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2010年12月17日 (金)

NHK-BSは「非読書・超読書・非テレビ・超テレビ」


Yamadakr1 


12月に入り、NHK衛星放送が『BSベスト・オブ・ベスト』をやっている。
面白そうなものがいろいろとあり、録画して少しずつ観ている。
改めてNHKの番組作りの底力を感じるとともに、
BS放送にますます期待を寄せるものである。

民放テレビ局の番組制作力も優れた部分はあるが、
そのほとんどはいまや大人の観るものではなくなった。

雑誌『広告批評』の創刊者である天野祐吉さんが
「NHK-BSは“平熱テレビ”であってほしい」と語っていたが、
確かにその裏返しで、民放はいかにも“高熱”なのだ。
あのテンションの高さ、せわしない画と音、
観る側に考えることをさせない内容、
必ずしも洗練されたとは言えないような表現で消費欲を煽るCMの数々……、
もちろん若い頃はそんな高熱の刺激物を面白がったし、気にかけず受容もできた。
しかし普通に成熟してくる大人にとっては、平熱で観られるものがよくなってくる。
私は年齢とともに民放番組から遠くなる一方だ。
今はテレビを観るうちの、どうだろう、民放率は2~3割くらいだろうか。

実のところ、少子高齢化(と地上デジタル化)はNHKにとって追い風と言っていい。
逆に言えば、民放局はこのままの“ドンチャカ娯楽”路線でいけば、
(メディアとしては依然大きな影響力を持ちつつも)長期に視聴率を失うのは必至だ。
「広告モデル=視聴率至上」できた民放局が、今後どんな変化対応をみせていくのか、
興味をもって注視したいところだ。
(たぶん優秀な人間も多いので、メディアとして何か進化をしていくと思う)

* * * * *

さて、よいNHK-BSの番組の特長は人それぞれに語れるだろうが、私はそれを
「非読書・超読書・非テレビ・超テレビ」という言葉で表したい。

つまり、BS番組はひとつの読書体験と同じくらいの
知的満足と情報吸収をかなえてくれるのだが、
やはり活字読書とは異なるし、活字読書を超えている部分がある。
その非読書であり超読書である部分は、やはり、映像と音があることだが、
よいBS番組というのは、番組というより作品に近いもので、
視聴後の感覚は映画を観終わったときに近い。
その意味で、テレビ的でなく、テレビを超えていると思うのだ。

例えば、私はここ数日、録画しておいた3本の番組を観た。
『輝く女 吉田都』、『強く 強く ~バイオリニスト・神尾真由子 21歳~』
『ロストロポーヴィチ 75歳 最後のドン・キホーテ』―――
いずれも音楽家のヒューマンドキュメンタリーだ。

3つのうち前2つの番組には、くどくどしいナレーションがない。
主人公のインタビュー返答(ところどころに画面外から制作側の質問の声が入る)と、
その他関係者との会話で構成されている。
あとは練習風景やコンサートの映像である。
特段音声のない“間”が幾度となくある。
(しかしそれは意味のある“間”である)

ともかく何か情報を詰め込んで、過度に演出をかけて、矢継ぎ早に展開をして、
というようなサービス満点の(でも考えなくて済むような)番組に慣れた人にしてみれば、
とても冗長なものに感じるかもしれない。
あるいは、「BSは低予算だから編集が手抜きだ」とすら思う人がいるかもしれない。
しかし、観る人が観れば、
これらは相当に吟味のかかった編集物であることが分かるだろう。

主人公はすでにその世界で厳しく闘って実力を示している人であり、
だからその次元にいる人でないかぎり発することのできない言葉とか、
インタビューの質問に対し言葉を探し当てるまでの表情とか、
あるいは、予定調和を壊す突拍子もない返答が出てくるとか、そんな点が面白い。
それはまさに、読書でいう味わい深い文章に引き込まれていく楽しみ、
行間を自分で読み取り補っていく楽しみ、
ページをめくるたびに驚きが出てくるような楽しみ、に通じる。
だから、BS番組は能動的に咀嚼する楽しみがあるという意味で読書に近いのである。
そして挿入される音楽演奏の映像。
これがうまく番組の格を上げる作用をしている。

NHK-BSでは以前から「映像詩」という表現に挑戦にしているが、
『ロストロポーヴィチ 75歳 最後のドン・キホーテ』はその意欲作でもある。
全編映像詩というわけではなく、前半部分をそのメイキングプロセスの
ドキュメンタリーとして組み立てているところが面白い。
それでいて、情報にも満ちており、一種の教養番組の要素もある。

で、主演が、かのロストロポーヴィチと小澤征爾であるから、
下手な役者を連れて来るよりもリアルな存在感がある。
全体的にみて、画や音のつくり方・つなげ方、そして
制作者側の想いの軸の通し方がどこか映画的であり、また映画的でない。
先ほどBS番組は、番組というより作品っぽいと言ったのはこのあたりのことだ。
BS番組のしっかりとしたものは、長さがたいてい90分とか2時間になる。
しかし私は、いま2時間という時間を使うのであれば、
DVDを借りてきてハリウッド映画を観るよりも、BSの良質な番組を観たいと思う。

* * * * *

さて、最後に仕事に関わる話を。

私はこうした番組を観るたび、「働くこと」はすばらしいなと思う。
ヒューマンドキュメンタリーであれば、もちろんそれはその人を追っているのだが、
実際は、その人の「働き様」を追っていることがほとんどだ。
つまり、その人のすごさは「働くこと・仕事」のすごさによってなのである。
また、『プラネット・アース』のようにネイチャーものであれば、
人は出てこないかもしれないが、あのすばらしい映像を観たとき、
こんな映像を撮る職業とはどんな職業なのだろう、
こんな仕事に没頭できる人生はさぞ幸せな人生だろうと、
やはりその裏にある「働くこと」を考えてしまう。

良質のBS番組は、大人が知的好奇心を満たすだけでなく、
親子で一緒に観てほしいと願うものである。
あるいは学校でも見せてほしいものである。
子供には少し内容が難しいだろうとか、そんなことは気にしなくてよい。
子供のころから大人のレベルの上質ものをどんどん見せてやるべきだ。
そしてさまざまな働き様・生き様があることを親や先生は語りかけてほしい。
それこそが何よりも優れたキャリア教育になるから。



 

2010年12月 4日 (土)

意志の結晶としての「鉄人28号」


T28go 01 

神戸への出張に合わせて、是非見ておきたかったのが「鉄人28号」。
JR新長田駅を降りて若松公園に向かうとそれはあった。
報道写真で見ていたとおり、その巨大モニュメントの完成度は実際なかなかのもので、
あぁ、これなら町の自慢として、想いの結合体として十分なものだなと感じた。
KOBE鉄人PROJECT」のウェブサイトを見ても、
運営NPOはじめ地域住民、行政のきちんとした熱意が伝わってくる。

そもそも情報を少し付記しておくと、このモニュメントは、
「鉄人28号」の原作者で地元出身の漫画家である故・横山光輝氏にちなみ、
阪神大震災後の復興・商店街活性化のシンボルとして2009年9月に製作された。
町では「鉄人28号」のほか、やはり横山氏の人気作である「三国志」をテーマにした
町起こしイベントも積極的に展開している。

私の住んでいるのは東京・調布市(漫画家・水木しげるさん在住)で、
調布もまさに今年は「ゲゲゲの女房」効果で、
駅前の「鬼太郎ロード」が一種の観光地として賑わった。
(鬼太郎ロードにもいくつかキャラクターのオブジェが飾られている)

長田も調布も漫画キャラの力を借りて町を盛り上げているわけだが、
我が調布は長田に大きくかなわないなぁと思う。
調布の場合は、どことなく水木人気・鬼太郎人気に授かろうという感じがある。
一方、長田の場合は、商店街・地域住民の意志の形として
能動的に鉄人28号・三国志に表したという感じだ。
「NPO法人KOBE鉄人PROJECT」を発足させ、強いエネルギーで運営もされている。

T28go 03 

町起こし・町づくりの手法として、こうした漫画キャラを使う、
あるいは“ゆるキャラ”のようなものを新規にこしらえるというものが
すでにそこかしこで行われているが、
有名先生作のキャラクターの御威光を当てにしたり、
行政側が一方的にキャラクター制作をやって現場に落とすだけでは、
キャラがヒットしました/ヒットしませんでした、
キャラが人気が出ました/飽きられました、のような繰り返しになると思う。

やはり地域住民からの想いのエネルギーがあり、その結晶として
それがたまたまキャラクターであるのか、あるいは別の何かであるのかといった
強い流れを起こさないかぎり成功と継続はないだろう。
その意味で、新しい挑戦を展開する長田に敬意を表したいし、注目していたい。

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高さ18mの「鉄人28号」モニュメント。
プロジェクト協賛企業のひとつである金属加工会社の製作による。
ものづくりの町を表明する意味でもメッセージ性がある。
一時的な展示ではなく、寄付金や協賛活動によって恒久展示を行うという。

 

2010年11月24日 (水)

風を待つのではなく、木を植えよう


Nakaizu04 
伊豆・天城路にて



 「希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。
  それは地上の道のようなものでもある。
  もともと地上には道はない。
  歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」。

                                     ―――魯迅 『阿Q正伝』


この言葉は、魯迅が生きた近代中国の状況を下地にすると、しんしんと響いてくる。
20世紀初頭の中国といえば、
国は体を成さないほど混乱し漂流し、容易に列強の支配を許す。
人民の多くは粗野で教育がなされておらず、生きながらえるだけの日々を過ごす。
そんな中で、魯迅は「希望」を立てようとしたのだ。
(こうした希望は、ガンジー、キング、マンデラに通じる)

いまの平成ニッポンは確かに物質的には恵まれているものの、
漂流感がある、希望から遠いといった意味では、決してよい状態にあるとはいえない。
社会全体に広がりをみせる功利主義や拝金主義、冷笑主義に三無主義、
さらには、うつ病や自殺の増加、格差の拡大、生きる力の脆弱化……
私たちはいま、特段希望を持たずとも、ギスギス、ギリギリとなら生きていける
不思議な時代に生きている。

しかし、私はやはり希望を持ちたい。希望を持って健やかに生きたい。
そして希望をつくりだす仕事がやれれば本望だとも思う。
さて、希望という名の道をつくるために、私は2つの方法を思い浮かべる。
ひとつは、

「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」。
                         ―――高村光太郎 『道程』

のとおり、勇者が一人先頭を切って道を切り拓いていくこと。
人びとは安心してその後を歩いていけるだろう。
そして希望の道はつくられる。
もうひとつは、

『桃李言わざれども下自ずから蹊を成す』
(とうり いわざれども した おのずから けいをなす)
                              ―――中国の諺

のとおり、芳(かぐわ)しい桃や李の木を植えること。
そうすれば人びとはその木の下に自然と寄っていくだろう。
そしてそこに道ができあがる。


私は個人で独立して8年めを迎える。
最初3、4年のころまでは、 “風を待っていた”。
「自分に風が吹け、風が吹け。そして自分を舞い上げてくれ」―――
とそんな姿勢だったように思う。
……しかし、
商売の年を重ね、人間としての歳を重ねるうちに、きちんと大人になったようで、
いまでは、 “木を植えよう” という心持ちになった。
いつしか風が気にならなくなった。

木とは、もちろん、「働くとは何か?」という大きな問いに光と力を与える
ほんとうによい教育プログラムのこと。
そして自分が死んでも生き続けるようなプログラム。
そのプログラムが桃李のごとく人を寄せて、その下に筋のようなものが見えはじめる
―――そんな景色を天国から眺めるのは、さぞ気持ちのいいことだろう。


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2010年11月13日 (土)

「ものをつくる/選ぶ」はその人自身の表れである


Matsum1 
長野県・松本市中町にて(1)



 作り手は「売れ線に置きにいく」ものづくり

 買い手は「売れてるみたいだから」のもの選び
 この2つの車輪を付けた荷車は
 商品を山積みにして陳腐という坂を下っていく。


少し前、自宅オフィスの電話機を買い換えようと家電店に行ったのだが、
どうもピンとくるものがなくて選べない。
どのメーカーも主張のないデザインで似たり寄ったり。
機能はテンコ盛りだが、商品全体として、何か作り手の志が伝わってこないのだ
厳しい見方をすれば、
組織の中で働くサラリーマン技術者、マーケター、デザイナーたちが、
無難に売るため、上に通すための社内の合意形成をしているうちに
角が取れ、骨は抜け、平均値の姿になってしまったというか。
(私もかつてメーカーで商品開発をやっていたのでそれがよく推察できる)
結局、購買意欲がげんなりとしぼんでしまい、買い換えをやめた。

同じ日、目覚まし時計も買い換えをしたかったので、
次に時計売り場に行ったが、案の定、
店頭には溢れんばかりの品数が展示してあるものの、状況は電話機よりひどかった。
いったいぜんたい、作り手や売り手は
この程度の完成度をよしとして売っているのだろうか?
プロとしての心意気や気概をそこに込めようとしているのだろうか?
逆に見えてくるのは「こんな程度でいいだろう」という緩慢で粗雑な姿勢だ。
(私はそうした製品をあまり家に持ち込まない。その精神が伝染しそうだから)

「しょせん低単価の海外生産品なんだからそんなもの」と
それらを無視することもできるのだが、じゃあ、少し単価が上の日本製品はというと、
五十歩百歩の違いしかないので困ったものだ。
それでも、こういったレベルでそこそこ売れているようだから、
実際のところは、消費者のセンスが実に甘く見られているということだろう。

Matsum3 
長野県・松本市中町にて(2)


書店に行くと、人気の書き手が書いた本が何種類も平積みになっている。
(私も本を書くのでやっかみで言っているのではないけれど)
いったんヒットを出した書き手には、
その後、出版社が一気に押し寄せにわかに同じような内容でいろいろと書かせる。
出版社の目利き機能、新しいタレント発掘機能はどこへいったのだろう?
こんな書き手選びで編集者ができるなら、誰でもできる。
で、本を買う側も「売れてるみたいだからいい本なんだろう」ということで、買う。
すると、「売れるから売れる」というベストセラーサイクルができあがる。

地方出張に出かけたり、地方をドライブ旅行すると、
どこもかしこも同じナショナルチェーン店が並んでいることに気づく。
衣料品店も、雑貨店も、外食店も、百貨店の地下の惣菜・菓子売り場も、
東京で見るロゴの看板ばかりが目につき、街の風景はさながらリトル・トウキョーだ。
日本の地方都市には、もはや個性がなくなっている。
(大阪や名古屋ですらも)

……日本のものづくり力(ここでは、モノ・サービス・情報コンテンツなど
すべての商財づくりを含んでいる)が弱まっていると言われて久しいが、
それは、海外へ生産拠点が移っているからとか、モノ余りになっているからとか、
そういう現象面ばかりの理由で片付けていては、
日本のものづくり力の本当の回復はない。

Matsum5 
長野県・松本市中町にて(3) 
「珈琲まるも」の店内は民藝の家具でしつらえられています。訪れる価値アリです。



フランスのリオンはなぜ「食の都」と言われるのか?

―――それは味にうるさい客がたくさんいるからだ。
1人1人の大人の舌を持った顧客が、料理人を育て、店を育てる。
そして1人1人の職人も顧客と戦うように、自分の信ずる味をぶつけてくる。
リオンに限らずフランスの各地を旅行して回ると分かることは、
個店が独自で強いことだ(イタリアも同様)。だから地方の店、町は面白い。
安さと引き換えに合理化と平準化を押し付けてくるナショナルチェーンに
抗(あらが)うたくましき作り手と買い手がいまだ健在なのだ。

米国がなぜ「グーグル」や「i-phone」などオリジナリティーの強いものが創造でき、
またノーベル賞受賞者を数多く輩出できるのか? それは、
「何か面白いことをやっているやつ」をちゃんと評価する文化があるからだ。
米国人は、独自の面白いアイデアを出した者を、それが年下であろうが、
何の職業をやっていようが、どこの国籍だろうが、「面白そうじゃないか」と言って、
ピックアップする。そうして価値あるものになりそうならどんどん支援する。
米国の個人主義は“利己的に閉じている”という誤解があるが、
実際は“利己的に開いている”個人主義だ。
アイデアやスピリットを持って努力している個人を、他の個人は放っておかない。
だから個人レベルであちこちからとんでもない発想が起こり、形になる。
そして「俺たちが欲しかったものはこれだ! どうだい、君たちも欲しいだろ?」
というような力強い商品が世の中にどんどん出てくる。

もちろん大衆レベルでみれば、フランスにもアメリカにも、
ものづくりやもの選びに主張のない人たちもたくさんいる。
しかし、個人が抜きん出たり、はみ出したりすることを阻む圧力はないし、
むしろそれを評価し、押し上げてやろうとする精神の習慣がある。
日本はその逆で、個人が枠から出ることを押さえ込むし、
枠の中に収まっていることで安穏とするという精神の習慣がある。

日本がものづくり力を回復させていくためには、つまるところ、
この精神の習慣を新しく強いものに変えていくことが必要だ。
(民族性や文化といったものは、精神の習慣を源とする)

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長野県・松本市中町にて(4) 中町通りにあるカレー店「デリー」


創造を喜ぶこと、創造を面白がること。
人と違っていることが、個性であり、その人の持つ貴い価値であること。
周りの考えをつねに気にしてキョロキョロするのはカッコ悪いこと。
自分自身の基準で「私はこれがいい!」と言えること。
安住ゾーンから一歩外へ出る勇気を持つこと。
「誰が言ったか」ではなく、「何が語られたか」に注視できること。
そしてそれが価値あるものであれば、誰が言ったかに関係なく敬意を払えること。
長いものに巻かれない個人の独歩精神。
志のない粗雑な仕事を毛嫌いすること。
安いだけの粗雑なものに囲まれると自分が粗雑になることを恐れること。
……そうした精神の習慣をつくりなおしていく(もちろんよい習慣は受け継いでいく)
ところから、ものの作り手として1人1人の仕事が変わり、
ものの選び手として1人1人の購買が変わり、
日本のモノやサービス、情報コンテンツ、そして街の風景が変わっていく。

Matsum2 
長野県・松本市中町にて(5) 



◇ ◇ ◇ ◇


〈信州の松本・小布施を訪ねて〉

松本市の中町通りそして小布施町には、
町として「自分たちはこれでいくんだ」という健気な意志が感じられます。
中町通りは、単に土蔵造りの歴史的町並みであるというだけではなく、
そこに「民藝」の軸を通しています。

小布施は、高井鴻山や葛飾北斎を歴史文化的な観光資源として最大限活かしながら、
同時に栗菓子で知名度を全国に知らしめています。
(栗菓子は岐阜県の中津川がもっとも有名ですが)
特に小布施は、地元企業「小布施堂・桝一市村酒造場」の頑張りが大きい。
この企業については面白い情報がたくさんありますので、ウェブサイトをのぞいてみてください。

 

Obusedo 
小布施にて(1) 栗菓子の「小布施堂」 
同社が20年前から提唱しているのが「産地から王国へ」という運動だそうです。
「一次産品の生産者はその量を目指すのではなく、地元の消費者と手を携えて多様性を追求し、
加工品の質にもこだわり、最終的にはその産物により豊かな生活文化を築いてゆこうというものです」
(同社ウェブサイトより)


Obusems 

Obusems2 
小布施にて(2) 「桝一市村酒造場」 


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小布施にて(3) 栗の小径





2010年7月22日 (木)

“You Are Your Product.”

Tp book


暑い―――。
地球温暖化の影響で南極の氷が減っているという事実はなかなか実感できないが、
この猛暑や頻発する猛烈な雨は、
私たちに気候の変化をじわじわと体感させている。

しかし、どうにもこうにも暑い。
こんなとき私は、空調をきかせた部屋に閉じこもるよりいっそ外に出る。
外といっても街中ではない。
森に出る。
風の通る木陰で溜めている本を読む。
(こんな生活ができるのもサラリーマンという時間売りの商売をやめたからこそ)

きょう持ち出したのは、トム・ピーターズの最新刊
『The Little Big Things: 163 Ways To Pursue Excellence』。

翻訳版はいずれ出るのだろうが、タイトル的には、
「その小さなことが大きな差を生み出す~卓越性を追求する163の方法」。
内容的には特に目新しい切り口はないのだが、
相変わらずピーターズ節でぐいぐい押してくる感じがよい。
500ページを超える分厚い1冊だ。

ざーっと目を通してみて、私が引かれたのは次の2つの節見出し―――

“You Are Your Product.”
“You Are Your Story.”

「あなたは、あなた自身がつくる産物である」。
「あなたは、あなた自身がつづる物語である」。


世の中にはあまた生産品(農産物から家電品、建造物まで)や物語(小説や映画やら)があって、
それらを消費者・購買客の立場から、
「くだらない商品だな」とか「イマイチのシナリオだな」とか評することはできる。
そして不満なら、他のものを買い替えることもできる。

しかし、「自分という産物づくり」から自分自身は逃げられない。
「自分という物語つづり」を他に任せることはできない。
自分という産物の出来が悪いからといって、
自分という物語の展開がさえないからといって、
「所詮、俺はB級・C級品さ」と冷笑しても始まらない。

ちなみに、
「自己嫌悪とは自分への一種の甘え方だ、最も逆説的な自己陶酔の形式だ」
―――という小林秀雄の言葉がある。

その産物が、ヒット商品になる必要はない。
その物語が、ベストセラーである必要もない。
要は、自分で納得のいくものをこしらえているかどうかだ。

そのために、きょうも、1つ1つカイゼンを重ねていく。
1語1語、表現を織っていく。


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