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2010年10月

2010年10月17日 (日)

「自信」について ~自らの“何を”信じることか


Kitaro sst01 
私は東京・調布に住んで15年め。
今年、『ゲゲゲの女房』効果で市はたいへん盛り上がりました。
調布駅前の天神通り商店街(通称:鬼太郎ロード)にて



さて、きょうは、「自信」という言葉を見つめなおしてみたい。

「あなたには自信がありますか?」と言ったとき、その自信とはどんな含みだろうか。

つまり、「自信」とは読んで字のごとく「自らを信じる」ことなのだが、
自らの“何を”信じることなのだろうか。

◆2種類の自信
今日では、何か目標や課題に対しそれをうまく処理する能力が自分にある、
そして具体的な(量的)成果をあげられると強く思っている―――
そんな意味で使われる場合がほとんどだ。
つまり、「自らの〈能力と具体的成果〉を信じる」ことを自信と言っている。

しかし、自信とはそれだけだろうか?
自信という言葉はもっと大事なものを含んでいないだろうか?

広辞苑(第六版)によれば、自信とは、
「自分の能力や価値を確信すること。自分の正しさを信じて疑わない心」―――とある。
そう、能力を信じる以外に、
自分の「価値」を信じる、自分の「正しさ」を信じるのも自信なのだ。

だから、たとえ自分の能力に確信がなくとも、
具体的成果が出るか出ないか分からないにしても、
自分に(自分のやっていることに)質的価値を見出し、
意味や正しさを強く感じているのであれば

「自信がある」と言い切っていいのである。

自信を2つの種類に分けるとすれば、

1: 「能力・成果への自信」 =自らの〈能力と具体的成果〉を信じる
2: やっていることへの自信」 =自ら行っていることの〈価値・意味〉を信じる

となるだろうか。
前者は「達成・優劣志向」であるし、後者は「意義・役割志向」である。



◆水木しげるさんの自信は何だったか?

私は2番目の自信を強く持ち続け、結果的に大成した人物として
『ゲゲゲの女房』で再び時の人となった漫画家・水木しげるさんをイメージする。

水木さんは終戦後、兵役から戻り絵を描く商売で身を立てようとするのだが、
売れない時代が何年も続き、夫婦は赤貧の日々だった。
水木さんには売れる漫画を描くという(いわばマーケティング)能力への自信は
まったくなかった。

しかし、自分の描いている作品への価値や意味に関しては揺るぎない自信があった。
ゲゲゲの女房こと武良布枝さんは、どん底の貧乏で明日のことは見えなかったが
水木さんのその自信にずいぶん励まされもし、安心感も得たという。

自分に果たして能力があるのか、それで成功できるのか、などを
いちいち深刻にとらえず、

自らのやっていることを信じ、肚を据えてひたむきに仕事と向き合う。
そしてつくり出したものを世間に「これでどうだ!」とぶつけることをやり続ける。
自らが信じる価値や意味の中からエネルギーを湧かせる―――
これも間違いなくひとつの自信の姿である。

Kitaro sst02 

『ゲゲゲの女房』の佳境は何と言っても、長く続く不遇の日々のなか、
大手出版社の編集者がひょっこりと事務所に現れ、
以降、水木さんがとんとん拍子に出世していく箇所だ。
原著『ゲゲゲの女房』では第4章にあたり、
見出しは「来るべきときが来た!」となっている。

著者の布枝さんによれば、
夫(水木しげる)の信念と積み重ねた努力が報われないはずがない、
報われる準備をしてきて、いま、それがこういう形で報われたのだ、ということだ。
水木さんは、1番目の「能力・成果への自信」というより、
2番目の「やっていることへの自信」を捨てなかったことによって
大輪の花を咲かせた事例である。

さらに言えば、2番目の自信を貫き懸命に仕事をやった結果、
ついには1番目の自信も獲得した、そんな事例だ。

昨今のビジネス現場では、何事も能力と具体的(量的)成果が問われる。
そのために、「自分には十分な能力がないのではないか」とか、
「他より優れた成果を出すことができるだろうか」といった不安に取り囲まれ
縮こまってしまう。

そして結果が伴わないと「自分は有能ではない」といたずらに自分を追い込んでしまう。

そうした現状にあって、私が言いたいのは、仕事をする本人も、
そして上司や組織も、能力や成果に対しての自信をとやかく問い過ぎるな、
その自信を問うよりも、もうひとつの自信、つまり、
「自分がやっていることの価値・意味への自信」をもっと掘り起こせ、ということだ。

Kitaro sst03 

私個人の話をすると、
私は独立して8年目を迎え、これまで6冊の著書を刊行させてもらっている。
私は当初から事業をうまくやる能力や本を書く能力に自信があったわけではない。
ましてやヒット商品やベストセラー本を当てる確信もなかった。
しかし、自分のやろうとする事業や自分の書く本の意義に関しては
依怙地なまでに譲れない軸を持って、自らを信じてやってきたつもりである。

「やっていることへの自信」は、何よりも“粘り”を生む。
能力の不足や見込みの甘さによって事業の苦労は絶えないが、
自分が価値を見出している仕事であるから、粘れるのだ。
粘れるとは、多少の失敗にもくじけない、踏ん張りどころで知恵がわく、
楽観的でいられる、そんなようなことだ。

そしてもがいているうちに、本当に必要な能力もついてくる、成果も出はじめる。
まさに水木さんと同様、2番目の自信がベースにあれば、
1番目の自信は時間と労力の積み重ねのうちについてくるものであることを実感している。


◆自信の4象限

自信を持つことにおいて最良の状態は、
「能力・成果への自信」と「やっていることへの自信」の両方を持つことだが、
どうすればそういう境地に至れるのか―――それを図で考えてみたい。

次の図は、本記事で説明した2つの自信を分類軸に用い、4象限に分けた図である。
それぞれの象限を次のように呼ぶことにしよう。

Jisinz 01 


 〈達人〉 =「能力・成果への自信:強い」×「やっていることへの自信:強い」
 〈腕利き〉 =「能力・成果への自信:強い」×「やっていることへの自信:弱い」
 〈使命感の人〉 =「能力・成果への自信:弱い」×「やっていることへの自信:強い」
 〈縮こまり〉 =「能力・成果への自信:弱い」×「やっていることへの自信:弱い」


理想の境地〈達人〉に至るには2つのルートがある。

ひとつめに、
まず自信のベースを「能力・成果への自信」に置き(=「腕利き」となり)、
そこから自分のやっていることへの価値や意味を見出していって〈達人〉に至る
―――これがルートSである。

ふたつめに、
まず自信のベースを「やっていることへの自信」に置き(=「使命感の人」となり)、
そこから能力や成果への自信をつけていって〈達人〉に至る―――これがルートBだ。
もちろん一個の人間の内で起こることはとても複雑なので、実際のところ、
人はルートSとBを混合させながら動いていくわけであるが、ここでは単純化して考える。

Jisinz 02 


◆2つの坂
次にこの4象限を斜めから俯瞰したのが下の図である。
この図は、〈達人〉の境地が最も高いところに位置しており、
そこへの道のりは、2つの坂を上っていかねばならないことを示している。

Jisinz 03 

ひとつの坂は「能力・成果への自信」をつけるための傾斜で、すなわち、
習得する・熟達する・安定して成果を出すという技能的な鍛錬をいう。
もうひとつの坂は「やっていることへの自信」をつけるための傾斜で、すなわち、
やりがい・意義・使命感を見出すという意志的な希求をいう。

〈達人〉に至るルートSとルートB、この2つはどちらがよいわるいというものではない。
人それぞれにいろいろあっていい。

さきほど水木しげるさんや私個人の例で示したのはルートBのほうだ。
Bの場合、〈使命感の人〉になるまでのルートB1という坂を上ってしまえば、
そこからもうひとつの坂(ルートB2)を上るのは必然性があるので努力がしやすい。
なぜなら上で説明したように、「やっていることへの自信」がある人は、
それを世の中に知ってもらおう、広げようとする“粘り”が出て、
技能的な習熟に自然と懸命になれるからである。
その点で、〈使命感の人〉は比較的〈達人〉に近いといえる。

一方、〈腕利き〉は〈達人〉から遠くなる場合がある。
というのは、〈腕利き〉は、ルートS1という坂を上って
能力・成果に対する自信をつけていくのだが、自分の腕前が上がってくると、
技能や知識そのものが面白くなってきたり、
成果をあげることで経済面で裕福になったり、

成功者として満足を得たりして、その状態に留まってしまうことが起こるからだ。
ルートS2という坂は、価値や意味を見つけるというあいまいな作業である。
技能を磨く、成果を出すといったような具体的なものではない。
だから〈腕利き〉の状態にある人たちは、少なからずが〈達人〉を目指さなくなる。

私は仕事上、多くの人のキャリアを観察しているが、
〈腕利き〉に留まった人ほど、燃え尽き症候予備群であったり、
人事異動によってその後のパフォーマンスがぱたりとさえなくなったり、
リタイヤ後の人生に漂流観を感じたりする場合が多いようだ。
また、〈腕利き〉の中でも、
仕事をひとつの求道だとみる人、職人気質の人、何か大きな病気にかかった人などは
ルートS2の坂をしっかり上っていくように思う。

加えて言っておけば、〈使命感の人〉にも陥りやすい穴はある。
自分のやっていることに大きな意味を感じる、とそれだけで自己満足になってしまい、
技能的な努力をおざなりにしてしまうことや、
自分のやっていることは正しく社会的意義があるのだから、
世の中は当然認めてくれるはずだという期待がわき、
成果を意図的に出そうとするのではなく、成果を半ば受け身で待つという姿勢になりやすい。
いずれもルートB2を上らなくなるという穴だ。

こんなとき、〈使命感の人〉に対するアドバイスは、
「正義は勝つ」のではなく、「正義は勝ってこそ証明される」を意識させることである。


◆「長けた仕事」と「強い仕事」

〈腕利き〉は、自らの専門技術や知識を活かして「長けた仕事」をする。
〈使命感の人〉は、自らの強い価値信念のもとに「強い仕事」をする。
前者の「長けた仕事」においては、
目標の達成度や事がうまくできたかどうかの優劣が問われ、競争が働く者を刺激する。
後者の「強い仕事」においては、
成すべきことの意味や自分の役割が問われ、共感が働く者を刺激する。

「長けた仕事/競争」も「強い仕事/共感」もどちらも大事であるが、
昨今の事業現場では、「長けた仕事/競争」への偏りが大きいことが問題だ。
いったい今のあなたの職場に、
自分の仕事に関し、自分自身への意義、組織への意義、社会への意義を見出しながら、
こうあるべきという信念を軸に自律的な「強い仕事」をしている働き手が
どれくらいいるだろうか。

それと同時に、上司や組織は、そうした意義を引き出すために、
どれだけ個々の働き手たちと共感の対話をしているだろうか。
(これについては拙著『個と組織を強くする部課長の対話力』で詳しく書いた)

“skillful”な(スキルがフル=技能が詰まった)人財ばかりを求め育てるのではなく、
“thoughtful”な(思慮に満ちた)人財を増やしていくことにもっと上司と組織は
意識を払うべきである。

そのためにはまず、上司と組織が、自組織にとっての2番目の自信、
すなわち、自らの組織がやっていることの価値・意味を信じることが不可欠だ。
そしてそれを言語化して、部下や社員に表明できなくてはならない。
企業が単に利益創出マシンになっているところからはこの自信は生じないだろう。


◆負けたら終わりではない。やめたら終わりだ
個人においても組織においても、自信をもつことは精神的な基盤をもつことに等しい。
逆に、自信をなくすことは基盤をなくすことでもある。
自信には2つあるが、では、
1番目の「能力・成果への自信」と2番目の「やっていることへの自信」と
どちらが最下層の基盤なのだろう?―――私は後者だと思っている。

先日、知人のベンチャー会社経営者と会ったとき、
会社存続が危ういことを打ち明けられた。

事業整理もし、人員整理もし、ぎりぎりのところで踏ん張ろうとするのだが、
それでも見通しは厳しい。

いっそ会社をたたんでリセットしてしまい、
一人身軽に再出発するほうがはるかにラクだという。

有能なコンサルタントであった彼の自信はもはやズタズタに切り裂かれた。
経営能力の不足、経営者としての未熟さ……自分を責めても責めきれないのだが、
そうこうしている間にも、次の資金繰りのタイムリミットもくる。

「やはり会社をたたむかな」……。
そこで会ったとき、彼は最後にそうつぶやいていた。

2週間ほど経ち、再び彼から連絡があった―――会社をたたまずに頑張りたいと。

彼の内では、「能力・成果への自信」は完全に砕かれていたが、
「自分がやろうとしていることへの自信」は消えていなかったのだ。
確かに彼は、会社を軌道に乗せるというビジネスの勝負にはいったん負けた。
しかし、負けたからといってそこで終わりではない。
自分がやりたい・やるべきだと信ずるものを持ち続けることをやめたら、
そこが本当の終わりなのだ。

彼は起業当初の志をまだ捨てていない。最下層の基盤は彼の内で死守された。

自信とは不思議なもので、特に2番目の自信は、

苦境や不遇の状態に身を沈めているときにこそ強化される場合がある。
なぜなら、2番目の自信は「意志的な希求」という坂を上ることによって得られるもので、
まさに人は、苦しい状況にあればあるほど
価値や意味といったものを真剣に求めようとするからだ。
自らの信ずるものは、苦難によって篩(ふるい)にかけられると言ってもよい。


たぶん、水木しげるさんも赤貧の下積み時代に、
自ら信ずるところの想いを地固めし、自らの存在意義を確かめながら、
20年30年分のアイデアを溜め込んでいたに違いない。
そうした自信を基盤にした人は、突然のブレイクでヒットしたとしても、
中身が詰まっているので、その後、泡沫のように消えていかないのが常だ。
たまたま要領よくスマートに物事が処理できて、早くから成功してしまい、
その能力に自信過剰になった人間が、

その後、逆に人生を持ち崩すことがあるのとは対照的である。

「能力・成果への自信」と「やっていることへの自信」、
この両方を自分の内に強く持って、〈達人〉の境地で働くこと---
これはすべての働き手にとって大きなテーマである。


Kitaro sst04 
水木しげるさんの作品・キャラクターが長生きするのは 
「能力に長ける」と同時に、「自らの仕事に対する信念がまっとうで強い」からではないでしょうか。

Kitaro sst05 
「長けた仕事」×「強い仕事」をするために、私たちには2つの自信が必要になる。


 

2010年10月 4日 (月)

「能動・主体の人」vs「受動・反応の人」

 
Murodo01 
立山・室堂平にて。血の池を手前に雄山を望む


先日、いまだ就職先が決まっていない大学4年生たちに会う機会があった。
依然、ネットで求人情報を探し回る日々なのだが、
新案件はほとんど出てこず、宙ぶらりんの状態が続いているという。
親から経済的支援を継続してもらえる学生なら、
卒業を1年延期する手続きをとって、来春もう一度就職活動をする選択肢があるが、
そうでない学生は、いったん卒業し、
派遣でもアルバイトでも食うための手当をしながら、再チャンスを探すということになる。

私はそうした彼らに対し、おおいに励ましもし、具体的なアドバイスもするのだが、

最終的には「自分自身が力を湧かせて勝ち取るしかないんだよ」と言うほかない。
しかし、
「リーマンショック以降の不景気・就職氷河期という大きな社会情勢の中にあって、
一個人は非力すぎる、どうしようもない」―――
いまだ就職口の見つからない学生の心にはそんな気持ちが充満しているだろう。
だからといって、そのことで大人はいたずらに同情するだけではいけない。
彼らが真に必要なのは、事を切り拓くように促す激励や助言であって、同情ではない。

もちろん、社会として支援制度を補強することも、景気全体をよくすることも必要だ。

しかし、マスメディアはそうした外部環境要因を特別に取り上げ、
センチメンタルなトーンで学生たちをある種の悲劇の主人公に仕立てる内容も少なくない。
すると学生の中には「そうだ就職できないのは景気のせいなんだ」、
「こんなタイミングに生まれ合わせた自分が不幸なのだ」、
「企業は非情だ。社会は何もしてくれない」などといった
勘違いの言い訳や被害者意識が蔓延してくる。この蔓延を放置してはいけない。
私たちは厳父(肝っ玉母ちゃんでもいいのだが)の心で、
外部環境がどうあれ、
国に期待していいのは最低限の支援やセーフティネットであって、
人生やキャリアそのものの本幹をつくっていくのは、あくまで自分自身の意志と力なのだ
と勇気づけていくことが求められる。
職を得るというのは、「自立」の根幹に関わる問題である。
この一線が死守されなければ、個人も国も立ち行かなくなる。

それにしても、自分を取り巻く環境の力がいやおうもなく大きなものと感じられ、

自分の努力の範囲で変えられることなど些細なものだという気持ちに陥るときは
就職学生に限らず、一般の私たち1人1人にも日頃よくあることだ。
勤めている組織が大きければ大きいほど、
社会が複雑になればなるほど、
経済システムがグローバル規模に広がれば広がるほど、
自分の人生が不遇であればあるほど、
環境や運命に対する投げやり感・無力感は心の内に根を広げる。

きょうの本題は、そんな自分と環境・運命の関係である。

* * * * *

◆自分と環境・運命は「因果の環」にある

私たちは経験で「自分が変われば環境・運命が変わる」ことを知っているし、
また「環境・運命が変わることで自分が変わる」ことも知っている。

つまり、

自分の意志や行動は、環境や運命に影響を与える。
そして同時に、環境や運命は自分にも影響を与えてくる。
―――それを簡単に示したのが下図である。

Ingawa01 
 
自分と環境・運命は、図のように

ニワトリが先かタマゴが先かという後先のつかない関係になっていて
互いに因果の連鎖でぐるぐる回っている。

このとき、 「自分→環境・運命」の影響方向を強く意識するか、
それとも「環境・運命→自分」の方向を強く意識するか―――
これはどちらが正解/不正解というものではないが、

どちらを主にして腹に据えるかは、長い人生を送るにあたって極めて重要な一点である。

◆変化の起点を自分に置くか自分の外に置くか

因果の環において、「自分→環境・運命」の方向を強く意識することは、
言い換えれば、変化の起点を常に自分に置くことである。
逆に、「環境・運命→自分」の方向を強く意識することは、
変化の起点を自分の外に置くことだ。

この起点の置き方の違いは、人間を2種類に分ける。
前者を「能動・主体の人」と呼び、後者を「受動・反応の人」と呼ぶことにしよう。
具体的には―――

 【能動・主体の人】

 ○状況はどうあれ他者や環境への働きかけはまず自分から起こすという意識を持つ。
 ○ゼロをイチにする仕掛けをやってみて、周りにどんな影響が出るかを待つ。
  そして、周りから返ってきたものを刺激にして、またみずから仕掛けていく。
  この繰り返しのなかで、自分の方向性を修正したり、確信を深めたりしていく。
 ○口グセは、「変わんなきゃ変わんない」、「ここまでやった自分に納得」、
  「人事を尽くして天命を待つ」等々。

 【受動・反応の人】

 ○自分が変わるきっかけをいつも他者や環境、運命といったものに期待する。
 ○いったん起きた出来事に対して一喜一憂し、どう反応すればいいかに気をもむ。
 ○口グセは、「環境がこんなだから」、「あの上司さえ代わってくれれば」、
  「自分には運がないので」、「自分の居場所はこんなところじゃない」等々。

Ingawa02 


◆「いま・ここの自分」がすべての出発点

「能動・主体の人」は、自分の過去がどうあれ、自分をどう活かすも、
また未来をどうつくるも、すべてその出発点は「いま・ここの自分」にあると考える。
その意識を見事に表したのが、
米プロ野球メジャーリーガー松井秀喜選手を育てた
星陵高校野球部の部室に貼ってあるという指導書きである(山下智茂監督の言葉)。


「心が変われば行動が変わる。行動が変われば、習慣が変わる。

習慣が変われば、人格が変わる。人格が変われば運命が変わる」。


これをイメージ化したのが下図である。

Ingawa03 

この図は、自分を取り巻く環境や外界で起きるさまざまな出来事、

そして降りかかる運命は、「いま・ここの自分」の一念と地続きであることを示している。

しかし、たった今の自分の意志で、

現環境とか運命とかいった大きな流れを変えられるのだろうか?―――
これは誰しも何か遠い話、つながらない話のように聞こえる。
「今は毎日の仕事をこなすのでいっぱいいっぱいなのに、
環境を変える、運命を変えるなんて、そんな……」というのが実感ではないか。

だが、この指導書きは、いきなり環境や運命が変えられるとは言っていない。

まずは自分の心を少し変えてみたらどうか、行動を変えてみたらどうかと言うのだ。
これならたった今から誰でもできる。
例えば、朝何時に起きる、すれ違った人には必ず挨拶をする、
月に何冊の読書をする、そしてその感想のブログを書く、など。
これら行動の蓄積や習慣は、中長期に必ずその人自身に影響を与えていく。
そして気づけば人生コースが変わっている―――星陵高校の指導書きはこういう論法だ。

確かに振り返ってみればわかるとおり、

現時点での自分の環境や運命は、決して偶然そうなったわけではない。
これまでの過去において、意図するしないにかかわらず、
自分が何らかの選択や行動をしてきた蓄積結果として現れているものだ。
私たちは、実は瞬間瞬間に選択を重ねてきた。
「いや、特段心を決めて選択したわけでもない」と言う人もいるかもしれないが、
それは「心を決めずに事をやり過ごす」という選択をしたのだ。

◆人はしんどさの質を選べる

働いていくこと、生きていくことは、どのみちしんどいものだ。
しかし、人はそのしんどさの質を選ぶことができる。
「受動・反応的」に日々を送り過ごすことは、ある意味、ラクではあるが、
環境に振り回されるしんどさを味わう上に、
自分の行き先がどんどん流されていくという不安も背負い込む。
他方、「能動・主体的」に働きかけていくことは、行動を仕掛けるしんどさはあるが、
自分の方向がどんどん見えてくる面白さがある。

どのみちしんどいのであれば、あなたはどちらを選びますか?―――

その問いはすなわち「いま・ここの自分」をどう変えていきますか、
ということにほかならない。すべての人にとって、「いま・ここの自分」は、
その瞬間以降の人生の大きな分岐点であり、出発点となる。
常に一瞬一瞬を「能動・主体的」に生きる人は、
最終的に自分の想う方向にひらいていくことができ、生涯を通じて若い。

* * * * *

◆1人1人の思考と行動がこの世界をつくっている

さて、話をもう少し広げていく。
私たちは21世紀に入り、ますます、
一個人として制御のきかない社会に生きている感覚を強くしている。
しかし、そんな中だからこそ、
「自分が変われば、環境が変わる」―――これは信ずるに値する原理だ。
つまり、自分が変われば家族が変わる、自分が変われば会社・組織が変わる、
自分が変われば地域・国・国際社会が変わる、
自分が変われば自然・地球が変わる、という原理だ。

この世界は、私たち1人1人の絶え間ない思考・言動の連続・集積体である。

英国の哲学者、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861-1947年)の考え方を借りれば、
この世界は「関係性の森」である(仏教思想はこれを「縁起」と説く)。
私たち1人1人のどんな瞬間的な、どんな些細な思考や言動も
ことごとくこの「関係性の森」に通じ、この森に影響を与え、この森をつくっている。

ホワイトヘッドは『観念の冒険』の中でこう言い表す―――

「われわれは、どんな分子で身体が終わり、外の世界がはじまるのか、いうことはできない。

脳髄は身体と連続しており、
身体は自然の世界のほかの部分と連続しているというのが真理なのだ」と。

                                                                  (参考文献:中村昇著『ホワイトヘッドの哲学』講談社)

この複雑な「関係性の森」の内では、無数の「こと」が相互に反応し合い、

新しい「こと」が生起し、その森自体の性質やら形やらを決めていく。
このとき、森の住人である私たち1人1人にとって重要なのは、この森を
楽観・意志に満ちたみずみずしい森にするのか、
それとも、悲観・感情が覆いかぶさる茫漠とした荒れ地にするのか、だ。

Ingawa04 
 


◆世に望む変化があるなら、まずあなた自身がその変化になりなさい

個人が、家族が、会社が、地域が、国が、世界がよりよくなっていくための答えは
自明である。

マハトマ・ガンジーは次のように言った(そして事実そう行動した)。
“You must be the change you wish to see in the world.”
(この世の中に望む変化があるなら、あなた自身がその変化にならねばならない)

また寓話だが、ハチドリのクリキンディはこうした。

 ―――森が燃えていました
 森の生きものたちは われ先にと 逃げて いきました
 でもクリキンディという名の ハチドリだけは いったりきたり
 くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは 火の上に落としていきます
 動物たちがそれを見て 「そんなことをして いったい何になるんだ」 といって笑います
 クリキンディは こう答えました
 「私は、私にできることをしているだけ」―――
 
                   (南米アンデスの先住民の話:出典『ハチドリのひとしずく』辻信一監修・光文社)


環境(家族、会社・組織、地域、国、国際社会)はどのみち変化していく。

そのとき、1人1人が「能動・主体の人」となり環境に働きかけをしていくなら、
環境は楽観と意志の方向に動いていく。決して一筋縄ではないが。
逆に、1人1人が「受動・反応の人」となり環境を傍観・放置すれば、
環境は悲観と感情の方向に漂流を始める。その結果は歴史の教えるところである。

◆中国からのメールマガジン

ちょうどいま、日中関係がぎくしゃくしている。
国家間の関係づくりもまた、一個人の想いや力は微細なものだと思える類のものだ。
今回の尖閣諸島での出来事で私が残念に思うのは、
両国ともマスメディアから流れる自国側のニュースによって
「やっぱり中国人は~」、「やっぱり日本人っていうのは~」という
ステレオタイプを貼りつけて、相互に不信と嫌悪を募らせている点である。

そんな折、現在、中国に長期滞在している仕事仲間のビジネスコンサルタント
戸井雄一朗さん(クイックウィンズ社)からメールマガジンを受け取った。
その冒頭の一部を紹介させていただく。

=戸井さんからのメールマガジン文(抜粋)=

 「日中関係に緊張感がはしっている中、相変わらず中国に滞在しています。
 テレビのニュースを見ると、中国の数々の圧力で両国の関係の悪化が報じられています。
 家族や友人が心配してメールをくれたりします。
 かくいう私も今回こうして長期で滞在する前は、
 こうした国際的な摩擦があると、「ああ、中国だからね」と思っていました。
 しかし、実際に接している中国人の方々はいたって親切なんですよね。
 世話になっているサービスアパートメントの不動産屋さんは
 全くの業務外のことでも困っていると助けてくれます。
 タクシーの運転手さんは言葉が通じなくても一生懸命話しかけてきて、
 私の下手くそな中国語の発音を笑いながら直してくれたりします。

 一人ひとりの関係と、国益をめぐる国際関係は別物だと認識しました。

 国益をめぐる関係と個人の人間関係は全く異なるものなので当たり前とは思いますが、
 一人ひとりの集合体が組織(この場合は国家)であるはずなのに、
 組織は個人とは異なる顔を見せるようです。

 そんな国同士の諍いをしり目に、今日も中国人のメンバーと仕事をします。

 時には議論しあい、時には冗談を飛ばしあいながら。
 両国がもめているこんな時期だからこそ、
 それはちょっぴり感動的で誇りに思える光景です」―――。


……この文章は、にわかにざわついていた私の心を穏やかにしてくれた。

このメールマガジンは1万4000人ほどに配信されているというから、
その中にも少なからず詰まった息をほっと吐けた人もいるのではないだろうか。

私個人もこの内容はよく理解できる。

米国留学時代や国内大学院時代に何人もの中国人学生と知り合ったが、
中国人といってもやはり千差万別の性格や考え方をもった人間たちなのである。
彼らの中には、繊細な人もいれば、金儲け欲より社会貢献欲のほうが強い人もいる。
尊敬できる人もいるし、歴史観を中立に持っている人もいる。
逆に、日本人でも粗暴な人はたくさんいるし、守銭奴のような人間も多く見かける。
尊敬できない輩もいるし、偏った歴史観で物事を決めつける人間もいる。

私たちはついつい物事を単純化したレッテルを貼ってとらえてしまいがちになる。

マスメディアから流れてくる報道(特に映像)はその恰好の材料となる。
十把一絡げでばっさりと裁断したほうが思考がラクだからだ。
しかし、それは「受動・反応の人」の行動である。悲観と感情が私たちを縛りはじめる。
そうなって得することは両国民と国家にとって、一切ない。

だから、こういうときこそ1人1人が「能動・主体の人」になることが求められる。

戸井さんのように中国の人びとと直接的に交流できなくとも、
私たちは人間主義に立って、
「だから中国人は~だ」とか「やっぱり中国は~だ」といったばっさりとした思考を止め、
日中の友好はかなう、なぜならお互い人間同士だからだと思うこと―――
ここから1人1人の能動・主体がはじまる。
そういう楽観(能天気ということではない)と意志が底辺に満ちてこそ
政治や外交は建設的な成果を得られる。

中国に限らず、韓国にしても、ロシアにしても、

隣国への思いや考えは日本人の中にもさまざまある。政治的な利害の対立もある。
しかし国家間の友好関係は1人1人の願望からはじまり、民間交流でしか築けない。
それには長い時間と労力と忍耐を要する。
日本人はその時間と労力と忍耐を引き受ける成熟さをもっていると私は信じたい。

私たち1人1人は、一生活人、一働き人、一家族人、一国民、一地球人として生きる。

「環境が~だから、自分は~できない」と思うのではなく、
「自分が~すれば、環境は~に変わっていくだろう」と構えることで、
生活や職場、家庭、国、この地球はずいぶんとよい場所になるに違いない。

Murodo02 
Murodo03 
立山・室堂平にて。浄土山(上)と日本海側の雲海に沈む太陽
 

 

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