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2010年3月

2010年3月30日 (火)

「働く動機の成熟化」の先にあるもの

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吉野梅郷(東京都・青梅市)にて


きょうの日経本紙夕刊のスポーツ面に
男子フィギュアスケートの高橋大輔選手の囲み記事があった。

高橋選手は将来のことについて
「スケートアカデミーみたいなものを作ってみたい。
僕はコーディネーターで、スピン、ジャンプとかそれぞれを教える専門家をそろえて……」
と語ったようだ。―――とても素敵な夢だなぁと思う。

それを読んで、ちょうど2年前、
プロ野球の読売巨人軍、米大リーグ・パイレーツで活躍した桑田真澄選手のことも思い出した。
彼の引退表明時のコメントは次のようなものだった。

「(選手として)燃え尽きた。ここまでよく頑張ってこられたな、という感じ。
思い残すことはない。小さい頃から野球にはいっぱい幸せをもらった。
何かの形で恩返しできたらと思う」。
……その後、彼は野球指導者として精力的に動いていると聞く。

人は誰しも若い頃は自分のこと、自分の生活で精一杯で、
自分を最大化させることにエネルギーを集中する。

しかし、人は自らの仕事をよく成熟化させてくると、
他者のことを気にかけ、他者の才能を最大化することにエネルギーを使いたいと思うようになる。

端的に言ってしまえば、
働く動機の成熟化の先には「教える・育む」という行為がある。
(教える・育むとは、「内発×利他」動機の最たるものだ)

→内発動機/外発動機、利己動機/利他動機に関してはこちらの記事を参照


高橋選手や桑田選手も、一つのキャリアステージを戦い抜け、
その先に見えてきたものが「次代の才能を育む」という仕事であるのだろう。

GE(ゼネラル・エレクトリック)のCEOとして名高いジャック・ウェルチも
自分に残された最後の仕事は人材教育だとして、
企業内大学の教壇に自らが頻繁に立っていた。

プロ野球の監督を長きにわたってやられてこられた野村克也さんも
「人を残すのが一番大事な仕事」と言っている。

こうした人々に限らず、一般の私たち一人一人も例外ではない。
それぞれの仕事の道を自分なりに進んでいき、
その分野の奥深さを知り、いろいろな人に助けてもらったことへの感謝の念が湧いてきたなら、
今度はその恩返しとして、
その経験知や仕事の喜びを後進世代に教えることに時間と労力を使いたいと思うようになる。
それが自然の発露として起こってきたなら、
その人の働く動機は、よく成熟化してきた証拠だ。

世の中の多くの人が、そういう成熟化をして、
それぞれの分野で「教える人・育む人」が増えれば、日本はまだまだ面白くなると思う。

少子高齢化は問題だが、
リタイヤを迎えた元気な人たちが、「私は~の専門知識を教えたいんです」とか、
「私は~の技能を伝えるのがうれしいんです」といって、
そこかしこに、いろんなボランティア的な先生たちが世の中に増えてくれば、
それは社会にとって大変なメリットになる。
(そういった意味で、人生の先輩にあたる団塊の世代の人たちの動向を私は興味深く見守っている)

いずれにせよ、教えるという行為は、親や教育者だけがやるものではない。
すべての人間が本能的に持つ行為であり、深い喜びを与えてくれるものである。
教えること・育むことの欠けた人生はどこかさみしい。
あなたの働く動機が、今後、よく成熟化し、
教えること・育むことに自分自身を使いたいという流れが起きますように (祈)。


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吉野梅郷(東京都・青梅市)にて〈2〉

2010年3月27日 (土)

仕事の3極 ~亀治郎とヴェーバーとチャップリンと


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……おとといの晩、布団の中、寝付く前の私の頭の中をぐるぐると廻った3つのもの;

「市川亀治郎」
「マックスヴェーバー」
「チャップリン」

1)革新歌舞伎の求道者
その晩、NHKハイビジョン番組『伝統芸能の若き獅子たち』を観た。
革新的な歌舞伎を創造する「澤瀉屋」(おもだかや)を受け継いた市川亀治郎さんの
煮えたぎる挑戦の日々を追っていた。
(ちなみに、翌日の同番組シリーズは、文楽人形師の吉田蓑次さんを追っていた。
こちらも素晴らしくよかった)

市川亀治郎にとって、歌舞伎役者というのは、
もはや仕事とか職業とかを超越し、彼の生命活動そのものだという印象をもった。
そしてその生命活動は、求道というマグマをエネルギー源にしている。
そのギラギラした生命こそが、
異端、異彩、革新とされる「澤瀉屋」の血脈によく似合う。

いずれにしても、 「求道としての仕事」 がそこにはある。
加えて言うと、道を究めていくためには、師匠-弟子関係というのが重要になる。


2)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にある言葉
ちょうどいま、人事評価制度について調べものをしている。
企業の人事評価制度はいまや、とても大がかりで複雑なものになっている。
処遇体系のグランドデザインを設計し、目標管理方法を仕組み化し、職能基準をつくり、
コンピテンシー項目を設定し、業績の定量・定性評価方法を考え、
公正・公平な査定ができるよう評価者研修を実施し・・・

私も組織・人事系のコンサルタントなので、
このあたりの制度の必要具合はある程度理解できるのだが、
どうも近年の状況は、公正・公平な評価を金科玉条として制度だけが肥大化しているように思える。
(制度に使われている、というか、立派な制度つくって魂入らずというか)

それはさておき、
垣根をなくしたグローバル市場経済で、企業同士が行うビジネスはますますスポーツ化、
言い方を変えれば、利益という得点を競い合う高度なゲームになってきている。
(“戦略:strategy”という経営用語が示す通り、まさに企業は戦い合っている)

そして同時に、企業で働くサラリーパーソンにとっても、
仕事はますますスポーツ化、ゲーム化している。
自分がどれくらいのパフォーマンスをし、どれだけの分け前に与れるのかが、
小難しく設計された評価制度によって判定されるわけだ。

私は、マックス・ヴェーバーの次の言葉を思い出した。

  「アメリカでは富の追求はその宗教的、倫理的意味を失い、
  純粋に世俗的情熱と結合する傾向があり、
  それが営利活動にしばしばスポーツの性格を実際に与えている」

             
―――『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

ヴェーバーはおよそ100年前に、やや控えめに「スポーツの性格を与えている」と表現したが、
現在では、営利活動は「スポーツそのもの」になった。

ついでに言えば、営利の獲得の仕方が、「カネ→カネ」と直接的な投機になった。
かつてのアメリカンドリームを体現したビジネス人たちは、
資本金を集め、事業を興し、利益を上げるという、つまり
「カネ→事業(モノづくり・サービス提供)→カネ」という流れだった。
(間にある“事業”は、雇用を生み、社会生活の基盤となるさまざまな財をつくりだす)

ともかくも、 「ゲームとしての仕事」 がここにある。


3)歯車労働者
1つめの「求道としての仕事」、
2つめの「ゲームとしての仕事」を思ったとき、
ふと、もう1つの仕事の姿が湧いてきた。

それは、チャーリー・チャップリンの映画『モダンタイムス』(1936年)の映像とともに湧いてきた。

チャップリン扮する労働者が、ぼーっとしていたら、
機械の歯車の中にぐねぐねと流し込まれてしまった―――あの映像である。

工場労働者が単純作業にまで分解された仕事を黙々とこなし、
生産機械の一部になっていくことを痛烈に批判したあの映画を
いま、私たちがDVDか何かで改めて観たとしよう。

すると、多くの平成ビジネスパーソンたちは、
「かわいそうになぁ、そりゃあんな単純な肉体労働を歯車のようにさせられちゃ
人間疎外にもなるよ。昔はひどかったな」と思うかもしれない。

しかし、よくよく考えてみるに、
チャップリンが描いた当時のブルーカラーも、
平成ニッポンの知的労働に関わるホワイトカラーも
問題の本質は変わっていないように思える。

単純な肉体作業か、多少複雑な知的作業かだけの違いであって、
依然一人の働き手は、大きな利益創出装置の中の歯車であることには変わりがないのではないか。

ここには、 「労役としての仕事」 がある。

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私は眠りに入る前の頭の中で、これら仕事の3つの極を思い浮かべた。
ひょっとすると仕事にはほかにも極があるかもしれない。
(例えば「遊び」の極など)

いずれにしても、私たちはこれらの極と極の間の適当なところでうろちょろしている。
しかし、そのうろちょろの重心が、
「求道」の極に近いところなのか、
「ゲーム」の極に寄ったところなのか、はたまた、
「労役」の極のほうで沈み込んだままなのかは、けっこうな問題である。


【過去の参考記事】
●「道」としての経営・「ゲーム」としての経営


 

2010年3月14日 (日)

描き始めなければ、描きたいものを知ることはできない

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パリ・ピカソ美術館にて(99年)


私はいま、次に出版を予定している自著の原稿を執筆している。
「予定」と書いたのは、
一応企画案としては出版社から「GO」をいただいているのだが、
最終的な原稿の仕上がりが版元の要求にかなうレベルに達しないかぎり、刊行にこぎつけられないからだ。

たいてい本を書くとき、おおまかな「アイデアと想い」からスタートする。
「アイデア」というのは、その本のコンセプトや切り口、ターゲット、構成といったもので、
企画書に書く企画のことだ。これは他人の目に見せることができる。
そして「想い」というのは、
「なぜ、いまこの内容を書きたいのか」「なぜ、この内容がいま読まれなければならないのか」といった
自分の内に湧きだすマグマ(エネルギー)のことだ。これは他人の目には見えない。

想いはアイデアを生み、アイデアは想いを強める。
―――この相互増幅の中で書きたいものをカタチにしてゆく。

いずれにしても、執筆の端緒にあって書き手は、
書きたいものの最終的イメージが完璧に見えているわけではない。
せいぜい「こんなようなことを、こんなふうに」程度ものだ。
(しかし“想い”は強い)

だから、私も現時点では、自分の書くものが最終的にどう仕上がるのかは全く予想がつかない。
もちろん、おおまかのイメージや方向性はある。
しかし、これまでの自著もそうであったように、たいてい最終形は自分の予想外のところに結実し、
自分をおおいに喜ばせてくれる。
(もし、すべてが予定稿どおりに進んでしまい、それで本ができたなら、そのときの喜びは激減するだろう)

編集者の方と共々に(ときに反抗しながら)、
ああでもない、こうでもないと企画を幾度も修正し、変更し、
書き上げた原稿を大幅に書き直し、推敲し、
製本されて手元に送られてきたときに初めて、
「ああ、自分はこういう本が書きたかったんだ」と感慨深く気づくことができる。

自分がこしらえた未知の創造物との出合い―――
それは本の執筆にかぎらず、仕事で挑戦的創造を行った者が得る最高の喜びである


パブロ・ピカソはこう言う。

「着想は単なる出発点にすぎない・・・
着想を、それがぼくの心に浮かんだとおりに定着できることは稀なのだ。
仕事にとりかかるや否や、別のものがぼくの画筆の下から浮かびあがるのだ・・・
描こうとするものを知るには描きはじめねばならない」。

           ―――『語るピカソ』ブラッサイ著、飯島耕一訳/大岡信訳(みすず書房)


どんな絵が描けるかは、描きはじめなければわからないのである。
言い方を変えれば、
キャンバスの上に筆を下し描いてみて初めて、画家は自分が描きたかったものを知ることができるのである。


私は、研修で受講者たちに思考力の足腰を鍛えるために、
何のテーマでもいいから、どれだけの人に見られようと見られまいと気にしなくていいから、
自己発信のブログを始めなさいと勧めている。

多くの人は、自分の思考が固まっていないから発信できないと言う。
いや、それは違う。
発信しないから、いつまでたっても思考が固まらないのだ。

「自分のやりたいことがわからない」という多くの若者が抱える悩みも同じだ。

仕事上のやりたいこと・目標にせよ、
人生上のやりたいこと・目標にせよ、
おおまかにでも「えいや!」で腹をくくって行動で仕掛けてみろと言いたい。
そうれば、どんどん先が見えてくる。
どんどん固まってくる。
そして、応援してくれる人も現れてくる。

自分のやりたいこと・目指すものが、見えないから行動できないのではない。
行動しないからいっこうに見えてこないだけの話である。
だから必要なのは「自分探し」ではなく「自分試し」!

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2010年3月11日 (木)

留め書き 〈006〉 ~身体・思考・生きる力

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        あなたの身体は
        これまで摂取した食べ物によってつくられる。

        あなたの思考は
        これまで読んだもの・見たものによってつくられる。

        あなたの生きる力は
        その先に抱く希望から湧きだしてくる。


現在の自分は、過去からの習慣によって形成されている。
そして現在を生きる力は、未来からもらうことができる。

よいもの(豪華なグルメ料理ということでなく)を食べよう。
よい読書をしよう。 よい見聞をしよう。
よい希望(目的、夢、志、意味、やりがい)を抱こう。
そしてぐっすり眠る。

泰然自若の生き方とはそういうことだ。


2010年3月10日 (水)

「プリズン・ドッグ」:受刑者更生プログラム


この「触発のカチッ!」と名づけたカテゴリーでは
私が生業としている人事・組織、人財教育、企業研修などとは違う分野
から受けた啓発材料・触発出来事を書いているのだが、
ここ最近、NHK番組が多い。で、きょうもたまたまNHK番組から。

ハイビジョン特集 『プリズン・ドッグ~僕に生きる力をくれた犬~』 を観た。

もちろん一視聴者として十分にじーんとくる番組だったが、
一職業人の目線からも十分に得るところが多い番組だった。

それはひとつに、教育方法の発想を広げてくれたこと。
もうひとつに、教育の目的は「自ら学ぶ力を育んでやること」という原点を強く再確認できたこと。

この番組のNHKの説明文はこうなっている;
「“犬と暮らす刑務所”がアメリカにある。
マクラーレン青少年刑務所を舞台に、犬の世話を初めて任され、
次第に人間らしい感情を取り戻していく受刑者の3ヶ月のドラマを追う」―――

この刑務所では、
捨てられたり虐待されたりした犬を受刑者たちがトレーニングして
(つまり捨て犬や虐待された犬は、それこそ人間や外界を極端に怖がって、
そのままでは飼い犬になれない状態にある)
新しい飼い主に引き渡すというプログラムを行っている。

青少年受刑者は、最初、1匹の犬を手渡される。
犬は怯えているだけだ。
挙動は異常だし、もちろんこちらの言うことなどきくはずもない。
しかし、受刑者たちは、その犬に自分の境遇を重ね合わせる。

受刑者は犬と辛抱強く触れあっていく過程で、
忍耐や、相手の気持ちに立つことや、信頼すること、相互が通じ合うときの喜びなどを
自然な形で感じ取っていく。
(こうやって言葉に落とすと野暮ったいのですが、映像では受刑者たちの微妙な表情がそれをにじみ映していました)

どの受刑者のどの犬も数カ月もすれば立派に飼い犬にして大丈夫なようにまで生まれ変わるもので、
犬たちは新しい飼い主(一般人の家庭)に引き取られていく。
(その引き渡しのときの別れのシーンが、番組上、クライマックスシーンなわけですが、
まぁ私は素直に目を赤くしました)

で、ここがアメリカ人のいいところなのだが、
新しく引き取り親になる一般の人(その家族の父とか子供たち)が、
ここまで育てあげてくれた受刑者に、直接肩をたたいたり、握手したりしながら、
「(ファーストネームを呼んで)いい仕事をしたね」「ほんとうに感謝しているよ」
なーんていう言葉を真正面からかけてやる。

受刑者にとっては、犬との交流もさることながら、
こうした最終的に人から感謝されることが決定的に重要な出来事になる。

そして、マクラーレン青少年刑務所では、さらにおまけの手間を運営側がかけている。
もらわれていった犬たちがその後どうしているかというので、
引き取り親からホームビデオの撮影テープを送ってもらい受刑者たちで視聴会を行うのだ。
受刑者たちの視聴するその表情たるや……
(あぁ、ここもまた、お涙クライマックス)

受刑者たちの更生心をさらにひと押しするここまでの手間、
この更生プログラムを走らせる施設、その背景にあるアメリカ社会の強い意思というものを感じた。

そのかいあって、マクラーレン青少年刑務所では、
このプログラムを受けた受刑者の再犯率は今のところゼロだと言う。

私もこれまでは、
疾病者のセラピー(療法)として、動物を飼育するとか植物を育てるなどのことは知っていたが、
受刑者の更生プログラムとして、犬を育てさせるという方法は知らなかった。

ネットで検索してみると、いわゆる 「プリズン・ドッグ・プログラム」 として
欧米を中心にいろいろな取り組みがなされているようである。

この番組を観て、この「プリズン・ドッグ・プログラム」が
教育(更生させるのもひとつの教育)プログラムとして再確認させてくれたのは次の3点。

○educationは「教育」というより、やはり「啓育」である。啓(ひら)き育むこと。

○「自学」「自助」「自立」……自ら学び、自らを助け、自ら立つ。
 個々の人間のこうした力を啓き育む方法はいかようにでもある。
 そして、この啓き育むことは、親、大人、社会の責務であるし、
 自然の発露としてなされなければならない。

○(犬にせよ人間にせよ)心がつながる経験が最上の学びである


 

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