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2010年4月17日 (土)

塩見直紀 『半農半Xという生き方』


情報が絶えず生まれるメディアには、
日々いろいろに新コンセプトやらバズワードやらが現れる。
私も商売柄、そういったものをこしらえる。
しかし、そうそう簡単に長生きするもの、ましてや一般に普及するものはつくれない。

そんな中、私がここ10年の間でもっとも啓発を受けたもののひとつが
「半農半X」 (はんのう・はんえっくす) である。

「半農半X」とは、生みの親の塩見直紀さんによれば、
「一人ひとりが天の意に沿う持続可能な小さな暮らし(農的生活)をベースに、
天与の才(X:エックス)を世のために活かし、
社会的使命を実践し、発信し、まっとうする生き方」
をいう。

これは時代の先を読み、時代が求める、そして時代をつくるコンセプトワードだと思う。
知的に刺激されるというよりは、
肚にズシンとくる揺さぶりの言葉である。
この言葉は1995年に塩見さんの頭の中で生まれたらしいが、
まだまだ10年先も20年先も時代の風化を受けない、逆に輝きが増すであろう
それくらい深く骨太なものだと私は思っている。
半農半Xカバー 
2003年に刊行された 『半農半Xという生き方』 (塩見直紀著、ソニーマガジンズ)には、京都・綾部の地で様々な人が実践する「半農半X」の生き方が紹介されている。

「半農」をベースに、
映画字幕翻訳をする人、
「人生最高の朝ごはん」を主宰する人、
あかり作家をする人、
介護ヘルパーをする人、
ウェブデザイナーをする人、
画家をする人……いろいろな掛け合わせがある。
「半X」のエックスの中には人によって何が入ってもよいのだ。

私も遠くない将来に農的生活を始めたいと思っているのだが、
「半農」という考え方が重要なポイントである。

いま田舎暮らしをしたいという人の中には、すべてを農に懸けるケースが多い。
(つまり生活を「全農」的に預けてしまう)
もちろんそれでうまく回っていけばいいのだが、それではリスクが大き過ぎる。
商業的に農業を成立させ、生業とするのはことのほか難しいものだ。
生産性や効率、取引先の要望に引っ張られたら、
無理な生産、本意でない手段もやらねばならなくなる。

塩見さんは「半農」の考え方のもとは、
作家の星川淳さんの『地球生活』からきているという。
星川さんはそこで次のように書いている。

 「自給規模なら見通しは立つものの、
 営利規模ではかなりの無理を要求される。
 これ以上地球に農薬という毒を盛ることだけは絶対にしないと決めているが、
 無理のなかには機械力や借金、もっとめまぐるしい生活ペースなども含まれる。
 それに対する私の答えは『半農』である。

 百の作物をこなす“百姓”や農業だけで生計を立てる専業農家にならなくていい。
 かりに実働八時間として、
 その半分で自分たちの食べるものを納得のいくやり方で育て、
 あとの半分でなにかしらの収入につながる仕事をする。
 私の場合はたまたま『半農半著』」。

もちろん、世の中には専業農家で頑張って作物を供給してくれる人が必要である。
と同時に、もし日本で半農という形で耕作をする人が増えていくとなれば、
つまり二重構造で農の営みが拡大・継承されていくようになれば、
日本の農業もよい変化を起こすにちがいない。

そして「半X」。
Xとは、やりがいを見出した仕事や、自分の天賦の才を活かす職業、
使命と感じるライフワークのことだ。

もちろん、自分が没頭できるXに対し、
それに100%専念したい、つまり「全X」的に取り組みたいという人はいるだろう。
「半X」的にじゃ、とてもそれをまっとうできないと。
それはそれでひとつの肯定できるあり方だ。

私も20代から30代前半にかけては、
ビジネスジャーナリスト、出版の仕事が面白くて面白くて、
残業を厭わず、それにのめり込んだものだ。

しかし不思議なもので、30代以降、農的な暮らしに少しずつ興味が湧いてきた。
今では、農作業こそ手をつけてはいないが、
あえて大事な仕込みの仕事をするときは、東京を離れ、
地方の山か島にこもってやっている。
今まで単眼思考だったのが複眼思考になって、とてもよい結果を生む。

二つ以上の仕事、二つ以上の活動拠点を持つことは、
私にとって、どちらも中途半端になるのではなく、
どちらも和合してよい影響を与えあい、トータルでみた創造性や充実感が格段に増す。
(それを私は“ハイブリッド・ライフ”と呼んでいる)
(「半農半X」も農とXのハイブリッドの形である)

だから、「全X」的に仕事に邁進している人も、
「半農半X」というコンセプトを頭に入れておくとよい。
いつかこうした複合的な考え方がすーっと馴染むときがくるだろう。

塩見さんは、「半農半X」のその複合的な考えを
「種(たね)」を例にして見事に説明している。

 ―――「たね」の音義を漢字以前の日本の言葉「やまと言葉」で調べてみると、
 「た」は「高く顕われ(伸び)、多く(たくさん)広がりゆく」、
 「ね」は「根源(に返る)、(いのちの)根っこ」という意味があり、
 「タネ」の本質を的確に表現している。
  …(中略)
 「半農半X」で言えば、「半農」が「ね」で、「半X」が「た」だ。―――

ワークライフバランスということが最近話題になる。
私は、ワークとライフを分離してバランスをとるというような考え方ではなく、
両者をハイブリッドさせるという考え方なので「ワークライフブレンド」と言っているが、
いずれにせよ、これも複合的な「た・ね」のとらえ方ができる。
つまり、ライフ(私生活・人生)は「ね」であり、
ワーク(仕事・職業)は「た」である。

この本の中で塩見さんは、「半農半X」というコンセプトを核にして
力強いメッセージをいろいろな言葉にして披露している。

○「小さな暮らし」と「充実感ある使命」―――これが「半農半X」だ。

○田舎で「半農」の暮らしをしようとすれば、
 原則的に生活は「生活収入少なく、心の収入大きく」になる。
 生活の縮小となると、厳しさを感じるが、
 それでも心豊かな暮らしができるのは、「X」があるからである。

○「おいしいもの」追求ではなく、「おいしく」いただく

○「ないものねだり」から、「あるもの探し」へ

○昔の農民は豆をまくとき、必ず三粒ずつまいたという。
 一粒は空の小鳥、一粒は地の虫、一粒は人間のためにだ。

○「give and give(与え、さらに施す)」
 「give and forgot(施したことさえ忘れてしまう)」
 という考え方があるのを知った。
 私たちはつい受け取ることや与えたことに執着しがちである。
 先人は「放てば満てり」と言った。
 こだわらず、解き放つことで、自由になれるという意味だ。
 残念ながら、私たちの文化では、与えることより獲得するほうに重きが置かれている
 と言っていいだろう。

○ヨハン・ゲーテの詩に
 「心が海に乗り出すとき、新しい言葉が筏(いかだ)を提供する」
 という一節があります。
 海に乗り出すためには新しい言葉、新しいコンセプトが要るのです。
 意識が変わり、行動が変わり、暮らし方、生き方が変わる
 新しい概念の創出が急務なのです。


この本は、多分に思想的であるが、
著者を含め綾部の方々の多くの具体的な生き方が散りばめてあり、
とても実践的なライフスタイル提案書となっている。
(その人の持つ思想的なものは、最終的には
その人の挑戦的実践・生き様によって証明される)


「農」という営みはことのほかに奥深いものである。
個人が「半農半X」を志向することは有意義な人生のチャレンジになるにちがいない。
と同時に、
日本という国家もまた「半農半X」というコンセプトで立国すべきではないかと思った。


 

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