9) 過時雑信 Feed

2010年7月18日 (日)

W杯サッカーが終わって〈2〉

Tsuyuake0


その2◆結局は基本の力

90分のサッカーゲームは、「パス・トラップ・ドリブル」の織物である。

強いチームを見て惚れ惚れと感じることは、
パス・トラップ・ドリブル、この3つの基本動作のうまさが違うことだ。
その単独の行為だけ見ていても十分に魅了される。
ゲームを決するシュートも、結局、この3基本動作の組み立ての結晶である。
スペクタクルなゲームという豪華な反物は、すべてこの基本動作によって織られている。

仕事もそうだ。
よい仕事をする人は、例外なく基本がきちんとできる。
私が最も重要だと考える基本動作は次の5つである。

 読む。 ―――インプット
 考える。 ―――スループット
 書く。 ―――アウトプット
 決める。 ―――方向づけ
 はたらきかける。 ―――人とのつながり

これら5つの基本動作で、私たちは仕事という織物を自分なりに織っている。
私はいまだこの5つの基本を大事にし、鍛錬を怠らないようにしている。



その3◆ライバルとの死闘は究極のコラボレーションである

「今夜の勝利にふさわしいのはスペインのほうだった」―――
準決勝戦で敗れたドイツのレーブ監督は試合後のコメントでこのような内容を語り、勝者を称えた。

私は(サッカーに限らないが)、監督・選手の試合後のコメントに聞き耳を立てることが多い。
特に、敵に対してどうコメントするかを聞いている。
スポーツの試合には当然ながら相手がいる。強い相手がいるからこそ、自分も強くなれる。

本大会も息詰まるカードがいくつもあったが、
それはどちらが勝ったにせよ負けたにせよ、後世に見事な作品として残る。
前記事でサッカーゲームは織物だと言ったが、
見事な織物作品は、見事なタテ糸と見事なヨコ糸によってこそ出来あがるものである。

そういった意味で、私は、
「ライバルとの死闘は究極のコラボレーションである」と思っている。
で、それを知っている人間は、
試合後のコメントを求められたときに、相手を称えることを忘れない。

今年の春の選抜高校野球で、ある野球名門校の監督が1回戦敗退の後に
「21世紀枠に負けて末代までの恥」と発言したことが世間でも話題となった。
その悔しい心情はわからないでもないが、残念な発言ではある。

名勝負という作品の半分は、「よき敗者」によってつくられているのだ。


ちなみに、ラグビーの場合、試合終了を「No Side」という。
これは、試合が終わって「もう敵・味方の区別をなくしましょう」という意味だ。
ラグビー専用の球技場では、シャワールームも1室しか設置せず、
両軍の選手が一緒に汗を流すというつくりになっているところも多いという。



その4◆戦うモチベーションは「誇り」

W杯という頂点レベルのサッカーは、人のやることの研ぎ澄ましだから、
いやがうえにも民族の精神性や身体特性、社会性が浮き彫りになる。
だから、ニッポンのサッカーとサッカー選手の有り様は、日本の伝統と時代性の影響下にある。
その点を考えると、
この平和な平成ニッポンに生まれ育ち、身体特性も華奢(きゃしゃ)な日本人選手たちが、
よくぞここまで世界で健闘しているなという思いを持つ。

だから私は、W杯に出場というだけで(本戦での勝ち負けはともかく)、
ジャパンイレブン(監督・コーチ陣や、控え選手、サッカー協会など含む)に
「W杯という楽しみを与えてくれてありがとう」と言いたい。

私がサッカーをやっていた少年時代(70年代前半)などは、
日本がW杯に出るなんぞは実現不可能なことで想像もしなかったし、
またサッカー番組などは放映もされなかった。
唯一、三重テレビ(テレビ東京系)が『三菱ダイヤモンドサッカー』というのを放映していて、
でも三重テレビはUHFチャネルで、特別なアンテナを立てないとうまく受像できないので、
私はしかたなく画面にサンド嵐が吹き回る中を目を凝らして観たものだ。
(私は解説者だった岡野俊一郎さんの声を聞くと、いつもこの時代のことを思い出す)

元日本代表監督のイビチャ・オシムは、
「日本という国は人をだまさなくても生きていける平和な国だ。
だからサッカーの世界で勝っていくことは難しい」
といったような意味のことを発言したと私は記憶している。

確かに国際レベルのサッカーで勝つためには、
ずる賢さや狡猾さ、そして強烈なハングリー精神が必要になる。

日本のサッカーは、ずる賢さや狡猾さ、ハングリー精神の面で言うなら、
相当その要素を欠いているのではなかろうか。
そのうえ体格だってハンディを負っている。
にもかかわらず、ベスト16までは行けたのだ。
(技術や規律性、団結力、「代表の誇り」といったモチベーションによって)

ともすると平和ボケしそうな社会のもとに生まれ育った若者が
モチベーションを高く維持してあれだけの戦いをしたのだから、とても敬服に値するし、
(たとえ1次リーグで敗退していたとしても)ありがとうと言いたい―――それが私の目線だ。

Tsuyuake3 
仕事部屋の窓から雲を眺める。
雲の変化をみているとヘラクレイトスの「万物は流転する」を思い出す 。

W杯サッカーが終わって〈1〉

Tsuyuake1


祭りの後はなんともさみしいものだが、
今回のW杯サッカーを観戦しながら考えたことを断片的に書き出してみる。

その1◆トータルフットボールの円熟

毎度のことながらW杯サッカーでは、特定の個人プレイヤーを挙げて
「今回は誰々の大会になりそうだ」と戦前に人びともメディアも騒ぐ。
実際、過去の大会では、サッカーの神様が誰か一人に魔法の黄金シューズを履かせ、
アンビリーバブルなプレーをさせてきた。

今回はそれがメッシなのか、C.ロナウドなのか、
はたまたカカなのかルーニーなのか…… (結果はご存じのとおり)

しかし、これほど特定の個人が浮き出なかった大会も珍しい。
得点王も結局、5得点の4人が並ぶ結果となった。

しかし、突出したファンタジスタが現れずとも、本大会は見ごたえのある対戦が多かったし、
スペインという「統合力×独自の美意識の貫徹」のチームが優勝したことで
現代サッカーの1つのお手本解が示されたともいえる。

巷間(私も含め)のサッカー論議やメディアの一般記事では
好んで特定のヒーローをこしらえたいし、また「組織力か個人力か」という2項対立で話をしたい。
しかしながら、実際のサッカーは、もはやその2項対立ではないし、
特定のスーパープレイヤーに頼れば頼るほど勝ち進めなくなっている。

現代サッカーは、1970年代のオランダチーム(ヨハン・クライフら)が展開した
トータルフットボールの流れを受け、
全員攻撃・全員守備、献身的なハードワークが前提、組織力が基盤、その上での個人力
―――を目指すようになっている。
個人主義ベースと言われるブラジルやアルゼンチンでも、
もはやコレクティヴ(協働的)な部分を無視できない。

しかしながら、トータルフットボールは往々にして、
「固い守備+カウンター攻撃」のような型になりがちで、どうも面白さに欠けた。
だからこそ、私たちはその中で「強烈な個」を常に欲していたとも言える。

ところが、今回のスペインは、コレクティブでありながら、
そのコレクティブさを守備固めというより、攻撃のためのパスサッカーに適応し、
独自の美意識に固執して得点を奪うという相当に高度なことをやってのけた。
まさにトータルフットボールの円熟ここにあり、といった感じだった。

組織も強いし、個人も強い。
守備も強いし、攻めも強い。
そして、自らのスタイルを貫いて、美しく勝った。

美しく勝つといっても、スペインの場合、楽勝だった試合は1つもなく、
1点をこじ開けて守る薄氷を踏む勝ちが多かった。
美しさを貫く底にしぶとさがあったのだ。

本大会王者のスペインから引き出せる強さのキーワードは
○「トータル」であること
  =強い組織と強い個が統合して力を出している。
  =「私攻める人/私守る人」といった分業でなく、全員・全体で勝ちにいく。
○「コレクティブ」であること
  =互いの献身が全体を支えている。
○独自のスタイル+それを貫徹させる“しぶとさ”


さて、話を私たちの働く現場に向かわせてみよう。
……いま日本の働く現場では、ことごとく逆のことが起きているのではないか。

日本人の働き手は、相変わらず会社の組織力に身を委ねたがる傾向性が強い。
もちろん会社の諸々の力はうまく利用していいのだが、
その上で、個人で何か突破することをしないように思う。
若い世代の大企業志向、公務員志向、終身雇用志向など、保守回帰が始まっていることも気になる。
また、不景気で雇用需要が弱まってくると、
会社は「雇ってやっているんだ」、個人は「雇ってもらうためにはしょうがない」
といったような心理状態になりやすく、
そこにもますます「強くなる(場合により暴君化する)組織」と「縮こまる個人」の構図が見てとれる。

さらに、いまのビジネス現場では業務があまりに専門分業化されるために、
働き手に求める能力も、どんどん専門分業化されていく。
そのために働き手はますます知的部品化、技的部品化していく。

組織側はそのほうが人材として使いやすいのでその流れを肯定し、
一方、働き手側も、
周辺の余計な業務に手を煩わせたくないので、どんどんタコツボ的に自分を限定していく。

……こうみると、いまの日本人の働き手、日本の多くの職場は、
「トータル」さに欠け、「コレクティブ」さも欠けている。
そして独自のスタイルをどこに見出せばいいのかさっぱり迷っている。

独自のスタイルに関して言えば、
「ていねいなものづくり」はグローバル経済の中でも、
いまだ十分に日本の独自スタイルになりうると思うのだが、
ただ、美しいサッカーが、歴史上、
泥臭いサッカーやずる賢いサッカーにたいていの場合勝てなかったように、
「ていねいに(しかし高価格に)つくった」日本の家電製品は、
世界市場において「そこそこの品質で安くつくった」韓国製品・台湾製品に勝てなくなっている。

しかしそれでも、美しさを堅持しながら、スペインはしぶとく勝った。
だから、私は、日本が「ていねいさ」を堅持しながら、
ものづくりの分野で勝ってほしいし、勝てると信じている。

しかし、そのためには「トータルさ」と「コレクティブさ」を強くする必要がある。
(ふーむ、やはりここに問題は返ってくるのだ)


補足◆ボールから遠いとき何を考え何をしているか

サッカーの名指導で私がいつも思い出すのは、故・長沼健さんの次の言葉だ。

 「1試合で1人の選手がボールに直接関係している時間は、
 合計してもわずか2分か3分といわれている。
 1試合が90分だから、ボールに直接関係していない時間が87分から88分という計算になる。
 ボールに直接関係しているときは、世界のトップクラスの選手も、小学校のチビッ子選手も
 同じように緊張し集中している。技術の上下はあっても、真剣であることに変わりはない。

 ボールに直接関係していない時間の集中力が、トップクラスの連中はすごいのだ。
 逆に言えば、ボールに関係していないときの集中力のおかげで、
 いざボールに関係するとき優位を占めることができるし、
 
もっている技術や体力が光を帯びることになるわけである。

 サッカー選手の質の良否を見分ける方法は比較的簡単だ。
 ボールから遠い位置にいるとき、何を考え、どういう行動をとるかを見れば、
 
ほぼその選手の能力は判断できる」。

                        
―――『十一人のなかの一人~サッカーに学ぶ集団の論理』より


Tsuyuake2
いよいよ梅雨が明け、今年も暑い夏が来る

 

2010年5月28日 (金)

人生で一度は「事業主」をやりなさい! ~メンドリの参加と豚のコミット



冒頭にまず、アメリカンジョークをひとつ;

In ham and egg, the hen is only participating,but the pig is really committed.

―――ハム&エッグにおいて、
メンドリ(雌鶏)は参加しているだけだが、ブタは本当にコミットしている。


いつごろからか、ある種の「飲み会」が面白くない。
ある種の飲み会とは、
サラリーマン率の多い飲み会である。

酒席での話題はおおかた仕事や組織の話になる。
 「給料が出て当然」、
 「交通費が支給されて当然」、
 「ペン1本から個人パソコン1台まで取り揃えてもらうのが当然」、
 「これだけ仕事やってんのに会社は・・・」、
 「これだけ我慢してんのに上司は・・・」
彼らの愚痴やら正論は、こうしたマインドベースがあって出てくる。

それを聞かされる私のマインドベースは、
 「給料が出るのは当然ではない」、
 「交通費が支給されるのは当然ではない」、
 「ペン1本から個人パソコン1台まで取り揃えてもらうのが当然ではない」、
 「これだけ仕事やってんのに会社は・・・と自分の事業を責めてもしょうがない」、
 「これだけ我慢してんのに上司は・・・そもそも私に愚痴を言う上司はいない」

独立して自分の事業を起こした私(事業主)のベースと
雇われ身である彼らとのベースは根本的に違うのだ。

一方、私にとってベンチャー起業者や独立事業者の集まりは面白い。
皆、リスクを一身に背負っている。
会社員を「ビジネス兵士」と呼ぶなら、こちらは 「事業侍」 だ。

侍同士が持ち合う、世を渡る緊張感や、孤独感、スピンアウト意識、
妙な美意識や誇り、アウトロー感覚、賭博的な人生感覚、無常観……。

私はここでサラリーマンを揶揄するつもりはまったくない。
(むしろ私も、サラリーマン時代にいろいろなことを勉強させてもらったからこそ
今日の自分がある。独立において、サラリーマンというプロセスは重要なものだ

しかし、サラリーマンという生き方と、事業主という生き方の間には、
いやおうなしに大きな溝がある。

サラリーマンはどこまでいっても、やはり、事業は組織のものであり、
リスク(特に資金的なリスク)は組織が抱えてくれるものであり、
その関わり度合いは 「メンドリ的」 なのだ。

一方、事業主は、自分の事業に自分のすべてを賭して「ブタ的」に関わる

両者の仕事に対する必死さ・緊迫感に違いが出るのは当然と言えば当然かもしれない。
それにしても事業主になってみて、
よく見えてくること、強くなれることがたくさんある。

私が従業員を雇う場合、
「大企業で働いてきました。これこれこういう実績があります」という人と、
「いったん独立しましたが、うまくいかずここで再起を図りたいです」という人と、
どちらに魅力を感じるか?―――いわずもがな、後者である。
自らの事業を自らのリスクで動かそうと試みた人間は、
他人には言いきれない多くのことを内に刻んでいる。

だが実際このとき、私は彼を従業員にはしないだろう。
事業主として彼を留まらせ、業務委託という形で彼に仕事を渡す。
彼とは労使の関係ではなく、協業パートナーとして結び付きたいからだ。
彼が事業主として仕事を再び軌道に乗せることができ、
今度は私にプロジェクトをもってきてくれるまでになったらとてもうれしい。

* * *

冗談半分に言わせてもらえば、
日本で45歳以上のサラリーマンを認めない法律をつくったらどうかと思う。
もしくは、40代での退職金が最も高くなるよう制度を直すべきかもしれない。
(そして、20代30代にはもっと給料をあげよう)
40代後半からは、皆が、自分のビジネスを始める社会をつくりだすのだ。

サラリーマンを卒業して、もちろん会社を立ち上げてもいいし、
個人自営業者・インディペンデント・コントラクター(独立請負業者)として
自らの得意とする能力を売ってもいい。

要は、組織の中で安穏とぶら下がりを考えるのでなくて、
自らの能力と意志でつくりだす商品・サービスを世間様に買っていただけるよう
全人的に仕事に取り組む職業人(=事業侍・ブタのコミットメント)に万人がなっていく社会だ。
そうした潔くたくましい大人が増えればこの国は壮健になる。

自分の事業を持つ。事業主になる。―――
これは誰しも人生に一度は経験すべきものだと声高に言いたい。
それは貴重な挑戦機会となり、鍛錬機会となり、感動機会となるだろう。

* * *

今回の事業仕分けでも、官僚の天下りがずいぶん指摘された。
サラリーマンにしがみつく年寄りの保身姿は醜い。

いや、有能な人間ならそのポストに就いてもいっこうにかまわない。
就くのであれば、独立事業者として、コンサルタントにでも何にでもなって、
受託契約を1年1年きちんと市場価格で結んでいけばよい。

「メンドリの参加」程度で、割高年俸と退職金の二重取り三重取りは許されない。
潔く、社会良識をもった対価で、「豚のコミットをせよ」と言いたい。



Camp fr 
 今年もキャンプのシーズンが来た。
 私はキャンプというより「野営」という響きのほうが好きだ。
 仲間うちでワイガヤのキャンプもいいが、
 一人っきりで野営をすることもやってみるといい。
  (クマが下りてこない安全な場所で!)
 たぶん、すっごくコワイ。 少しの物音にびくびくする程コワイ。
 ランタンの明かりは1mの先までも届かず、漆黒の空間に身を置くことになる。
 夜が長い。
 たぶん「森の精」や「もののけ」を感じると思う。
 ・・・だからこそ、いい。


2010年5月 6日 (木)

電子書籍元年に思う ~技術の進化が「おおきな作品」を生み出すか


佐々木俊尚著 『電子書籍の衝撃』 (ディスカヴァー・トゥエンティワン) を面白く読んだ。

Denshon 

『Kindle』『iPad』の発売によってにわかに話題沸騰の電子出版市場、
確かにそこで論議されるデバイス(端末機器)がどうこう、
ビジネスモデルの構築と市場の覇権争いがどうこう、という問題は興味深い。
私もMBAの学生時代であれば、
この手の話にどっぷり浸かって、おおいに論議したことだろう。

しかし今の私は、出版文化がどうなっていくのか(どうしていくのか)、
人びとのライフスタイルや思考方法がどう変わっていくのか、
どんな作品表現が生まれてくるのか(生み出せるのか)、により興味がある。

佐々木さんはこの本で、
文化論の観点からも(音楽の電子配信サービスと比較して)多くを述べている。
特に、電子書籍は「アンビエント化」する、
電子書籍は「多対多」のマッチングになる、
電子書籍はコンテンツではなくコンテキストとして買われる
など、こうした点をうまい材料を盛り込みながら展開していた。

本書の詳しいレビューは
各所のウェブサイトにアップされている他の方々のものに任せるとして、
以降は私が包括的に思ったことを簡単に書きたい。

* * * 

18世紀の産業革命以降、技術は幾何級数的に発展を続けている。
それに合わせメディアの進化、人間の表現方法の進化もすさまじい。

しかし、技術の発展は
果たして「おおきな作品」を生み出すことに役立っているのか?―――
(この「おおきな作品」とは、表現の深み・高みが並みはずれていて、
後の世まで受け継がれる不朽のものを言う)

つまり、21世紀の私たちは、レオナルド・ダ・ビンチよりも
はるかに質のよい画材を、はるかに多く手にでき、
はるかに簡単に他の作品を画集やらウェブやらでみることができ、
はるかに快適な(空調のきいた)作業空間で絵を描くことができる。
しかし、だからといって、ダ・ビンチ以上の絵を描けるのだろうか。

これは音楽とて同じことだ。
今日の私たちは、
モーツァルトやベートーベン以上の音楽をつくりだすことができるのだろうか。

アートにしても、音楽にしても、
映画にしても、小説にしても、
超大作級のものがなかなか出なくなったと言われる。
「作品が小粒化している」というのはよく聞かれるフレーズだ。

私たちは技術の発展とは逆に、
「おおきな作品」からどんどん遠ざかっているように思える。
―――それはなぜだろう?

Ipcap 

* * * 

私が音楽を聴くことに一番夢中になったのは中学・高校のころだ。
我が故郷(三重県)の田舎の高校でもビートルズは人気だった。
1970年代半ば、音楽レコード(LP盤)は高価だった。
しかも消耗品であるレコード針はもっと単価がかさんだ。

貧乏な我が家では、LP盤を何か1枚買ってほしいと親に言い出しづらかった。
すでに解散していたビートルズは20数枚アルバムを出していたが、
私が買ってもらえるのはようやく1枚だけだった。
子供心に本当に悩んだ―――「どれを手にすべきか」。

いまのように自由に視聴ができるわけでなし、
もちろんレンタルサービスがあるわけでもなく、
LPアルバムを買うということは当時リスクのある買い物だった。
(シングル曲だけがよくて、アルバムとしては凡作なものがいつの時代にもたくさんある)

当時、深夜のラジオ番組で毎週土曜の午前1時にビートルズの曲を5曲ずつ、
タイトルのABC順にかけていく番組があった。
(ビートルズの公式録音曲は全部で280曲ほどあると言われている)

私はこの番組をカセットテープに録音して、1曲1曲リスト化していった。
(寝過して録音できなかった週などは落ち込んだものだ)
なにせ、いまのようにウェブで検索をかければ
ビートルズの全曲のリストがコピー&ペーストで手に入る時代ではないのだ。

そうやってビートルズの曲をいろいろと聴き、手と耳で憶えていった。
おかげで英語は一番好きな科目になった。

また、友達同士でレコードの貸し借りもやった。
A君は「THE BEATLES 1962-1966(通称「レッド・アルバム」)」を持っとるんやて、
B君は「WITH THE BEATLES」を買うたらしいで、
C君は「SGT. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND」聴かせたる言うとった……
友達から借りられるものはそれで聴けばいい、
そして半年をかけて熟考して買ってもらった1枚が―――「ABBEY ROAD」。

「レコードが擦り減るまで聴く」という表現があるが、
本当に「ABBEY ROAD」は、レコード溝がダメになるまで聴いた1枚だ。

多感なころだったから1曲1曲を繰り返し聴くたびに
いろいろな発見や感動がいくらでも湧いてきた。

ジャケットの写真を眺めるたびにどんな想像もできた。
いまから思えばちゃちなレコードプレーヤーだったが、
(一応、2つのスピーカーが付いてステレオだった)
そこから響き出す音楽は、姉と一緒の四畳半の勉強部屋を満たし、
私の表皮の細胞を一つももれなくぴーんとそばだたせた。
(たぶん、あれを詩心というのだろう)

モノがない、情報がない―――だからといって、
人間の想像性/創造性は妨げられない。
むしろモノが少ないほど、情報が少ないほど、
想像性/創造性が増し、深まることはじゅうぶんに起こりうる。

今日、私たちはデジタルデータのダウンロードで、いとも簡単に多種多様な音楽を聴ける。
しかも高音質の音で、ポケットに持ち歩ける時代だ。
また、1曲ごとの購入ではなく、定額を払えば、
何でも聴きたい放題になるというサービス形態も検討中であると聞いた。
もはや、音楽は聴き尽くせないほど手の中に溢れている。

そして、間近に、書籍もそうなる。

しかし、そうなったときに、
私のあの「ABBEY ROAD」を手にしたときの喜びを再び得ることができるだろうか?
「ABBEY ROAD」を毎夜繰り返し聴いたときの
果てしない空想の旅を続けることができるだろうか?

 「豊かさは節度の中にだけある」 ―――とは、ゲーテの言葉である。

また、小林秀雄はこう言っている―――
 「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、
 無常という事がわかっていない。
 常なるものを見失ったからである」。
                              (『無常という事』より)

* * * 

私はビンボーな社会がいいというつもりはない。
生涯のうちにもっと音楽や芸術に接したいし、もっと本を読みたい。
そして、直接自分で世界に「セルフ・パブリッシング」したいとも思う。
(電子書籍の時代には、すべての個人が出版社や取次・書店
などの力を借りずに出版でき、
全世界に著作を売り出せる。これがセルフ・パブリッシング)

また、これまで出版社に発掘されなかった才能が芽を吹いて
新しい書き手が新しい表現で私たちを楽しませてくれることをおおいに期待している。
(だがそれと同時に、創造意志のこもった作品とはほど遠い、
垂れ流し的なコンテンツがネット上に溢れだすことも受容しなければならない)

技術の発展は、
すべての人間に表現の手段や表現の発表機会、
表現を売ること、表現を批評し分かち合うことを解放するが、

そこから「おおきな作品」が生まれ出るかどうかはわからない。

「おおきな作品」とは、とどのつまり、
「おおきな創造者・おおきな人間」が生み出すものである。

この世の中が「おおきな創造者・おおきな人間」をつくる土壌でないかぎり、
「おおきな作品」は生み出されない。

私たちは多くのモノ、多くの手段、多くの知識、多くの寿命を手にできる世の中を
つくってきたが、その代償として、
おおきな創造者、おおきな人間、おおきな作品から遠ざかる結果を招いている。

それはたぶん、科学知識の獲得や人間をラクにさせる技術が
人間から霊感やら宗教心、哲学心を奪うからだろう。
もちろん、ここで言う霊感、宗教心、哲学心というのは、
オカルト的な感応や特定の宗派のドグマに支配される心を指していない。
また難解な哲学書とにらめっこすることでもない。
自然の摂理とつながりを感じようとする、
生きることの根源を探ろうとする、
そういう「おおいなる希求心」「おおいなるセンス・オブ・ワンダー」のことだ。

再び、ゲーテの言葉―――
 「人間は、宗教的である間だけ、文学と芸術において生産的である」。

彫刻家ロダンの言葉―――
 「若し宗教が存在していなかったら、私は其を作り出す必要があったでしょう。
 真の藝術家は、要するに、人間の中の一番宗教的な人間です」。
                                 (高村光太郎著『ロダンの言葉』より)

もうひとつ、柳宗悦の言葉―――
 「実用的な品物に美しさが見られるのは、
 背後にかかる法則が働いているためであります。
 これを他力の美しさと呼んでもよいでありましょう。
 他力というのは人間を超えた力を指すのであります。
 自然だとか伝統だとか理法だとか呼ぶものは、
 凡(すべ)てかかる大きな他力であります。

 かかることへの従順さこそは、かえって美を生む大きな原因となるのであります。
 なぜなら他力に任せきる時、新たな自由の中に入るからであります。
 これに反し人間の自由を言い張る時、
 多くの場合新たな不自由を嘗(な)めるでありましょう。
 自力に立つ美術品で本当によい作品が少ないのはこの理由によるためであります」。
                                              (『手仕事の日本』より)


Kindle2 

* * * 

技術文明を享受しながら、なおかつ、宗教的な心・哲学の心を失わず
おおきな作品を生み出す豊穣な社会を築くことができるのか―――
これは21世紀の私たちに課されたそれこそ「おおきなチャレンジ」だ。

最近、「世界文学全集」を編集した作家の池澤夏樹さんは、
いま書かれている小説の中で、将来古典的な名作になるだろうものがあるとすれば、
ポストコロニアリズム(例えばアフリカや中南米の国々に起こる植民地支配以降の主義)か、
フェミニズムから生まれるのではないかという指摘をされていた。

面白い指摘だと思う。確かにこの2つを考えたとき、
その内から噴き出す無垢なマグマと、技術の恩恵とが掛け合わされば、
「おおきな何か」が誰かの手によって表現される可能性はじゅうぶんにある。

ともかくも電子書籍は元年を迎えた。
間もなくアップル社は日本での『iPad』発売を開始するし、
アマゾン社も『Kindle』の日本語版セルフパブリッシングツールを早晩準備するにちがいない。

私たちは情報量が爆発するなかで、いまや
ほぼ無尽蔵に情報・表現を摂取でき、
ほぼ無尽蔵に情報・表現を放つ(垂れ流す)ことができる。

技術革新は人間にいろいろなものを解放してくれるが、
それによって、逆説的に、人間は創造性を去勢されることも起こりうる。

技術が「おおきな作品」を生む真に有益な手段となるためには、
結局のところ、私たち1人1人が、
いかに宗教的な心・哲学の心を呼び覚ますか―――にかかっている。

 

2009年4月25日 (土)

09年2冊目の著書を刊行します!

冬には冬の過ごし方がある―――。

世の中の不景気をもろに受けるのが、会社の「4K」費用
すなわち、
広告費、交際費、交通費、そして研修費

私が生業としている人財研修事業はまさに去年後半から真冬に突入しました。
私のお客様も何社かは、研修を取り止めたり内製化に切り替えたりして、
そこからは結果的に委託案件を失うことになりました。
(ですが、ご担当者の方々とは個人的な信頼で結ばれており、状況が回復したら、
またやりましょうよということで関係性は継続しています。それでいいと思っています)

私は、その分、時間的に余裕ができるわけですが、やりたいことがテンコ盛りです

そのうちの一つが、著書の執筆活動です。
時間ができたことで、おかげさまで今年09年は、
すでに3月に『いい仕事ができる人の考え方』を刊行し、
そしてきょう紹介する『ぶれない「自分の仕事観」をつくるキーワード80』を来月に刊行することができます。

で、まだまだ著したいことはヤマほど湧いてきているので、
新機軸の著作に今夏挑戦して、秋には出したいと意気込んでいます。

このように
冬には、冬にできることを大いに楽しんでやればいいのだと思います。

* * * * *

Kw80photo さて、それで、
きょう、来月に刊行する新著のAmazon予約画面が立ち上がりました。
まだ印刷製本段階にあって本の実物はないんですが、
本ブログではその内容についてどんどん触れていきたいと思います。

【書籍概要】
○タイトル:
『ぶれない「自分の仕事観」をつくるキーワード80』
~30歳からの働くを見つめなおす本~


○出版社: クロスメディア・パブリッシング
○価格: 1,470円(税込)
○発売日: 2009年5月14日

この本は、3月刊行の『いい仕事ができる人の考え方』と同じく、
“仕事観・働き観”に関する本です。
『いい仕事が~』は、Q&A形式になって読者の間口を広くとったつくりになっていますが、
今回の本は、副題に「30歳からの」とあるように、
多少、読者を限定して、そこのレベルに合わせて書いています。
また、1つのキーワードが見開き2ページで完結しているので、
小気味よいリズムで読んでいけるところが特長です。

本の詳細情報は、下の「INSIGHT NOW!」のプレスリリースページにアップしておきましたので、ご覧ください。

また、本著の要約資料(PDF形式)もこちらからご覧いただけます。

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次回記事から、この本の内容面の紹介をします。

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