目標に働かされるキャリア vs 目的に生きるキャリア
「目標」と「目的」の違いは何でしょうか?
私は次のような定義をしています。
ここで「3人のレンガ積みの話」を紹介しましょう。
さて、彼ら3人それぞれの「目標」・「目的」は何でしょう?
目標とは、簡単に言えば「成すべき状態」のことです。
それらはたいてい、定量・定性的に表わされます。
ですから、レンガ積みとして雇われている3人の男の目標は同じです。
それに対し、目的とは、そこに「意味」の加わったものです。
3人は同じ作業をしていますが、そこに見出している意味は違います。
目的が天と地ほど異なっています。
目標をもつことは働く上で必要なことです。
しかし、中長期のキャリアにおいて、しばしば「目標疲れ」することが起こります。
それはたぶん、その目標が他から与えられたものだからです。
もし、その目標に自分なりの意味を付加して、目的にまで昇華させたなら、
「目標疲れ」は起きません(もしくは、ぐんと軽減されるはずです)。
むしろ、大きな意味を付加すれば付加するほど、大きなエネルギーが湧いてきます。
中長期のキャリアで、
最大の防御(=疲弊から身を守ること)であり、かつ、
最大の攻撃(=意気盛んに働くこと)は、 「目的」を持つことなのです。
いまスライドに2つの働き様A、Bを示しました。
働き様Aは、いまやっていることが目標に向かっている形。
この場合、目標達成が最終ゴールとなり、
目標が達成されたか達成されなかったか、のみが関心事になります。
一方、働き様Bは、いまやっていることが目標に向かいつつ、もうひとつその先に目的がある形。
この場合、最大関心事は目的の完遂、言い換えれば、意味の充足であり、
目標達成はそのための手段・プロセスとしてみなされるにすぎません。
---さて、あなたはどちらの働き様でしょうか?
で、働き様Bの形をもっと掘り下げて考えてみましょう。
目的は、現実の自分にいろいろなものを向けてきます。
ひとつには、「意味・意義」を還元します。
「いま自分のやっていることは何のためなのか?」それを問うてきます。
もうひとつには、「やり方」を問うてきます。
「目的を成就するためにそんなやり方でいいのか?」
「原点となる目的を忘れるな。いまの方向は修正したほうがいいんじゃないか」など。
そして、現実の自分に「エネルギー」を充填してくれます。
人間は意味からエネルギーを湧かせる動物だからです。
「人間とは意味を求める存在である。
意味を探し求める人間が、意味の鉱脈を掘り当てるならば、そのとき人間は幸福になる。
彼は同時に、その一方で、苦悩に耐える力を持った者になる」。
―――ヴィクトール・フランクル『意味への意志』より
(フランクルはナチス軍下の捕虜収容所を生き延びたオーストリアのユダヤ人精神科医)
目的をもった人間の働き様はこんなような形になります。
―――そうです、円環の形です。
さてさらに、その働き様に時間軸を加えてみてみます。
働き様Aは、毎期毎期、会社からの目標をクリアすべく働きます。
上司と面談をして目標を設定し、期末ごとにそれができたかできなかったかの査定があり、
賞与が決まり、年収が決まり、それを繰り返していくキャリアの形になります。
キャリアステージのレベルは年次とともに多少は上がっていくかもしれません。
「係長になれた」「課長になれた」「部長になれた」・・・しかし組織の役職によるキャリアステージは
会社を辞めてしまえば消失してしまう時限のものです。
……そして、定年を迎える。
何かしら業務上の目標があったことが当たり前だったサラリーマン生活から一転、
自分自身の今後の人生の目標・目的はまるっきり白紙の状態です。
はてさて、それを、自分で設定しなければならないのですが・・・
一方、働き様Bはどうでしょうか。
Bは、いまやっていること→目標→目的が円環になっていますから、
それがどんどんスパイラル状に膨らんでいき、
働きがいやら朗働感やらが増幅されるキャリアになります。
そして、時間の経過とともにライフワークのようなものが見えてきて、
しっかりとした意味の下、定年後にやりたい選択肢もちゃんと創造できているはずです。
事業組織で働いて給料を得る以上、
組織からの目標は一つの契約であって、受け入れるのが当然のものです。
目標があるからこそ成長できることも多々あります。
ですから私のように自営業であっても、きちんと目標を立てて自らを律しています。
問題は、何十年と続く職業人生にあって、
他人の命令・目標に働かされ続けるのか、
それとも自分なりの意味・目的にまで昇華させて、そこに生きるのか―――この一点です。
この目に見えない一点の差が、40歳、50歳になったとき、とんでもなく大きな差になっているものです。