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2012年8月

2012年8月24日 (金)

「職選び」を乗り物にたとえる


Kattadake
蔵王連山(宮城県)のひとつ刈田岳から立ち上る入道雲



   私は仕事柄、さまざまな人のキャリアを観察しています。
   Sさんは31歳。世間でも超一流と言われる大企業に7年間勤め、2年前、ベンチャー企業に転職した。大企業勤めが特に嫌だったわけではない。勤めようと思えば、定年まで勤められた会社だったという。
   ただ、大組織の中にいて、忙しいだけで退屈な内容の仕事に自分が生き生きしていないなと感じる日々にモヤモヤ感があった。そんな折、みずからの事業を熱く語るベンチャー経営者に出会った。その人の情熱と夢に共感し、いとも簡単にそこに転職を決意した。年収は2割減。会社の知名度も安定度も比較にならないくらい低くなった。任された職種もこれまでとまったく違う。けれど、社員数十名の組織での自分の役割や影響力は格段に増した。「小さい会社は問題も多いが、自分のやりがいも大きい」とSさん。自分の意見や行動が組織に響く手ごたえ、自分の成長と組織の成長が月々年々よく見えるという面白さ。そして、事業の方向性について、社長と“差し”で話せる経営参加意識。Sさんはこの転職がよいものだったと確信している。

   さて、Sさんの転職話を前置きとして、きょうは自分にとっての「職選び」を乗り物にたとえてみたい。

   まず、大企業勤めは、言ってみれば「大型船」である。パワフルなエンジンを装備し、多くの人数を安定した速度で、しかも遠くまで運んでいくことができる。船体は頑丈で多少の波にはびくともしない。屋根や窓がしっかり付いているので、雨が降っても、風が吹いても中の人間は平気である(空調がきいている部屋もあって快適ですらある)。その上、自分ひとりが多少居眠りをしても、その船は運行を止めずに進んでいってくれる。
   ただ、難点もある。自分に与えられたスペースが限られているのでとても窮屈だ。また、作業はこと細かに分けられ、はたして自分のやっている作業がどれだけ全体に影響しているのかがわかりづらい。そんな中で、個々人はともかく自分の居場所を確保するのに忙しい。が、その乗り物がどこに向かうかは、多くの場合、個人では決めることができない。

   一方、ベンチャー会社や起業は、「オートバイ(自動二輪車)」である。細い道や多少の悪路もなんのその。エンジン音を高鳴らせながらグイグイと突き進んでいく。ハンドルさばきは自分次第。風を切りながら走り、自分の一挙手一投足がマシンに直下に伝わる快感は応えられないものがある。
   しかし、雨が降ればズブ濡れ覚悟。ちょっとのハンドルミスが大きな事故につながるという危険性は常に隣り合わせ。オートバイはハイリスク・ハイリターンな乗り物なのだ。

   また、町の中小企業はさしずめ、「小さな帆船」といった感じだろうか。その日その日の風向きを常に気にしながら、帆の位置を変えてゆっくり進む。出せるスピードは限られているし、遠くへも行くにも難がある。景気といった波の影響をもろに受けるからだ。
   しかし、自分たちしか知らない穴場の漁場があって、そこで高級魚の一本釣りの醍醐味を味わうこともできる。帆船はエンジンで走る高速の乗り物では味わえない独特の世界を持っている。

   そして、最後に自営業・フリーランス。これは「自転車」か「徒歩」だ。漕ぐこと、歩くことをやめたらそこでストップする。動く早さ、動く距離はすべて自分の意志と体力次第だ。
   もちろん行き先はすべて自分で決める。道草は自由。途中で道を変えるのも自由。ただし、雨が降り、風が吹けば自分でよける道具や工夫が必要になる。しかし、移りゆく景色、風の匂い、季節の音を楽しみながら進むことができる。

   乗り物の好みは人さまざまだ。安定した運航で遠くまで連れていってくれる大型船がいいという人もいれば、目の前の岩山を、オフロードバイクでケガを承知で駆け上がりたいと衝動が走る人もいる。
   また、乗り物など使わず自分の脚で山に登って、道端の草花に目をやり、景色のいい場所を適当に見つけて、手作り弁当を広げるほうがいいと思う人もいる。これらは志向性、価値観の差であって、どれが正解か不正解かという問題ではない。

   職選びもこれに共通したところがある。大企業で海外を股に掛けるもよし、ベンチャー企業で一攫千金を狙うもよし、はたまた個人事業で趣味を仕事にするもよし。スピードの中で戦う仕事もよし、のんびりとした仕事もよし、人が寄り付かない仕事もよし。
   要は、自分の内なる声に正直に従い、それにマッチした職やワークスタイルを選び、生計が立てられれば、それは「幸せのキャリア」である。経済的に「成功のキャリア」ではなく、自分の性分に合った乗りものを選ぶという「幸せのキャリア」という観点も長いキャリア人生においては大事である。
   ちなみに、「成功のキャリア」にせよ「幸せのキャリア」にせよ、そこを狙い、維持していくためにはリスクを負って努力することが必要だ。そういうことがわずらわしいと思う人は、現状に不満がありつつも、内なる声に耳をふさぎ、現職でとりあえず安定的に雇用されるように我慢をするという「可もなく不可もなくキャリア」という道を選ぶこともできる(現実社会ではこれが多数派ではないか)。

   ……さて冒頭のSさん。彼は、結局、受け身で乗せられる「大型船」ではなく、ハイリスクであろうと自分でマシンを動かせる「オートバイ」が自分の働く性分に合っていたのだ。



2012年8月13日 (月)

「火の心」と「水の心」~五輪の感動を消費しないために


Nadeshiko1208r


   この2週間、居間のテレビからはいつもオリンピック中継の熱い映像と音声が流れていたのだが、それも終わり、お盆休みの静けさを取り戻した庭先では、いつの間にか、セミが生命力いっぱいに鳴いている。

   3・11以降最初のオリンピックとあって、試合後の街の声は「感動をありがとう」、「勇気をもらえた」というのが多かった。
   さて、選手たちはがんばった。4年間の辛く厳しい準備過程を経て、晴れの舞台で精一杯表現した。では、そこから感動・勇気をもらった私たちは、きょうから何にそのエネルギーを生かすか───? それを自分の生活・人生・仕事にうまく生かしてこそ、選手たちへのほんとうの「ありがとう返し」になるのではないか。

   興奮や高揚による感動は、ある意味、火のようなものである。
   ぼっと燃えあがって、すぅっと消えていく。

   誰しも感動したときは、おれもがんばろう!と思う。しかし、それはいわば“火の心”であって、長く保持することは難しい。
   生活・人生にはそうした一時(いっとき)の刺激も大事だが、それ以上に大事なのは、そのとき決めたことを持続していく習慣である。習慣は、“水の心”によってなされる。絶え間なく滔々と流れる川の水のように、きのうもきょうも、昨年も今年も、そして5年後も同じように流れてこそ、川は澄み、自分の形となり、海を豊かにしていく。

 


「人格は繰り返す行動の総計である。
それゆえに優秀さは、単発的な行動にあらず、習慣である」


                                             ───スティーブン・R・コヴィー 『7つの習慣』

 


「同じ情熱、同じ気力、同じモチベーションで持続することができる人が、一番才能がある人じゃないかと思っているのです。奨励会の若い人たちを見ていると、手が見えると言うのですが、一つの場面でパッと発想が閃く人がたくさんいるのです。しかし、だからといって、そういう人たちが全員プロになれるかというと、意外にそうでもないのです。
逆に、そういう一瞬の閃きとかきらめきのある人よりも、見た目にはゆっくりしていて、シャープさはさほど感じられないが、でも確実にステップを上げていく人、ずっと同じスタンスで将棋に取り組むことができる人のほうが結果として上に来ている」。


                                                      ───羽生善治・今北純一著 『定跡からビジョンへ』



   今回、五輪選手たちからもらった感動が単なる興奮だった人は、おそらく、次の興奮を求めて、また別の強い刺激を追いかけるだろう。彼らは退屈が嫌いなのだ。
   逆に、この感動を自分をつくるためのものに変換しようと思った人は、何か挑戦の準備をしたり、何か習慣を始めたりするだろう。準備や習慣といったものは、元来、退屈なものである。しかし、この退屈ではあるが、中身を詰めていくプロセスこそが、よりよく生きることの本体である。それは、バートランド・ラッセルが「偉大な本は、おしなべて退屈な部分を含んでいるし、古来、偉大な生涯は、おしなべて退屈な期間を含んでいた」(『ラッセル幸福論』)と書いたとおりである。

   人は刺激ばかりを追っていると疲れる。退屈さの中の“耕し”がないと、心身は決して満ちてこない。ロマン・ロランは次のように警告する───「魂の致命的な敵は、毎日の消耗である」(『ジャン・クリストフ(一)』)と。

   「水の心」を持って、自分が掲げた目的のもとに、日々の行動を積み重ねていくこと───文章で書けば、これもまた退屈な表現だが、これがなかなかできないのが私たち凡人なのだろう。しかし、考えてみれば、五輪という舞台に立ったアスリートたちは、みな、こうしてきたのだ。あらためて敬服。
   祭りは終わった。されど、個々の人生は続く。

 


「どんなにゲームで活躍しようが、自分の中では、どこにも、何にも到達していないという感じです……人生と同じで、死ぬまでの間は通過点なんです」。


                                                                                     ───三浦知良 『カズ語録』

 


「一日は一年の縮図である。夜は冬、朝と夕方は春と秋、そして昼は夏である」。


                                                         ───ヘンリー・ディビッド・ソロー『森の生活』



さて、きょう一日、何をしようか。
一日即一年、一日即一生である。




*(引き続き行われるパラリンピック出場の選手のみなさんのご活躍も期待します)







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