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2010年5月

2010年5月28日 (金)

人生で一度は「事業主」をやりなさい! ~メンドリの参加と豚のコミット



冒頭にまず、アメリカンジョークをひとつ;

In ham and egg, the hen is only participating,but the pig is really committed.

―――ハム&エッグにおいて、
メンドリ(雌鶏)は参加しているだけだが、ブタは本当にコミットしている。


いつごろからか、ある種の「飲み会」が面白くない。
ある種の飲み会とは、
サラリーマン率の多い飲み会である。

酒席での話題はおおかた仕事や組織の話になる。
 「給料が出て当然」、
 「交通費が支給されて当然」、
 「ペン1本から個人パソコン1台まで取り揃えてもらうのが当然」、
 「これだけ仕事やってんのに会社は・・・」、
 「これだけ我慢してんのに上司は・・・」
彼らの愚痴やら正論は、こうしたマインドベースがあって出てくる。

それを聞かされる私のマインドベースは、
 「給料が出るのは当然ではない」、
 「交通費が支給されるのは当然ではない」、
 「ペン1本から個人パソコン1台まで取り揃えてもらうのが当然ではない」、
 「これだけ仕事やってんのに会社は・・・と自分の事業を責めてもしょうがない」、
 「これだけ我慢してんのに上司は・・・そもそも私に愚痴を言う上司はいない」

独立して自分の事業を起こした私(事業主)のベースと
雇われ身である彼らとのベースは根本的に違うのだ。

一方、私にとってベンチャー起業者や独立事業者の集まりは面白い。
皆、リスクを一身に背負っている。
会社員を「ビジネス兵士」と呼ぶなら、こちらは 「事業侍」 だ。

侍同士が持ち合う、世を渡る緊張感や、孤独感、スピンアウト意識、
妙な美意識や誇り、アウトロー感覚、賭博的な人生感覚、無常観……。

私はここでサラリーマンを揶揄するつもりはまったくない。
(むしろ私も、サラリーマン時代にいろいろなことを勉強させてもらったからこそ
今日の自分がある。独立において、サラリーマンというプロセスは重要なものだ

しかし、サラリーマンという生き方と、事業主という生き方の間には、
いやおうなしに大きな溝がある。

サラリーマンはどこまでいっても、やはり、事業は組織のものであり、
リスク(特に資金的なリスク)は組織が抱えてくれるものであり、
その関わり度合いは 「メンドリ的」 なのだ。

一方、事業主は、自分の事業に自分のすべてを賭して「ブタ的」に関わる

両者の仕事に対する必死さ・緊迫感に違いが出るのは当然と言えば当然かもしれない。
それにしても事業主になってみて、
よく見えてくること、強くなれることがたくさんある。

私が従業員を雇う場合、
「大企業で働いてきました。これこれこういう実績があります」という人と、
「いったん独立しましたが、うまくいかずここで再起を図りたいです」という人と、
どちらに魅力を感じるか?―――いわずもがな、後者である。
自らの事業を自らのリスクで動かそうと試みた人間は、
他人には言いきれない多くのことを内に刻んでいる。

だが実際このとき、私は彼を従業員にはしないだろう。
事業主として彼を留まらせ、業務委託という形で彼に仕事を渡す。
彼とは労使の関係ではなく、協業パートナーとして結び付きたいからだ。
彼が事業主として仕事を再び軌道に乗せることができ、
今度は私にプロジェクトをもってきてくれるまでになったらとてもうれしい。

* * *

冗談半分に言わせてもらえば、
日本で45歳以上のサラリーマンを認めない法律をつくったらどうかと思う。
もしくは、40代での退職金が最も高くなるよう制度を直すべきかもしれない。
(そして、20代30代にはもっと給料をあげよう)
40代後半からは、皆が、自分のビジネスを始める社会をつくりだすのだ。

サラリーマンを卒業して、もちろん会社を立ち上げてもいいし、
個人自営業者・インディペンデント・コントラクター(独立請負業者)として
自らの得意とする能力を売ってもいい。

要は、組織の中で安穏とぶら下がりを考えるのでなくて、
自らの能力と意志でつくりだす商品・サービスを世間様に買っていただけるよう
全人的に仕事に取り組む職業人(=事業侍・ブタのコミットメント)に万人がなっていく社会だ。
そうした潔くたくましい大人が増えればこの国は壮健になる。

自分の事業を持つ。事業主になる。―――
これは誰しも人生に一度は経験すべきものだと声高に言いたい。
それは貴重な挑戦機会となり、鍛錬機会となり、感動機会となるだろう。

* * *

今回の事業仕分けでも、官僚の天下りがずいぶん指摘された。
サラリーマンにしがみつく年寄りの保身姿は醜い。

いや、有能な人間ならそのポストに就いてもいっこうにかまわない。
就くのであれば、独立事業者として、コンサルタントにでも何にでもなって、
受託契約を1年1年きちんと市場価格で結んでいけばよい。

「メンドリの参加」程度で、割高年俸と退職金の二重取り三重取りは許されない。
潔く、社会良識をもった対価で、「豚のコミットをせよ」と言いたい。



Camp fr 
 今年もキャンプのシーズンが来た。
 私はキャンプというより「野営」という響きのほうが好きだ。
 仲間うちでワイガヤのキャンプもいいが、
 一人っきりで野営をすることもやってみるといい。
  (クマが下りてこない安全な場所で!)
 たぶん、すっごくコワイ。 少しの物音にびくびくする程コワイ。
 ランタンの明かりは1mの先までも届かず、漆黒の空間に身を置くことになる。
 夜が長い。
 たぶん「森の精」や「もののけ」を感じると思う。
 ・・・だからこそ、いい。


2010年5月23日 (日)

「人財」と書きますか? 「人材」と書きますか?



Two jinzai
 



最近、名刺交換をすると、 「人財開発部」 とか 「人財育成担当」 とか、
“人材” という表記ではなくて、
“人財” という漢字を当てる会社が増えてきたように思う。
これは、それだけヒトが重要だと認識する組織が増えてきた流れであるのだろう。

私たちの家の中には、火事などで消失してしまいたくない物がたくさんある。
成長と共に使い慣れてきた箪笥、思い出の詰まった写真アルバム、
海外で買ってきたお気に入りの食器、プレゼントでもらった置時計、
新品のスーツ、最新機種の大型液晶テレビ、データを蓄積したパソコン……
これらはみんな「家財」である。
財(たから)の価値がある。

同様に、組織で働くヒトは、大事な「財」である。
だから「人財」と書きたい。
「人財」という表記は、ヒトを大切に思いたいという意思表明なのだ。


何年か前に、あるビジネス雑誌の企画で人事担当者の座談会をやったことがある。
(私は司会者をやらせていただいた)
出席者の一人として日本では有数の大手企業の人事部長が来られていた。

私は、各出席者が人事に関わる人間として
「人材と人財の違い」についてどうとらえているかを訊いてみた。

すると、その人事部長は、
「いやー、そんなことは考えたこともなかったなぁ」と前置きし、
少し考えながら、
「みんな若いうちはどんな能力があるかわからないわけだから、
その後何に化けるかわからないという意味で “材” なんだと思う。
だけど、いつまでも “材” でいられると困るんだけど」―――というようなコメントをされた。

確かに、本来的には「人材」とは、そういう意味合いを含んでいるのだろう。
(材には「才」=能力の意味があると漢字辞典に記載があった)
それはそれで納得のいく返答だったが、
私は、その人事部長がどこかヒトに無頓着な様子がして、それがとても気になった。


これは英語表記でも同じことが言える。
日本でも一般化している「HR」とは “Human Resource” のことだ。
これは、ヒトを “資源” とみている。

このとらえ方の下では、ヒトは使い減ったり、
適性がよくなかったりすれば取り替えればよいという発想になる。
そして経営者は、多様なヒト資源をどう組み合わせて、
いかに最大の成果を出すかをひたすら考える。
ヒトは「材」という考え方に近い。

その一方で、 “Human Capital” という表記も増えてきた。
これは、ヒトを “資本” とみる。

この場合、ヒトは長期にわたって価値を生み出すものであり、
生産のための貴重な元手ととらえる。
したがって、経営者は一人一人に能力をつけさせ、
そのリターンをさまざまに期待する発想をする。
すなわち、「人財」の考え方だ。

ヒトを大切に考えるかどうかは、
実はこうした些細な表記文字によって推しはかることができる。



 

2010年5月21日 (金)

上司をマネジメントする〈6〉~「聞き上手」は3つの力

Ryomazo1r
高知県・桂浜にて
不思議なもので、ここから望む太平洋には血を騒ぎ立たせる何かがあるように思える



◆上司の中にヒントを聞く ~「観察力」「読解力」「設問力」
部下にとって、上司とのコミュニケーションは「聞くこと」が基本です。
十分に「聞く」ことなしに、事を早急に片付けようと、
上司を説き伏せようとか、考えを改めさせてやろうなどと挑んではいけません。
結果的に遠回りになったり、事がねじれたりすることが往々にして起こりえます。

上司のことをよく「聞く」ことで、その言動や素振り・習慣の中に
最適方法や近道、説得へのヒントが見えてきます。
部下は「聞き上手」でなくてはならないのです。

さて、私がここで使っている「聞く」ということは、非常に広い意味で使っています。
上司の傾向性を「察する」、上司の仕事のクセを「観る」、上司の判断を「推測する」など、
五感六感をフルにはたらかせて、上司を「感じ取る」ことを言っています。
上司マネジメントにおいて、聞き上手であるためには、
次の三つの力が重要です。それはつまり、

 ・「観察力」
 ・「読解力」
 ・「設問力」  
 です。


◆観察力を磨いて上司に「チューニング」する
部下は、上司の仕事スタイルや行動特性・志向性などがどういう特徴をもっているのか、
それを日ごろから観察して、把握しておく必要があります。
これは、部下が上司にいわば「チューニング」を施すために重要なことです。

上司へのチューニングがずれていると、
簡単に承認されるはずの案件もされずじまいに終わったり、
いい企画案も差し戻しを受けたり、
コミュニケーションで誤解を生じさせてしまうことが多くなったりします。
上司は無意識ですが、自分の波長に合うスタイル・方法で接してこられることを
要求しているのです。
そのために、部下は「観察力」を磨かねばなりません。

 ・上司の状態のいいとき・悪いときのしぐさを探る
 ・上司の強み・弱みを察する
 ・どんな仕事スタイルを好むか
  (データ重視か、感覚・ひらめき重視か、政治力重視かなど)
 ・どんなコミュニケーションスタイルを好むか
  (文書派か、口頭派かなど)
 ・どんなワークスタイルを好むか
  (研究調査系か、体育会系か)
 ・上司の価値観、仕事美学・人生美学、ポリシーを聞き出す
 ・部下が何をすれば喜ぶか、頼もしく思うかを常に考える
 ・上司はどんな行動に対して嫌悪感を抱くかを感じ取る
 ・上司という人間を複眼で観る
  (部下の眼、上司の上司の眼、友人の眼、親の眼など立場を変えて観る)

これら観察を行うのは、上司に媚びたり、妥協をするためのものではありません。
上司の波長に近い形でコミュニケーションを行うことで、
自分をより受け入れてもらいやすくするためのものなのです。


◆読解力は上司のあいまいな点と点をつなぐこと
上司の発言や行動の中には、いろいろな信号やヒントが隠れています。
上司と真っ向から対立して、自分の意見を押し通すというのは、
譲れない一大事のときは別にして、できるだけ避けたいものです。

したがって、日ごろ多くの業務の中では、
上司のベクトル(意思の力と方向)を利用しながら、
自分の思うベクトルに近づける形で着地するほうが現実策です。
そのために、上司を「読み解く」力が求められます。
これも上司へのチューニングのひとつですが、先の観察に比べ、
もう一歩踏み込んで神経と頭を使わなければなりません。具体的には、

 ・上司の発言の中に説得点・着地点を見出す
 ・上司の命令の行間を読む
 ・上司の判断を推測する
 ・上司の行動を先回りして考える

上司とて管理・監督の神様ではありません。
自分の担当事業について、どんな選択がありうるのか、
またどの選択肢が正解値なのかが明確にわかっていないときも多いのです。

部下の前で話したり、命令したりするときも、
実は自分でもあいまいなまま口に出していることがあります。
そんなときの上司の心境はどうかといえば、
「俺はこの方向で何とかいきたいと思っている。が、まだ確信はない。
この意をくみとって、部下たちから何か妙案が出てくればいいのだが……」です。

上司という生き物は勝手なもので、自分はおぼろげながらでも「点」を言えばいい、
その後、その点をクリアにして、「線」でつないで持ってくるのが
部下の仕事だと思っています。
そして実際、上司から信頼を受ける有能な部下とは、それをこなす人なのです。


◆設問力で上司と本質を共有する
聞くことにおいて、もっとも難しいのが「問いを立てる」ということです。
ここでいう「問い」とは漫然と質問をすることや、
日常業務の作業について事細かに指示を仰ぐ、確認するということではありません。

現在進行している担当事業について、自分なりの観察や読解を経て、
なんらかの仮説を立て、結論を固めるために、その本質を問うという行為をいいます。
具体的には例えば、

 ・その事業、そのプロジェクト、そのアクションの目的を問いなおす
 ・WHY(なぜそうなのか)を共有する
 ・優先順位を確認する
 ・リスクを洗い出す
 ・方法論、手段の選択肢を提案する

などのようなことを行うことです。上司とのやりとりの際には、

 ・「目的や意義を自分ではこうとらえていますが、部長はいかがお考えでしょうか」
 ・「リスクを洗い出してみましたが、他に重大なモレはないでしょうか」
 ・「この方法はコストが問題になりますが、部長の知恵をお借りできませんでしょうか」

というふうに、必ず自分で考えた土台案を基に問いかけをすることです。
手ぶらで訪れて、漫然と聞いてはだめです。

その問いが本質に近いものであればあるほど、上司はどきっとさせられるでしょうし、
「なかなかこいつは、深いところまで考えているな」と
あなたへの評価を新たにするでしょう。
また、あいまいだった上司自身の腹をその質問で固めることができれば、
組織全体にも好影響となります。

……こう書いてくると、
「何をそこまで部下が大人にやらねばならないのだ。
上司は高い給料をもらっているではないか(怒)」と思ってはいけません。

上司は欠点だらけ(そしてあなたも欠点だらけ)です。
しかし、上司は貴重な「資源」なのです。資源に怒ってもしょうがありません。
むしろ、その資源を活かすことにアタマとエネルギーを使ってください。
そのために、聞き上手になることです。できる部下は、「柔よく剛を制す」の精神です。

Ryomazo2r
―――「生きるも死ぬも、物の一表現にすぎぬ。
いちいちかかずらわっておれるものか。
人間、事を成すか成さぬかだけを考えておればよいとおれは思うようになった」。
                           (司馬遼太郎『竜馬がゆく』より)


 

2010年5月19日 (水)

地・風・火・水―――能・観・志・人

Zyumoku

◆キャリアをつくる4大要素
地球の4大要素をよく「地・風・火・水」などという。
これにならって、個々のビジネスパーソンがキャリアをつくる4大要素をあげるとすれば、
私はそれが「能・観・志・人」ではないかと思っている。

つまり、私たち一人一人が職業人として、
自分なりに満足のいくキャリア(働き様・生き様)を体現していくためには、
「能」を磨き、「観」をつくり、「志」を抱き、「人」と交わっていくことが基本要素になる。
細かくは次のとおりだ。

【能】を磨く 
 ・知識、経験(ナレッジ)を得る
 ・技能(スキル)を身につける
 ・行動特性(コンピテンシー)を強める

【観】をつくる 
 ・価値軸(バリュー)を持つ
 ・自律意識、プロ精神(マインド・スピリット)を醸成する

【志】を抱く
 ・目標像(イメージ)を描く
 ・方向性(ベクトル)を持つ
 ・情熱(パッション)を湧かせる
 ・使命(ミッション)を感じる

【人】と交わる
 ・人脈(ネットワーク)を築く
 ・人から啓発(インスピレーション)を受ける

◆能力を磨くだけでは不十分
確かに日々の業務をこなし、キャリアをつくっていくためには
「能を磨く」ことが大事だし、それが一番の基本になる。
だから、私たちは自己研鑽を怠ってはいけないし、
会社も従業員にいろいろな能力研修を施そうとする。

しかし「能を磨く」ことは、キャリアをつくる上で一部の役割しか果たさない。
技能や知識、経験といった要素は、あくまで仕事を成すための手段にすぎないからだ。
手段の取得に終始しているキャリアには早晩行き詰まりがみえてくる。

30歳前後からは、仕事の目的(=目標+意味)を自分なりに見出し、
自分の仕事をつくり出していかなければキャリアの展開は望めない。
目的観なしには、能力的にもマンネリ感や限界感が出てきて、「能を磨く」意欲も低下してくる。
キャリアの停滞はそのようなところから始まる。

◆4要素の好循環がキャリアを大きく展開させる
そこで重要になってくるのが、「観をつくる」ことだ。
すなわち自分の価値軸を持ち、自律的に考え、
自ら創造した選択肢にリスクを負って果敢に行動することだ。

自分の「観」で定めた行動だから、たとえ失敗しても悔いはないはずだし、
その失敗は未来に必ず活きるものになる。

自分の中に「観」ができてくれば、次はそれを基盤として、
目指すべき理想像は何か、情熱を燃やすことのできる目標は何かといった「志」を抱けるようになる。

そうすれば、それを実現するためにどんな「能」が必要になってくるのかが明確になる。
となると、それを獲得するためにがんばろうという具体的で新鮮な意欲が湧いてくる。
キャリアの停滞や中だるみを打破するブレイクポイントはまさにここにある。

また、同じ方向の想いや価値観を持っている「人」たちとの人脈交流も重要である。
そうした人たちと社内外で出会い、結びつきあうことで、さまざまに触発を受け、
「観」や「志」がいっそう深く固まってくるからだ。
情熱は伝染するものであるし、
人は人によってしか感化されないものである。

このように能・観・志・人の要素は相互に影響しあっている。
この4要素の循環を起こすことで、キャリアは力強く展開を始める。

◆能・観・志・人=幹・根・陽・水
4要素を樹木にたとえてみると、
 ・能=幹、枝葉
 ・観=根
 ・志=陽の光
 ・人=水

さらに言えば、
 ・仕事舞台(担当プロジェクト、雇用組織、業界、社会)=大地
 ・仕事上の成果=花、木の実
 ・自分のキャリア=樹木の姿

能・観・志・人の4要素はどれも大切ではあるが、
その中でも私はやはり「観」が一番肝心だと思っている。
「観」が強ければ、環境をたくましく活かしていける自己ができあがり
「強いキャリア」を展開していくことができる。
逆に、「観」が弱ければ、環境に翻弄されがちな自己となり
「弱いキャリア」しか歩めない。

強いキャリアとは、納得の仕事の連続、泰然自若の職業人生である。
弱いキャリアとは、妥協の仕事の連続、付和雷同の職業人生である。

いずれにしても、多忙という圧力によって働かされている私たちは、
職業人として「なぜ働くのか?」、「この多忙はどこかにつながっているのか?」
「自分はこの仕事を通して何を世に提供したいのか?」と言う自問を常に投げかける必要がある。

自分にある程度答えを持っている人は、すでに根っこ(=観)ができているので、
キャリアという樹木はちゃんと大きくなっていくだろう。
もし、まだ答えを持ち合わせていないようであれば、
樹木の生長にはいったん限界がくるかもしれない。
それどころか、危うくすると枯らしてしまうことも起きかねない。
(心身の病の危機はいつもそこにある)

◆人に会え・立志伝を読め
「観」をどうやって醸成すればよいかという方法論に関しては、
万人に効く統一のハウツーやマニュアルのようなものはない。
自分でもがきながら徐々に固めていくものだからだ。
何事も“No pain, no gain. No challenge, no progress. ” である。

しかし、その醸成を促すきっかけを他からもらうことは可能である。
仕事・キャリアに行き詰ったら、私が勧めることは2つ。

 1)「想い」を持った人にどんどん会うこと。
 2)偉人伝、立志伝を読むこと。

仕事と関係が薄くてもよい。自分が共感できる趣旨で行われている
イベントやセミナー、勉強会、NPO活動、ボランティア活動などに参加する。
(運営側に回ればさらにいいだろう)
そうした「想い」で動いている人たちからエネルギーをもらえる。
そして彼らの「観」という根っこの大きさを知る。

また、強く、高く、豊かに生きた人の本を読むことも
萎えた自分、ダレた自分、沈んだ自分を蘇生させるのに役立つ。
平成ニッポンに生まれてウジウジしている自分がちっぽけに感じられるだろう。
自分がたくましく大人になっていくために「ロールモデル」は不可欠だが、
ロールモデルは何も身の回りの生きた人物でなくともよい。
本を通して出会う人間でいっこうにかまわないのだ。

そんなところからまたエネルギーを湧かせて行動を起こす。
その過程で、自分の「観」が次第につくられていく。
気がつけば、「能」の付き方や、「志」の明瞭さ、「人」の広がりが以前よりも増しているはずだ。
―――そうやって、人は停滞を脱し、成長してゆく。


Zyumoku2 
(長野県・安曇野にて)

2010年5月14日 (金)

留め書き〈010〉 ~「平安」という状態

Tome010 
    平安とは静止した状態ではない。
    二輪の自転車は前進することで安定する。


若者は、内向き志向で「おこもり消費」。
働き盛りは、疲れから身を守るためにいろいろな「癒し」探し。
リタイヤ組は、悠々自適な「趣味暮らし」。

誰しも、自分の心身、自分の生活に「平安」が必要である。
で、その「平安」って何だろう---?

安全地帯にこもって好きなことに時間を費やすのが平安だろうか?
種々のグッズやサービスで癒されるのが平安だろうか?
残りの人生を気楽に趣味に充てるのが平安だろうか?

もちろんそれらが悪いわけではない。
(私だって、そうするときがたくさんある)
しかしそれらから得られるのは、小さな平安・か弱い平安だろう。

人が、泰然自若と「自分の人生、これでよし」と肚が据えられるのは、
何か大きな目的の下に邁進しているとき、奮闘しているときだ。
苦労や障害は多いが、そこには大きな平安・図太い平安がある。

自転車は止まったとたん不安定になる。
ぐんぐん漕いで前に進んでこそ安定するものだ。
筋肉を使うしんどさと心地よさ、
向かい風を受けるしんどさと心地よさ、
そして景色が変わる面白さ。
力強く前進しようとする自転車の上でこそ、私は平安を感じる。


「毎日が休日というのは、地獄の実際的な定義である」
---誰かがそんな言葉を残していた。

「私は来客の応対ばかりしていると疲れる。仕事をすると元気になる」
---と言ったのはパブロ・ピカソだ。

また精神分析学者のフロイトは長生きするための秘訣をいくつかあげたが、
そのうちのひとつは、
---「朝起きて、やるべき仕事を持っていること」だ。

これらは単に仕事好き人間の言葉ではない。
ここで言っている仕事とは、必ずしも有給の職業・生業を指さない。
使命(文字通り、自分の命を使って行う)的なことがらを指している。

ほんとうの平安は、使命的な挑戦課題を見つけ、動いている最中にある。

そしてその挑戦課題に向かう自分を応援してくれる家族、仲間、同志がいれば、
なおいっそう平安は強まる。

悩みや困りごとがないから平安なのではない。
のんびりラクだから平安なのではない。
夢、志、使命という坂を上ることによって平安なのだ


 

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