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2009年12月

2009年12月28日 (月)

ゲーテ『ゲーテ格言集』

私はちょっとした贈り物として本を差し上げることがよくあります。
これまで、いろいろな本を贈ってきましたが、
その中でもっとも数多く使ってきたのがこれです。

『ゲーテ格言集』 (高橋健二訳、新潮文庫)ゲーテ表紙

いま私の手元にあるものは、平成19年発行の第112刷(定価:400円)です。たぶん今はさらに増刷され、定価も変わっていると思いますが、それにしても初版が昭和27年ですから、威風堂々のロングセラーです。

わずか400円、薄い文庫本でありながら、
私はこれを“宝石”を贈っていると思っています。
ここに収められたゲーテの言葉の数々は、まさに不壊の宝石であって、その言葉を心に取り込んだ人の心を飾ります。
また、ゲーテの言葉の宝石は心を飾るだけでなく、力を湧き出してもくれます。

人生には、調子のいいとき、わるいとき、楽しいとき、苦しいときがありますが、
そのいずれの状況においても、この本を開いて、さーっと目を通すと、
そのときの自分の琴線に触れてくる言葉が必ず見つかります。
そして、そこから力を得て、その状況を乗り越えてゆく。

20代ではピンとこなかった言葉が、30代のある日突然に、すーっと見えてくる。
30代では素通りさせていた言葉が、40代になって初めて、ずっしり重く響いてくる。
古典たりえる偉大な本というのは
生涯を通じて、汲めども汲めども尽きない奥深さをもったものですが、
ゲーテの書き残したものはまさにそのひとつにちがいありません。

ゲーテの『ファウスト』をいきなり読んでみろと言われても、
多くの人にとってそれは難解すぎる。
だから、こうした名言集を最初に読んでみるというのは入門書として好適です。
実際、私もこの『ゲーテ格言集』を読んで、そこから出典元である『ファウスト』やら『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、『ゲーテとの対話』(エッカーマン)などの読書にさかのぼっていきました。

さて、ここからゲーテの言玉をいくつか拾ってみましょう。

「考える人間の最も美しい幸福は、
 究め得るものを究めてしまい、究め得ないものを静かに崇めることである」。

「内面のものを熱望する者は、すでに偉大で富んでいる」。

「才能は静けさの中で作られ、性格は世の激流の中で作られる」。

「自分に命令しないものは、いつになっても、しもべにとどまる」。

「人は努めている間は迷うものだ」。

「人間は現在を貴び生かすことを知らないから、
 よりより未来にあこがれたり、過去に媚びを送ったりする」。

「君の胸から出たものでなければ、人の胸をひきつけることは決してできない」。

「世の中では、人間を知るということでなく、
 現在目の前にいる人より利口であるということのほうが関心事である」。

「批評に対して自分を防御することはできない。
 これを物ともせずに行動すべきである。
 そうすれば、次第に批評も気にならなくなる」。

「真に行為する人間を作るものは、才能や、あれこれのことに対する技能ではない。
 性格は人格にもとづくものであって、才能にもとづくものではない」。

「悪趣味な者に技術が結びつくと、これより恐ろしい芸術の敵はない」。

「見識の代わりに知識を持ち出す人々がある」。

「『なぜ、私は移ろい易いのですか。おお、ジュピターよ』と、美が尋ねた。
 『移ろい易いものだけを美しくしたのだ』と、神は答えた」。

・・・どうですか、これらの言葉がどれだけ今の自分に響いてくるでしょうか?
強く響いてくるなら、それだけ今、自分が強く生きようとしているんでしょう。
深く沁み込んでくるなら、それだけ今、深く物事を考えようとしているんでしょう。
大きな人の大きな言葉は、
自分の強さ、深さに応じて光と力を与えてくれるものです。

ゲーテ紙面1 



ゲーテ関連では、加えて、次の本もお勧めします。
『ブッデンブローク家の人々』『魔の山』『ヴェニスに死す』などの名作を残した
ノーベル文学賞作家トーマス・マンが語るゲーテの本です。
偉人が巨人を語ったほんとうに内容の濃く重い一冊です。

『ゲーテを語る』
トーマス・マン著(山崎章甫訳)岩波文庫

Goethe wo kataru















* * * * * *
Yosegaki
【追記】
過日、立命館大学でキャリアデザインに関する講演をやりました。 
そして、その運営にあたっていただいた同大学経済学部「キャリアデザインプロジェクト」のスタッフ一同から、寄せ書きが届きました。
当日の講演の受講者の感想を切り貼りしてくれたもので、内容は私にとってとても勇気づけられるものでした。


スタッフ16名のみなさんに感謝の意を込めて、
後日、私は『ゲーテ格言集』を16冊贈りました。

スタッフのみなさん、どうもありがとう!

Ritsuphoto

2009年12月27日 (日)

志力格差の時代〈中〉~格差の根っこはどこにある?


Asashimo 

「いやー、毎年の新入社員たちは何事も受け身になるばかりで」
「最近の学生がますますこぢんまりと保守的になって」
「ゆとり世代は何かと覇気がなくて」・・・

こうした「イマドキの若者」論(小言?)は、
いつの時代にも先行世代のおじさん・おばさん・上司・経営者・学者などから出てくる。

しかし、私はあまり一般論で先入観を持たないようにしている。
やはり、それは個別の人間の問題なのだ。
どの時代・どの世代にも受動的・保守的・覇気のない人間はいるし、
逆に、能動的・革新的・覇気に満ちた人間もいる。
とはいえ、この両者の格差は看過できない質のものになってきている。

起業家養成の活動を行う「ETIC」(代表理事;宮城治男)というNPOがある。
そこに集う学生や若年社会人たちを見ていると、一般論として揶揄される若者とは全く違う。

「社会的起業」という想いを軸に、
さまざまな背景をもつ若者たちがとても熱く寄り集まってきているのだ。
ここでは、大学生の中にも早くから志を見つける者がいる。
彼らの熱気をみていると、
個々にはどんな就職・キャリア展開をしていくのか予想がつかないが、
その想いの強さを抱いているかぎり「どう転んでも大丈夫だな、この子たちは」と思える。
それほどに、青いけれど、元気である。

と、その一方で、意欲的に腑抜けしたような若者が多いのも事実である。
私は、大学での講義や企業での研修で、
個々人が潜在的に持つ成長意欲や仕事意欲、キャリア形成意欲を
思考の補助線を与えながらステップ・バイ・ステップで引き出し、
どのような方向性(ベクトル)や理想像(イメージ)で描けるか
というワークをやっているが、まったくペンが動かないという人がけっこう出る。
(彼らは受講態度が不真面目なわけでなく、ほんとうに想い描けないのだという)

また、講義の後や研修の後に、
時間が許せば個別に相談を受けたりすることもあるのだが、
本当にもう自分のやりたいことの欠片も想い描けない人が来て、深刻な顔で
「どうすれば自分の意欲が想い描けるのでしょうか?」と質問をされるときがある。

平成ニッポンが、平和の代償として、意欲的に去勢された人間を続々生みだしている。
―――そんな現実を私はひしひしと感じる。

とはいえ、それによらず、熱を帯びた人間だっている。
そこには、意欲を湧かす者と湧かさざる者との格差がある。

* * * * *

ココ・シャネル(シャネル創業者)の名言;

「20歳の顔は、自然の贈り物。
50歳の顔は、あなたの功績」。


私は研修・講演などでこの言葉をよく紹介しているが、
これとともに、次のことを言い加えている。

28歳までのキャリアは“勢い”。
29歳からのキャリアは“意志”。
そして、50歳でのキャリアは、あなたの“人生の作品”。 

人生の作品とは、仕事の実績や経験などはもちろん、
あなた自身の人格や福徳、人脈、忘れ得ぬ今生の思い出などを含めて考えたい。

私も40代後半を迎え、自分自身や周辺を見るにつけ、また、
ビジネス雑誌記者として七年間、さまざまな経営人やビジネスパーソンを取材してきて、
ほんとうにキャリア・人生というものは、10年・20年という単位をかけて、
その人の“意志”(イシの字は、“意思”ではなく“意志”という志を当てるほう)が
如実に表われてくる
のだなぁと確信できる昨今である。

それは例えば同窓会などで容易に観察できる。
小学校にせよ、中学高校にせよ、大学にせよ、
卒業するときは、おおよそドングリの背比べだった同級生たちが、
今や、キャリアの悲喜こもごも、人生スケールの大小こもごもの差がついている。

注)
私が観察するのは、経済的な成功(暮らしが豊かそうか否か)というこもごもではない。
その歳になって、
どれだけ満足の仕事・意味を感じられる仕事に就けているのか、というこもごも、
どれだけの広さ・高さの景色で日々を送っているか、というこもごも―――
である。

こうした中長期をかけて表れるキャリア・人生の「こもごも」、
つまり多様な(質的)差異、人生の作品の差異はどこから生まれてくるのか?


本人の能力差? 家庭の経済力の差? 
たまたま就職した会社の差? もろもろの機会の差?
それとも性格の差? 運の差? 育ちの差? 容姿の差?・・・

どれも一因であるには違いないが、
私はそれらはむしろ二次的なものだと思っている。
私が考える大本の要因は、意欲の差、もっと表現を加えれば「志力」の差である。

(現代日本のような、ある意味まともな仕組みで動いている平時の社会においては)
志力さえあれば、たとえ自分が先天的に
能力的、機会的、環境的に多少ハンディキャップを負った状況だったとしても、
後天的な意志的努力によって、10年、20年をかけ、
それを補って余りあるほどに自身のキャリアを発展させていくことができる
―――私は強くそう思う。

志力とは、自分の内に志を育む力、そして志から得る前進力をいう。
志力とは、欲望の一種だが、反応的ではなく、意志的なものをいう。
(つまり外的な刺激で明滅するものではなく、環境に左右されず内面に湧き続ける意欲)

* * * * *

いま、世の中でいろいろな「格差」が問題となっている。
「年収格差」、「雇用格差」、「学習機会の格差」、「情報格差」、「希望格差」等々。

確かに、格差をマクロ的に分析し、マクロ的な手立てを打つことは大事だし不可欠だが、
社会やメディアや大人たちがマクロ的にああだこうだと言っているばかりでは、
本当の解決には至らない。

なぜなら、マクロ論議では、
格差が生じるのは、いまの利益至上経済システムに問題があるからだ、とか、
向上意欲を失った者の側に問題が多いからだとか、
そういった極めてざっくりした結論で押し進めるために、
弱者側に追いやられてしまった人たちを、
「そうだ、すべては社会が悪いのだ」と開き直りをさせる方向にしか事が進まない。
で、解決方法はといえば、手当の支給。
これでは、格差が固定化する回路に入ってしまう。
社会やメディアは彼らに脆弱な言い訳を与えるだけで、決して自己蘇生を促しはしない。

だから、そうさせないために、ミクロのアプローチ、
つまり格差の問題を個々の問題として、一人一人の人間に迫らなくてはならない。
自分の人生の責任は、最終的に自身が引き受けねばならないのだと。

いみじくも、ジャック・ウェルチ(GE社・元CEO)はこう言った;
「みずからの運命をコントロールせよ。
さもなくば、他の誰かがそれをやるであろう」
と。

そのために、
人の人生・キャリアにこもごもと差が生じる「根本要因」は、
生まれ持った能力差というより、年収差というより、運の差というより、
「志力」の差なんだと、一人でも多くの大人たちは、厳父・賢母のごとく、
後続の若い世代にそこかしこで言い続ける必要がある。
(だから私もいろいろな場で言う)

* * * * *

アメリカもまた、格差という面では、日本以上に諸問題を抱えている。
しかし、少なくともあの国では、
いまなお「アメリカンドリーム」が根強く個々人に信奉されていて、
その意味では日本より、格差問題を乗り越える個々の潜在力は強いといえるかもしれない。
(アメリカンドリームは、志の力というよりは俗的な欲望まで含んではいるけれども)

しかし、日本ではアメリカンドリームに代わるような
個々の自己蘇生力を奮い起こす明快な民族的コンセプトがない。
私個人は、アメリカンドリームほど単純明快ではないが、
ひとつの提起として

「社会的起業精神」を挙げたいと思っている。

この「社会的起業精神」の涵養を
うまく教育(小中高・大学教育、社会人教育)の中に組み入れることで、
格差の根っこに横たわる志力格差の問題によい効果をもたらすのではないかと期待もしている。

次回はこの「社会的起業精神」について詳しく触れます。

Yakiimo


 

2009年12月 5日 (土)

志力格差の時代〈上〉~ロールモデルは不在か?

Tohukuji01 
京都・東福寺にて(1)


「あなたが尊敬する人は誰ですか?」―――こういうアンケートが行われると、
日本の子供・若者の場合、たいてい答えが決まっている。

その答えの第1位は、ダントツで「両親(父・母)」である。
これは長年変わりがない。
そして1位に遠く離された格好で、「先生」とか「兄弟」とか、
今なら「イチロー」とかが続く。

「なんだ、親子関係がギスギスしているような風潮で、安心できる結果じゃないか」
と大人たちは、うれしがるかもしれない。
一方、子供たちも、「一番に尊敬できるのは両親です」と答えておけば、
周りから感心されるばかりなので、とりあえず無難にそう答えておくか、
一部にはそんな心理がはたらいているのかもしれない。

私は、多くの子供・若者が、判を押したように「尊敬する人は両親」と答えるのは、
あまり感心しないし、その流れは変わった方がいいとさえ思っている


これは何も、親を尊敬するな、と言っているのではない。
もしこれが「あなたが一番感謝したい人は誰ですか?」―――「両親です」、
「あなたが一番大事にしたい人は誰ですか?」―――「両親です」、
であるならば、これはもう諸手を挙げて感心したい。
親というものは、尊敬の対象というより、感謝の対象のほうがより自然な感じがする。

* * * * *

今回の京都出張は、大学で講義を行うのが目的でした。
大学生に対し「就活テクニック」を伝授するセミナーは花盛りであるが、
大学生最大の問題である―――「そもそも自分のやりたいことがわからない」
といったことに深く向き合い自問するセミナーや講義は少ない。
(ときどき、「自己診断テスト」とか「適性能力発見テスト」といった
自己分析ツールによって職業選択を考えさせるプログラムがあるけれども、
これによって自分のやりたいことがつかめるわけではない。
生涯を賭してやりたいことというのは、分析ではなく「想い」から生じるものだから

そんな折に、立命館大学から、
「就活テクではなく、キャリアをきっちり考える公開講義をやりたいので」
ということで依頼があり、話をお受けすることにしました。

「自分のやりたいことがわからない」、
「自分のなりたいものがわからない」
――――
こうした問いに対する答え(答えというより“方向性”とか“像”とかいったもの)を
自分の中に持つために私が伝えていることはただひとつ―――

「立志伝・人物伝を読みなさい」です。

私は、若い世代の「やりたいこと・なりたいもの」の発想・意欲が薄弱なのは、
ひとえに模範とすべき人物像(広い意味で“ロールモデル”)の欠如だと思っている。

多様な人間像・多様な生き様・多様な働き様を、彼らは残念ながらあまりにもみていない。
多分、社会・大人たちがそう誘(いざな)ってこなかったことの結果だと思う。
そして若い世代はテレビに出てくる人しか知らない、知ろうとしない(人を知るのも受け身だから)。
いずれにしても、彼らの知る人は、狭い上に偏り過ぎている。
だから、自分の生き様をどうしていきたいのか、発想も意欲も湧きにくい。

小さい頃から多様なモデルを摂取していれば、
尊敬する人は?という問いに対して、誰も彼もが「両親」と紋切りに答えるわけはないのです。

だから、私が大学生や若年社員向けの講義や研修で言うことは、
「今一度、野口英世やヘレンケラーやガンジーなどの自伝や物語を読んでみなさい」です。

もちろん、ここで言う野口英世やヘレンケラーなどは象徴的な人物を挙げているだけで、
古今東西、第一級の人物、スケールの大きな生き方をした人間、
その世界の開拓者・変革者ならだれでもいいわけです。

そうした偉人たちについて、
小学校の学級文庫(マンガか何かで書かれた本)で読んだ時は
誰しもたいていその人の生涯のあらすじを追うのに精いっぱいだったと思う。
しかし、ある程度大人になってから、活字の本で改めて読んでみると
そこには新しい発見、啓発、刺激、思索の素がたくさん詰まっている。

それら偉人たちの生涯に真摯に触れると、
まず、自分の人生や思考がいかにちっぽけであるかに気がつく。
同時に、自分の恵まれた日常環境に「有難さの念」がわく。
そして、「こんな生ぬるい自分じゃいけないぞ」というエネルギーが起こってくる。
それは、“焦り”という感情というより、“健全な前進意志の発露”に近い。

そうやって多様なモデルを摂取し続けていると、
具体的に「ああ、こんな生き方をしてみたいな」という模範モデルに必ず出会える。
そして、何らかの行動を起こし、もがいていけば、
自分の方向性や理想像がおぼろげながら見えてくる。
そこまでくると、自分の集中すべきことが明確になってきて、ますます方向性と像が
はっきりしてくる―――
これが私の主張する「自分のやりたいこと・なりたいもの」が見えてくるプロセスです。

私が書物で出会ったロールモデルはそれこそ挙げればきりがないのですが、
その一つに、大学のときに読んだ『竜馬がゆく』(司馬遼太郎著)の中の坂本竜馬がある。
私はこの竜馬の姿を見て、二つのことを意志として強く持ちました。

一つは、狭い視界の中で生きない。世界が見える位置に自分を投げ出すこと。
一つは、どうせやる仕事なら、自分の一挙手一投足が世の中に何か響くような仕事をやる。

このときの意志が、自分としては、その後の米国留学、
メディア会社(出版社でのビジネスジャーナリスト)への就職につながっていきました。

冷めた人間の声として、
小説の中の坂本竜馬なんぞは、過剰に演出されたキャラクターであり、
それを真に受けて尊敬する、模範にするなどは滑稽だ、というものがあるかもしれない。
しかし、どの部分が演出であり、どこまでが架空であるかは本質的な問題ではない。
そのモデルによって、自分が感化を受け、意志を持ち、
自分の人生のコースがよりよい方向へ変われば、それは自分にとって「勝ち」なのです。
他人がどうこう言おうが、自分は重大な出会いをしたのだ!---ただそれだけです。

ともかく最初のローギアを入れるところが、一番難しい。
しかし、方法論としては、極めて単純で「第一級の人物の本を読もう!」なのです。
「何を、どう生きたか」というサンプルを多く見た人は、
自分が「何を、どう生きるか」という発想が豊富に湧く。

確かに、身の周りを見渡して、立派なロールモデルはいないかもしれない。
(職場の上司や経営者だって、立派な人物は極めて少ない)
しかし、図書館に行けば、古今東西、無尽蔵にいる。
時空を超えて、自分の生涯のコースを変えるモデル探しをすることを、是非お勧めしたい。

Tohukuji02 
京都・東福寺にて(2)


 

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