとの指摘もあります)

私は、その大きな要因として、一個一個の人間が脆弱化していることを挙げます。
そして、それを危惧し、なんとかしたいと思いもします。

私は強い社会と弱い社会を2つのモデルで考えます。
強い社会は、一個一個の人間が「粘土粒」化している状態です。
弱い社会は、一個一個の人間が「砂粒」化した状態です。


粘土と水を容器に入れ、シーソーの中央に置き、ぎっこんばったんとやる。
(ここで「水」とは、世の中を行き交う情報のメタファーとお考えください)
粘土の固まりは保持力があり、そうは簡単に動かない。
水だけがあっちに行きこっちに行きしている。

次に砂と水を容器に入れ、同じようにシーソーでぎっこんばったんとやる。
砂は水と混じり合い、あっちにとっぷん、こっちにとっぷん、簡単に動く。

社会を構成する一個一個の人間が、「粘土粒」なのか、「砂粒」なのか、
これは重大な分かれ目になります。

◆しなやかな粘りを持ってきた日本人の民族特性
私が、「粘土粒」に込める要素はいろいろあります。
ひとつには、粘土の粘りとは「中庸をつくりだす力」です。
これは古来、日本人が得意としてきた力で、
さまざまなものを吸収し、最終的にそれらを融合させて包摂しようという力です。
日本人には、そうした思考・受容の粘りが民族DNAにはあるのです。

心理学者・河合隼雄先生の名著に『中空構造日本の深層』があります。
日本人の心理の器は、
「中空」=「中が空(くう)になっている
との目の覚める分析です。

これは、「中が空(カラ)っぽになっている」と読んではいけません。
空を「カラ」ではなく「くう」と読むことが決定的に重要なのですが、
つまり、
日本人の心理構造は、その中心に
母性があるのでもなく、父性があるのでもなく、
同時に、母性がありながら、父性もある特質をもってきた。

また、その中心に
神道があるのでもなく、仏教があるのでもなく、儒教があるのでもない。
神道がありながら、仏教もあり、儒教もある。

これは、東洋哲学でいう「空(くう)」の概念を理解していないと
なかなかすっきりと説明できないことですが、
余裕のある方は、空の概念を押さえた上で、河合先生の同著を読んでみてください。

ともあれ、日本人の心理や思考の器は、民族的に、「空」という状態でさまざまなものを
融合して受け入れる、すなわち創造的な中庸をつくりだす
しなやかな粘りの強さがあったといえます。


ところが、ここへきて、どうも日本人の心理・思考の器が
ほんとうに「中が空(カラ)っぽ」になってきたような気がします。

中が「空(くう)」なのか、「空(カラ)」なのかは天地雲泥の差です。

心理・思考の器が単に空っぽであることは、
外界でいろいろ起こる現象に、ただ「反応的・感情的」に振舞うだけで
行動が極端から極端に移ろう危険性が出てきます。

いままさに、一個一個の日本人が、
「くう」のしなやかな粘り強さを保持し続けるのか、
「カラ」になってぎっこんばったん翻弄されるのかということを
問われる時代になってきているのだと思います。

科学技術が人間の欲望を容易に増大する環境にありますから、
個々人間の心理・思考構造が「カラ」になると、
社会はいとも簡単にカタストロフ的な極端に振れることにもなりかねません。

そういったことから、最近の状況を「2・26事件」前になぞらえる人もいるのでしょう。
確かに、
ドイツの社会心理学者エーリヒ・フロムが『自由からの逃走』で分析してみせたのも、
個々のドイツ国民が思考を停止させ、自由であることから逃げ、
やがてはナチ・ファシズム容認という極端に流された歴史的事実でした。

「虎は虎であることをやめること、
すなわち非虎化されることができないのに対し、
人間はたえず非人間化される危険性のなかに生きているのである」 
(『人と人びと』より)
―――とは、スペインの哲学者オルテガの言葉です。

◆意志的な楽観主義
2009年が歴史的に大きな意味をもつ1年になることは確かです。
もちろん、国内・国際問わず、政治や経済の指導者たちの英断と行動を求めるものですが、
最も根本で大事なのは、
一個一個の人間が、しなやかに強くなることだと思います。

そのためには、野暮な言い方ですが、
一個一個の人間に「まっとうな観」を涵養していく以外にないと思います。

思索を促す、
信条を姿として見せる、
倫理を示す、
徳を育む、
生き様の対話をする、
古典書物へと導く、
美へと誘う、
夢や志を語る・・・などのことを
親がやらなくなった、学校もやらなくなった、
ましてや会社や社会はやらない。宗教界もほとんど期待できない。
(もちろん、立派な親や先生、学校、上司、経営者、政治家、宗教家が少なからず
いることを知っていますが)


私が脱サラして独立した動機は、
一人一人の働き手に「働き観」を醸成するお手伝いをしようということです。
働き観を通して、人生観やら社会観を堅固にもてるようになるための
啓育プログラムを実施していく
―――それを今年もひとつひとつやっていこうと思います。

その関連で、今年は春に2冊著書を刊行する予定です。
大手メディアは、世の中の不安をいたずらにあおるだけの情報発信ですが、
私は、個々の読者にしなやかな強さを持てというメッセージで貫きます。

「楽観は意志に属し、悲観は感情に属する」

とは、哲学者アランの有名な言葉(『幸福論』)ですが、
まさに、いまの日本人(というか全世界の人びと)に必要なのが、
意志的な楽観主義、「粘土性の強さ」、「空(くう)の心理構造」だと思うのです。

世の中のぎっこんばったんは、悪い予兆です。
カタストロフを招かぬために、個々の人間が強くなければなりません。

2009年1月 1日 (木)

「ありがとう」と「覚悟」を心に!

011c2009年が明けました。

百年に一度と言われる経済危機が昨年後半に世界を覆い尽くし、
2009年は、世界がそれを乗り越えるための新しいルールと秩序を
生み出すことができるのか、それが問われる大きな一年になりそうです。

巷では、昨年の景気が急降下しただけに、
元旦からの初詣客も各地でごった返していると聞きます。

しかし、私はこのイベントとしての初詣に「なんだかなー」と思っている一人です。
一つには、寺社の商業主義めいたもの。
そしてもう一つには、参拝客の「祈りの姿勢」にあります。

もちろん商業主義に走らないまっとうな寺社もありますし、
ほんとうに真摯な信仰心で詣でる人はいます。
私自身も仏教に帰依する一人ですが、
それでもこの一億総初詣イベントには「う~ん」とうなってしまいます。

きょうは、特に「祈り」について書こうと思います。

◆請求書的祈り・領収書的祈り
仏教思想家のひろさちやさんは、祈りには種類があることをこう表現します。

「宗教心というと、今の日本人はすぐに御利益信仰を思い浮かべますが、
神様にあれこれ願い事をするのは宗教ではありません。
ああしてください、こうしてくださいとまるで請求書をつきつけるような祈りを、
私は『請求書的祈り』と名付けていますが、

本物の宗教心というのは、
“私はこれだけのものをいただきました。どうもありがとうございました”という
『領収書的祈り』なんです」。

               ――――『サライ・インタビュー集 上手な老い方』より

私が一億総初詣に「なんだかなー」と思ってしまうのは、
その多くが『請求書的祈り』になっていやしないかと思うからです。
しかも、そこには「500円玉でも投げ入れて、これをきいてもらおう」なんていう
「賽銭」が飛び交っている。

もし、これで、本当に願いがかなってしまうのなら、
私はその神仏は、逆に、あやういものだと思います。

◆職人の心底に湧く「痛み」
さて、このブログのメインテーマは「働くこと・仕事」ですので、
ここからはその要素も合わせながら「祈り」を考えたいと思います。
「祈り」について、私が著書でよく引用するのが次のお二人の言葉です。

西岡常一さんは1300年ぶりといわれる法隆寺の昭和の大修理を取り仕切った
知る人ぞ知る宮大工の棟梁です。彼は言います―――

「五重塔の軒を見られたらわかりますけど、
きちんと天に向かって一直線になっていますのや。
千三百年たってもその姿に乱れがないんです。
おんぼろになって建っているというんやないんですからな。

しかもこれらの千年を過ぎた木がまだ生きているんです。
塔の瓦をはずして下の土を除きますと、しだいに屋根の反りが戻ってきますし、
鉋をかければ今でも品のいい檜の香りがしますのや。
これが檜の命の長さです。

こうした木ですから、この寿命をまっとうするだけ生かすのが大工の役目ですわ。
千年の木やったら、少なくとも千年生きるようにせな、木に申し訳がたちませんわ。
・・・生きてきただけの耐用年数に木を生かして使うというのは、
自然に対する人間の当然の義務でっせ」。
 
                         ―――『木のいのち木のこころ 天』より

もう一人は染織作家で人間国宝の志村ふくみさんです。
淡いピンクの桜色を布地に染めたいときに、桜の木の皮をはいで樹液を採るのですが、
春の時期のいよいよ花を咲かせようとするタイミングの桜の木でないと、
あのピンク色は出ないのだといいます。秋のころの桜の木ではダメなのです。

「その植物のもっている生命の、まあいいましたら出自、生まれてくるところですね。
桜の花ですとやはり花の咲く前に、花びらにいく色を木が蓄えてもっていた、
その時期に切って染めれば色が出る。

・・・結局、花へいくいのちを私がいただいている、
であったら裂(きれ)の中に花と同じようなものが咲かなければ、
いただいたということのあかしが、、、。

自然の恵みをだれがいただくかといえば、ほんとうは花が咲くのが自然なのに、
私がいただくんだから、やはり私の中で裂の中で桜が咲いてほしい
っていうような気持ちが、しぜんに湧いてきたんですね」。
 
                         ―――梅原猛対談集『芸術の世界 上』より

◆いかなる仕事も自分一人ではできない
仕事という価値創造活動の入り口と出口には、インプットとアウトプットがあります。
ものづくりの場合であれば、必ず、入り口には原材料となるモノがくる。
そして、その原材料が植物や動物など生きものであれば、
その命をもらわなければなりません。

古い言葉で「殺生」です。

そのときに、アウトプットとして生み出すモノはどういうものでなくてはならないか、
そこにある種の痛みや祈り、感謝の念を抱いて仕事に取り組む人の姿を
この二人を通して感じることができます。

毎日の自分の仕事のインプットは、決して自分一人で得られるものではなく、
他からのいろいろな生命、秩序、努力によって供給されています。


例えば、いま私はこうして原稿を書いていますが、
まずは過去の賢人たちが著した書物が私に知恵を与えてくれています。
また、この原稿をネットにアップしようとすれば、
ネット回線の維持・保守が必要であり、
ブログサイトをきちんと運営してくれる人の労力がいります。

さらに、こうして考えるためには、私の頭と身体に栄養が必要で、
昼に食べた雑煮(そこには出汁にとったカツオや鶏肉、そして餅の原料となるコメ)が
その供給をしてくれています。
それら、カツオやら鶏やらコメの命と引き換えに、
この原稿の一文字一文字が生まれています。
だからこそ、古人たちは、食事の前後に
「いただきます」「ごちそうさまでした」と手を合わせた。


そんなこんなを思い含んでいけば、
自分が生きること、そして、自分が働くことで何かを生み出す場合、
他への恩返し、ありがとうの気持ちが自然と湧いてくる―――
これこそが祈りの原点だと思います。

◆「よい仕事」とは?
物事をうまくつくる、はやくつくる、儲かるようにつくることが、
何かとビジネス社会では尊ばれますが、
これらは「よい仕事」というよりも「長けた仕事」というべきでしょう。

「よい仕事」とは、真摯でまっとうな倫理観、礼節、
ヒューマニズムに根ざした「祈り」の入った仕事をいうのだと思います。

私たちは、いつの間にか、生きることにも働くことにも、
効率やスピード(即席)、利益ばかりに目がくらんで、
大事な祈りを忘れている。
(ましてや、祈りにも効率や即席を求めるようになった)

普段の仕事現場で、自然の感覚から仕事の中に「祈り=ありがとう」を込められる人は、
おそらく「よい仕事」をしている人で、幸福な仕事時間を持っている人です。

これらをないがしろにして、
「さ、正月だ、初詣だ、お祈りだ、仕事が繁盛しますように(賽銭・柏手:パンパン)」
というのは、どうもなぁ、と私には思えてしまうのです。

◆祈りの三段階
宗教学者の岸本英夫氏は著書『宗教学』の中で、信仰への姿勢を三段階に分けています。
それは、「請願態」、「希求態」、「諦住態」です。

1番めの請願態とは、先の請求書的祈りと同じく、
神や仏、天、運といったものに何かをおねだりする信仰の姿勢です。

2番めの希求態は、信仰の根本となる聖典に示されているような生活を実践して、
真理を得ようとする求道の姿勢です。

そして3番めの諦住態とは、信仰上の究極的価値を見出し、
その次元にどっしりと心を置きながら、普段の生活を営んでいく姿勢をいいます。

私たちは、自分たちの祈りがついつい請求書的になっていることに気がつきます。
「もっと給料を上げてほしい(これだけ頑張ってんだから)」、
「もっと自分を評価してほしい(この会社の評価システムはおかしいんじゃないか)」、
「上司が変わればいいのに(まったくもう、やりにくくてしょうがない)」、
「宝くじが当たりますように(会社を辞めてもいいように)」などなど。

こうした祈りは、自分の中にエネルギーを湧かせることはなく、
むしろエネルギーを消耗させるものです。
祈りの質を、本来のものに戻していかなければなりません。

信仰も仕事も一つの道と考えれば、
大事な姿勢というのは2番目の希求態と3番目の諦住態です。

その2つのエッセンスを一言で表現すれば、「覚悟」です。
信仰にせよ仕事にせよ、祈りは「他からこうしてほしい」とせがむことではなく、
「自分は何があってもこうするんだ」という覚悟であるべきです。


080もし、祈りがそうした(ある目的下の)覚悟にまで昇華したとき、
おそらくその人は、嬉々として、たくましく、
いかなる困難が伴ったとしても
強く働いているはずです。

2009年は、多くの人にとって、
決してラクではない一年になるでしょう。
ですが、そういうときこそ、
「ありがとう」と「覚悟」を抱くことが大事なのだと思います。




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