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2010年5月

2010年5月12日 (水)

上司をマネジメントする〈5〉~「Big Picture」を共有せよ

Kalta 
『紋かるた・希少家紋』(北星社製造)で遊ぶ。
日本古来からの意匠はいまなお、腕組みしてうなるほど新しい。
 


――――“One world under the sun.”
        (世界はひとつ。みんな同じ太陽の下)

むかしどこかで、こんな広告コピーを見た記憶があります。
世界のいろいろな地域では、いまだに他国との戦争や国内紛争が絶えませんが、
そんなときこの一行はとても考えさせられるものがあります。
もしいま、巨大な隕石が地球に衝突確実という出来事でも起これば、
我々は「一地球人」として戦争をやっている間ではなくなるでしょう。

◆上司と部下はキツネとタヌキ?
上司と部下という二者の関係はとても不安定です。
そもそも上司と部下は、たまたま同じ会社に入って、
会社の配属によってたまたま引き合わされただけの関係です。
多くの場合、上司は部下を選んだわけでもありませんし、
部下は上司を選んだわけでもありません。

上司と部下は互いに不完全な人間同士ですから、
職場で四六時中、一緒にいると、互いの欠点がいやおうなしに見えてきます。
“Familiarity Breeds Contempt”―――親しみは侮蔑を生む、
そんな英語のことわざもあります。

部下にとって上司の返答は「このあいだ言ったことと違うじゃないですか」と
文句も言いたくなるような一貫性のないときも多いですし、
「問答無用」とばかりに理不尽な業務を押し付けてくるときもあります。

また、上司は上司で、部下の進捗が思うようにいっていないと
「なんでこんな簡単なことが・・・」のように小言をもらしたり、
部下があれこれぐずると「これは全社方針だから」と印籠の一言を出したりします。
そして、険悪なムードが過熱すると、「言った」「言わない」の感情論争に。

上司も部下も、いとも簡単に感情の溝にはまりこんで建設的な関係を築けない。
「所詮、給料をもらうためには仕方ないさ」と
キツネとタヌキの化かし合いで適当に距離を保つ、
職場ではそんな関係状況も多く見受けられるものです。

◆二点より三点が安定する
基本的には不安定であり、冷めた関係になりやすい上司/部下関係を、
安定的かつ友好的なテンションで維持していくにはどうすればよいか、
これはずっと以前から会社組織における重要なテーマのひとつであり続けてきました。

そのテーマに対する解のひとつが、
上司と部下とで「第三点を共有する」ことです。

上司と部下という二点で感情的に閉じていると、
何かと硬直化して前に進んでいこうとするエネルギーがうまく出てきません。
そんなとき、互いが共同して見つめられる第三点を設定して、
そこに意識を開いていくわけです。

第三点としてお互いが見つめなくてはならないのは、
まず何よりも顧客であり、そして取引先であり、社会です。
上司と部下は、これらの前ではある意味パートナーです。
顧客が欲しがっているものは何か、
取引先といい条件で契約を結ぶにはどういう交渉が考えられるか、
社会にとっていい商品・サービスとは何か、など、
これらの解決や創造に向かって両者が外にエネルギーを放出するとき、
両者の関係は協創的になり、友好的にならざるをえません。

Bigpict


◆同じものをともに「見晴らす」
もし、部下であるあなたが上司との間で、
「言った」「言わない」の感情論争に陥りそうになったら、
あるいは、
数値目標を「達成しろ」「できない」の感情論争に陥りそうになったら、
上司とともに、いま一度、遠くの第三点を見つめ直すよう視点を変えてください。

第三点とは、ビジョンであり、大局観です。
理想イメージを描いた 「Big Picture」 (1枚の大きな絵)と言ってもいいでしょう。

そこからの逆算で、中期の事業目標があり、短期の業務目標があるわけです。
上司と部下は「Big Picture」を共同して描き、見晴らすことが大事です。
Big Pictureを描くのは上司がやるべきと思って、任せっきりにしてはいけません。
部下もおおいに手助けしてあげてください。
それは上司への簡単な問いかけでいいと思います。

・「部長、この商品でお客さんの何が変わるのでしょうか?
 その原点を考えてみたいのですが」
・「この我々のサービスは自社や業界や社会にどんな貢献や意義があるのか、
 そこをもう一度議論しませんか」
・「例えば、5年後の事業をどうしていたいか、
 メンバー間で理想イメージを共有しましょう」
・「うちのやっている事業に元気の出るキャッチフレーズを付けましょう」などです。

上司/部下関係を建設的に保ち、強い組織力を形成しているところは、
必ず当事者たちが担当仕事の意義や貢献を、第三点として共有しています。
その様子は次のコピーのように言えるかもしれません。

――――“One team under the vision.”
        (チームはひとつ。みんなそのビジョンの下)



Kalta02 
三つ持ち合い一重亀甲(みっつもちあいひとえきっこう)
……呪文のようだが、どこか、読み上げ音もデザイン的ではある


 

2010年5月 9日 (日)

高村光太郎『ロダンの言葉』


Rodan  「オーギュスト・ロダン×高村光太郎」 ―――何とも重厚なカップリングである。

「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」……
ご存じ『道程』を書いた詩人であり彫刻家である高村が、ロダンの訳業を試みた一冊である。

ロダンのような美の巨人の言葉を訳するなどは、
語学に長けているだけではかなわない所業である。

ロダンの精神の奥底には、
凡人にはすべてを見取ることのできないような哲学の巌(いわお)がそびえ立ち、
また、彼独自の高度な芸術表現の技術論や感性論があって、
それを訳出することは高村であっても困難な作業であったにちがいない。
しかし、日本国で誰がもっとも訳者としてふさわしいかといえば、
今でも高村光太郎以上の人物は見当たらないのではないかと思う。

この本は当然芸術のことについて多くが語られているのだが、
ロダンの発信は、広く平成のビジネスパーソンにも通じている。
なぜなら、

芸術の仕事も、ビジネスにおける仕事も、

1)目に見えない内側の本質を、目に見えている外側の現象から探りつかむこと
2)目に見えない内側の本質を、目に見えるよう外側の表現にして提示すること

の営為であるからだ。

例えば、マーケティングの仕事は、
店頭でどんな価格帯が売れているとか、どんな色が売れているとか、
どんな商品クレームが多いとか、そういった外側に見えている流行現象・消費現象から
次に消費者は何を欲しがっているかという目に見えない潜在需要を読み解く仕事である。

そして、それを受けた商品開発者たちは、真剣に討議して、
自分たちが考える次の商品はこうあるべきだという仮説や意思を持つ。
そしてそれを具体的商品として落とし込み、生産し、
「消費者の皆さん、皆さんの次に欲しがっていたものはこんなものではなかったですか?」
と世に問う。

さて、ロダンは何と言っただろうか。

 ○「眼でばかり見ないで、叡智で見るのです」。

 ○「立体的理法は物の主眼であって外観ではありません」。 

 ○「美は性格の中にあるのです。情熱の中にあるのです。
  …美は性格があるからこそ、若しくは情熱が裏から見えて来るからこそ存在するのです。
  肉体は情熱が姿を宿す型(ムーラージ)です」。

 ○「内面からの肉づけが無いなら、輪郭は脂を持てない。
  しなやかにならない。堅い陰で乾からびる」。

 ○「肉づけする時、決して表面(スルファス)で考えるな。
  凹凸(ルリーフ)で考えなさい。
  君達の精神がすべての上面にあるものは
  皆其を後ろから押している量の一端だと見做す様になれと思う。
  形は君達に向かって突き出たものだと思いなさい。
  一切の生は一つの中心から湧き起る。
  やがて芽ぐみそして内から外へと咲き開く。
  同じ様に、美しい彫刻には、いつでも一つの強い内の衝動を感じる」。

 ○「こういう事を忘れるな。相貌は無い。量しかないという事を。
  素描する時、決して外囲線に気を取られるな。
  凹凸だけを考えなさい。凹凸が外囲線を支配するのです」。

 ○「藝術家の資格は唯智慧と、注意と、誠実と、意志とだけです。
  正直な労働者のように君達の仕事をやり遂げよ。
  真実であれ、若き人々よ。
  しかし此は平凡に正確であれという事を意味するのではない。
  低級な正確というものがあります。写真や石膏型のそれです。
  藝術は内の真実があってこそ始まります。
  すべての君達の形、すべての君達の色彩をして感情を訳出せしめよ」。

 ○「良い彫刻家が人間の胴体を作る時、
  彼の再現するのは筋肉ばかりではありません。
  其は筋肉を活動させる生命です。
  われわれが輪郭線を写し出す時は、
  内に包まれている精神的内容で其を豊富にするのです」。  

 ○「凡庸な人間が自然を模写しても決して藝術品にはなりません。
  それは彼が『見』ないで眺めるからです」。

ロダンが一貫して訴えているのは、
外側の線だけを肉眼で追うのではなく、
内側の本質を“慧眼”で観よ、ということです。
そして、外側の輪郭をつくるのは、
内側の本質(彼の言葉では、性格、情熱、量、真実、精神的内容)の湧き出しによれ。

私たちは一つ一つの仕事に対し、
こうした「内への洞察」と「内からの表現」をしているかどうか―――
これは重要な自省の視点となる。

表層を浮き沈みする情報のみを集め、上っ面をなめるだけの検討をし、
体裁を適当に整えただけのデザインによってパッケージ化されたモノやサービスが
周囲にあふれていやしないか―――私はそれが気になる。
そして、そうした受け入れの軽さのある商品のほうがむしろよく売れてしまう
―――そのことに私はいっそう危惧をする。

会社現場ではよく上司が「もっと本質を見極めろ」などと言うが、
現在のビジネス現場では、
「内への洞察」や「内からの表現」といった本質をみること・本物をつくることよりも、
実のところ、
スピードや効率、目標量の達成、マスセールスの追求のほうに執心している。

そしてマスとしての消費者も、
本質や本物を志向するよりも、
「安けりゃいい消費」「安くてそこそこ品質でいい消費」に偏っていて、
消費生活の質が粗野化(もっと言えば粗暴化)している。
(この粗野というのは、チープシックやシンプルネスといった美意識の
はたらいたものとはまったく別方向のものだ)

消費者が安易なものを好んで買えば買うほど、作り手はものづくり力を退化させる。
日本が今後も「ものづくり立国」していくためには、
「安けりゃ売れる」といった表層の現象・表層の需要を超えて、
内側に入ったものづくりをしていかねばならない。
(日本にまだ少なからずいる志あるものづくりの人たちは、このことを十分知っている。
しかし、いかんせん、マス消費者は「安けりゃいい」なのだ。
志あるものづくり人たちが、どんどん追いやられている……)

* * *

ロダンにとって仕事をすることは、生きることと同義であった。
そして、それは「大いなるもの」とつながる歓喜であった。

 ○「永久の若さは専念と熱中とで出来る」。

 ○「勉強は不断の若返りである」。

 ○「私の考では宗教というものは信教の誦読とはまるで別なものです。
  其はすべて説明された事の無い、
  又疑も無く世界に於いて説明され得ないあらゆるものの情緒です。
  宇宙的法則を維持し、又万物の種を保存する『知られぬ力』の礼拝です。
  …其は此の世から、われわれの思想をまるで翼の生えた様に飛翔させるのです。
  此の意味でなら、私は宗教的です。
  若し宗教が存在していなかったら、私は其を作り出す必要があったでしょう。
  真の藝術家は、要するに、人間の中の一番宗教的な人間です
」。 

 ○「藝術は万象の中で明らかに観じ、
  又意識を以て照り輝かしつつ万象を再現する叡智の歓喜です」。

私はことあるごとに、
「真に“よい仕事”とは宗教的体験である」と言っている。
これには「シュウキョー」と聞くだけでうさん臭さを感じる人も多い。

しかし、その人は、「宗教的」の意味を狭くとらえているか、
本当に“よい仕事”を成したことのない人だろう。

* * *

ロダンは若き芸術家たちにさまざまにメッセージを送っている。

 ○「肝腎な点は感動する事、愛する事、望む事、身ぶるいする事、生きる事です」。

 ○「われわれは自然を心ばかりでなく、
  殊に知力を以て会得しようと努めねばなりません。
  感じ易いが、知解力無いという人は感情を表現することの出来ないものです」。  

 ○「若し君達の才能が極めて新しいと、
  君達は最初はほんの少しばかりの賛同者しか得ないでしかも群衆の敵を持ちます。
  勇気を失うな。前者が勝ちます。
  なぜかといえば彼等は何故君達を愛するかを知っているのに、
  後者は何故君達が嫌いなのか知っていないからです。
  前者は真実に対して情熱を持ち又絶えず新しい同人を集めるのに、
  後者は自分達の間違った意見に対して何処までも続けてゆく熱中をまるで表さない。
  前者は頑固であるのに、後者は風のまにまに変る。
  真実が勝つ事は確かです」。


高村光太郎はロダンを師と仰いだ。
師の言葉を自分の中で血肉化し、それを翻訳して日本にも広めた。
そして彫刻家として、師を乗り越えていこうと創造に命を燃やした。
こうした師弟の展開は、芸術家の世界のみならず、
事業組織の世界でもどんどん起こってほしいものだ。

師を持った働き手は幸福である。
しかし、師を持つためには、前提として、
みずからの仕事・職業を一つの「道」として昇華させていなければならない。



*本記事では、
『ロダンの言葉』の集英社・文芸文庫版を取り上げました。
同様のもので、
『ロダンの言葉抄』岩波文庫版もあります。


2010年5月 6日 (木)

電子書籍元年に思う ~技術の進化が「おおきな作品」を生み出すか


佐々木俊尚著 『電子書籍の衝撃』 (ディスカヴァー・トゥエンティワン) を面白く読んだ。

Denshon 

『Kindle』『iPad』の発売によってにわかに話題沸騰の電子出版市場、
確かにそこで論議されるデバイス(端末機器)がどうこう、
ビジネスモデルの構築と市場の覇権争いがどうこう、という問題は興味深い。
私もMBAの学生時代であれば、
この手の話にどっぷり浸かって、おおいに論議したことだろう。

しかし今の私は、出版文化がどうなっていくのか(どうしていくのか)、
人びとのライフスタイルや思考方法がどう変わっていくのか、
どんな作品表現が生まれてくるのか(生み出せるのか)、により興味がある。

佐々木さんはこの本で、
文化論の観点からも(音楽の電子配信サービスと比較して)多くを述べている。
特に、電子書籍は「アンビエント化」する、
電子書籍は「多対多」のマッチングになる、
電子書籍はコンテンツではなくコンテキストとして買われる
など、こうした点をうまい材料を盛り込みながら展開していた。

本書の詳しいレビューは
各所のウェブサイトにアップされている他の方々のものに任せるとして、
以降は私が包括的に思ったことを簡単に書きたい。

* * * 

18世紀の産業革命以降、技術は幾何級数的に発展を続けている。
それに合わせメディアの進化、人間の表現方法の進化もすさまじい。

しかし、技術の発展は
果たして「おおきな作品」を生み出すことに役立っているのか?―――
(この「おおきな作品」とは、表現の深み・高みが並みはずれていて、
後の世まで受け継がれる不朽のものを言う)

つまり、21世紀の私たちは、レオナルド・ダ・ビンチよりも
はるかに質のよい画材を、はるかに多く手にでき、
はるかに簡単に他の作品を画集やらウェブやらでみることができ、
はるかに快適な(空調のきいた)作業空間で絵を描くことができる。
しかし、だからといって、ダ・ビンチ以上の絵を描けるのだろうか。

これは音楽とて同じことだ。
今日の私たちは、
モーツァルトやベートーベン以上の音楽をつくりだすことができるのだろうか。

アートにしても、音楽にしても、
映画にしても、小説にしても、
超大作級のものがなかなか出なくなったと言われる。
「作品が小粒化している」というのはよく聞かれるフレーズだ。

私たちは技術の発展とは逆に、
「おおきな作品」からどんどん遠ざかっているように思える。
―――それはなぜだろう?

Ipcap 

* * * 

私が音楽を聴くことに一番夢中になったのは中学・高校のころだ。
我が故郷(三重県)の田舎の高校でもビートルズは人気だった。
1970年代半ば、音楽レコード(LP盤)は高価だった。
しかも消耗品であるレコード針はもっと単価がかさんだ。

貧乏な我が家では、LP盤を何か1枚買ってほしいと親に言い出しづらかった。
すでに解散していたビートルズは20数枚アルバムを出していたが、
私が買ってもらえるのはようやく1枚だけだった。
子供心に本当に悩んだ―――「どれを手にすべきか」。

いまのように自由に視聴ができるわけでなし、
もちろんレンタルサービスがあるわけでもなく、
LPアルバムを買うということは当時リスクのある買い物だった。
(シングル曲だけがよくて、アルバムとしては凡作なものがいつの時代にもたくさんある)

当時、深夜のラジオ番組で毎週土曜の午前1時にビートルズの曲を5曲ずつ、
タイトルのABC順にかけていく番組があった。
(ビートルズの公式録音曲は全部で280曲ほどあると言われている)

私はこの番組をカセットテープに録音して、1曲1曲リスト化していった。
(寝過して録音できなかった週などは落ち込んだものだ)
なにせ、いまのようにウェブで検索をかければ
ビートルズの全曲のリストがコピー&ペーストで手に入る時代ではないのだ。

そうやってビートルズの曲をいろいろと聴き、手と耳で憶えていった。
おかげで英語は一番好きな科目になった。

また、友達同士でレコードの貸し借りもやった。
A君は「THE BEATLES 1962-1966(通称「レッド・アルバム」)」を持っとるんやて、
B君は「WITH THE BEATLES」を買うたらしいで、
C君は「SGT. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND」聴かせたる言うとった……
友達から借りられるものはそれで聴けばいい、
そして半年をかけて熟考して買ってもらった1枚が―――「ABBEY ROAD」。

「レコードが擦り減るまで聴く」という表現があるが、
本当に「ABBEY ROAD」は、レコード溝がダメになるまで聴いた1枚だ。

多感なころだったから1曲1曲を繰り返し聴くたびに
いろいろな発見や感動がいくらでも湧いてきた。

ジャケットの写真を眺めるたびにどんな想像もできた。
いまから思えばちゃちなレコードプレーヤーだったが、
(一応、2つのスピーカーが付いてステレオだった)
そこから響き出す音楽は、姉と一緒の四畳半の勉強部屋を満たし、
私の表皮の細胞を一つももれなくぴーんとそばだたせた。
(たぶん、あれを詩心というのだろう)

モノがない、情報がない―――だからといって、
人間の想像性/創造性は妨げられない。
むしろモノが少ないほど、情報が少ないほど、
想像性/創造性が増し、深まることはじゅうぶんに起こりうる。

今日、私たちはデジタルデータのダウンロードで、いとも簡単に多種多様な音楽を聴ける。
しかも高音質の音で、ポケットに持ち歩ける時代だ。
また、1曲ごとの購入ではなく、定額を払えば、
何でも聴きたい放題になるというサービス形態も検討中であると聞いた。
もはや、音楽は聴き尽くせないほど手の中に溢れている。

そして、間近に、書籍もそうなる。

しかし、そうなったときに、
私のあの「ABBEY ROAD」を手にしたときの喜びを再び得ることができるだろうか?
「ABBEY ROAD」を毎夜繰り返し聴いたときの
果てしない空想の旅を続けることができるだろうか?

 「豊かさは節度の中にだけある」 ―――とは、ゲーテの言葉である。

また、小林秀雄はこう言っている―――
 「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、
 無常という事がわかっていない。
 常なるものを見失ったからである」。
                              (『無常という事』より)

* * * 

私はビンボーな社会がいいというつもりはない。
生涯のうちにもっと音楽や芸術に接したいし、もっと本を読みたい。
そして、直接自分で世界に「セルフ・パブリッシング」したいとも思う。
(電子書籍の時代には、すべての個人が出版社や取次・書店
などの力を借りずに出版でき、
全世界に著作を売り出せる。これがセルフ・パブリッシング)

また、これまで出版社に発掘されなかった才能が芽を吹いて
新しい書き手が新しい表現で私たちを楽しませてくれることをおおいに期待している。
(だがそれと同時に、創造意志のこもった作品とはほど遠い、
垂れ流し的なコンテンツがネット上に溢れだすことも受容しなければならない)

技術の発展は、
すべての人間に表現の手段や表現の発表機会、
表現を売ること、表現を批評し分かち合うことを解放するが、

そこから「おおきな作品」が生まれ出るかどうかはわからない。

「おおきな作品」とは、とどのつまり、
「おおきな創造者・おおきな人間」が生み出すものである。

この世の中が「おおきな創造者・おおきな人間」をつくる土壌でないかぎり、
「おおきな作品」は生み出されない。

私たちは多くのモノ、多くの手段、多くの知識、多くの寿命を手にできる世の中を
つくってきたが、その代償として、
おおきな創造者、おおきな人間、おおきな作品から遠ざかる結果を招いている。

それはたぶん、科学知識の獲得や人間をラクにさせる技術が
人間から霊感やら宗教心、哲学心を奪うからだろう。
もちろん、ここで言う霊感、宗教心、哲学心というのは、
オカルト的な感応や特定の宗派のドグマに支配される心を指していない。
また難解な哲学書とにらめっこすることでもない。
自然の摂理とつながりを感じようとする、
生きることの根源を探ろうとする、
そういう「おおいなる希求心」「おおいなるセンス・オブ・ワンダー」のことだ。

再び、ゲーテの言葉―――
 「人間は、宗教的である間だけ、文学と芸術において生産的である」。

彫刻家ロダンの言葉―――
 「若し宗教が存在していなかったら、私は其を作り出す必要があったでしょう。
 真の藝術家は、要するに、人間の中の一番宗教的な人間です」。
                                 (高村光太郎著『ロダンの言葉』より)

もうひとつ、柳宗悦の言葉―――
 「実用的な品物に美しさが見られるのは、
 背後にかかる法則が働いているためであります。
 これを他力の美しさと呼んでもよいでありましょう。
 他力というのは人間を超えた力を指すのであります。
 自然だとか伝統だとか理法だとか呼ぶものは、
 凡(すべ)てかかる大きな他力であります。

 かかることへの従順さこそは、かえって美を生む大きな原因となるのであります。
 なぜなら他力に任せきる時、新たな自由の中に入るからであります。
 これに反し人間の自由を言い張る時、
 多くの場合新たな不自由を嘗(な)めるでありましょう。
 自力に立つ美術品で本当によい作品が少ないのはこの理由によるためであります」。
                                              (『手仕事の日本』より)


Kindle2 

* * * 

技術文明を享受しながら、なおかつ、宗教的な心・哲学の心を失わず
おおきな作品を生み出す豊穣な社会を築くことができるのか―――
これは21世紀の私たちに課されたそれこそ「おおきなチャレンジ」だ。

最近、「世界文学全集」を編集した作家の池澤夏樹さんは、
いま書かれている小説の中で、将来古典的な名作になるだろうものがあるとすれば、
ポストコロニアリズム(例えばアフリカや中南米の国々に起こる植民地支配以降の主義)か、
フェミニズムから生まれるのではないかという指摘をされていた。

面白い指摘だと思う。確かにこの2つを考えたとき、
その内から噴き出す無垢なマグマと、技術の恩恵とが掛け合わされば、
「おおきな何か」が誰かの手によって表現される可能性はじゅうぶんにある。

ともかくも電子書籍は元年を迎えた。
間もなくアップル社は日本での『iPad』発売を開始するし、
アマゾン社も『Kindle』の日本語版セルフパブリッシングツールを早晩準備するにちがいない。

私たちは情報量が爆発するなかで、いまや
ほぼ無尽蔵に情報・表現を摂取でき、
ほぼ無尽蔵に情報・表現を放つ(垂れ流す)ことができる。

技術革新は人間にいろいろなものを解放してくれるが、
それによって、逆説的に、人間は創造性を去勢されることも起こりうる。

技術が「おおきな作品」を生む真に有益な手段となるためには、
結局のところ、私たち1人1人が、
いかに宗教的な心・哲学の心を呼び覚ますか―――にかかっている。

 

2010年5月 4日 (火)

上司をマネジメントする〈4〉~上司の発言を「ろ過」する

Iz niji01
 (伊豆・修善寺にて1)


◆あの人の話は正論だが聞き入れたくないという心情
私たちは他人の発言に対し、
「あいつの言っていることは正論だが、あの言い方が気に入らない(だから受け入れない)」とか、
「よりによってあんな人間からそれを言われたくない(だから無視してしまえ)」など
の反応を起こすときがあります。

人は往々にして、好意を持っている人の発言はまるまる聞き入れやすいのですが、
多少なりとも嫌悪感を持っている人や、まったく見ず知らずの人の発言に対しては、
たとえ言っていることが正しいと思われても、その「言い方」や
「誰が(目上か目下か、男か女か、どんな社会的立場の人間か、風貌はどうかなど)言ったか」を
問題にしてしまい、素直にそれを受け入れることができない場合があります。

◆心にフィルターを入れよう
単なる世間づきあいの関係であれば、他人の発言は受け流すこともできますが、
これが上司/部下の関係ともなると話が違ってきます。
部下にとって上司の発言や命令は、ほぼ全面的に受け入れなければならないものです。

上司との相性がよく、良好な関係下であれば問題はないのですが、
もし、自分が上司と反りが合っていない、
もしくは上司に対して違和感や嫌悪感、不信感を抱いている場合には、
上司の発言や命令がいちいち気に障るというストレスが生じます。

上司の発言や命令が皮肉交じりであったり、慇懃無礼であったりし、
なおかつ正論であればあるほど、部下にとっては受け入れがたいストレスとなります。

そんなとき、心の中に「フィルター」を入れましょう。

「誰が」「どういうふうに」言ったかを除去し、
「何を」言ったかだけを濾過するフィルターを自分の中に組み込むのです。

「何を」言われたかだけを淡々と受け入れ、淡々と処理し、行動する。
ただ、それだけです。

◆上司の発言・命令を3つに濾過する
このことを下の図を使っておさらいしましょう。
上司の発言・命令は、3つの構成要素から成っています。
それを優先順位の高いものから並べてみます。

 
〈1〉「何を」言ったか・・・「内容」の要素
 〈2〉「誰が」言ったか・・・「発信者」の要素
 〈3〉「どう」言ったか・・・「態度・方法」の要素

Zyosi roka 

上司から何か発信があったとき、部下である私たちはまずそれを受信します。
そして意識的にフィルターを設けて、その発信を三つの要素に濾過して分離します。

まず上司が 「どう」言ったか について。
もし上司が嫌ったらしく言ったとか、冷たく言ったなどであれば、
それはフィルターでろ過して取り除いてしまい受容しないようにします。

次に、 「誰が」言ったか は、
課長の発言か社長の発言かで重要度は異なってきますから、
ケースバイケースで受容を決めます。

そして 「何を」言ったか については、これはもっとも重要な事項ですので、
これを純粋に聞き入れ、評価した上で、それに合わせて行動します。

悪い部下の例は、自分も感情的になって、
上司の発言のすべてをシャットアウトしてしまうことです。
組織で働く人間である以上、部下は上司の発言・指示の「何を」の部分だけは
(最終的にそれに従うかどうかは別にして)受け付けをしなければなりません。
ですからシャットアウトではなく、フィルタリングを心がけてください。

上司の発言をフィルターにかける―――
実践はそう簡単ではありませんが、
このことで、上司ストレスはかなり減じるはずです。
自分を守るために、感情の襞(ひだ)に上司の毒気を触れさせぬことです。


*本シリーズ記事の詳細議論は、拙著『上司をマネジメント』を参照ください。


Iz niji02 
  (伊豆・修善寺にて2)

2010年5月 2日 (日)

上司をマネジメントする〈3〉~上司ストレスを軽減する


目の前の上司をいかにマネジメントするか―――
(結局それは、自分の心と行動をどうマネジメントするかでもあるのですが)
そのことには2つの目的があります。

1つは、上司との関係ストレスを軽くすること。
もう1つは、上司という資源を活かして自分の仕事・キャリアを最大限に大きく広げること。
言ってみれば、前者はネガティブ要因を軽減するための方策で、
後者はポジティブ要因を増幅するための方策です。
今回と次回は、前者についてのことを書きます。

◆「なんであんな上司が高給を(怒)!」
さて、きょうのコアメッセージは次の言葉です;

「事柄に怒ってはならぬ。事柄はわれわれがいくら怒っても意に介しない」
                                     ――――モンテーニュ


分からず屋の上司、無能な上司、ノルマばかりを押し付けてくる上司、
理不尽な上司、権威主義な上司、プライドだけが高い上司、
いつも上役に媚びを振る上司、言うことがぶれまくる上司、決断しない上司、
自分の保身しか考えない上司、意地の悪い上司、嫉妬深い上司、
不衛生な上司、ねちっこく部下を追い詰める上司……
等々、サラリーマン組織では、反面教師としたい上司が多々見受けられます。

そんなとき部下は、
「なんであんな人間が部課長として居座れるんだ!」
「あの上司が自分より高い給料を取っているなんて許せない!」
「あんたみたいな上司に言われたくないよ!」
「上司なんだから能力があるはず。人間としても人格者であるべき」
……と、イライラが募る場面も多いでしょう。

あるいは、逆に、
「こんな上司の下で働かなければならないのも自分の運だ。あきらめよう」
「上司の追求も正しいのかもしれない。できない自分がダメなんだ」
……と、自分をとがめて辛抱してしまう人もいるかもしれません。

いずれにせよ、
こんな精神状態で日々の職場を過ごすことは、確実に自分を痛めつけます。
そこできょうの本論は、「ABC理論」による上司ストレスの軽減です。

◆その出来事ではなく、信念が感情を引き起こす
臨床心理学者アルバート・エリスが提唱した論理療法「ABC理論」の原理を簡単に紹介しましょう。

ABCとは、次の3つを意味します。
 ・(Activating Event)=ものごとを引き起こすような出来事
 ・(Belief)=信念、思い込み、自分の中のルール
 ・(Consequence)=結果として表れた感情、症状、対応など

私たちは、何か自分の身に降りかかった出来事に対し、
「よかった」とか「悔しい」とか感情を持ちます。
ですから私たちは単純に、この場合の因果関係をA→Cであるかのように思いがちです。

ところが実際は、その感情〈C〉を引き起こしているのは、
出来事〈A〉ではなく、
その出来事をどういった信念や思い込み〈B〉で受け止めたかによる
というのがこの理論の軸です。
すなわち、因果関係はA→B→Cと表されます。


Abctheory 

例えば、ある職場の同僚2人が昼食のためにある定食屋を訪れたとします。
2人は同じメニューを注文して待っていたところ、店員が間違った品を持ってきました。
そのとき、一人は
「オーダーと違うじゃないか。いますぐ作りなおして持ってきてくれ」と、
厳しく当たる反応をしました。

一方、別の一人は
「まぁ、昼食の混雑時だし間違いも時にはあるさ。
店員がまだ慣れてないのかもしれないし。時間もないからそのメニューでいいよ」と、
穏やかな反応をしました。

このように同じ出来事に対し、
結果として二人の持つ感情、そして対応がまったく異なったのは、
それぞれが持つ信念・思い込みの差であるといえます。

すなわち、一人は「客サービスとは、決して客の期待を裏切ってはいけない。
飲食サービスにおいて注文品を間違えるなどというのは致命的なミスである」
という信念を持っているがゆえに、あのような対応が生じました。
他方、もう一人は「混雑するサービス現場では取り違えや勘違いは起こるものである。
おなかが満たされれば、メニューにあまりこだわらない」
という信念で受け止めたために、あのような対応になりました。

◆自分の「べき・はず」論をどうコントロールするか
このことは、
私たちは身に降りかかってくる出来事を100%コントロールすることはできなくても、
それを受け止める信念や思い込みをコントロールすることによって、
結果的に生じる感情や対応を、自分の負担の少ないほうに緩和できたり、
自分のプラスになる方向へ誘導できたりすることを示しています。

上司との人間関係で言えば、
部下は上司の人間改造をそうそう簡単にはできませんが、
部下側が心持ちを変えることによって、対上司ストレスを軽減できるということです。

具体的には、次のようなことを留意するといいでしょう。

 ・過剰に受身的で従順な受け止めをして、自己犠牲しない
 ・過剰に攻撃的で利己的な思い込みを緩和する
 ・自分の「べき・はず」論に“遊び”(多少の余裕幅)を持たせる
 ・自分の主張を上司に100%「説得」しようと考えるのではなく、
  70%でもいいから「納得」してもらえればいいやと構える
 ・主語を「WE」(=自分のいる組織)にして考え、語る

自分の長いキャリアを健康に歩んでいくためには、
上司との間でうまく折り合いを付けながら、柔らかに自己を通していく術を身につける必要があります。
こう書くと、結局、自分の信条をすべて中和、緩和して、上司にすり寄り、
アイデンティティーの中核となる「べき」論を捨てろというのか、
それじゃ単なる優柔不断人間になれと言っているのと同じではないかと
お考えになる方もいるかもしれません――――それは違います。

職業人としてあなた自身は、
独自の「べき」論を持って、確固たる目標・目的をおおいに抱いてください。
それは上司や他人、世間がどう言おうと変える必要はなく、抱き続けるべきものです。

ただし、それを実現するための手段やプロセスにおいては、
我を通しすぎると障害が出てくることがあるので、
時に柔らかく受け止め方を変えて自分へのストレス負荷を軽くしてください。
なにせ、キャリアは何十年というマラソンなのですから健康が第一です。
健康を崩していては、目標も目的も台無しになるのです。

一本の樹を想像してみてください。
幹は揺るぎなくしっかり伸びていますが、枝葉は風になびいて、しなっています。
枝葉まで硬直してしまうと、強風にあおられて、
樹全体が折れたり、倒れたりしてしまうからです。
自分の信念をときにうまくコントロールして、 「しなる」ことが大事です
――――こういうことです。

上司との関係づくりにおいては、
ときに「負けるが勝ち」でいいじゃないですか。
そういう柔軟な“信念”が自分を助けます。

次回は、上司ストレス軽減の処方箋をもうひとつ紹介しましょう。

 

*本シリーズ記事の詳細議論は、拙著『上司をマネジメント』を参照ください。



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