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2012年2月

2012年2月29日 (水)

概念の工作~「成功」の反対は?「失敗」ではない


私は最近、「概念工作家」という肩書きを付けるようになりました。

英語表記では
「コンセプチュアル・クラフツパーソン(conceptual craftsperson)」と勝手に造語をしています。

私は、子どものころから工作が好きで、
木工やねんど細工、紙工作、電気回路のハンダ付けなど時間を忘れてやっていました。
大人になるにつれ、職人の手仕事に関心が湧いてきて、
「クラフツマンシップ」というような精神性にあこがれも抱くようになりました。
私が最初、メーカーに就職したのもそんな流れでした。

ところが私は、いつごろからか、モノの切り貼り・組み立て・造形よりも、
概念・観念といったコトの切り貼り・組み立て・造形といった表現のほうに
魅力を感じるようになりました。

なぜかというと、仕事に対する動機が変わっていったからです。
最初、メーカーに入り、希望どおり商品開発部門で働いていたときは、
「何か新規性のあるモノをつくって、世の中を驚かせてやろう」のような、
言ってみれば、
「モノを通して新しいスタイルを提案すること」に面白みを感じていたように思います。

ちなみに、“ように思います”という表現になるのは、
働く動機というのは、往々にして、
進行形で動いているときには見えにくいものだからです。

そうして20代の月日は流れ、30代前半くらいに、あるアート作品本に出会いました。
オノ・ヨーコの『グレープフルーツ・ジュース』です。
ページをめくるたび次のような文が並んでいます。

「地球が回る音を聴きなさい。」

「空っぽのバッグを持ちなさい。
丘の頂上に行きなさい。
できるかぎりたくさんの光を
バッグにつめこみなさい。
暗くなったら家に帰りなさい。
あなたの部屋の電球のある場所に
バッグをつるしなさい。」

「想像しなさい。
あなたの身体がうすいティッシューのようになって
急速に
世界中に広がっていくところを。
想像しなさい。
そのティッシューからちぎりとった一片を。
同じサイズのゴムを
切りなさい。
そしてそれを、あなたのベッドの横の
壁につるしなさい。」

「月に匂いを送りなさい。」

「録音しなさい。
石が年をとっていく音を。」

「雲を数えなさい。
雲に名前をつけなさい。」

「ある金額のドルを選びなさい。
そして想像しなさい。
a その金額で買える
すべての物のことを。

想像しなさい。
b その金額で買えない
すべての物のことを。
一枚の紙にそれを書き出しなさい。」

                                           ───(南風椎訳・講談社文庫より)


これは、「インストラクション・アート(指示する芸術)」と呼ばれる分野のアートです。

彼女のこの作品が、ジョン・レノンにおおいにインスパイアを与え、
名曲『イマジン』につながっていくという話は有名です。

ちなみに、この本の最後に示されたインストラクションは、

「この本を燃やしなさい。
読み終えたら。」


……そして、本の末尾にはこんな言葉が付記されています。
「This is the greatest book I've ever burned.  ───John」



さて本題に戻り、私はこの本に触れて、
「ほほー、そうか。人の内にアート作品をこしらえさせるアート作品なんや」───
と、感心しきりでした。

自分の最終創造物は、人の外に創り出すものではなく、人の内に創り出されるもの。
つまり、創造の場は、人の心の内。
さらにその創造の主は、自分が半分、それを受けた人が半分。
そして出来上がった作品は、その人の内側に留まり、
その人のその後に影響を与えていくかもしれない。

消費財というモノ作りが、人の外側に創り出して、
人を外側から影響を与えていくのとはまったく正反対のアプローチです。

「モノを通して新しいスタイルを提案すること」に面白みを感じていた私は、次第に、
「概念や観念というコトを通して人の内側に何かを響かせてみたい」───
そんな気持ちが強くなっていきました。

* * * * *

さて、その後の経緯も話せばいろいろありますが、それは別の機会に書くとして、
きょうの概念工作です。

まず、次の問いです。

Sko 01


「成功」の反意語は、はたして「失敗」でしょうか。
そんなとき、エジソンのこの言葉はとても重要なことを教えてくれます。

     「私は失敗したことがない。うまくいかない1万通りの方法を見つけたのだ」。

失敗は成功までの一つの過程であって、
それによって得た経験知は、成功までの土台になりますから大切な「資産」です。
成功によって得る獲得物も、もちろん「資産」。
だから、成功も失敗も資産側に計上すべきプラス価値のものです。

では、対置するマイナス価値のものは何か?
───それは、「何もしなかったこと」
臆病心か怠慢心から、座してその機会を見送ったことです。


Sko 02


なぜ、私たちは「跳ぶ」(=何か行動で仕掛ける)ことに抵抗があるのでしょうか。
それはリスクが怖いからでしょう。
しかし、跳ぶことにリスクはもちろんありますが、
同時に、跳ばないことにもリスクはあります。



Sko 03


「跳ぶリスク」と「跳ばないリスク」、どちらが大きいでしょう?
そしてどちらが負うに値するリスクでしょう?
私が考えるのは次の図です。



Sko 04



成功にせよ、失敗にせよ、勇気をもって行動を起こせば、

何らかの資産(獲得物、経験知、感動、自信、人とのつながり等)が必ず蓄積される。
そして、その中に必ず次の行動の「種」が見つかる。
そしてもっと「跳ぼう」と思える循環が出来上がってくる。
これが「勇者の上り階段」。

逆に、何もしないことに安住すると、どんどん機会損失は増え、後悔は蓄積され、
さらに臆病癖、怠慢癖が自分に染みつく。
「臆病者の下り階段」が知らずのうちに出来上がる。

「跳ぶリスク」と「跳ばないリスク」。
どちらが大きいか、どちらが負うに値するリスクか、答えは自明です。



……こうした概念の工作を、企業内研修のプログラムに展開し、
受講者のみなさんと一緒に「仕事・働くこととは何か?」について演習や討論をする。
それもまた、私にとって楽しい作業です。





2012年2月24日 (金)

溢れるイメージ、涸れるイマジネーション

Shw cvr

絵本を一冊手にとって読みました。

『スーホの白い馬』(大塚勇三再話、赤羽末吉画、福音館書店)という絵本です。


スーホは、モンゴルの草原に住む羊飼いの少年である。
歳をとったおばあさんと二人暮らしで、大人に負けないくらいよく働いた。
ある日、スーホは白い仔馬を拾って帰り、大事に育てはじめる。
月日は過ぎ、ある年の春に競馬大会が行われるという知らせがあった。
その大会で一等になった者を殿様の娘と結婚させるというのだ。
スーホは出場のため町に出て行く。
そしてスーホと白い馬は見事一等を取った。
ところが殿様は、スーホが貧しい羊飼いであることを知ると、
態度を一変させ、スーホから馬を取り上げる……


この絵本は、モンゴルに伝わる楽器「馬頭琴(ばとうきん)」の由来を題材にした
悲しくせつない物語です。

絵本ですから、大人にとってみればあっという間に読めてしまいます。
見開き2ページで1つの場面が描写され、全部で23場面です。
各場面とも最小限の文字数。ストーリーも単純です。

Shw 04

しかし、この絵本を読んだ1日は、ずーっと、
まぶたにモンゴルの景色と、スーホと白い馬の姿が浮かんで消えませんでした。
そして「馬頭琴」という楽器の音色も知らないのですが、
自分勝手にそれを想像して、頭のなかで爪弾いて聴いていました。

これほど簡素なイメージと簡素な文字で、
これだけふくよかなイマジネーションを起こさせる絵本の力───
いまさらながらすごいものだと感じました。


モンゴルと馬いえば、私は、
現代中国の詩人、牛漢(ニウハン)の「汗血馬」を思い出します。


「汗血馬」

千里のゴビを駆けてこそ河は流れ
千里の砂漠を駆けてこそ草原は広がる

風の吹かない七月と八月
ゴビは火の領土だ
ただ疾駆しないかぎり
四本の脚で宙を踊るように疾駆しないかぎり
胸先に風の生ずるのを感じることはなく
数百里の蒸し暑い土埃(つちぼこり)を通過できもしない

汗はすっかり乾ききった砂埃に吸い取られ
汗は馬の体の白い斑(まだら)模様と結晶する


                              ───『牛漢詩集』秋吉久紀夫訳編より一部を抜粋


この詩を読むと、さらにまた、モンゴルの茫漠とした風景が目の奥に広がってきます。

ちなみに、牛漢は「私は詩を、おのれの骨で書く」と表現したそうです。
(詩人、新川和江がそう紹介していました)
彼はいまでこそ名誉を回復して著名な詩人として活躍していますが、
彼の半生は、政府の思想弾圧による投獄、幽閉、強制労働生活の日々でした。
詩をもって権力に抵抗したその精神のありさまが、作品にこびり付いています。
まさに“おのれの骨”で書いたような詩がたくさんあります。


さて、絵本や詩というのは、
きわめて少ない情報量で、きわめてふくよかな世界を与えるものです。
しかし、どこまでふくよかであるかは、
ひとえに読み手のイマジネーション(想像力)によります。

日常生活にイメージは溢れています。

テレビからはありとあらゆる映像が、
雑誌には流行をつくりだす写真が、
映画からはヴァーチャルな三次元の視覚世界が、
街には広告のポスターやら看板やらが、
店頭には買い気を誘うデザインが、
ネットには「きょうはこんなランチ食べてます」のようなデジカメ撮りの料理写真が、
ビジネスの資料には分析を行った数値表や図面やらが……

これらのイメージは、ある種、香辛料のような刺激物ではあるものの、
にじみやぼかしをもつふくよかなものではないので、
イマジネーションの滋養にはならない。

「詩心」を取り戻す時間、普段の生活に大事だなと、あらためて───。


* * * * * * *

【補足】
このブログ記事を書いた後、
『絵本の力』(河合隼雄・松居直・柳田邦男、岩波書店)を読んでいたら、
本の中の鼎談で柳田さんがどきっとすることを本の中で発言されていました───

「私はノンフィクションの作品や評論をずっと書いてきたのですが、ノンフィクションの作品を書いていると言葉数がやたら多くなって、一所懸命理屈をつけたり解釈したり、考えれば考えるほど字数が多くなって何万語という言葉を費やすのですが、時折ふっと、それによって人生のほんとうにいちばん大事なものや魂の部分にどこまで触れえたのかと思ってしまうんです。人間の魂のレベルのコミュニケーションにどこまで関わり合えるかということになると、自分でぎょっとするほど反省するところが多い。

それに比べて、絵本というのは本当に少ない言葉や絵の数、標準的に言えば、十数枚から二十枚ちょっとぐらいの絵の数、そこに添えられたほんのわずかな言葉で、なにかいちばん大事なこと、人生について、命について、生きることについて、喜びや感動について、それがズンズン伝わってくる表現ができる。これはすごい表現手段だしコミュニケーション手段だと思います。そのあたりのことを私は今もういっぺん根源的に考え直しているところなんです」。


Shw 03
   柳田邦男さんは、よい絵本は「人生に三度読むべきときがある」とおしゃっています。
   まず自分が子どものとき、次に自分が子どもを育てるとき、そして自分が人生の後半に入ったとき。


2012年2月14日 (火)

生命は「動的な奇跡」!~きょう1日を生きることの再考


   「良い本」というのは、その本が扱うテーマをよく理解させてくれるのは当然ながら、そこで展開される観点を1つのレンズとして世界全体を見つめ直してみるとき、より深い認識を与えてくれるものでもあります。


  Sh fk bks  その意味で、この2冊───『生命を捉えなおす』(清水博)、『動的平衡』(福岡伸一)はとても「良い本」です。両書とも、これまでの科学が邁進してきた機械還元論的な生命観を超えて、全体論的な視座から生命を見つめ直し、生命を「動的な秩序」として定義します。と同時に、そしてそれを基にして、仕事のこと、生活のことに新しい気づきを与えてくれます。

   私が特に面白かったのは、清水先生が、極力、西洋的な思考アプローチと形而下の分析を行いながら、かつ、東洋の叡智が過去から直観的に捉えていた生命観を慎重に取り込みつつ、新しい生命科学を打ち立てようとする論理過程です。また、清水先生は、生命という切り口から、「場」という概念に新しい光を与えます。私の場合は、組織論が仕事に関連していますから、これを事業組織の「場」に敷衍して考えることはとても有意義でした。
   他方、福岡先生の本は、新しい生命観を基に、昨今のダイエットブームやサプリメントブームの危うさを知ることができます。また、歴史上のいろいろな科学者たちを紹介してくれており、そうした群像物語から刺激をもらうこともできます。


◆生命は瞬時も休みなく「定規立て」をやり続けている
   きょうはこの2冊にインスパイアされ、「生命・生きること」について私が再認識したことをまとめます。さて、下図をみてください───

Heikou

   みなさんは、子どものころ、手のひらに長い定規を立てて、それが倒れないように手のひらを前後左右に素早く動かすという遊びをやりませんでしたか。別バージョンとして、足の甲に傘を立てたり、額(ひたい)にほうきを立てたりするのもあります。

   ───いずれにしても、このせわしなく立たせている状態が「動的平衡」です。

   定規には常に重力がはたらいているので、手のひらの動きを止めたとたん、定規は倒れます。動的平衡が失われるからです。生命とは簡単に言えば、この動的平衡の状態です。私たちは、生きている間じゅう、ずっと、四六時中、休みなしにこの「定規立て」を自律的にやっているのです! なんと不思議なことでしょうか。

   もう1つ、図をこしらえました。

Heikou22


   私たち生物の身体は一つの“器(うつわ)”と考えられます。この器は、開放系と呼ばれるシステムで、常に外部と内部とでエネルギーの交換をしてその状態を維持しています。

   ゾウリムシのような簡素な器(簡素といっても、現在の人類の科学をもってしてもそれをつくり出すことはできない)から、ヒトのような複雑巧妙な器まで、生物という器は驚くほどに千差万別です。そしてまた同じヒトの間でも身体の個性がさまざまありますから、器はこれまた千差万別です。
   しかも、その器は単なるハードウエアではなく、環境情報を処理するソフトウエアまで組み込んでいます。さらに言えば、霊性までをも宿している。こんなものがなぜ暗黒の宇宙空間から自然に生じてきたのか───この解を求める科学が、やがて哲学・宗教の扉の前に行き着くという感覚が、一凡人の私にも容易に想像ができます。


   福岡先生はこう表現しています───


「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである。
だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数か月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。

つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや「通り抜けている」という表現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が「通り過ぎる」べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たち身体自体も「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。

つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている」。


   生物とは、流れの中に生じる“淀み”であり、“容れ物”である。福岡先生は、この後、生命は構造というより「効果」であるとも言っていますが、いずれにしても、生命を捉えるはっと息を呑む定義です。次に、少し難しくなりますが、清水先生の表現はこうです───


生命とは(生物的)秩序を自己形成する能力である」。

「この内部世界を支配している自己意識には、時間的な継続性をともなう統合的な一体感がありますが、この継時的一体感は、その世界の内部の諸情報が、さまざまなホロニックループのネットワークによって過去から現在に至る時間を繰り込みながら連続的に統合されていることから来ているのです。意識は内なる意味秩序(セマンティックス)の絶え間ないフィードバックとフィードフォワードに複雑なネットワークの上に成立しているのです」。


   生命はそれ単独では出現も進化もせず、環境や他の生命との協働によってそれをなしていく。一つの生命(個々の細胞も、全体の生命も)は、生きることを実行していくために独自の“意味秩序”(=これが及ぶ範囲をその生命にとっての「場」と名づける)を持っていて、そのもとに自律的かつ他律的に進んでいくという言及です。これは、仏教哲学が洞察した「空」(くう)や「仮」(け)、「縁起」(えんぎ)といった観念に通底していると思います。


◆人は坂に立つ
   いずれにしても生命の出現、そして生きているという状態は、なんとも素晴らしい奇跡です。私たちは、知らずのうちに生まれてきて、知らずのうちに息をして、知らずのうちに身体が成長して、食べて、笑って、ものを考えて、愛して、感動して、刻々と生きています。そのことの不可思議さについて、ついつい鈍感になってしまいがちですが、実はとてつもなく難度の高い営みを細胞1つの次元から瞬時も休まることなく進行させているのが生命です。

   生命の哲学者、アンリ・ベルグソンは『創造的進化』の中でこう言いました───


「生命には物質のくだる坂をさかのぼろうとする努力がある」。


   たとえば丸い石ころを傾斜面に置いたとき、それはただ傾斜をすべり落ちるだけです。なぜなら、石ころはエントロピーの増大する方へ、すなわち、高い緊張状態から低い緊張状態へと移行するほかに術をもたない惰性体だからです。
   ところが、唯一、生命のみがそのエントロピー増大の傾斜に抗うように自己形成していく努力を発します。坂に置いた石が、勝手に傾斜を上っていくことがあればさぞ驚きでしょうが、それをやっているのが生命なのです。

   私は先のベルグソンの言葉と出合って以来、人は常に坂に立っており、その傾斜を上ることがすなわち「生きる」ことだと考えています。
   生命の本質は坂を上ろうとする作用です。本質にかなうことは必然的に幸福感を呼び起こします。ですから私は、人間は本来、進歩や成長を求め、勤勉の中に真の喜びを得る生き物だと思っています。逆に、本質にかなわない滞留や衰退、怠惰からは、不幸や不安感を味わいます。アランが『幸福論』で言った「人は意欲し創造することによってのみ幸福である」というのもここにつながってきます。



Saka zu


   仕事や人生はいろいろな出来事を通して、私たちに傾斜の負荷を与えてきます。私たちはその傾斜に対し、知恵と勇気をもって一歩一歩上がっていくこともできるし、負荷に降伏をし、下り傾斜に身を放り出すこともできる。一人一人の人間が、生き物として強いかどうかは、結局のところ、身体の強さでもなく、ましてや社会的な状況(経済力や立場など)の優位さでもなく、各々が背負う坂に抗っていこうとする意欲の強さであると私は思います。


◆この一生は「期限付き」の営みである
   そんな尊い生命は、とても“か弱い器”でもあります。仏教では、人の命を草の葉の上の朝露に喩えます。少しの風がきて葉っぱが揺れれば、朝露はいとも簡単に地面に落ちてしまいますし、そうでなくとも、昇ってきた陽に当たればすぐに蒸発してしまいます。それほどはかないものであると。

   スティーブ・ジョブズは伝説のスピーチで「きょうで命が終わるとすれば、きょうやることは本当にやりたいことか」と問いました。私はこのスピーチを聞くと、吉田兼好の『徒然草』第四十一段を思い出します。第四十一段は「賀茂の競馬」と題された一話です。

   京都の賀茂で競馬が行なわれていた場でのことである。大勢が見物に来ていて競馬がよく見えないので、ある坊さんは木によじ登って見ることにした。その坊さんは、


「取り付きながらいたう眠(ねぶ)りて、落ちぬべき時に目を覚ますことたびたびなり。これを見る人、あざけりあさみて、『世のしれ者かな。かくあやふき枝の上にて、安き心ありて眠(ねぶ)らんよ』と言ふに・・・」


   つまり、坊さんは木にへばり付いて見ているのだが、次第に眠気が誘ってきて、こっくりこっくり始める。そして、ガクンと木から落ちそうになると、はっと目を覚まして、またへばり付くというようなことを繰り返している。それをそばで見ていた人たちは、あざけりあきれて、「まったく馬鹿な坊主だ、あんな危なっかしい木の上で寝ながら見物しているなんて」と口々に言う。そこで兼好は一言。


「我等が生死(しゃうじ)の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて物見て日を暮らす、愚かなることはなほまさりたるものを」。


   人の死は誰とて、いまこの一瞬にやってくるかもしれない(死の到来の切迫さは、実は、木の上の坊主も傍で見ている人々もそうかわりがない)。それを忘れて、物見に興じている愚かさは坊主以上である、と。

   医療技術の発達によって人の「死」が身近でなくなりました。逆説的ですが、死ぬことの感覚が鈍れば鈍るほど、「生きる」ことの感覚も鈍ります。
   仮に現代医学が不老不死の妙薬をつくり、命のはかなさの問題を消し去ったとしても、人の生きる問題を本質的に解決はしないでしょう。なぜなら、よく生きるというのは、どれだけ長く生きたかではなく、どれだけ多くを感じ、どれだけ多くを成したか、で決まるものだからです。

   この一生は「期限付き」の営みです。その期限を意識すればするほど、きょう1日をどう生きるかが鮮明に浮き立ってきます。
   哲学や宗教は「死の演習問題を通して、生を考えること」とも言われます。それほど生死(しょうじ)の問題は、人間にとっての一大テーマであり続けてきました。若いうちは、誰しも老いることも、ましてや死ぬことも考えられません。ですが、仕事や日常生活で悩みや停滞があればあるほど、こうした大きなテーマ――生きていることの驚きや有難さ、そして必ずやってくる命の終わりのこと――に考えを巡らせる時間をとることで、逆に卑近な問題やイライラは和らぎ、消えていくことでしょう。

   私は毎朝、散歩を欠かしません。近所の雑木林で見る日々の植物の変化や、日差しの移り変わり、野鳥たちの移動、気温の上がり下がり……それら生と死、盛と衰、陽と陰の「大きな波の往復」・「大きな変化の環」を感じることは、「大きな力」を得ることでもあります。みなさんも是非、そういう暇(いとま)をつくってみてください。知らずのうちにホコリや油分で曇っていた眼鏡レンズを拭き取ったときのように、世界が鮮やかに生き生きと見えてくると思います。


2012年2月12日 (日)

原因と結果は一体〈続〉~善行を積めば宝くじに当たるか!?


前回の記事の補足として、原因と結果が一体=「因果一如」ということにもう少し触れる。


昔から「情けは人のためならず」ということわざがある。
他人に施した善い行いは巡り巡って自分に帰ってくるという意味だ。
これは真実だろうと思う。

だから、
私たちの中には日ごろから善いことをいろいろしていけば(=原因を積んでいけば)、
将来、宝くじに当たる(=結果が出る)かもしれないと期待する人もいるだろう。

しかし、これを「因果一如」とは言わない。
日ごろ行う善行の“因”と、宝くじに当たる“果”はまったくの別の出来事だからだ。
因と果が一対一でつながっていないと言おうか。

もし、私たちが何か人に善いことをしたのであれば、
その行為と同時に自分の気持ちがすがすがしくなっている。
そのすがすがしさこそが、結果・報いであって、これを因果一如と呼ぶ。

ちなみに、先ほどの「情けは人のためならず」をサポートする観念としては、
「陰徳あれば陽報あり」という言葉がある。
いずれにせよ、善い行いというのは、自分の境涯という土壌の肥やしになるようなもので、
いつか自分が立派な花を咲かせ、実を結ぶためには、いくらあってもよいものだ。



* * *(補足の補足)* * *


◆「真・善・美」の仕事はそれ自体が報酬である

さて、因果一如というコンセプトを「仕事・働くこと」に引き付けて考えるとどうなるか。
私たちは、働いたことの報酬としてお金をもらいたい。できれば多くもらいたい。
しかし、「利」ばかりを追っていくと、「もっと多く、もっと多く」の欲望が加速する。
そうなると逆に、少ない金額しかもらえないとなると、とたんにやる気がなくなる。

「これだけストレスを抱えながら働いているのに、これっぽっちの給料か……」と、
少なからずの人たちが神経と身体を痛めながら日々の仕事をこなしている。
金銭という外発的動機に動かされているかぎり、こうした状況は変わりなく続く。

そうした中で私たちは、東日本大震災後に多くのボランティアが全国から駆け寄り、
無償の汗を流しながら、とてもよい笑顔を見せる光景に数多く触れた。
それは「利」を求めての行為ではなく、「善」の行為であった。
「善」の行為は、内発的動機であり、それをやること自体がすでに報酬なのだ。
つまり、因果一如だ。


「善」に関わる仕事内容───
つまり他者の喜ぶ顔や社会貢献につながっている仕事
は、それ自体で報われる。

「真」に関わる仕事内容───
つまり科学者の研究のように真実を追求する仕事
は、それ自体で報われる。

「美」に関わる仕事内容───
つまり自分の美意識のもとに創造をする仕事
は、それ自体で報われる。


私はここで、だから「安い給料でもよい」と言っているのではない。
給料は経営にきちんと目を張って、相応のものをもらうべきだ。

ここで私が主張したいのは、
一人一人の働き手が、一つ一つの組織が、
仕事・事業の向け先として「(経済的)利」追求に偏った流れから、
「善的なもの」「真的なもの」「美的なもの」にシフトさせていく努力を怠ってはいけない
ということだ。

そんなキレイごとを言っていたら、熾烈なグローバル競争の中で勝っていけないと
少なからずの経営者は言うかもしれない。
しかし、低価格路線という「利」の競争次元で戦えば、日本は必ず新興諸国に負ける。

むしろ、知恵や技や感性をもった日本は、位相を変えて戦うところに勝機がある。
すでに米国のアップル社は「美」的次元で独り勝ちをしている。

社員に対して、「利」の価値一辺倒で危機意識を煽るやり方は限界がきている。
「善」「真」「美」といった価値を軸に据えた仕事観・事業観のもとに、
「働きがいのある」職務・職場に変えていこうと努力をする組織、
そして意義やビジョンを雄弁に語ることのできるトップ・ミドルがいる組織は、
結果的にしぶとく生き残っていくだろう。

「そんな青臭い正論など抽象論議に過ぎない」……こう思われる読者もいるかもしれない。
が、そんな正論めいた抽象論議を真正面からとらえて、
具体的に、働くことのあり方や事業のあり方、組織のあり方を進化発展させていくのが、
先進国ニッポンの真のチャレンジテーマではないのか。

スティーブ・ジョブズが東洋の禅思想に傾倒していたと日本人は誇らしげに語るが、
当の私たち日本人はどれほど自国が育んだ思想・哲学を知り、
現代に蘇生させているだろうか。

「その行為にやりがいがあり、その行為をやった瞬間にすでに報われている」=「因果一如」
───過去の賢人たちが残してくれたこうしたコンセプトは、抹香臭い観念ではなく、
新しい時代に生かすべきアドバンテージであり、テコであり、武器なのだ。
そしてこれを見事にやってこそ、ニッポンは再び力を得るだろうし、

先進国として、文化発信国として、存在感を増すようになる。






→ 前篇「原因と結果は一体」




2012年2月 4日 (土)

原因と結果は一体 ~If you build it, they will come.


2012年も明けて、はや2月。

プロ野球のキャンプが沖縄や宮崎で始まっている。
選手たちにとって、1月の自主トレーニングと2月のキャンプはとても大事な期間だ。

昨年、セ・リーグは中日ドラゴンズが大逆転で優勝を果たしたが、
優勝したときの有力選手たちの感想は、
「あれだけの厳しい練習をやってきた自分たちだから、優勝できなきゃおかしい。
優勝できて当然」といったようなものだった。
落合博満監督も「あの猛練習に報いるよう優勝させてやるのが自分の責務」と語っていた。

彼らの中では、2月のキャンプをやり切った時点で、すでに優勝が決まっていたのだ。
つまり、勝つ原因をつくるのと結果が同時であったということである。

* * * * *

ちょうどいま、私はある記事の執筆で「メタファー(比喩)」について書いている。
そこではメタファーの一例として仏教経典の1つである『法華経』を取り上げている。

『法華経(正式な中国語訳の名称:妙法蓮華経)』というネーミングはメタファーである。
法華経の原語は、古代インド語で
「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」=「白い蓮(ハス)の花のような正しい教え」。
私たちは京都や奈良のお寺に行って仏像をよく見ると、
それが蓮の上に座していることに気づく。
だが、なぜ仏教を象徴する植物が蓮なのだろう───?

蓮は泥水の中で育つが、泥に染まることなく、美しい白い花を咲かせる。
つまり、泥水は煩悩に満ちる現実の世界のことで、
その中に生きつつも仏性という花を咲かせていく人間の姿を蓮に込めたかったのだ。

加えてもう1つ大事な要素がある。
蓮という植物は「花果同時」という特徴を持つという。すなわち、
多くの植物が開花後、受粉プロセスを経て実を結ぶという時間差があるのに対し、
蓮は花が咲くのと同時にすでに実を付けている。

これは仏教が説く「因果倶時(いんがぐじ)」、「因果一如(いんがいちにょ)」とも言うが、
すなわち「原因と結果は一体で不可分のものである」というコンセプトに
蓮の花の性質は符合するのだ。

* * * * *

昨年の中日ドラゴンズのリーグ優勝は、2月時点ですでに決まっていた。
この見方が、仏教思想でいう「因果倶時」だ。
もちろん物理的には、4月からリーグ戦が実際に始まって10月に優勝が決まる。
この時間差について仏教は「因果異時(いんがいじ)」という対の概念を用意している。

こうした原因と結果を一体化してとらえる観念は、
東洋世界が生み出した優れた観念ではないかと思う。

道教(タオイズム)にも、
「道を求めたければ、師を求めるな。道を求めたとき、師はやって来る」といったような
言葉があったと記憶する。これもまさに、因果を一つのものとしてみている。

ケビン・コスナー主演の米国映画『フィールド・オブ・ドリームス』での有名な言葉;

    “If you build it, they will come.”
     (それを造れば、彼らはやってくるだろう)

本質的には、それを造った時点で、彼らがやって来ることが決定しているのだ。
(現象面では時差が出るが)

さて、2月も第1週が過ぎようとしている。
2012年が実り多き1年になるかどうかは、
この2月の行動具合で決まってしまうととらえると、うかうかしてはいられない。
「どんな原因を仕込むか」と「どんな結果が得られるか」は一体なのだ。

そう、そして、もっと言えば、「一日即一生」
一日一日という原因の積み重なりによって、一生がどんな果実となるかは決まる。
一日のなかに、すでに、自分の行く末の姿はあるのだ。




*→つづく 「原因と結果は一体」〈続〉



Yu ground
グランドに陽が落ちて、でも、選手たちにはそれぞれのさらなる鍛錬の時間がある

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