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2010年2月

2010年2月25日 (木)

原研哉『デザインのデザイン』

デザインのデザインpht
おかげさまで私はこれまで自著を出版する機会を何度か得てきた。そして今後もそうした機会をいただきながら、世の中にぶつけていきたいと思っている。

仕事でやっていることが人事・組織・経営関連であるので、書く本はビジネス書・自己啓発書の類として出版することになるのだが、本の企画を練ったり、アイデアを湧かせたりするときに、私は書店のビジネス書コーナーや自己啓発コーナーにほとんどいかない。

私はむしろ、哲学・思想とか芸術とか科学の分野の棚にいって、ぶらりぶらりしながら本を手に取り、必要に応じて買い込みをする。そして一冊の本を読んでいくと、その巻末に記されている参考文献のところからさらに数冊を芋づるで読みたくなり、それをアマゾンかどこかで注文し、どんどんその世界を深めていく。振り返ってみると、人事・組織・経営関連とは直接関係のないそうした読書からこそ、良質のヒントやアイデアを得ていることが多い。


今回紹介する一冊も、ある日、書店のアート・デザインの書棚で出会ったものである。


原研哉 『デザインのデザイン』 (岩波書店)

原氏は、日本のグラフィックデザイン界の重鎮的存在である。どの職業の世界も同じだが、その道を長い時間かけて高い次元まで上っている人は、世の中を統合的にとらえ、「理」(ことわり)のようなものを見据えている。そして、それをみずからの「観」として築きあげている。

(→参考ブログ記事:『一徹理視』

その道で超一級の仕事をする人の「理」や「観」を学びとるというのは自分の偏狭な考え方に修正を加えたり、補強したりするためにとても大事なことだ。

特にいまビジネスパーソンと呼ばれる人たちは、ものごとの判断のしかたがどんどんビジネス目線のものに染まっている。つまり経済合理性というひとつの物差しで「よい/わるい」を決める思考習慣に偏っているのだ。私たちは、もっと複眼的で統合的で、ふくらみのあるものの見方を養わなければならない。

例えば、「ユニクロ」と「無印良品」を比べたとしよう。私もビジネス雑誌の編集に長く携わっていたので、「ユニクロVS無印」というような記事は書いてみたいとも思う。

間近の数値をみてみると、


良品計画(2009年2月決算)は、
・売上高:1628億円(前年比100.5%)
・当期純利益:69億円(前年比64.9%)

ユニクロを展開するファーストリテイリング(2009年8月決算)は、
・売上高:6850億円(前年比116.8%)
・当期純利益:480億円(前年比114.4%)

この数値をみて、やっぱりユニクロは勢いが違うな。価格競争力もスバ抜けてるし、
製品開発力もスピードもある。ヒット商品も矢継ぎ早に出す。その点、無印のほうは見劣りがする。値段はそんなに安くないし、食品とか家とかまでやってる。採算の悪いものまで手を広げ過ぎだな……もっと選択と集中をしないと。

とまぁ、たいていはこうした見方でユニクロに軍配を上げる。たぶんビジネス雑誌の記者も、証券アナリストも、一般株主も、はたまた末端の消費者も、そうした表に見えやすい経営情報を集めてユニクロはイイ!ユニクロはスゴイ!ということになるのだろう。

私はここでユニクロがよくないというつもりはない。私もユニクロはいいと思うし、すごいと思う。しかし、数字に見えないところで、もっと多面的に(経済尺度以外から)見つめてみると無印は違った次元で優れた企業であることが見えてくる。またユニクロはある面、脆弱な企業であるともいえる。(安さでのし上がった者は、その世界から次元を移さないかぎり、安さに破れることは往々にして起こりえる。ダイエーがそうであったように。もちろんユニクロが「安さ」以外の機軸を出そうとしていることは承知している)

無印良品の広告コミュニケーションに携わった原氏は、この本の中で無印のことに触れている。



○「無印良品の思想はいわゆる「安価」に帰するものではない。コストを下げることに血眼になって大切な精神を失うわけにはいかない。また、労働力の安い国でつくって高い国で売るという発想には永続性がない。世界の隅々にまで通用・浸透する究極の合理性にこそ無印良品は立脚すべきである。したがって、現在では、最も安いということではなく、最も賢い価格帯を追求し、それを消費者に訴求しなくてはならなくなった」。

○「(幾多のブランドが「これがいい」「これじゃなきゃいけない」というような強い嗜好性を誘発するような方向性を目指すのであれば)無印良品は逆方向を目指すべきである。「これがいい」ではなく、「これでいい」という程度の満足感をユーザーに与えること。「が」ではなく「で」なのだ。しかしながら、「で」にもレベルがある。無印良品の場合は、この「で」のレベルをできるだけ高い水準に掲げることが目標である。…「で」の次元を創造し、明晰で自信に満ちた「これでいい」を実現すること、それが無印良品のヴィジョンである」。


無印良品は、もともと、田中一光、小池一子、深澤直人、山本耀司ら、錚々たる大人のデザイナー・アーティストによって支えられてきたブランドである。そこには相応に太い製品開発の思想が流れている。日本の工業製品ブランドとしては稀有な存在といっていい。

よき製品、よきメーカー、よきものづくりビジネスを考えるにあたって、どれだけのビジネスパーソンが、損益計算書のトップラインとボトムライン以外のものを見つめて評価しているだろうか。また、陣取り合戦の巧みさ以外で評価しているだろうか。

そして消費者としての私たちも、価格の安さを離れて、その企業の事業の奥に流れるものを見つめて応援してやることができるだろうか。(事業の奥にさしたるものがない企業も世の中には多いのだが…)

経済やビジネスがますます利益獲得というマッチョな得点ゲームになりつつある今日、ビジネスパーソンの思考はますます経済合理性に引っ張られる。そして、消費者も(デフレが手伝って)、何でも安いものに流れる。

ものづくりを民族コンピテンシーとして立国してきた日本にとって、ここは極めて重大な問題だと思う。だから、今後の日本経済をつくり、かつ日本経済に依って立たねばならないビジネスパーソンたちは、経済原理一辺倒のビジネスの世界にどっぷり浸かっていない人たちの考え方をもっと学ぶべきなのだ。その人たちの方がよっぽどものが正しく見えている。


さて以下に、この本の中で私がピンときた箇所を抜き出しておく。こうしたふくよかで広がりをもった考え方の人びとがビジネス現場でもどんどん増えることを願っている。


○「人間が暮らすことや生きることの意味を、ものづくりのプロセスを通して解釈していこうという意欲がデザインなのである」。

○「新奇なものをつくり出すだけが創造性ではない。
見慣れたものを未知なるものとして再発見できる感性も同じく創造性である」。

○「時代が進もうとするその先へまなざしを向けるのではなく、むしろその悲鳴に耳を澄ますことや、その変化の中でかき消されそうになる繊細な価値に目を向けることのほうが重要なのではないか」。

○「時代を前へ前へと進めることが必ずしも進歩ではない。僕らは未来と過去の狭間に立っている。創造的なものごとの端緒は社会全体が見つめているその視線の先ではなくて、むしろ社会を背後から見通すような視線の延長に発見できるのではないか。先に未来はあるが、背後にも膨大な歴史が創造の資源として蓄積されている」。

○「元来、ラスキンやモリスにしろ、バウハウスにしろ、デザイン思想の背景には、少なからず社会主義的な色彩があった。…それは純粋であるほどに経済原理の強力な磁場の中ではその理想を貫く力が弱かった。経済の原理は明白である。近代社会の生活者を消費へと向かわせるべく、次々と新しい製品を生み出し、また、それを欲望の対象として流通させるために、メディアは様々な発展をとげ、広告コミュニケーションもしたたかに進化した。経済発展の流れにデザインは見事に組み込まれていくのである」。

○「民衆の生活にもとづいて発生した日常工芸に日本のプロダクトデザインの原像を見出す『民藝』の運動はひとつの思想としての簡潔さを持ち、西洋のモダニズムに対置できる独特な美学を持っていた。すなわち短時間の「計画」ではなく、生活という「生きた時間の堆積」がものの形を必然的に生み出し磨きあげるという発想である」。

○「デザイナーは受け手の脳の中に情報の建築を行っているのだ」。

○「自然とつきあうということは「待つ」ということであり、待つことによって自然の豊穣が知らぬ間に人間の周囲に満ちる」。

○「これまではグラフィックデザイナーと言えば、ポスターをつくったりマークをデザインしたりする職能だと考えられてきた。しかしながら、元来、デザイナーはそのような単機能の職能ではない。(グラフィックデザイナー自身も自分たちをアピールする際にポスターやマークを多用し過ぎたきらいもある)だから社会がデザイナーに求めるものは「ポスター」と「シンボルマーク」に集約されてしまう。そしてそれらが新しい時代のコミュニケーションにそぐわなくなったとき、グラフィックデザイナーも一緒に色褪せて見えるのだ。

…デザイナーは本来、コミュニケーションの問題を様々なメディアを通したデザインで治療する医師のようなものである。…「頭痛薬」を売ることに専念しているデザイナーは安価な頭痛薬が世間に流通すると慌てることになる」。

○「僕はデザイナーであるが、この『ナー』の部分は優れた資質があるという意味ではなく、
デザインという概念に『奉仕する人』という意味である」。


2010年2月19日 (金)

「計画された即興」

鎌倉006 
(鎌倉にて-1-)


昨日、昼食をとりながら何気にテレビを点けたら、
ちょうどNHK(衛星第二)で興味深い番組に当たった。

米国の映画監督ジョン・フォード(1894-1973)の魅力を追ったドキュメンタリー作品
『映画の巨人 ジョン・フォード』です。
彼はアカデミー賞史上ただ一人「監督賞」を4度受賞している伝説の監督です。

彼に影響を受けたマーティン・スコセッシ監督やスティーブン・スピルバーグ監督、
クリント・イーストウッド監督をはじめ、
ジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ、ジェームズ・スチュワートら大御所俳優が、
フォード映画の魅力と、撮影現場でのエピソードをさまざまに語っていきます。
それらが実にうまく作ってあります。(おまけにナレーションはオーソン・ウェルズ)
加えて、フォード監督のインタビュー映像(すごくイイ!というか彼自身の荒くれキャラがイイ!)も
すごく楽しめるものでした。

で、その中で、フォード監督は徹底的に「テイク1主義」だったという箇所が出てきます。
通常、監督の多くは、その場面のカットを数回撮って最終的に一番いいものを映画に使いますが、
フォード監督は、ほとんど「テイク1」を使ったということです。

彼は「テイク1」の何が起こるか分からない展開と緊張感こそが
結果的に一番いい画を生み出すという確信をもっていました。
「テイク2」以降は、緊張感がなくなり、役者も予定調和的になってくるからダメだというのです。

フォード映画で主役を何度も演じたジェームズ・スチュワートは次のようなことをコメントしていました。
彼はリハーサルと呼べるものをやらない監督だった。
一度セリフの読み合わせを静かにやる程度で、すぐにもう「テイク1」に入ってしまう。
「テイク1」は、言ってみれば“planned improvisation”=「計画された即興」を役者に強いる。
しかし、それこそがフォード映画の魅力をつくりだしたのではないかと。
(以上、番組を流し観てますのでおおまかな内容の掴みです)

私はこの“planned improvisation”=「計画された即興」という言葉を耳にしたとたん、
(ニュアンス的には「意図のもとの即興」としたほうがいいかもしれない)
米・スタンフォード大学のジョン・クランボルツ教授が提唱したキャリア理論
『プランド・ハプンスタンス(planned happenstance)理論』が頭の中でリンクしました。

キャリアや人生は100%コントロールできるものではない。
揺らぎながら、ときに偶発的な状況を意図的につくりだし、それに対応しながら、
何かしら能動的な軌跡を描いて進んでいくものである。
(そういったことは、これまでも下のブログ記事で触れてきました)
構え・撃て!狙え!
偶発を必然化する力―――秋の読書4冊


まさにキャリア・人生は、「計画された即興」であると思います。
キャリア・人生途上での毎日の行いは「テイク1」の連続です。
(失敗したからといって、テイク2、テイク3はない)
(もちろん、失敗を取り返すチャンスは如何様にでもある。だがそれはあくまでテイク1として再挑戦することになる)

ここでのミソは、
キャリア・人生は、「計画された即興」であっていいのだということです。
単に、キャリア・人生は「即興」だ、と言ってしまうとそれは漂流リスクを負い過ぎる。
“計画された”が重要な箇所です。

この場合の“計画された”とは、
文字通り「計画・設計」であるにこしたことはありませんが、
もっとおおまかにとらえてよく、例えば、

・キャリア・人生について、方向性をもつ
・      〃       想いを抱く
・      〃       おおいなる意図をもつ
・      〃       譲れない信条をもつ
・      〃       自分のワークスタイル/ライフスタイルを追求する
・      〃       気持ちの入るコンセプトを打ち出す
・      〃       ライフワークテーマを掲げる
・      〃       理想像を描く
・      〃       あこがれモデルをもつ
・      〃       献身できる分野を決める

こうした中で私たちは、ある意味、一日一日、一年一年を即興的に働き、生きていく。
しかし、おぼろげながらでも、“計画された”ものがあれば、
5年10年をかけて、その方向に進んでいける。
そして、ある時点で自分の来し方を振り返ったとき、納得感をもって
「自分の職業人生はこれでよかったのだ」「自分はこう生きたかったのだ」と思うことができれば、
それが、ほかでもない自分自身の「幸せのキャリア」を獲得したことになる。


鎌倉012 
(鎌倉にて-2-)

2010年2月14日 (日)

『アクターズ・スタジオ・インタビュー』 NHK衛星テレビ

Kura 
小金井公園「江戸東京たてもの園」内にある三井八郎右衛門邸の土蔵


仕事を選び取ること、
仕事をつくり出すこと、
仕事によって自分を開いていくことは、
現代社会に生きる私たちにとって、とても重要なことだ。

しかし、仕事・働くことに関する教育(私は啓育という言葉で表現したいが)は
社会の中でいっこうにうまくなされない。
親も語らないし、教師も避けている、上司や経営者は利益のことで忙しい。
書店店頭は「成功のための○○の法則・ルール」といった
即席ハウツー伝授が雨後のタケノコ状態であるし、
テレビは思考不要のバラエティ番組に埋まる。
(まぁ、これらは悪でないにせよ、こればっかりの世の中ではどうだろうと思う)

そんな中、「これは(録画してまでも)観た方がいいよ」と周りに勧めたい番組がある。
それは、NHK衛星チャネルで放映している
『アクターズ・スタジオ・インタビュー』だ。
(米Bravo Media社製作:番組原題は“Inside the Actors Studio”)

番組の詳細は、番組HPや「ウィキペディア」に任せるとして、
とにかくこの番組は啓発に富んでいる。
(もちろん視聴者側の意識の高さや感度によるが)

つくりとしてはインタビュー形式の簡単なものだ。
しかし、インタビュイー(米国の映画俳優・映画監督たち)と
インタビュアー(ジェームズ・リプトン氏)、そして聴衆(アクターズスタジオの学生たち)
の三者が実にいい雰囲気をつくりあげて番組は進行していく。

語り手がハリウッドの大俳優・大監督なんだから面白くて当たり前と思うかもしれない。
しかし私は、
その毎回の登場者から発せられる映画・演技ネタ(話の情報)を面白がるより、
その登場者の役者としての働き様、人間としての生きる姿勢をこそ面白がってほしいと思うし、
学びとってほしいと思う。
なぜなら、この番組は映画関連番組というより
キャリア・生き方を学びとる番組として観た方が収穫が多いからだ。

加えて、その登場者の働き様・生きる姿勢のエッセンスを巧みに引き出そうとする司会者、
さらにそれを固唾をのんで聞き入る学生たち。
番組終わりにある学生からの質問時間も実に凛としたいい雰囲気である。
なぜなら、彼らは学生といっても、のほほんとした学生ではなく、
熾烈な米国の映画界・演劇界でのし上がっていこうと戦っている人間たちだから、
質問のひとつにしても眼差しが真剣で鋭い。
―――この空間内に満ちる求道的な熱がこの番組の良質なところである。

私が米国留学時代にひしひしとその威力を感じたのは、
個々の欧米人が醸し出す「セルフ・エスティーム」(self-esteem)と呼ばれる心的態度である。

セルフ・エスティームは「自尊心」と訳されるが、実際のニュアンスはもっと複雑である。
(心理学の世界では「自己肯定感」とする考えもある)
(自己中心的に我を張るという態度とは異なる。それはselfishという別語がある)

私の感じ取るセルフ・エスティームは、
・自分、そして自分の生き方を肯定的に受け入れ
・自分を堂々と外に開き出し(押し出すのではなく)
・自分の「佇まい」をどっしりと据え
・自らの人生に対し、自分自身が最大限に納得し、自信がもてるようにする心的態度
―――そんなようなものだ。

『アクターズ・スタジオ・インタビュー』を観ると、
このセルフ・エスティームのお手本がテンコ盛りなのだ。
毎回の登場者(俳優・監督ら)は言うに及ばず、
司会者のリプトン氏(彼もひとかどの役者であり演出家である)にしても、
聴衆の学生たちにしても、強くて高いセルフ・エスティームを醸し出している。
それはとりもなおさず、彼らの一人一人が「強く自分でありたい」ということを追求する意志に溢れているからだろう

ともかく、仕事・働くこと・キャリアをひらくことを考えるにあたって、
この番組はよき刺激材料・よき参考書となるものだ。
だから、私はおおいにこの番組を勧めたい。


ところで、日本ではこのような番組がつくれるだろうか? そして支持されるだろうか?
―――結論から言うと、難しいかもしれない。
(NHKは「佐野元春のザ・ソングライターズ」という番組でチャレンジしている)


理由は単純だ。多くの視聴者が好まない(=視聴率が取れない)からである。
こうした地味だが噛みごたえのあるインタビュー番組は、観る人を選ぶ。
そうなるとテレビ局はつくりづらい。
視聴率に比較的縛られないNHKでもつくりづらい。

確かに働き様や仕事のサクセス物語を扱ったいい番組はちらほらある。
『情熱大陸』(毎日放送)や『ワンステップ』(東京放送)、
『プロフェッショナル 仕事の流儀』『グラン・ジュテ~私が跳んだ日』『プロジェクトX~挑戦者たち』(以上、NHK)などだ。

しかし、これらは相当に製作側の意図や演出が入り込んでいる。
(シリアスな内容で数値を取るためにかなりの努力をしている。スポンサーも辛抱がいる)
そこまでつくり込まないと多くの人が観てくれないからだ。
いまの日本のテレビで、番組を極力“素”にして、観る側に能動的な咀嚼を求めたなら、
とたんに視聴率は見るも無残な数値に落ちていく。

さて、ここでクエスチョンをひとつ。
フランスのリヨン、日本ならさしずめ博多には何故よいレストラン、旨い店が多いか?

―――それは、食にうるさい客が多いから。

このことはメディアのコンテンツも全く同じことだ。
テレビ番組や出版物の内容は、
受け手・買い手のレベルに合わせて変化していく。

かの文豪ゲーテは、
「文学は、人間が堕落する度合いだけ堕落する」と喝破している。

『アクターズ・スタジオ・インタビュー』のような地味で滋味な良質番組が続く下地には
それを能動的に観ようとする視聴者が、ある一定数アメリカにはいるということである。
日本ではそこまでの数がいるかどうか…

日本で成立するとすれば、
インタビュイーに流行りの芸能人を迎え、
インタビュアーは女性アナウンサーか誰か、
聴衆は物見興味で来る人びと の番組。

それは、決して示唆と思索に満ちた公開インタビュー番組にはならず、
ノリと笑いで流れていく公開トーク番組となる。
(たとえ感動秘話が披露されたとしても、どこか陳腐な演出感が抜けきらない)

いや、まぁ、私はそんな番組も嫌いではないし、
番組作りの技巧面では素晴らしい発想力を日本のテレビ界は持ち合わせている。
しかし、やはり「大人の番組」をつくることは苦手なのだ。
(日本のマスカルチャーは“幼稚さ”を特徴とするという指摘もどこかでなされていた)

いずれにしても、
『アクターズ・スタジオ・インタビュー』のような大人な番組が
日本でもある一定数で支持され、ちょこちょことつくられればいいなと思う。
それはテレビ側・製作者側の問題ではなく、
私たち視聴者一人一人の求める力だろうし、
一人一人がセルフ・エスティームを強く高めようとする意志だろうと思う。


Actst nhk 

○「アクターズ・スタジオ・インタビュー」NHK番組サイト

○米Bravo Media社の番組公式サイト

 

2010年2月 3日 (水)

留め書き 〈003〉 ~時間を何に変えて売るか

Tome003

時間を労役に変えて売る人。
時間を創造物に変えて売る人。


  …「人は何かしらのものを売って生きている」。

  そんな現実の中で、
  たぶん2通りの「売る人」があるんだろうと思う。

  1日:24時間、
  1年:87,600時間、
  30年:262,800時間、
  60年:525,600時間……

  そんな大切な時間資源を
  労役に変えて生きていかざるをえないのか、
  創造物に変えて嬉々として生きていくのか、
  その差は、とても、とても大きい。

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