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2011年1月

2011年1月16日 (日)

留め書き〈017-018〉~身で読む・心で読む


Tome017 
 
        「多読・速読」を自慢したがる人がいる。
        私は一人、「身読・心読」できればよいと思っている。


多読・速読が悪いわけではない。
多読・速読して情報を得ればよいだけの本も多い。

ただ、多読・速読を自慢する人は、
何か読書を身を飾るアクセサリーのように考えているのだろう。
それらをじゃらじゃら付けて、街を歩きたいのだろう。

読書のほんとうの意義は、読書量にあらず、読書術にあらず、
どれだけ「身で読めたか・心で読んだか」にある。
それは一人静かな作業である。
あえてさらに言えば、
その読書で得た栄養を、自分の行動・表現・仕事に変換して他者に指し示すこと
───これこそが、私の考える「よき読書人」の姿である。


Tome018 
 
       人びとは外に溢れる知識の摘み取りに忙しい。
       内なる大地を耕すことをほったらかしにして。



2011年1月14日 (金)

上司と部下の健全な関係


Stoyok100115 いま発売中の『週刊東洋経済』(1月15日号)の特集記事は「管理職超入門」。
昨年末にその一部分の取材を受けました。記者の方といろいろ話す中で、ひとつ盛り上がったのが、上司と部下の健全な関係性について。
きょうは雑誌にも掲載された1つの図を使ってそれにつき触れます。



* * * * *

◆上司/部下の関係タイプ分け

世の中には、それこそ数え切れないほどの上司と部下がいます。
そしてそれらの関係状況も実にさまざまです。
上司と部下の関係は、業務を遂行するためだけの機能的で淡白な状況もあれば、
個人レベルで双方が親しくなる状況もあります。
あるいは、上司が半ば恐怖政治のような環境をつくり、
部下を服従させている状況もしばしば見受けられます。
そんな上司と部下の関係を、関係の深さと健全性の二軸でタイプ分けしてみると
こんなようになるでしょうか。

Josbk01 
Josbk02 
おそらく現在のあなたの上司と部下の関係も、
これらのうちのいくつかをブレンドした形だと思います。

上司と部下の関係でもっとも基本的でシンプルなものが「監督者/作業者」型です。
これは職務遂行のために「私監督する人/私作業する人」という関係で、
給料をもらうためには各々がきちんと責任をまっとうする―――
それ以上でもそれ以下でもありません。

そしてここを中心に右上方向に位置していくのが健全で関係性の深いタイプです。
逆に左下に位置していくほど不健全で関係性の浅いタイプになります。

組織内で目指すべき健全な関係は、
「指導者(よきリーダー)/賢従者(よきフォロワー)」型です。
この関係性においては、上司も部下も、無機質な「監督者/作業者」よりも
相互に信頼感を持ち、より高いレベルの職務遂行に向かって進んでいく姿勢があります。

上の図で、「サポーター/ドリーマー」型や
「師匠/弟子」型が最も右上に位置づけされている理由は、
上司も部下ももはや一組織人という立場を超えて(ときに利害を超え)、
夢や志を追い、道を究めようとする一人間同士の啓発的な関係になっている点です。

他方、健全な関係といえないのが、
「王様/家来」、「カリスマ/信奉者」、「キツネ/タヌキ」、「暴君/弱衆・下僕」
といったものです。これはいわずもがなです。

さて、ここでひとつトリッキーなタイプが指摘されます。
それは「親分/子分」関係です。

親分/子分の関係は独自の信頼関係から成り立ち、ある意味団結が強く、
実際に多くの会社では組織を動かす原動力にもなっています。
個人的にもある上司とウマが合って、その上司から寵愛を受け、
引き抜き昇進に授かれば部下にとっても悪い話ではありません。

◆親分/子分関係の問題点
しかし、この関係には問題も多くあります。
親分の言ったことになかなか子分は逆らえない。
子分の昇進は、親分の社内での政治力や
親分への取り入り方のうまさで左右されるところから、
子分はやがて太鼓持ちかイエスマンになってしまう。
また、派閥めいた固まりは組織に硬直性を持たせることにつながる。
そして何より、「親亀こけたら皆こける」の状況が生じることです。

上司/部下の目指すべきタイプは「指導者/賢従者」だと言いましたが、
そこでは、双方の意識はまず「よい仕事を行う」ことに向けられています。
したがって、部下にしても、もし上司が仕事達成のために不適切な指示を出したら、
意見を遠慮なく言うことができます。
つまり「仕事」が上位で、「上司」が下位だからです。
ところが、親分/子分関係では、これが逆の順位になってしまいます。
仕事の達成を互いが最優先と認識して、それを媒介にしながら、
上司と部下が能力を出し合う協力関係が健全な姿といえます。

◆最終的に上司と部下は呼び寄せ合っている
「サラリーマンでいるかぎり、上司は選べない」―――
多くの会社員はこう思って(悟って? あきらめて?)います。

……しかし、はたしてそうでしょうか。
私がいろいろな組織の、いろいろな上司-部下関係を観察するに、
上司と部下は最終的に呼び寄せあっているように思えます。
人は、3年、5年、10年、20年という時間をかけ、
その人の内面的な境涯に応じた環境にみずからはまり込んでいくものです。

志を掲げて高い意識で働いている部下は、
優柔不断で明快な意志を持たない上司から次第に離れていき、
やがて同じような目的観を強く持った上司をつかまえ、その下に行きます。

保身でなぁなぁにやりたいと思っている部下は、
やはり保身で適当にやればいいと思っている上司の下で
馴れ合い関係を保とうとします。
(タヌキとキツネで互いを利し合っている関係性は意外と長続きする)

何かに怯えるように働く部下には、
サディスティック(加虐的)な上司がますますサディスティックになります。
意気軒昂な部下なら、さっさとそんな上司の下から抜け出してしまいますが、
それができない部下も(第三者から見れば不思議ですが)世の中には多いのも事実です。

さらに言えば、上司がいやな部下は、ついには自営業を始めてしまうのです。

いずれにしても、部下と上司の人間関係は、
仕事上の「おおいなる目的」があって、それを実現するための手段でしかない。
手段に振り回されるのも、手段をうまく用いるのも、
すべては自分自身の目的観・意志の強さ、勇気ある行動による。


 

2011年1月10日 (月)

「働くことを切り拓く力」の脆弱化を考える 〈下〉


◆キャリアを形成する5つの要素:CROSS
人はどういう意識で職業を選び、どう仕事を発展させ、実績を生み、
何を目指して進んで、キャリアを形成していくのだろうか。
―――それにつきひとつの考察を試みたのが図1である。


Crcross01 


私はキャリア形成の要素として次の5つをあげる。

 1) 能力を豊かにする 〈enriching CAPABILITY〉
 2) ロールモデルを持つ 〈having a ROLE MODEL〉
 3) 機会を見出す 〈finding an OPPOURTUNITY〉
 4) 意義を与える 〈giving SIGNIFICANCE〉
 5) 1~4を統合する 〈SYNTHESIZE〉

この5つの要素を交差させるところで、私たちは職業選択をし、
仕事を発展させ、実績をつくり、方向性を決めてキャリア形成を進めていく。

次に図2はその5要素を詳しく示したものである。
1~4の要素はそれぞれに段階がある。
この段階を経て統合されているほどその人は強いキャリア形成を行っていることになる。

Crcross02 


〈1〉能力〈CAPABILITY〉の形成要素
誰しも「能力がある」「適性がある」という分野で職業選択をし、仕事したいと思う。
これは第一段階として当然のことだ。
しかし、キャリアをつくっていく上でもっと重要なことは、
図に第二段階として示してある「能力の展開」が行えるかどうかだ。これはつまり、
環境が変わっても自分の能力を応用展開させて、きちんと成果が出せるかどうかを言う。

会社組織で働いていると、人事異動や転勤はつきものだ。
そして市場環境の変化にも直面する。
そうしたときに、自分のベース能力を変形させる力を持っていないとすぐに行き詰まる。
行き詰まったときに、「これは人事配置のミスだ」とか
「適性の向かない環境に回されてモチベーションが上がらない」とか不満を漏らして、
くさるか、短気を起こして転職するか、これはキャリアを切り拓く力の弱い人の姿である。

また、大学生の就職活動にしても、何かと適性、適性と言う。
適性診断やら自己分析やらで被験者の適性をタイプ分けし、
そこから選択すべき職業・職種を教える。
あれは一種の「占い師」の宣告になる危険性があり、
学生の思考をいたずらに呪縛するもので、私は必ずしも有益だとは思わない。

以前、元の会社の後輩社員から相談を受けたことがある。
彼は大学時代に広告研究会で活躍していた人間である。
そのクリエイティブ能力から、長年、広告部に配属されていたのだが、
組織の大変更で営業部隊の最前線へ。

くさりかけていた彼に私は「営業だから非クリエイティブと決めつけないで、
クリエイティブのレンズを通して営業を見たら存外面白いかもしれないよ」と伝えた。
その後1年半ほどして、彼は営業部隊でPOPやリーフレットを作成したり、
納入取引先のウェブサイトのデザインを支援したりするクリエイティブチームを起こし、
そこのリーダーにおさまったとの連絡を受けた。
彼はたくましく新境地を拓いたのだ。

能力は大事だし、適性も大事だ。
しかし、キャリア形成にとってもっと大事なことは、能力を展開する力である。
環境への不満を言い出したらきりがない。
「自分の居場所はここじゃない」とすぐに逃げ出す人はキャリアを拓けない。
そもそも自分に100%フィットする仕事環境などないと心得るべきなのだ。
そしてまた、自分の潜在能力や本当の適性はどこにあるか
本人も気づいていないときは
意外に多い。

環境・状況に応じて、能力を変形させる、あるいは自分を変える、
逆に、環境や状況を好ましいように変えていく―――そういった意識を
上司も組織も、大学の就職支援カウンセラーも伝えていくべきなのだ。


〈2〉ロールモデル〈ROLE MODEL〉の形成要素
私たちはよりよく働くため、そして力強くキャリアを進んでいくために方向性が要る。
方向性を持つことの最初のきっかけは「あの人のような仕事がしたい」という
模範やあこがれを持つことである。
「学ぶ(まなぶ)」という語は、「真似る(まねる)」から来ていると言われるとおり、
人を真似ようとすることから方向性が出てくるのである。

強くキャリアを歩んでいる人は、意識するしないに関わらず、
必ずどこかの時点で模範やあこがれの人物に出会っていて、
その人物の働き方・働き様(ざま)・生き様(ざま)から理想のイメージをつくり出している。
その理想のイメージは、強烈な1人の人間から得ている場合もあれば、
複数の人間の合成の場合もある。
そしてその理想イメージが十分大きく堅固になったとき、
それは「夢・志」と呼ぶべきものになる。

キャリア形成の力が弱い人は、全般的に他の人間の働き様への関心が薄く、
そこから何か自分なりの理想イメージを引き出す力も弱い。
漫然とイメージ無しに働き過ごしている。
せいぜいあこがれるとすれば、「○○の仕事はラクに儲かっていいなぁ」くらいだ。

「働くことを切り拓く力」を養うために私たち大人ができることは何か。
それはロールモデルをたくさん見せることだ。
自らの夢や信念に生きた姿をどんどん後進世代に語っていくことだ。
ロールモデルならそこかしこにある。
図書館には過去の偉人たちの自伝がいくらでも並べてある。

大人になってもう一度、野口英世やキュリー夫人、二宮尊徳など学級文庫に
ラインナップされた人たちの本を読んでみていただきたい。
子供のころとはまったく違った気づきがあるだろう。
そうした気づきを大人は子供たちにどんどん語るべきだ。
難しい話はいらない。―――
「すごいねぇ、こういう生き方」、
「お父さん(お母さん)は、こんな生き方が美しいと思うな」、
「信念を持ち続けることが大事なんだね」、
「こういう状態になったら、あなたならどうしたかな?」
……そんな語りかけでよいと思う。

また、そうした偉人でなくとも、
テレビのヒューマンドキュメンタリー番組では、
一つの仕事に献身するさまさまな働く姿が紹介されている。
新聞や雑誌にもそうした記事はたくさんある。
そんなときに「表に見えないところにはこんな仕事もあるんだね、面白いねぇ」、
「さすが、第一級のプロの仕事は違うね。感動するね」などと会話を持ちかけてほしい。

親や学校の先生がこうした語りかけをすることこそ、最良のキャリア教育であると思う。
「働くことを切り拓く力」を養うのに何か特別な理論やメソドロジーが要るわけではない。
働き方、働き様、生き様は、結局のところ、人の生きる姿からしか学べないのだ。

企業組織における人財育成においても同じである。
ロールモデルたるべき人物の仕事ぶりから、
個々の社員が有形無形に何かを引き出し、
組織文化や組織のDNAを継承させていくことに成功しているのが本田技研工業である。

同社の社史『語り継ぎたいこと~チャレンジの50年』 (ウェブ上に公開されている)は、
会社創業期からの群像物語である。
ここには、本田宗一郎や藤沢武夫はもちろんだが、
一課長や一技術者の話までふんだんに紹介されている。
この社史が社員にとって非常に有益なのは、会社の歴史的出来事が書かれているからではない。
スーパーカブの発売にせよ、マン島レースでの優勝にせよ、CVCCエンジンの開発にせよ、
そこに関わった人物がどう考え、どう失敗し、どう決断し、どう振舞ったかが
肉声を交えて書かれているから有益なのである。

この項目の冒頭で、ロールモデルから得るものは、 “方向性” であると書いたが、
もうひとつ忘れてならないものがある。―――それは “熱” である。
キャリアをたくましく切り拓いていくためには、心に熱を帯びていなくてはならないのだ。
方向性を持ち、熱を帯びたとき、ようやくその先に夢や志は見えはじめてくる。


〈3〉機会〈OPPOURTUNITY〉の形成要素

私たちは環境と時代の中に生きている。
だから自分を大きく活かしていくためには、
環境が自分に求めるものは何か、時代が要請するものは何かということに
常にアンテナを張っておく必要がある。

環境とは、広くは社会全般であり、具体的には自分が働く組織、関わる業界や市場である。
時代には、過去はどうなってきた、現在にどんな課題がある、そして未来をどうすべきか
という3つのフェーズがある。
私たちは、環境や時代に合わせるのが精一杯なところがある。
あるいは環境と時代の中に自分の居場所を確保することで満足してしまうこともある。
しかしそれはまだ「働くことを切り拓く」姿ではない。

環境や時代といった文脈を感受し順応することから、一歩踏み込んで、
「だから次に、ここにはこういうチャンスがあるはずだ!」と、
あるリスクを負って未来を自分の意志の方向にもっていくような挑戦姿勢、
それこそが切り拓くというキャリア形成のあり方だ。

そうした果敢に機会を創造する精神はどうやれば涵養できるのだろう。
私はこれに関しても特別な教育メソドロジーや訓練は必要ないと思っている。
これはいわば “精神の習慣” の問題なのだ。
精神の習慣は日ごろの積み重ねからつくられる。
さきほどロールモデルの箇所で触れたとおり、
偉人や第一級の生き方をしている人びとについて、家庭で学校で組織で語り合えばよい。
彼(彼女)は、その人生の大きな分岐点に立ったとき、どんな勇気ある行動をしたかを。

また、マスメディアは往々にして、
何か突飛で話題性のある結果を出した人をヒーローとして
おもしろオカシク紹介するだけであるが、もっと
真摯に社会的に意義のある仕事をする人びとの、地味だが腹応えのある奮闘プロセスを
(視聴率・閲読率を失わないような)上等な方法を考え紹介する努力もしてほしい。

リスクを取って未知の世界に踏み込み、チャンスをつくり出そうとする生き方が
そこかしこで語られ、賞賛され、奨励されること―――これが日常の中で普通になったとき、
日本人の「働くことを切り拓く力」は強められ、それが精神の習慣として定着する。


〈4〉意義〈SIGNIFICANCE〉の構成要素

何かに興味・関心を抱く。そして興味・関心を強めた分野で職業を持つ。
これは職業選択において大前提だ。興味・関心のない職をやることは不幸である。
興味・関心は職を得る前から自然発生的に抱く場合もあるだろうし、
後付けで興味・関心を湧き起こす場合もあるだろう。
それは男女の結婚と同じである。結婚前から恋愛しているときもあれば、
見合いによって互いを知り、事後的に恋愛感情が芽生えて結婚に至るときがあるように。
いずれにしても「~が好き」「~に興味がある」というのは必要条件である。
しかし、このことで十分であるとは言えない。

よく「好きを仕事にしなさい」と言われる。
私はそこには落とし穴があると思っている。
なぜなら「好き」は、いとも簡単に「飽きた」「嫌になった」に変化するからである。

好きを仕事にということで趣味の分野で独立起業したものの、
実際は、そのことが好きであるという愛好者の目線と、
それを商売としてやる経営者の目線はかなり違っているために、
うまくいかなかったという事例を私は多く知っている。
情熱(一時の熱病のこともある)や思い込みで突っ走るというのは、
実は不安定な状態であるのだ。―――では、どんな状態が一番良いのか?

それは、 「~が好き×~のため」 を仕事にすることである。

「~のため」というのは、その仕事に意味・意義を与えることをいう。
例えば、家族を養うためとか、この技術を発展させるためとか、
社会からこの病気をなくすためとか、そういった仕事の理由である。
「好き」にこうした理由が掛け合わさるとき、その仕事は安定度を増す。

そしてもちろん、その「~のため」が内から湧いて外に開いていればいるほど、
(つまり内発的で利他的な理由であるほど)
自分の仕事・キャリアは力強く、スケールを増して動いていく。


〈5〉統合〈SYNTHESIS〉の形成要素
そして最後の5つめの要素は、以上述べてきた〈1〉~〈4〉を統合することである。
この統合して考える、そして行動に変えることが、
キャリアをたくましく拓くために最も重要な作業となる。

子供たちに仕事というものに具体的関心を持たせるために、
『キッザニア』 (キッズシティージャパン運営)という仕事体験テーマパークや
『13歳のハローワーク』 (村上龍著、幻冬舎)などの職業カタログ本がある。
いずれもすばらしく練られた内容であるが、
これを子供に見せて、あとは子供本人の興味に任せるままでは、
彼らの内に「働くことを切り拓く力」を育むことにはつながっていかない。

例えば、
子供が上のような体験パークや書籍で「消防士」という仕事に関心を持ったとしよう。
子供の好奇心は純粋で強いので、こうしたメディアのインパクトによって
「消防士が絶対いい!」と熱望することはよく起こる(誰しもこういう経験はあったはず)。
しかし、たいていこれは熱病のようなもので、中学校に上がり、高校生になり、
大学で就活をするころになると、「消防士」になりたかったことを懐かしく思うようになる。

しかし、ごく限られた中に、子供のころのそうした想いを実現させる例もある。
それはその後本人が、「消防士が好き」というフェーズから、
消防士という仕事にはどんな社会的役割があって、
だから「~のために消防士になりたい」という心理フェーズに移行したり、
消防士になるにはどんな能力や適性が必要かを学び、そのための準備を怠りなくしたり、
実際の消防士の人の具体的な働き方を見聞して、それを自分の将来の姿に重ねたり、
消防士という仕事の可能性やチャンスを頭の中で大きく巡らせたり、と
そうした統合作業を継続させ、ついにはほんとうにその職業を手に入れてしまうのである。

この統合は、あいまいな思考や思索を具体的な志向や行動に変えていくという
受験勉強で正解を当てるという類の作業とはまったく異なるものである。
しかし、この統合をやり始めると、
統合の過程の中から、どんどんエネルギーが湧いてきて、
そのエネルギーがさらに統合を進め深めるという善循環が起こる。
そうすると「働くことを切り拓く力」がどんどんついてくる。
もちろん、その統合の作業をうまくやらせるためには、
本人以外、家族や先生、その他の人の支援や刺激が不可欠なのだ。

職業の種類をいろいろ見せて、「さぁ、興味あるものを見つけなさい」というのは、
最初の取っ掛かりとしては大事であるけれど、それのみで終えてはいけない。
また、診断ツールか何かで「あなたに向いているのはデザイナーです」とか、
ポンと答えを与えるのは、有害である。
この即便性こそ、子供の考える作業を省き、統合から遠ざけ、拓く力を弱めている。
しかし現実は、人びとの受けがいいので、
事業者はこういう即便なサービスを巧みに商業化する。
そして、ますます人びとはそれに乗っかってくる―――問題解決は簡単ではない。

以上説明してきたように、
私自身は、キャリアを形成する要素としてこの5つ「CROSS」をあげる。
なお、「CROSS-ing」モデルと「ing」を付けてあるのは、
5つの要素の交差点でキャリアは形成されていくわけだが、
それは刻々に変化していく、絶え間ない努力による“進行形の所産”であることを
表したかったからだ。


◆日常のすぐそこにある誰しものキャリア教育

キャリア形成の「CROSS-ing」は子供にも、
就職活動する大学生にも、そして社会人にも当てはまる。
「働くことを切り拓く力」が弱いとは、つまり、
「CROSS-ing」が “やせて” いる ということだ。
下図は、前々記事で紹介したネット通販会社を志望する大学生T君の例を示したものである。

Crcross03 


図を見てわかるとおり、すべての形成要素が “か細い”。
シューカツテクニックをにわか仕込みでやったとしても
多少の見た目は改善されるかもしれないが、肝腎な部分は強くならないだろう。
切り拓くという精神の習慣ができていないからである。
働き様・生き様といったファジー(あいまいで形式化されないもの)なものを
ファジーなまま受け取り、咀嚼し、感動し、
具体的な自分の行動に変換することを奨励されてこなかったからである。
(これは本人にも、周囲にも、社会にも原因がある)
では、「CROSS-ing」を“豊かに強く”とはどんな状態か。その一例を下に示した。

Crcross04 


こうしたたくましい「CROSS-ing」ができる精神の習慣をつくることこそ、
キャリア教育の役割である。そしてそれは、
キャリア教育者だけがやればよいということではなく、
親がやり、先生がやり、上司がやり、経営者がやり、メディアがやり、
社会がやらなくてはならない。

働くことって面白いなと嬉々と語ること、
仕事を通して夢に向かう真剣な目を見せること、
未知の世界に挑戦する人を讃えること、
成功・失敗という結果でなく、努力のプロセスに関心を寄せること、
改めて野口英世の自伝を読んでみること、そして彼の生き方について対話すること、
自分はなぜこの職業を選び、続けるのかを言葉にし、発すること、
―――そうしたことが世の中のそこかしこに満ちていくことが、
何よりのキャリア教育になるのだ。

私たちは、
お勉強のできる子、業務をうまく処理できる社員をつくることには躍起だが、
「働くことを切り拓ける」人間を育むことはおろそかなままである。
しかし中長期にみて、個人に、家庭に、組織に、社会に重い影響を与えてくるのは、
「働くことを切り拓く力」のほうである。
それを大人たちはきちんと意識しなくてはならない。


* * * * * *

Butszobk 

年末に仏像の写真集を見る。
子供のころはこうした仏像の顔がコワイと思っていた。
夢に出てきそうなのであまり凝視もできなかった。
しかし、いま大人になって見ると、惚れ惚れと見入ってしまう(ほどの素晴らしい創造である)。

仏像の中にはこうした憤怒の形相を持つものが少なくない。
これは慈悲の心からくる怒りである。
仏法は、人間の生命境涯(魂レベルでの)が、仏性に染まるか、魔性に染まるか、
その自己との戦いのなかで前者に向いてゆけと教えるものと私は理解している。

いわばその仏性陣営で、魔の側に付くな!目覚めよ、衆生! 魔を追い払ってやる! 
と我々を守ってくれているのがこうした明王や天たちなのだ。
明王や天は具体的にそういうものがいるわけではなく、
生命境涯の状態、あるいはそれが起こす作用のようなものである。
それは自分の外にある場合もあるし、自分の内にある場合もある。
そしてそれを形相として表すとこうなる、というのが仏像彫刻である。
やさしく言えば、仏像は、心の状態、精神の作用を具体的な形に表現したものなのだ。

優れた仏像は、それを彫る仏師の技能だけでは作ることができない。
仏師がその心になっていなくてはならない。
仏像の完成度はそのまま仏師の技と心の完成度でもある。
私は仏像を見るとき、仏像とともに、仏師のことを想う。


2011年1月 9日 (日)

「働くことを切り拓く力」の脆弱化を考える 〈上〉



◆ネット検索…「命」!

昨年9月、大学4年生でまだ就職内定をもらっていない学生たちと話す機会があった。
すでに就職戦のヤマ場は終わり、不安な気持ちで日々を送っていた彼らだった。
いまやネット上で初期の選考プロセスが行われる時代である。
ネットを通じての応募は手軽だが、そのために
「40社申し込み/40社不戦敗」などという状況が簡単に起こる。

学生たちは、興味関心のあるワードで検索をかけて候補企業を見つける。
検索ワードも、上位志望の選考から外れるにしたがって、
だんだん自分の気持ちとは逸れはじめるが、
もはや「拾ってくれるところならどこでも」という心境になる。

就職課に相談に行っても、職員はていねいに話を聞いてくれるものの、
自分のやりたいことなどいまだはっきりせず、
「もっと発想を広く持って検索をかけてみれば」と促されるのみだ。
そんなこんなで検索とネット申し込みを繰り返すうちに、2カ月が過ぎ、3カ月が過ぎ、
やがて検索に引っ掛かってくる候補がゼロになる。
 
「毎日検索かけてるんですが、なかなかもう新しい案件が出てこないので……」とS君。
夏以降、S君は実質休戦状態となった。
大学4年生の残りの期間を卒業研究をちょこちょことやり、アルバイトをやり、
日々、検索を続けながらやるせない時間を過ごしているという。
S君に限らず、候補とする企業が検索にかからなくなったら、
もうそれ以降どうしてよいかが分からず、
就活が即、どん詰まりになってしまう人は実際のところとても多い。

こうした状況を、不景気だからしょうがない、と済ませることはできない。
そして同時に、「就活力」などという一種のスキルのあるなしの問題でとらえることも
事を矮小化することになる。
職を得る力は、一個一個の人間の「生きる力」の根本に関わる問題なのだ。
そしてそれは国の趨勢に大きく影響していく。


◆職選びが「カタログショッピング」になった
いまの大学生にとって職業選択は、
言ってみれば「カタログショッピング」のようなものになっている。

つまり、
ネット上のカタログには新卒者向けの「職業」という商品がたくさん掲載されていて、
そこに検索をかけて絞り込み、「あれがよさそう、これがよさげ」と物選びをする感覚だ。
まさに、ネット通販サイトでお気に入りの雑貨を探し当て、買い物するのと同じ。

サラリーマン就職するとは、ある見方をすれば、
自分の能力と時間を資金として、
会社員という職業を買いにいく行為だと言ってもいい。

で、今年の場合、その「お仕事カタログ2010」に記載された商品は
いずれも在庫数が僅少で、欲しいと思った人全員が購入できる状況ではないのだ。

運よく商品を購入できた人は「やれやれ」だが、
商品を購入できなかった人は、代替品を求め、条件をゆるくして検索を繰り返す。
どこの商品も「完売」となり、検索をかけてももはや該当商品が出てこなくなったら
カタログショッパーとしてはお手上げ、買い物を中止するしかない。

ショッピングなら、たとえ物が買えなかったとしても済ませられるかもしれない。
しかし、就職においては、自立するための職業が得られないのだ。これは重大問題だ。
人は職業を得てはじめて、生活を立てられ、家族を持てる。
そしてその職業を通して自己の可能性も開発できる。
衣食住・医の根本は、職を保つことによって可能になる。
一個一個の人間がきちんと職を保つことは、
地域・国の和を保つためにも欠かせない。

学生の内定率が低下しているという現象は小さからぬ問題ではあるが、
私が危惧するのはもっと奥に進行する問題だ。

大事な職業選択をカタログショッピング的にやることしかできない、
検索でかからなくなったからもうどうしたらいいか分からない、
そうして漂流している学生が世の中のそこかしこに増え、蓄積し、
層を形成し、歳をとっていく。
当の学生本人たちは何もふざけているわけではない。彼らなりに真面目でさえある。
だから問題は根深い。

文明の発達とともに、社会の平和とともに、生きる力が脆弱化するという指摘は、
いまに始まったことではないし、日本だけの問題でもない。
(かく言う私だって、明治時代の40代に比べればひ弱もひ弱だ)
しかし、社会をあげて死守しなければならない生きる力のレベルというのもあるだろう。
その死守すべきレベルがいよいよ侵されようとしているのだ。


◆意欲をどう湧かせ何をして働いたらよいか分からない人間を生む社会
T君は、マーケティング専攻で、卒業研究はネット通販事業に関するテーマだという。
ネット通販会社はもちろん、eマーケティング関連やITシステム関連の会社などを
数十社受けたがまったくダメで、その後、
小売業、ホームページ制作会社などにも範囲を広げていったが結局内定は取れなかった。

「マーケティングのどこが面白い?」
「ネット通販事業ってどんな可能性がある?」
「例えば第一志望の楽天に入社できたら何がしたかった? 
逆にいまの楽天に課題があるとすればどこだと思ってる?」
「ウェブサイトの制作スキルがあるって言ってたけど、
どんな会社のウェブサイトがすごい?」―――などをT君に穏やかに訊いてみる。
いずれも明快な返答は返ってこない。声もまったく小さい。
確かに、ここでよい返答ができているなら、どこかで内定を得ていただろう。

T君はまったく素直な子である。挨拶もできる。
こちらの言うことに集中もしているようだ。私のカップにお茶も注いでくれる。
しかし、「何をやりたいか」「なぜやりたいか」「どうしたいか」という問いに対しては、
頭がモヤモヤするだけで、返答が言語になって出てこない。

「じゃ、休みの日は何してるの?」……
友達としゃべってるとか、映画とかゲームとか、そんな返答だった。
「最近観た映画の中で面白かったのは何?」……
少しの間、考えているようではあるのだが、これと言って特に、と彼は口ごもってしまう。

話を切り替えて、
「映画やゲームなどもどんどんネット上で売られていくね。
そうしたコンテンツだってネット通販の時代になるね。関心はある?」……と訊くと、
は、はぁ、とうなずくだけである。

T君は内定がとれない場合、卒業を延期して再度、新卒予定者として就活するという。
ただし、親からの経済的支援が十分に得られないため、東京のアパートを引き上げ、
実家の京都に戻っての就活となるらしい。

地元のハンバーガーチェーンでアルバイトでもしながら、というT君に私は、

「京都に帰るのなら、農業だって選択肢のひとつかもしれないよ。
農業と言っても、それを支える仕事の種類はたくさんある。
君のところは京都でも栗や黒豆で有名な場所だし、志ある生産者はたくさんいるはず。
そんな生産者の人たちに産直通販用のウェブサイトを作ってあげたらどう? 
例えば地元のJA(農協)とかに、
マーケティングのお手伝いさせてください!って手紙を書いて売り込むのも手なんだよ。
JAは表立って求人を出していないかもしれないけれど、
ネット検索にかかる仕事だけが、この世の中の仕事じゃないんだ。
選ぶ選択肢がなくなったんなら、選択肢をつくり出すことを考えなきゃね。
アルバイトをやるにしても、マーケティング経験と仕事の実績ができるわけだから
そっちのほうがずっといいんだ。正職員の道だって開けるかもしれないし」。
……T君は、やはり、は、はぁ、とうなずくだけである。

T君の発想を刺激したり、考えを掘り起こすのを手伝ったりしようと
私はいろいろと話しかけてはみるのだが、どうも反応が薄く弱い。
T君は不真面目でも、怠け者でもない。
ただただ、自分の考えをどう起こしていいのか途方に暮れるのである。
自分の想いというものを湧き立たせることができず口ごもるのである。
そんな自分に対しT君は、
「くそー、じゃぁこうやってやる!」と発奮するのではなく、
「考えがいつまでたってもうやむやで情けない」と自己嫌悪になるのである。

私は何か不思議な生き物と遭遇している気分になった。
厳しい言い方だが、経営者の目線に立ったとき、
私自身、彼らを雇いたいとは思わなかった。

こういうことをつらつらと書いて、私は彼らを貶める意図はまったくない。
伝えたいのは、
意欲をどう湧かせたらいいかがわからない生き物を
平成ニッポンは社会全体としてつくりだしている事実である。

意図して怠けている者に対し、意欲を湧かせるのはむしろ簡単なことかもしれない。
いま問題なのは、素直で従順で、できれば頑張りたいと思っているのだが、
どう意欲を湧かせていいか分からない人間に対し、意欲を湧かせることなのだ。
きちんと職に就いて働きたいと真面目に思っているのだが、
何をどう真面目に自己を活かして働くことができるか分からない人間に、
職を与えなければならないことなのだ。


◆問題の根っこは「働くことを切り拓く力」の脆弱化

昨今、学校現場においても企業現場においても、
「キャリア教育」の重要性への認識が拡大しはじめている。
もちろん新しい教育分野なので、
あちこちでまだまだ試行錯誤が続いている(私もその一人だ)。

現状をながめるに、
多くのものがどうも対症療法的なアプローチであったり、表面的で形式的であったり、
商業ベースに乗りやすい形のサービスが先行するのはいたしかたないにしても、
ものによっては、問題をさらに深刻化させているものもある。

問題解決は、
「シューカツ」テクニックを磨かせて限られた求人椅子を奪い取れということではない。
自己診断ツールで自分の適性をタイプ分けし、この職種を狙えと指南することでもない。
キャリアデザインシートの「Will・Can・Must」の空欄を埋めさせ、
「強み/弱み」を棚卸しさせ、「10年後のありたい姿」を書かせる作業でもない。

問題の根っこは、「働くことを切り拓く力」の急速な脆弱化にあるのだ。

「働くことを切り拓く力」とは―――
働くことについて関心を持つこと、
具体的な職業について意欲を起こすこと、
職業を得ること、そして生計を立て家族をきちんと持つこと、
仕事で直面する失敗や成功を通して自分を成長させていくこと、
正解のない問いに対し答えをつくり出していくこと、
選択肢が与えられるのを待つのではなく、選択肢そのものをつくり出していくこと、
職業をまっとうすることで人生の基盤をつくり今生の思い出を残していくこと、
夢を描くこと、志を立てること―――
などについて自律的に力を湧かせることだ。
「働くことを切り拓く力」とは、ほぼ「生きることを切り拓く力」に等しい。

戦後間もない昭和の人びとには、まだこの切り拓くたくましさが十分にあった。
町のそこかしこにある古くからの個人商店の多くは、
戦後、職がなくてやむにやまれず開業した人たちの生業の姿である。
実のところ、サラリーマンという就労形態は人類の歴史上とても日が浅い。
(『オーガニゼーション・マン』というW.H.ホワイトの名著を読むと面白い)
サラリーマンに就くことが大多数ではなかった終戦後、
ともかく「俺は八百屋をやる」「自分は床屋だ」「保険の外交員だ」と
たくましく自分の商売を始め、不器用ながら人生を切り拓いてきた人は多い。


◆「安定した勤め人になることが目的」になった

現在の日本では、大多数が「勤め人」 (=組織に雇われるサラリーパーソン) を選ぶ。選びたがる。
そして、自営業で苦労した親たちも子供を勤め人にさせたがる。
いまや大多数の就職意識が「安定した勤め人になることが目的」になっていて、
その他の選択肢を考えず、求めなくなった。
(リタイヤ後、さらに天下って組織にぶら下がり続けようとする醜い大人もいる)

そして現れてきた現象が、
ネットに上げられた求人情報をカタログショッピング的に選び、
採用が得られなければ、次の求人情報が上がるまで受動的に待つしかない、という姿だ。
目に見える選択肢、ネット検索にかかる求人情報だけからしか
職選びの発想や行動ができない……そうして大事な20代、30代が過ぎてゆく。
少なからずが、「就職できないのは社会のせいだ」「雇用を増やさない企業が悪い」
といった勘違いな不満を溜めながら。

私はここで勤め人という選択肢が悪い、ネットで求人を探すことが悪い
と言いたいわけではない。それはあくまで手段なのだ。
働くという人生の一大事において、
多くの人間が手段の中にどんどんと自分たちを矮小化させている、
そしてそこに商業主義のビジネスが入り込む、そうして
すべてのことが「働くことを切り拓く力」の脆弱化の流れを加速させている、
そのことを指摘したいのだ。
米国もまたサラリーパーソンが大多数を占める国になった。
しかし、米国にはまだ「アメリカンドリーム」という伝統的スピリットが息づいていて、
個々の「働くことを切り拓く力」はかろうじて芯の強さを保っている。

日本には残念ながらそういうたくましき精神的なレガシーはない。
勤勉であることも、手先が器用であることも、
「働くことを切り拓く力」の脆弱化という大きな潮流の中ではいかにも非力である。

私が言うキャリア教育とは、「働くことを切り拓く力」を養う啓育にほかならないが、
これは社会全体で多面的・多重的に手をかけていかねばならない問題である。
親が、学校が、職場が、そして教育者が、メディアが、
きちんと意識的に取り組んではじめて、潮流を変えることができる。

そのための着想ヒントとして、
次回は、私が講演や講義で用いている「キャリア形成のCROSS-ingモデル」を
紹介しながら私見をまとめる。

(→次回に続く)


 

 

2011年1月 2日 (日)

仕事とは「IN→THRU→OUT」の価値創造である


前回の記事で、

私たちは動植物の生命をいただきながら自分たちの生命を維持し、
個々さまざまに仕事を成すことができる、と書いた。
きょうはここから話を展開し、
仕事とは何か、そしてこの世界をつくりだすものは何か、について考えてみたい。

◆仕事とは「IN→THRU→OUT」の価値創造である
「仕事とは何か」の定義についてはさまざまに行うことができるが、
私はここで、「INPUT/THROUGHPUT(以下THRUPUT)/OUTPUT」の3語でそれを考える。
下図はそれを表したものである。


Introut01 


端的には、
「仕事とは、何かをINPUT(入力)し、THRUPUT(処理・加工)し、
何かをOUTPUT(出力)する価値創造である」と言える。

詳しく説明しよう。
まず、私たちが自分の仕事を振り返るとき、
それはさまざまなもののINPUTによってなされていることがわかるだろう。
例えば私がこの記事を書くにあたって、
他の人の著作や、他の人が整理した情報を吸収している。
他の人の著作は、さらに言うと、誰かが編集・製本・刊行・販売してくれたもので
間接的にそれらの人たちの知識や労働も取り込んでいることになる。
また、私はこうした自己啓発的な記事を書くにあたり、
自分に啓発を与えてくれたさまざまな人間の精神エネルギーも受けている。
さらには、世の中の流れを感受して、
こんなような内容の記事が必要だろうと思って書いている。
そして、当然ながら、こうした執筆仕事をするには
よく考え、よく動けるための健康な身体がいる。そのためによく食べる。
食べるとはすなわち 動植物の生命を摂取するということだ。

このように私たちが行う仕事は、まずINPUTすることから始まる。
何をINPUTするかといえば、知的な素材、精神的な素材、物的な素材である。
それは例えば、
 ・他者が行った仕事(作品・サービス等)
 ・他者の想い
 ・環境(自然・世の中)からの啓示
 ・(生産のための)原材料
 ・動植物の生命  
……といったものである。

次に、こうしてINPUTしたものを私たちは、
もろもろの能力、自らの価値観を基にした意志、そして身体を用いて
処理し、新しい価値を生み出そうとする―――これがTHRUPUTの過程である。
このTHRUPUTは個々それぞれが持つ、いわば価値創造回路のはたらきによるもので、
仮にまったく同じものがINPUTされたとしても、
人によってTHRUPUTとその後のOUTPUTは異なる。

さて、そうした「能力×意志×身体」による固有の価値創造回路を経て、
私たちはOUTPUTを行う。
何をOUTPUTするかといえば、知的な成果、精神的な成果、物的な成果である。
それは例えば、
 ・自分が行う仕事(作品・サービス等)
 ・自分の想い
 ・自分の人格
 ・自分の身体     
……といったものである。

OUTPUTするものは、目に見える具体的なものに留まらない。
優れた芸術作品にはその作者の執念や美意識がいやおうなしに宿る。
また一般的なビジネスパーソンでも、作成した企画書や報告文書の行間からは
そのときの意気込みやら、あるいは逆に手抜き加減やらが滲み出てしまう。
私たちは知らずのうちに自分の想いもOUTPUTしているのだ。
さらにいえば、何十年という時間をかけ、私たちは仕事を通して
自分自身という“人格”をもOUTPUTしているといえる。

このように仕事を「IN→THRU→OUT」の流れでみたとき、
仕事を改めて定義するとすれば次のようになる。

仕事とは、
知的/精神的/物的な素材を取り込み〈INPUT〉、
能力・意志・身体を用いて新しい価値を生み出し〈THRUPUT〉、
知的/精神的/物的な成果としてかたちづくる〈OUTPUT〉、
価値創造である。

さらにここで一点加えておけば、
価値創造には「正」と「負」と2つの領域があることだ。
「正の価値創造」は、善や真、美、徳に通じるもので、
逆に、「負の価値創造」は、悪や偽、醜、不徳に通じる。
人は誰しも正の価値創造をやるわけではない。
負の価値創造をやる人もやはりたくさんいるのだ。


◆壮大に連鎖する「IN→THRU→OUT」の価値創造

さて、こうした一人が行う一つの仕事(=価値創造)は、それ単独で成されるわけではない。
先ほど触れたように、
自分が行う仕事はさまざまな他者が行った仕事を取り込んで成されるものである。
そしてまた、自分が出した成果は、今度は他者が仕事を行うときのINPUTになる。
例えば、私のOUTPUTであるこの原稿を読んだ人が、
それを思考のヒントや企画の材料としてINPUTし、何かの仕事を成すときがあるように。
そんな連鎖を表したのが下図である。


Introut02 


私たちは意識するしないにかかわらず、
他者のOUTPUTが自分のINPUTとなり、また自分のOUTPUTが他者のINPUTとなっている。
この連鎖のイメージを巨視的に発展させていくと下図のようになる。


Introut03 


この世界は、無数の個々が無限様に成す
「IN→THRU→OUT」の価値創造連鎖による壮大な織りものである。
―――こう考えたとき、
この壮大な織りものをつくる一本一本の経糸(たていと)・緯糸(よこいと)は
まさしく私たち一人一人が成す一つ一つの仕事にほかならない。

何か良書に触れてその一文を企画書に盛り込む。
そしてそれを読んだチームが建設的なアイデアにたどり着き、それを実行する。
そんな日頃の些細な「正の価値創造連鎖」がこの世界を織り成しているのだ。

同時に、メディアに流れる悲観的な分析・冷笑的な意見に影響され、
自分もまた悲観・冷笑的な発言を周囲にしてしまう。
すると周囲も悲観・冷笑的な気分になる。
そんな日頃の些細な「負の価値創造連鎖」がこの世界を織り上げているのだ。

「この世の中は自分一人が変えるには大き過ぎる」と誰しも思う。
しかし、この世の中は、結局のところ、
一人の人間の些細な「IN→THRU→OUT」の価値創造によってつくられている。
これは厳然たる事実として認識してよいものだ。


◆「よい仕事」の思想~仕事の中の祈り

西岡常一さんは1300年ぶりといわれる法隆寺の昭和の大修理を取り仕切った
宮大工の棟梁である。彼は言う―――

  
「五重塔の軒を見られたらわかりますけど、
  きちんと天に向かって一直線になっていますのや。
  千三百年たってもその姿に乱れがないんです。
  おんぼろになって建っているというんやないんですからな。

  しかもこれらの千年を過ぎた木がまだ生きているんです。
  塔の瓦をはずして下の土を除きますと、しだいに屋根の反りが戻ってきますし、
  鉋をかければ今でも品のいい檜の香りがしますのや。
  これが檜の命の長さです。

  こうした木ですから、この寿命をまっとうするだけ生かすのが大工の役目ですわ。
  千年の木やったら、少なくとも千年生きるようにせな、木に申し訳がたちませんわ。
  ・・・生きてきただけの耐用年数に木を生かして使うというのは、
  自然に対する人間の当然の義務でっせ」。 
                              ―――『木のいのち木のこころ 天』より

また、もう一人、染織作家で人間国宝の志村ふくみさんがいる。
淡いピンクの桜色を布地に染めたいときに、桜の木の皮をはいで樹液を採るのだが、
春の時期のいよいよ花を咲かせようとするタイミングの桜の木でないと、
あのピンク色は出ないのだと彼女は言う。秋のころの桜の木ではダメらしい。

  「その植物のもっている生命の、まあいいましたら出自、生まれてくるところですね。
  桜の花ですとやはり花の咲く前に、花びらにいく色を木が蓄えてもっていた、
  その時期に切って染めれば色が出る。

  ……結局、花へいくいのちを私がいただいている、
  であったら裂(きれ)の中に花と同じようなものが咲かなければ、
  いただいたということのあかしが、、、。

  自然の恵みをだれがいただくかといえば、ほんとうは花が咲くのが自然なのに、

  私がいただくんだから、やはり私の中で裂の中で桜が咲いてほしい
  っていうような気持ちが、しぜんに湧いてきたんですね」。 
                             ―――梅原猛対談集『芸術の世界 上』より

◆いかなる仕事も自分一人ではできない

仕事という価値創造活動の入り口と出口には、
これまでみてきたように、INPUTとOUTPUTがある。
ものづくりの場合であれば、必ず、入り口には原材料となるモノがくる。
そして、その原材料が植物や動物など生きものであれば、
その生命をもらわなければならない。―――古い言葉で「殺生」だ。

そのときに、OUTPUTとして生み出すモノはどういうものでなくてはならないか、
そこにある種の痛みや祈り、感謝の念を抱いて仕事に取り組む人の姿を
この二人を通して感じることができる。
毎日の自分の仕事のINPUTは、決して自分一人で得られるものではなく、
他からのいろいろな貢献、努力、秩序、生命によって供給されている。


Intrpout04 

そんなことを思い含んでいけば、
自分が生きること、そして、自分が働くことで何かを生み出す場合、
他への恩返し、ありがとうの気持ちが自然と湧いてくる。
(日本人は「針供養」という道具にまで情をかける精神を持っている)

そして「正の価値」を創造することでそれらに報いたいと思う。
私はこれこそが「よい仕事」の原点だと思う。

昨今のビジネス社会では、
物事をうまくつくる、はやくつくる、儲かるようにつくることが、何かと尊ばれるが、
これらは「よい仕事」というよりも「長けた仕事」というべきものだ。
私は「長けた仕事」が悪いというつもりはない。言いたいのは、
私たちは今一度、「よい仕事」についてもっと振り返る必要があるということだ。
「よい仕事」とは、
真摯でまっとうな倫理観、礼節、道徳、ヒューマニズムに根ざした仕事をいう。
功利、効率、勝敗、序列は「長けた仕事」に属するものだ。

「よい仕事」が一つ一つ連鎖することで、着実に、
この世界は壮麗な織りものとして生成していく。
私たち一人一人がきょう行う「IN→THRU→OUT」の価値創造は
その一糸としてとても大事なことだと腹に据えたい。

 

 

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