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2010年11月

2010年11月24日 (水)

風を待つのではなく、木を植えよう


Nakaizu04 
伊豆・天城路にて



 「希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。
  それは地上の道のようなものでもある。
  もともと地上には道はない。
  歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」。

                                     ―――魯迅 『阿Q正伝』


この言葉は、魯迅が生きた近代中国の状況を下地にすると、しんしんと響いてくる。
20世紀初頭の中国といえば、
国は体を成さないほど混乱し漂流し、容易に列強の支配を許す。
人民の多くは粗野で教育がなされておらず、生きながらえるだけの日々を過ごす。
そんな中で、魯迅は「希望」を立てようとしたのだ。
(こうした希望は、ガンジー、キング、マンデラに通じる)

いまの平成ニッポンは確かに物質的には恵まれているものの、
漂流感がある、希望から遠いといった意味では、決してよい状態にあるとはいえない。
社会全体に広がりをみせる功利主義や拝金主義、冷笑主義に三無主義、
さらには、うつ病や自殺の増加、格差の拡大、生きる力の脆弱化……
私たちはいま、特段希望を持たずとも、ギスギス、ギリギリとなら生きていける
不思議な時代に生きている。

しかし、私はやはり希望を持ちたい。希望を持って健やかに生きたい。
そして希望をつくりだす仕事がやれれば本望だとも思う。
さて、希望という名の道をつくるために、私は2つの方法を思い浮かべる。
ひとつは、

「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」。
                         ―――高村光太郎 『道程』

のとおり、勇者が一人先頭を切って道を切り拓いていくこと。
人びとは安心してその後を歩いていけるだろう。
そして希望の道はつくられる。
もうひとつは、

『桃李言わざれども下自ずから蹊を成す』
(とうり いわざれども した おのずから けいをなす)
                              ―――中国の諺

のとおり、芳(かぐわ)しい桃や李の木を植えること。
そうすれば人びとはその木の下に自然と寄っていくだろう。
そしてそこに道ができあがる。


私は個人で独立して8年めを迎える。
最初3、4年のころまでは、 “風を待っていた”。
「自分に風が吹け、風が吹け。そして自分を舞い上げてくれ」―――
とそんな姿勢だったように思う。
……しかし、
商売の年を重ね、人間としての歳を重ねるうちに、きちんと大人になったようで、
いまでは、 “木を植えよう” という心持ちになった。
いつしか風が気にならなくなった。

木とは、もちろん、「働くとは何か?」という大きな問いに光と力を与える
ほんとうによい教育プログラムのこと。
そして自分が死んでも生き続けるようなプログラム。
そのプログラムが桃李のごとく人を寄せて、その下に筋のようなものが見えはじめる
―――そんな景色を天国から眺めるのは、さぞ気持ちのいいことだろう。


Nakaizu02 


 

2010年11月21日 (日)

「人材」と「人財」の違いを考える


Kyoto2869r 
京都にて(1)


◇ ◇ ◇ 考える材料 =1= ダイヤモンドの2つの価値 ◇ ◇ ◇

ダイヤモンドには2つの「価値」側面がある。
つまり、ダイヤモンドは高価な宝石として取り引きされる一方、
研磨材市場においても日々大量に取り引きされているのだ。
前者は「財」(たから)としての価値が扱われ、
後者は「材」としての価値が扱われている。
1粒1粒のダイヤモンドは、産出されるやいなや、
「財」商品に回されるか、
「材」商品に回されるか決められてしまう。

では、この両者の境界線はどこにあるのか。
それを一言で表せば「代替がきく」か「きかない」かである。

「財」はその希少性・独自性から代替がきかない。
だから大粒のダイヤモンドは宝飾品として重宝され、高い値段がつく。
石によっては、家宝として代々受け継がれるものもある。
一方、研磨材として利用されるダイヤモンドは、
その1粒1粒の大きさや品質に特出したものがなく、その採掘量は多い。
その硬いという性質から研磨材に回されるわけだが、使い減ってくれば、
やがて新しいものに取り替えられる運命にある。
消耗品としてのダイヤモンドの姿がそこにはある。

◆代替されるから「材」/代替されないから「財」
ダイヤモンドにみる「財」と「材」の価値差は、
私たち一人一人の働き手にもまったく同じことが当てはまる。
「その仕事はあなたでしかできないね!」と言われる人は、
代替がきかないゆえに「人財」である。
逆に、「その仕事はあなたがやっても、他の人がやっても同じ」と言われてしまう人は、
代替がきくゆえに「人材」なのだ。

景気に左右されず、いつの時代にも「財」としてのヒトは足りないものだ。
ピーター・ドラッカーは『プロフェッショナルの条件』の中で医療機関を例に出し、
病院には技術機器が多く投入されているが、ヒトは減っていない。
逆にそれを使いこなす高度で高給なヒトが余計に必要になっている旨を書いている。

労働力はいま、はっきりと二極化していく流れになっている。
人「材」は若くて安い労働力、もしくは機械に取って代わられ、飽和していく。
その一方、人「財」はかけがえのない価値を持つがゆえに、
ますます尊ばれ、逼迫していく。
自分が「材」に留まるのか、それとも「財」に昇華していくのか、
ここは人生・キャリアの重大な分かれ目となる。

 “Always be a first-rate version of yourself,
instead of a second-rate version of somebady else. ”

「他人の物真似で二流でいるより、自分らしくあることで一流でありたい」。
                                 ―――ジュディ・ガーランド(米国女優)



◇ ◇ ◇ 考える材料 =2= ヒトを資源とみるか資本とみるか ◇ ◇ ◇

最近、名刺交換をすると、「人財開発部」とか「人財育成担当」とか、
“人材”という表記ではなくて、
“人財”という漢字を当てる会社が増えてきたように思う。
これは、それだけヒトが重要だと認識する組織が増えてきた流れであるのだろう。

私たちの家の中には、火事などで消失してしまいたくない物がたくさんある。
成長と共に使い慣れてきた箪笥、思い出の詰まった写真アルバム、
海外で買ってきたお気に入りの食器、プレゼントでもらった置時計、
新品のスーツ、最新機種の大型液晶テレビ、データを蓄積したパソコン……
これらはみんな「家財」である。財(たから)の価値がある。

同様に、組織で働くヒトは、大事な「財」である。
だから「人財」と書きたい。
「人財」という表記は、ヒトを大切に思いたいという意思表明なのだ。

◆Human ResourceかHuman Capitalか
これは英語表記でも同じことが言える。
日本でも一般化している「HR」とは“Human Resource”のことだ。
これは、ヒトを“資源”とみている
このとらえ方の下では、ヒトは使い減ったり、
適性がよくなかったりすれば取り替えればよいという発想になる。
そして経営者は、ヒト資源を他の資源(モノ・カネ・情報)とどう組み合わせて、
最大の成果を出すかをひたすら考える。
ヒトは「材」という考え方に近い。

その一方で、“Human Capital”という表記も増えてきた。
これは、ヒトを“資本”とみる
この場合、ヒトは長期にわたって価値を生み出すものであり、
生産のための貴重な元手ととらえる。
したがって、経営者は一人一人に能力をつけさせ、
そのリターンをさまざまに期待する発想をする。
すなわち、「人財」の考え方だ。

ヒトを大切に考えるかどうかは、
実はこうした些細な表記文字によって推しはかることができる。



◇ ◇ ◇ 考える材料 =3= 石組みとブロック積み ◇ ◇ ◇

武田信玄は「人は石垣、人は城」と言った。
1人1人違った個性が心をひとつにして石垣、城となれば、
難攻不落の基地ができあがるとの意味だろう。

さて、石垣を造るのに、1個1個形の違う石を組み合わせて完成させるのは、
技術的に難しいし、手間や時間がかかる。
しかし、いったん巧みに組んでしまえば、なかなか崩れない。
それに比べ、レンガブロックを積み上げる建造法は、
形状と質を規格化し均一化したブロックを扱うため、技術的には容易で、
スピーディーに柔軟的に建造ができる。しかし石垣ほどの頑強さは出ない。

事業組織は、実に多様な個性をもつヒトの集まりである。
1人1人の働き手を、1個1個形の違う石として活かし、
事業という建造物を組み立てていくのは、
経営者にとって、人事担当者にとって、上司にとって、
とても手間がかかるし、煩わしいし、忍耐と根気の要る作業となる。
しかし、そうして成就させた事業というのはとても強いものになる。

その一方、働き手を組織の要求する
人材スペックの枠にはめ込み、技能・資格を習得させ、ある価値基準に従わせる
―――
つまりヒトを規格化し、均質化したブロックにすることで、
事業目標をスピーディーに効率よく達成させるという方法もある。
経営者にとって、人事担当者にとって、上司にとって、
働き手をブロックにしたほうが何かと扱いがラクになるのだ。
しかし、人びとの関係性は粘りのあるものでなくなり、失うものも多い。

もちろんこの2つは両極の姿であって、実際の組織はこの両極の間のどこかで
ヒトをある割合「石」ととらえ、ある割合「ブロック」ととらえながら用いていく。
組織にとって大事なことは、
1人1人の働き手を極力個性ある「石」として活かすことだ。
ヒトをいたずらに「ブロック」化して、取っ換え引っ換えやればいいと考える組織は、
早晩、ヒトが遠ざかっていく。
また、働き手にとって大事なことは、
他と代替のきかない「石・岩」となって輝くことである。
決して没個性な「ブロック」になってはいけない。
組織にとってブロックは使い勝手がよく、同時に取り換え勝手もいいのだ。



◇ ◇ ◇ 考える材料 =4= 宮大工棟梁の言葉 ◇ ◇ ◇

西岡常一さんは、
法隆寺の昭和の大修理(1300年ぶりといわれる)を行った宮大工の棟梁である。
『木のいのち木のこころ〈天〉』(草思社)から、彼の言葉を少し長いが引き出してみる。

  「口伝に『堂塔建立の用材は木を買わず山を買え』というのがあります。飛鳥建築や白鳳の建築は、棟梁が山に入って木を自分で選定してくるんです。それと『木は生育の方位のままに使え』というのがあります。山の南側の木は細いが強い、北側の木は太いけれども柔らかい、陰で育った木は弱いというように、成育の場所によって木にも性質があるんですな。山で木を見ながら、これはこういう木やからあそこに使おう、これは右に捻(ねじ)れているから左捻れのあの木と組み合わせたらいい、というようなことを見わけるんですな。これは棟梁の大事な仕事でした。
  今はこの仕事は材木屋まかせですわ。ですから木を寸法で注文することになります。材質で使うということはなかなか難しくなりましたな。材質を見る目があれば、この木がどんな木か見わけられますが、なかなか難しいですな」。

  「この大事なことを分業にしてしまったのは、やっぱりこうしたほうが便利で早いからですな。早くていいものを作るというのは悪いことではないんです。しかし、早さだけが求められたら、弊害が出ますな。

  製材の技術は大変に進歩しています。捻れた木でもまっすぐに挽(ひ)いてしまうことができます。(中略)木の癖(くせ)を隠して製材してしまいますから、見わけるのによっぽど力が必要ですわ。製材の段階で性質が隠されても、そのまま捻れがなくなるわけではありませんからな。必ず木の性質は後で出るんです。それを見越さならんというのは難しいでっせ」。

  「そうした木の性格を知るために、木を見に山に入っていったんです。それをやめてどないするかといいましたら、一つは木の性格が出んように合板にしてしまったんですな。合板にして木の癖がどうのこうのといわないようにしてしまったんですわ。木の性質、個性を消してしまったんです

  ところが癖というのはなにも悪いもんやない、使い方なんです。癖のあるものを使うのはやっかいなもんですけど、うまく使ったらそのほうがいいということもありますのや。人間と同じですわ。癖の強いやつほど命も強いという感じですな。癖のない素直な木は弱い。力も弱いし、耐用年数も短いですな。
  ほんとなら個性を見抜いて使ってやるほうが強いし長持ちするんですが、個性を大事にするより平均化してしまったほうが仕事はずっと早い。性格を見抜く力もいらん」。

  「曲がった木はいらん。捻れた木はいらん。使えないんですからな。そうすると自然に使える木というのが少なくなってきますな。使えない木は悪い木や、必要のない木やというて捨ててしまいますな。これではいくら資源があっても足りなくなりますわ」。

  「依頼主が早よう、安うといいますやろ。あと二割ほどかけたら二百年は持ちまっせというても、その二割を惜しむ。その二割引いた値段で「うちは結構です」というんですな。二百年も持たなくて結構ですっていうんですな。千年の木は材にしても千年持つんです。百年やったら百年は少なくても持つ。それを持たんでもいいというんですな。ものを長く持たせる、長く生かすということを忘れてしまっているんですな。

  昔はおじいさんが家を建てたらそのとき木を植えましたな。この家は二百年は持つやろ、いま木を植えておいたら二百年後に家を建てるときに、ちょうどいいやろといいましてな。二百年、三百年という時間の感覚がありましたのや」。


Kyoto2934 
Kyoto2860rr 
京都にて(2): 関西出張に合わせ、1日延泊して京都の紅葉見物へと思うのですが、京都市内の
ホテルは平日でもどこも満室で取れない状況です。不景気どこ吹く風という感じです。
古都の魅力は、同じ場所に来ても、前回気づかなかったことがいろいろと見えてくることでしょうか。
それは「変わらず高くある」ものの大きさゆえでもあり、
年齢を重ねるごとに自らの未熟さを知る自分の小ささゆえでもあります。





2010年11月13日 (土)

「ものをつくる/選ぶ」はその人自身の表れである


Matsum1 
長野県・松本市中町にて(1)



 作り手は「売れ線に置きにいく」ものづくり

 買い手は「売れてるみたいだから」のもの選び
 この2つの車輪を付けた荷車は
 商品を山積みにして陳腐という坂を下っていく。


少し前、自宅オフィスの電話機を買い換えようと家電店に行ったのだが、
どうもピンとくるものがなくて選べない。
どのメーカーも主張のないデザインで似たり寄ったり。
機能はテンコ盛りだが、商品全体として、何か作り手の志が伝わってこないのだ
厳しい見方をすれば、
組織の中で働くサラリーマン技術者、マーケター、デザイナーたちが、
無難に売るため、上に通すための社内の合意形成をしているうちに
角が取れ、骨は抜け、平均値の姿になってしまったというか。
(私もかつてメーカーで商品開発をやっていたのでそれがよく推察できる)
結局、購買意欲がげんなりとしぼんでしまい、買い換えをやめた。

同じ日、目覚まし時計も買い換えをしたかったので、
次に時計売り場に行ったが、案の定、
店頭には溢れんばかりの品数が展示してあるものの、状況は電話機よりひどかった。
いったいぜんたい、作り手や売り手は
この程度の完成度をよしとして売っているのだろうか?
プロとしての心意気や気概をそこに込めようとしているのだろうか?
逆に見えてくるのは「こんな程度でいいだろう」という緩慢で粗雑な姿勢だ。
(私はそうした製品をあまり家に持ち込まない。その精神が伝染しそうだから)

「しょせん低単価の海外生産品なんだからそんなもの」と
それらを無視することもできるのだが、じゃあ、少し単価が上の日本製品はというと、
五十歩百歩の違いしかないので困ったものだ。
それでも、こういったレベルでそこそこ売れているようだから、
実際のところは、消費者のセンスが実に甘く見られているということだろう。

Matsum3 
長野県・松本市中町にて(2)


書店に行くと、人気の書き手が書いた本が何種類も平積みになっている。
(私も本を書くのでやっかみで言っているのではないけれど)
いったんヒットを出した書き手には、
その後、出版社が一気に押し寄せにわかに同じような内容でいろいろと書かせる。
出版社の目利き機能、新しいタレント発掘機能はどこへいったのだろう?
こんな書き手選びで編集者ができるなら、誰でもできる。
で、本を買う側も「売れてるみたいだからいい本なんだろう」ということで、買う。
すると、「売れるから売れる」というベストセラーサイクルができあがる。

地方出張に出かけたり、地方をドライブ旅行すると、
どこもかしこも同じナショナルチェーン店が並んでいることに気づく。
衣料品店も、雑貨店も、外食店も、百貨店の地下の惣菜・菓子売り場も、
東京で見るロゴの看板ばかりが目につき、街の風景はさながらリトル・トウキョーだ。
日本の地方都市には、もはや個性がなくなっている。
(大阪や名古屋ですらも)

……日本のものづくり力(ここでは、モノ・サービス・情報コンテンツなど
すべての商財づくりを含んでいる)が弱まっていると言われて久しいが、
それは、海外へ生産拠点が移っているからとか、モノ余りになっているからとか、
そういう現象面ばかりの理由で片付けていては、
日本のものづくり力の本当の回復はない。

Matsum5 
長野県・松本市中町にて(3) 
「珈琲まるも」の店内は民藝の家具でしつらえられています。訪れる価値アリです。



フランスのリオンはなぜ「食の都」と言われるのか?

―――それは味にうるさい客がたくさんいるからだ。
1人1人の大人の舌を持った顧客が、料理人を育て、店を育てる。
そして1人1人の職人も顧客と戦うように、自分の信ずる味をぶつけてくる。
リオンに限らずフランスの各地を旅行して回ると分かることは、
個店が独自で強いことだ(イタリアも同様)。だから地方の店、町は面白い。
安さと引き換えに合理化と平準化を押し付けてくるナショナルチェーンに
抗(あらが)うたくましき作り手と買い手がいまだ健在なのだ。

米国がなぜ「グーグル」や「i-phone」などオリジナリティーの強いものが創造でき、
またノーベル賞受賞者を数多く輩出できるのか? それは、
「何か面白いことをやっているやつ」をちゃんと評価する文化があるからだ。
米国人は、独自の面白いアイデアを出した者を、それが年下であろうが、
何の職業をやっていようが、どこの国籍だろうが、「面白そうじゃないか」と言って、
ピックアップする。そうして価値あるものになりそうならどんどん支援する。
米国の個人主義は“利己的に閉じている”という誤解があるが、
実際は“利己的に開いている”個人主義だ。
アイデアやスピリットを持って努力している個人を、他の個人は放っておかない。
だから個人レベルであちこちからとんでもない発想が起こり、形になる。
そして「俺たちが欲しかったものはこれだ! どうだい、君たちも欲しいだろ?」
というような力強い商品が世の中にどんどん出てくる。

もちろん大衆レベルでみれば、フランスにもアメリカにも、
ものづくりやもの選びに主張のない人たちもたくさんいる。
しかし、個人が抜きん出たり、はみ出したりすることを阻む圧力はないし、
むしろそれを評価し、押し上げてやろうとする精神の習慣がある。
日本はその逆で、個人が枠から出ることを押さえ込むし、
枠の中に収まっていることで安穏とするという精神の習慣がある。

日本がものづくり力を回復させていくためには、つまるところ、
この精神の習慣を新しく強いものに変えていくことが必要だ。
(民族性や文化といったものは、精神の習慣を源とする)

Matsum4 
長野県・松本市中町にて(4) 中町通りにあるカレー店「デリー」


創造を喜ぶこと、創造を面白がること。
人と違っていることが、個性であり、その人の持つ貴い価値であること。
周りの考えをつねに気にしてキョロキョロするのはカッコ悪いこと。
自分自身の基準で「私はこれがいい!」と言えること。
安住ゾーンから一歩外へ出る勇気を持つこと。
「誰が言ったか」ではなく、「何が語られたか」に注視できること。
そしてそれが価値あるものであれば、誰が言ったかに関係なく敬意を払えること。
長いものに巻かれない個人の独歩精神。
志のない粗雑な仕事を毛嫌いすること。
安いだけの粗雑なものに囲まれると自分が粗雑になることを恐れること。
……そうした精神の習慣をつくりなおしていく(もちろんよい習慣は受け継いでいく)
ところから、ものの作り手として1人1人の仕事が変わり、
ものの選び手として1人1人の購買が変わり、
日本のモノやサービス、情報コンテンツ、そして街の風景が変わっていく。

Matsum2 
長野県・松本市中町にて(5) 



◇ ◇ ◇ ◇


〈信州の松本・小布施を訪ねて〉

松本市の中町通りそして小布施町には、
町として「自分たちはこれでいくんだ」という健気な意志が感じられます。
中町通りは、単に土蔵造りの歴史的町並みであるというだけではなく、
そこに「民藝」の軸を通しています。

小布施は、高井鴻山や葛飾北斎を歴史文化的な観光資源として最大限活かしながら、
同時に栗菓子で知名度を全国に知らしめています。
(栗菓子は岐阜県の中津川がもっとも有名ですが)
特に小布施は、地元企業「小布施堂・桝一市村酒造場」の頑張りが大きい。
この企業については面白い情報がたくさんありますので、ウェブサイトをのぞいてみてください。

 

Obusedo 
小布施にて(1) 栗菓子の「小布施堂」 
同社が20年前から提唱しているのが「産地から王国へ」という運動だそうです。
「一次産品の生産者はその量を目指すのではなく、地元の消費者と手を携えて多様性を追求し、
加工品の質にもこだわり、最終的にはその産物により豊かな生活文化を築いてゆこうというものです」
(同社ウェブサイトより)


Obusems 

Obusems2 
小布施にて(2) 「桝一市村酒造場」 


Obusems4 
小布施にて(3) 栗の小径





2010年11月11日 (木)

留め書き〈016〉~自分はどれほどの人財か



Tome016 
 
  自分が社長になったとしたら、
  自分自身を社員として雇いたいか……!?

  自分がどれほどの人財かを知りたいなら、この問いを自分に発してみるといいだろう。



 
 

 

 

2010年11月 8日 (月)

創造する心~ものをみるために私は目を閉じるのです


Akigumo 
あれほど暑かった夏も去り、ふと見上げると空の模様もすっかり変わった



◆以前の創造といまの創造は何か別のものになった

ここ数年、私は好んで詩の本を手に取ることが多くなった。
もちろんひとつには仕事上の能力向上のためというのがある。
あいまいな概念をうまく言葉として結晶化させ、
受け手(=お客様)に咀嚼しやすい形で差し出すことは
教育のプロとして磨かねばならない能力のひとつだ。

だが、その理由以上に感じるのは、
自分自身の仕事における創造や創造する心が、
詩作や詩人の心とずいぶん近くなってきたからではないか―――ということである。

例えば、いま新川和江の『詩が生まれるとき』 (みすず書房)
『詩の履歴書~「いのち」の詩学』 (思潮社)の2冊を読んでいる。
彼女は詩の生まれ出るときの様子をこう書いている―――

  あ、このひと、息をしていない―――と自分で気づく一瞬が、
  私にはしばしばある。われにかえり、深く息を吸いこむのだが、
  多くの場合、ひとつの思いを凝(こご)らせようとしている時で、
  周りの空気に少しでも漣(さざなみ)が立つと、
  ゼリー状に固まりかけていた想念が、それでご破算になる。
  高邁な思想や深い哲学性をもつ詩の種子でもないのだけれど、
  ひと様から見ればとるに足りない小品も、そうしたいじましい時間を経て、
  やっとやっと、発芽するのである。

また、「詩作」と題された詩は―――

  はじめに混沌(どろどろ)があった
  それから光がきた
  古い書物は世のはじまりをそう記している
  光がくるまで
  どれほどの闇が必要であったか
  混沌は混沌であることのせつなさに
  どれほど耐えねばならなかったか
  そのようにして詩の第一行が
  わたくしの中の混沌にも
  射してくる一瞬がある

  それからは

  風がきた 小鳥がきた
  川が流れ出し 銀鱗がはねた
  刳(く)り船がきた ひげ男がきた はだしの女がきた

  (中略)

  それが済むと

  またしても天と地は
  けじめもなく闇の中に溶け込み
  はじまりの混沌にもどる
  だから 光がやってくる最初のものがたりは
  千度繙(ひもと)いても 詩を書くわたくしに
  日々あたらしい

私は自らのビジネスにおいて、詩ほど純粋無垢な創造活動をやっているわけではないが、
それでも、彼女の言い表そうとするこの微妙で繊細で、
それでいてどこか壮大な感覚を持つことがしばしばある。
だから、この文章に接したときに額のすぐ奥のほうの細胞がぴんと反応したのだ。
しかし、
「創造」という作業は仕事で昔から嫌というほど恒常的にやってきたはずなのに、
昔はあまりこういう感覚にはならなかった。

それはなぜだろうと、少し考えを巡らせてみる……
企業勤めをやっていたころの創造は、
マスの顧客に受けようとする企てや仕掛け、あるいは、
何かゲームに勝つことの戦略や目論見のような類のもので、
そこでうまく創造ができると、「してやったり!」といった痛快さを得るものであった。
それに対し、いまの仕事での創造は(主には教育プログラムをつくることであるが)、
何か自分から滲み出た(絞り出したといったほうが適切だろうか)作品を売っている
そんなような類のものになった。
うまく創造ができると「そうか、自分はこんなものをつくりたかったんだ」
という驚きがある。
このように、以前の創造といまの創造は何か別のものになった。


◆創造することの広がり図
そこできょうは、「創造」あるいは「創造する心」について整理してみたい。
まず私は、次の4つの創造の軸を考える。
 
 ・「真」を求める創造
 ・「美」を求める創造
 ・「利」を求める創造
 ・「理」を求める創造

これら4つの軸で図を描くと下のようになる。

Souzouzu 


〈1〉真/美を求める「芸術」的創造
創造といえば、大本命はここである。
言葉を紡ぐ、物語を編む、句を詠む、曲を書く、音を奏でる、歌を歌う、
絵を描く、形を彫る、器を焼く、書を認める、舞いを舞う、茶を立てる……
これら美を追求する創造は、それ自体が目的となり、
よいものが出来たことこそが最大の報いとなる。
もちろんここでいう芸術的創造は芸術家の作品だけにかぎらない。
暮れ泥(なず)む光の中で普段の道を歩き、ふと季節の変わり目の風を感じたとき、
その驚きを何か手帳に書き留めておきたい、そうした詩心による作文も立派な創造である。
また子供が白い画用紙に無心で描きなぐる絵も、
浜辺で夢中でこしらえる砂のお城も芸術的創造だ。

芸術的創造は、表現を極めていけばいくほど、それは求道となり、
その先に見えてきそうな真なるものを見出したいという想いへと昇華していく。
その昇華の過程では、創造は感性的な表現という優雅なニュアンスではなくなり
情念の噴出を形として留める闘いに変容する。

〈2〉美/利を求める「生活」的創造
生活の中では実にいろいろな知恵が起こる。
これは日常を美しく生きたい、便利に暮らしたいという気持ちから起こる創造である。
例えば家電製品や生活雑貨の商品開発においては、
ユーザーの使い勝手がいいように機能や形状を考えに考える。
これはこの生活的創造の次元に立った作業である。

〈3〉利/理を求める「戦略」的創造
武力戦争にせよ、ビジネス戦争にせよ、戦いの場では勝利・生き残りをかけて、
創造が活発に起こる。
それは覇権を握るための仕組みづくりであったり、
競争優位に立つための改良・改善であったり、
相手を陥れるための謀(はかりごと)や実利を得るための駆け引きであったりする。
ここでは、データを分析し、ロジックに考え、
勝てる確率を客観的に上げていくという創造が行われる。

〈4〉理/真を求める「研究」的創造
20世紀、アインシュタインが残した世界最大級の創造は、E=mc2という数式。
自然科学の世界の創造とは、
物事を理で突き詰めていって、何かの法則を発見することだ。

科学者の研究にせよ、学童の自然観察にせよ、
その創造の源泉は、万人の心の中にある好奇心である。
「なぜだろう?」「なんだろう、これ?」―――この単純な問いかけこそ
この宇宙を貫く“大いなる何か”への入り口なのだ。

……このように創造と言ってもさまざまに広がりがあり、
私たちはその広がりの中のさまざまな地点で創造を行っている。
で、先ほど、私自身の仕事上の創造を振り返り、
以前の創造といまの創造はどこか別物になったような気がする、書いた。
その“別ものになった”をよくよく考えていくと、
実はこの図でいう創造の地点が変わったからではないか、ということに行き着いた。

つまり、以前の仕事では自分の創造(あるいは、創造する心)が
主に、利×理を求める「戦略」象限でなされていたのに対し、
現在の仕事では、真×美を求める「芸術」象限、より正確に言うと、「芸術」象限の中でも
真×理を求める「研究」象限との境に近いところ、でなされるようになった。
私は日々、ビジネスを真剣にやってはいるものの、いまの創造は、
競争戦略のための創造というより、詩作に近い創造なのだ。
だから詩人・新川和江の言葉に響くのだと思う。


◆「うわべの理×利得」の創造に偏っていないか
もとより創造は人間に備わった素晴らしい能力である。
図の4象限のうちのどんな位置で行われる創造であっても、創造は価値あるものだし、
創造はやっている本人に面白みも、充実感も与えてくれる。

しかし、私が感じるのは、昨今の企業現場での創造が、
あまりに経済的な「利」にとらわれ、同時に、
あまりに「理」がうわべだけの知識使いになっていないか、
そしてそのために
創造が何かギリギリと尖り、ペラペラと薄くなっていないか―――そんな点だ。

マックス・ヴェーバーは『職業としての学問』でこう語る。

 「情熱はいわゆる『霊感』を生み出す地盤であり、

 そして『霊感』は学者にとって決定的なものである。
 ところが、近ごろの若い人たちは、学問がまるで実験室か統計作成室で取り扱う
 計算問題になってしまったかのうように考える。
 ちょうど『工場で』なにかを製造するときのように、学問というものは、
 もはや『全心』を傾ける必要はなく、
 たんに機械的に頭をはたらかすだけでやっていけるものになってしまった」。

……この中の「学問」という単語を「仕事」に置き換えてもまったく有効である。
言うまでもなく、ここでヴェーバーが使う「霊感」とは、
単なるひらめきよりもずっと深い意味を込めている。
ましてやオカルト的な怪しげなものを言っているのでもない。
霊感とは、何か大いなるものとつながっている智慧の一種だ。

企業の現場では、ますます大量のデータを蓄積し、情報分析の手法を編み出し、
こぞってロジカルシンキングを重視し、理知的に創造をさせようとする。
そしてその創造は競争に勝ち残る、利益を獲得するという目的に向けられている。
創造を「理×利」の方向に押し進めれば押し進めるほど、
私たちは霊感(語感が重ければ“インスピレーション”と言ってもいい)による創造から
どんどん遠ざかってしまう。
私はここで理知的に利益を求める創造が悪いと言っているのではない。
「理×利」の創造は、果たして
霊感から遠ざかることを補うに余りある創造を私たちにもたらしているのだろうか?
―――その点を見つめたいのだ。

評論家の小林秀雄は、現代人の感受性・思考についてさまざまに指摘している。
(以下引用『人生の鍛錬』より)

 「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、
 無常という事がわかっていない。

 常なるものを見失ったからである」。

 「古代人の耳目は吾々に較べれば恐らく比較にならぬ位鋭敏なものであった。

 吾々はただ、古代人の思いも及ばぬ複雑な刺戟を受けて
 神経の分裂と錯雑とを持っているに過ぎない」。

 「能率的に考える事が、合理的に考える事だと思い違いをしているように
 思われるからだ。

 当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。(中略)
 考えれば考えるほどわからなくなるというのも、
 物を合理的に究めようとする人には、
極めて正常な事である。
 だが、これは能率的に考えている人には異常な事だろう」。

私たちは知識や情報を駆使することで理知的に賢くなっている、そう思いがちだ。
しかし、小林はむしろ現代人の退化を喝破する。
その要因を心理学者の河合隼雄は次のように一言で表す。

 「現代人は『信ずる』ことよりも、『知る』ことに重きをおこうとしている」―――。
  (『生きるとは自分の物語をつくること』より)

現代人は確かにさまざまに創造はしているけれども、
ほんとうに深く大きな創造をしているのか。
そして何よりも、創造のほんとうの喜びを得ているのか。
霊感や信ずることを排除してしまい、
人間が古来から持ってきた“何か大事な創造の心”を失いかけている私たちは、
次の言葉を再度噛みしめたい。

「Wonder is the basis of worship. (不思議なものへの驚きは崇敬の地盤となる) 」。
  ―――トーマス・カーライル (英国の歴史家)

「ものをみるために、私は目を閉じるのです」。
  ―――ポール・ゴーギャン (フランスの画家)

「静に見れば、もの皆自得すと云へり」。  ―――松尾芭蕉
 日本画家の東山魁夷はこの芭蕉の言葉を引いて、
 自己の利害得失を離れて虚心にものを見れば、その時はじめて、
 天地の間に存在する万物がそれぞれの生命をもって十全とした姿を現す。
 そうした対象と自己とが深い所でつながったときの喜びを芭蕉は記したのではないか、
 と『風景との対話』の中で書いている。


ビジネスは生き残りをかけた戦争なんだから、

そこに詩人の心を持ち込むのはお門違いと反論があるかもしれない。
そのとき私は言いたい―――
目の前の仕事に詩的創造を加える人は、その仕事をほんとうに楽しめる人だ。
そしてまた、
詩心をもった人こそがビジネスをやることで、経済は地球的規模で変わっていく。


 

Akigumo2 
鰯雲(いわしぐも)の由来は、この雲が現れると鰯が大量に獲れるからだとか。
鯖雲(さばぐも)・鱗雲(うろこぐも)・羊雲(ひつじぐも)とも呼ばれる



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